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資料保管庫は職員室から校舎を移った別棟、部室棟のさらに最果てにあった。
傍らの細腕を盗み見る。こんなところへこの大荷物をこの娘一人で運ぶのは、言ってはなんだが酷である。
「教室で暇こいてるのが幾らでも居るんだ。扱き使ってやりゃあいいじゃあねぇですかぃ」
「いえ。部活動がある人はもちろん、これから帰宅しようとしている人に頼み事をするのは悪いですし」
「悪いなどとんでもねぇ。先生みてぇな別嬪に一声かけられた日にゃ野郎共は喜んで馬車馬になりますぜ」
「えぇ……もぉ、
「なんの。本音を言ったまでですよ」
さなきだに歯の浮いた物言いではあるが、歴とした事実である。現に一人確実な心当たりが居るのだから。
鳥羽教諭は困ったような笑みを浮かべる。生徒のガキから口説き文句染みたことを口走られれば然もあろう。
手荷物があるので腰を折るのは諦め、目礼気味に顎を引く。
「いや軽口が過ぎ申した。平に」
「えっ、い、いえいえ!」
濡れ羽色の黒髪を宙に泳がせ、慌てるように彼女はぶんぶんと首を左右した。
窓の外ではバレー部員が二列縦隊でランニングに励んでいる。
それを横目に廊下を行くこと暫し、行く先に保管庫の札が見えた。重労働からの解放を目前に控えて足取りも軽くなった、その時。
「……自分の仕事は、自分でやらないと……ですから」
若い女性教諭は独り言めいて呟いた。微かに……気鬱の暗色滲む声で。
そこには深い疲れが見えた。先にも見た通り教職とは激務。放課後の今、疲労に身体を重くする様子は何も不思議なことではないが。
「……」
どうにも、そればかりではないような。
その細い両肩を重くするのものは、あるいはもっと別の、罹り事に思えてならