じじキャン△   作:足洗

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バッドエンドルート(8)

 

 

 なでしこの部屋はがらんとしていた。

 棚や机に物はなく、シーツを取り払われて剥き出しのマットレスになでしこが腰掛ける。内装の飾り気と言えば精々がカーテンくらい。

 東京に引っ越す時、私物のほとんどはそっちに移してしまったという。

 ローテーブルの前にあおいと千明が並んで座り、私はその向かい側に座る。

 蟹鍋がお開きになってからずっとあおいは膨れ面だ。

 

「むっすー」

「なぁイヌ子ぉ、そろそろ機嫌治してくれよー。薙原を引っ張ってったのは謝るからさー」

「……それはもうええねん。昨日は職員会議やらなんやらで結局深夜まで残業やったし、どーせ合流もできひんかったやろし」

「だ、だよな! いや私もさ、一応気を遣ってたわけでさ」

「車窓から眺める名古屋の夜景は綺麗なんやろねー」

「ぬおおお許してイヌ子さーん!!」

「ぷっ、ふふふ、冗談やよ。流石にそこまでワガママ言わへんわ」

 

 床の上に平身低頭で突っ伏す千明にあおいは笑った。

 一頻り笑って、ふ、と吐息。

 

「ま、いつまで恋する乙女してられるかわからんしね。できる内は、ちょっとめんどい女くらいの方が相手の心に残るやん? 名残惜しさとか……罪悪感とか」

 

 そう囁いた時のあおいの目は、仄かに暗くて、甘くて────ひどく妖艶だった。

 

「ああいう難物な人やと特に」

「難物って……」

「どう考えてもそうやん。高校の頃からアプローチしとるんよこっちは!」

 

 それはどこか、抗議するみたいな響きだった。

 あんたの所為でもあるんだぞ、って。

 

「高一からやから足掛けぇ……あかん。あっかん。年数かぞえたら目眩してきた」

「まあなんだかんだで私らもそろそろアラサー」

「チェストォ!!」

「ぐえええっ……!?」

 

 とてもデリケートなことを考え無しに口にしようとした千明は、喉笛にあおいのチョップをもろに喰らって白目を剥いた。合掌しとこう。南無。

 

「……我ながら気ぃ長いわ、私も。ほんで今日は今日で各務原姉にめっちゃおちょくられるし! なんやねんあの昔の女ムーヴ!」

「む、昔の女て」

「あ、あははは。お姉ちゃん、哲也くんもあおいちゃんも気に入ってるから……でもホントに一途な乙女なんだねぃ、あおいちゃん」

「くぅ、桜さんは意地悪やけど、なでしこちゃんは()え風に言うてくれるからホンマ大好きやわぁ!」

「あおいちゃん……! 私も好きだよ! 大好き!」

「なでしこちゃん!」

 

 ひし、となでしことあおいは抱き合った。

 なんだこれ。

 

「……朴念仁とか鈍感とかなら、まだ愛想尽きましたぁて、言い張れんねんけどなぁ」

「……」

 

 人の心に無思慮で、無関心な人なら。

 そんな人だったなら、きっとあんな風に悩んだりしない。苦しんだりしない。

 若返って、人生再スタート、なんて無邪気に喜べたのだろう。それが誰かの人生でも、仕方ないって言い訳して、罪悪感に蓋をして。

 だってそうじゃないか。魂が現世に帰ってきて、その上他人の体に宿り、生き返る。そんな奇跡に対面したとして、それは人間にどうこうできる物事だろうか。じん爺は言ってた。天魔の仕儀だと。どうにもできはしない。神様とか、悪魔とか、そんなものの悪戯なんだから。

 仕方ないって諦める。私でもそうする。

 そう、してくれたら。

 もしそれができるような人だったら。

 きっとそれは幸福なことだ。苦悩を抱えず、義務も罪業も負わず。

 ただ、再会を喜んだ。私は嬉しかった。

 貴方も、そうだといいな。

 これからもそうならそれはなによりの。

 ────それじゃあダメなの?

 ダメに、決まってる。

 

「…………」

「リンちゃんずるいわ」

「えっ」

 

 ぎくりと、心臓が一段鼓動を早めた。まるで隠していた罪を鳴らされたように。

 あおいは、少し寂しそうに。

 

「だって、リンちゃんは哲也くんの特別やもん」

 

 

 

 

 

「わりと露骨に依怙贔屓するわよね、哲也くんって」

「やにわになんだい」

 

 名古屋駅に放置した車を取りに今日中に名古屋と山梨を往復する必要がある己は、息巻く千明の作戦会議とやらを辞して各務原家を後にした。

 そこへ、駅まで送る、との桜嬢の申し出を有り難く賜り、己は今彼女の運転するラシーンの助手席に収まっている。

 昼日中、豪勢な早めの昼食を済ませてより。太陽はとうに天頂まで昇っている筈だが、今日は朝から気温が上がらずやけに肌寒かった。

 この上、心胆寒からしめるようなことを宣うのではあるまいな。

 

「リンちゃんが好きなの?」

「勿論だ」

 

 あの子は良い子だ。良い子に育ってくれた。新の字、咲ちゃん、渉くん。立派な人の親になった彼ら、彼女を見上げて思う。よくぞ育て上げてくれた、と……他人様の御子に烏滸がましくも、しかし思わずにおれぬ。

