[それぞれ役割分担を決めて、とりあえず後日本格的な打ち合わせをやることになりました]
[県庁の会議室を借りられないか交渉中とのことなので、集合の日時は千明からの報告待ちです]
[名古屋にはもう着きましたか?]
スマホに届いたメッセージを確認して、その律儀な文面に思わず笑みが溢れる。そしてどうやら、己もきっちりその高下キャンプ場計画とやらの面子に数えられているらしい
適当な返事を考えながら、名古屋駅前の賑々しい雑踏を流した。
[車を回収したら名古屋を出る]
[入れ違いになるが、リンちゃんも帰り道は気を付けて行くんだぞ]
お世辞にも達者とは言えない操作で、それでもどうにか文章を打ち込んでいたその時。
着信。
スマホに表示された名は……“新城”。旧馴染みのあの男。
「……よう、息災か。爺さん」
『若作りが偉そうに。そっちこそ愛知に寄るなら連絡くらい寄越せ。筆不精め』
「かかっ」
悪態に間髪入れず厭味が返る。
相変わらず地下空洞の鳴動のように低く艶気のある声で、老爺もまた笑った。
名古屋駅近く。幹線道路からの車通りが多く、通行人などはむしろ疎らな商店街。そこから小道に入ってすぐ、こぢんまりとした純喫茶がある。
窓際、革張りのソファー席に二人、向かい合って座る。
注文したコーヒーが届くまで会話らしい会話はなかった。今更それを苦痛と思える瑞々しい間柄でもない。気の置けないというか、腐れ縁が極まって互いに古木か枯木のような心持で。
澄んだアメリカンを啜る。
なにやらひどく懐かしかった。
思い出されるのは、新城肇と
舌が変わった所為か、それとも散々歳を食ってコーヒーの味わい方をようやく会得できたからか。
俺は老いたのか。それとも、若返ったのか。
「キャンプ場を作るそうだな。リンから連絡が来ていたよ」
「妙な話の運びでな。高下の山ん中だ。ちと辺鄙だが、お前さんなら嬉々として通いそうなところだったぜ」
「ほう」
カップを握る指。開襟シャツから覗く首筋。以前よりも確実に痩せ細り、衰えた姿。
旧友は老いてゆく。人として正しく、真っ当に、経る歳を重ねて歩んでいる。慌てもせず狼狽えもせず泰然と、ゆっくりと。
その事実が眩しい。
その当たり前を、少しだけ羨んだ。
「キャンプを趣味にしてた娘さん方が、遂に自らキャンプ場を作っちまおうってんだから、すげぇ時代になったもんだ」
「老け込むのはいいが、お前もその人足に指名されたんだろう」
「へいへい、精々娘っ子共に扱き使われてやりますともよぅ」
「物の役に立てばいいが」
「言ってろ」
薄ら笑ってカップに口をつける。口中に広がる渋味を楽しんだ。
「近頃、どうなんだ」
「なんのこった」
「相変わらず、捜査を続けてるのか。お前は」
「……まあな」
わざわざ聞き返すまでもなく、老爺の問いの真意はわかっている。
お前はいつまでそれを続けるつもりだ、と。
「無論、事件が解決するまでだ。そうすればきっと……きっと」
「そうか」
新の字はカップの水面を見下ろしながら、静かに言った。
「もうとやかく言う気はない。お前のやろうとしていることは正しいことだ」
「かかっ、殊勝な言い様だな。あの時からの反省が行き届いてるらしいや」
「ああ、惨いことを口にしたと今でも思う。お前に対しても、哲也くんに対しても」
「……」
十年前、高校一年生のリンちゃんが切り裂き魔に襲われた日。救急外来の待合所で俺達は一度袂を別った。いや、そんな大それたものではなく、互いに譲れぬ一線を検め合ったというだけの話だ。
この男は人の親たる者として当然の情を持ち、正理を持ち合わせている。
そして俺には俺の正すべき法理があった。
今もそれは変わらない。
「お前が帰ってきて十年にもなる。それだけ掛かってようやく私なりに整理が着いた。勝手な話だが」
「まったくだ。子供の駄々じゃあるめぇし」
「ふ、そうだな。いい歳をして、我が儘を言ったよ」
こちらの厭味に新の字は言い返してこなかった。ただ穏やかに笑むばかりで。
「ただ、こうも思うんだ。お前が帰ってきて十年、お前が薙原哲也くんとして生きてもう十年だ。不二崎甚三郎の心を持った薙原哲也の十年間。それはもう、もはや、別の人間の人生なんじゃないのか、と」
「そんな訳があるか。今ここに在る己なんてものは所詮
「哲也くんの代理だとお前は言い張るだろう。それが間違ってるとは言わん。だがな、お前のそういう存念があったとしても、お前が生きてきたこの十年はお前の人生だ。どうしたところでこれは覆らない。薙原哲也を、その性格から能力まで寸分違わず演じられるというならまだしも。そんなことは土台不可能だ」
「…………」
一昨年からその暮にかけて、哲也の祖父母が立て続けに亡くなった。そうして薙原哲也は真に天涯孤独となった。家族郎党と死別してしまったこと、親類縁者が絶えたこと、薙原哲也の存在を現世に繋ぐ人の縁はひどく希薄だった。
薙原哲也の小中学生時代の友人に話を聞き回っていた時期がある。彼をどうにかしてこの世に繋ぎ止める手掛かりが欲しかったのだ。
収穫は乏しかった。真面目で大人しかったという。友人達にとって彼の幼少時代の印象は薄弱としている。