 あんな子をどうして恵愛(あい)せずにおれようか。

 

「……やっぱり違う」

「何がだい」

「他の娘にはそんな顔しないもの、キミ」

「前見て運転しねぇか」

「赤信号よ」

 

 停車した小さな鉄の箱の中、黒いセルフレームの眼鏡越しに桜の瞳が己を射貫く。

 

「俺ぁそんな妙ちきな顔をしてたかねぇ」

「してたわよ。孫娘を見守る好々爺って感じの」

「かっ」

 

 とんだ慧眼だ。

 

「お前さんだってなでしこちゃん相手なら同じようなもんだろう」

「誰がババアだ」

 

 右肩を殴られる。なかなか強烈な裏拳だった。

 

「哲也くんにとっては結局、みんな子供扱いってわけね。リンちゃんも、あおいちゃんも、千明ちゃんも、なでしこも」

「皆立派な社会人だと俺ぁ思ってるがね」

「私みたいな三十路女は?」

「こう言っちゃなんだが、あの子らとお前さんと己にしてみりゃ大差がねぇのよ」

「あらありがとう。じゃあ美波ちゃんは?」

「さっきっからこいつぁ何の尋問だぃ」

 

 矢継ぎ早に知己の名を並べ立てる娘の意図は、なんとはなしに察するものとてある。

 俺は責められているのだろう。咎められているのだろう。

 

「罪作りも大概にしときなって話よ。特に美波ちゃんなんか、健気に卒業まで待っててくれたのに」

「……そりゃ初耳だな」

「本気で言ってる? もう一発殴るわよ」

「せめて運転中はよしてくれ。後ほど、頂戴仕る」

「まあ半分くらいは淡い期待なんでしょうけど、その淡い期待だけで二十代棒に振っちゃうような子だって理解した方が身の為よ」

 

 一呼吸、桜嬢は間を置いた。

 

「この際はっきり言っておくけど」

 

 歩行者信号が点滅する。

 目前の信号もまた間もなく、赤から青へ。

 

「処女を弄ぶと後が怖いわよ」

「もう少しこう、手心をくれんか。いや己にではなく鳥羽先生にな」

「美波ちゃんの歳だと拗れるわよ。それはもう拗れるわ。三十過ぎた処女は流石にやば」

「わかった。悪かった。己が全て悪い。だから許してやってくれ後生だ。頼む」

 

 歯に衣着せぬとは言うが、神経まで剥き出しでは遠からず血を見るぞ。

 

「うやむやにのらりくらり躱せる男の尻をいつまでも追い掛ける憐れな女には、本来これくらいはっきり言ってやった方がいいのよ」

 

 この娘とて、その辛辣な口ぶりほどに放埓な恋愛経験がある訳ではなかろうが……。

 右腿に鋭い痛み。器用に前を向いたまま、桜嬢は力の限り己の右脚の皮膚を抓った。

 

「こんな偏屈な野郎に構うこたぁねぇんだ。先生なら引く手数多だろうに」

「本人に言ってあげれば」

「何べんも申し上げたんだがなぁ」

「うわ、ひどっ」

「このガキ、舌の根も乾かぬうちに翻しおった」

「なんでそう猫可愛がりしかできないわけ」

「実際、可愛いんでな。リンちゃんも、あの子らも」

「女として見られないくらい?」

「女の子扱いはしてるとも」

「またそうやって子供扱い」

 

 エンジンが嘶く。アクセルを踏むその右足に力が入るのがわかる。

 

「現職警官乗っけてんだ。法定速度は守ってくれよ」

「キミの中では私達って恋愛対象にはならないのね。それはキミの精神年齢が異常な所為? それとも好みの娘がいないとか? それとも、他に好きな人がいる、とか?」

 

 愛した女はいた。

 掻き毟るほど愛しい女が、一人。

 こんなこと、口には出すまい。綺理枝には笑われてしまうだろうから。

 

「二つ、正解だ。己の頭はイカれてるし、己という奴はいなくなった女を今だに引き摺る情けねぇ野郎だ」

「……」

「間違っても娘さんの純な好意なぞ、賜ってよい分際じゃあない」

 

 車窓に映る阿呆面は決して哲也の所為ではない。身の内、魂と性根の腐りが、耄碌が滲み出したがゆえ、こんな腑抜けた面が顕れる。

 恥知らずめ。

 俺は俺の魂に毒を吐き捨てた。

 

「…………ねぇ」

「なんだい」

「……慰めてあげよっか」

 

 駅前、路肩にゆっくりと車を着けながら、女が囁いた。

 その目を真っ直ぐ見返して、己は微笑んだ。

 

「ありがとよ、桜ちゃん。お前さんやっぱり、優しい子だな」

「……」

 

 そっと娘は身を乗り出す。その桜色の唇が近寄って、己はそれを右の頬で受けた。

 

「……」

 

 桜ちゃんは儚げに笑って。

 ────右手で己の左頬を張った。

 快音と痛打が骨身に染みる。

 

「ばか」

 

 己が降車してすぐ、ラシーンの冴えた青色が身延駅のロータリーを去っていく。

 マフラーから吹き出る排煙が、まるで乙女の怒りを表しているようで。

 右の頬を擦る。打たれもせんのに、そこだけやけに熱いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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