不慮の事故で両親を亡くした幼児に活発に人生を過ごせという方が無理な話だ。
それでも、少年は時間を掛けて打ち沈んだ心を育んでいく筈だった。高校時代などは特に、物心ついた子供が情緒を築く為に使う大切な時期だった。繊細なその心を静養する為のモラトリアムを、取り返しのつかないただ一度限りの時間を、俺は根こそぎ奪い取ったのだ。
死に損ないの老害が、子供の人生を食い潰したのだ。
「お前に救われた人がいる。お前を好いてくれる人がいる。薙原哲也でも、その内に宿った不二崎甚三郎でもない。今ここにいる“
「他人の顔で、偉そうに生きてる俺が、それそこどの面下げて」
「その面でだ。生きていくしかあるまい。少なくとも今はまだ、お前にはたっぷりと寿命がある」
「ッ……!」
歯軋りして顔を歪める己を、対する老人は静かな眼差しで見詰めていた。
ひどく老獪な、それはまるで老いた狼のように叡哲な目だ。
どうしてだろうか。歳は同じ筈なのにな。
自分が幼く思えてならない。
斟酌の間で相対したこの旧友の姿が、遠い。
「十年は、長いぞ。不二崎。人との付き合いというなら尚の事な。置いて行かれる者には辛い」
「……」
「お前には酷な話だろうが」
老爺はそれ以上なにも言わなかった。
ただ胸を衝かれる思いで、俺はこの十年を反芻する。
薙原哲也でもなく、ましてや不二崎甚三郎ですらない。どっちつかずの老若も曖昧な男として生きてきた。
俺は、何者なのだろう。
俺は一体、誰なのだろう。
なでしこのジムニーに同乗して、日暮れで茜に染まる波木井川を横目に眺めた。
ちら、とスマホのメッセージ欄を見る。
「……」
「哲也くんから返事来た?」
「え、ううん、まだだけど」
「そっか。リンちゃん、ずぅっと待ち遠しそうにしてたから」
「うっ」
普段はこんな風にはならない。なってはいない、つもり。
ただ今日に関しては、不安があったからだ。
キャンプ場作りのリーダーに抜擢されて、何となく責任を重く感じてる。
県の許可を得て行う、謂わば公益事業。物理的にも広大な規模のプロジェクトを、曲りなりにも先導する役目。
気負い過ぎだとは、自覚している。けれどこういう時、真っ先に頼ろうと思ったのはやはりあの人だった。
アドバイスでも、ほんの些細な励ましでもいい。何かを言って欲しかった。
「大丈夫だよ、リンちゃん。哲也くんはリンちゃんのこと絶対助けてくれるよ。きっと地球の裏側に居たってすぐに駆け付けてくれると思う! 空飛ぶテントで!」
「なにその謎の乗り物」
「それにもちろん私達も。リーダー役だからって全部しょい込んじゃダメだからね。これは皆のキャンプ場作りなんだから」
「……うん。ごめん。一人で抱え込みそうになってた」
「えへへ、リンちゃんは漢気の人だからねぃ」
「誰が漢じゃ」
にまにまとしたなでしこの笑みが不意に穏やかな形になる。
「今回の話ね。哲也くんも参加してくれてよかった。一時期、哲也くんすごく一人で悩んでたから」
「えっ」
「何を悩んでるのかとか、教えてくれなかったけど。何かに一人で苦しんでるみたいで。高校卒業してすぐ皆と距離を置いたのもそれを一人で解決しようとしてたからなんじゃないかな。すごいことだと思う。進路もすぐに決めて、躊躇いなく行動して……でも、ちょっと寂しかった」
なでしこは知らない。彼の中に宿った人のこと。
じん爺の何年もの苦闘を。
けれど、なでしこは表情を翳らせた。初めて見る。いつでもどんな時でも天真爛漫だった友達の、寂寥。
「野クルで一緒にキャンプに行ったり、他にもたくさん遊んで、勉強したり、実は私の進路の相談に乗ってくれたりもしたんだよ? なんだか、ずっと年上の先輩みたいに。頼れる大人って感じで。でも、そんな人だって悩みがあるのは当たり前で、でもそれを誰かに相談したり、頼ったりできずに苦しんでたんだって……私や皆じゃ助けになってあげられなかったことが、悲しかった」
「…………」
「今も哲也くんが何か抱えて生きてるんだとしたら、私は少しでもそれが楽になるようにしてあげたい。キャンプ場作りっていう、楽しいこと、楽しい時間、楽しい場所を他のいろんな人に伝える輪の中に、哲也くんを繋げてあげたい」
「……うん、そうだね」
輪の中に在る。私もなでしこも皆も、あの人も。
今、この世界に生きていることを。
貴方として生きていることを、知って欲しい。わかって欲しい。
なでしこのその純粋な想いとは違う。私のこれはただひたすらのワガママだった。
それでも、願う。私は貴方を願う。
どうしようもなく。
「あ! そうそう実はね、鳥羽先生にキャンプ場のこと話したんだけど」
「……え゛」
とても朗らかになでしこは言った。
私はといえば、我ながらひどく濁った呻き声が喉から漏れた。
「手伝いに来てくれるんだって! やったね! 野クルフルメンバーだよ!」
「……他に、何か言ってなかった?」
「んーとね。哲也くんの、シフト? が決まったら教えてって」
「Oh……」
騒動の予感がした。正直自分にはあまり馴染みのない、色恋の拗れる音が。
十年は長い。当たり前のことを再確認する。
十年は、長いのだ。たった一人を想い、患うには、あまりにも。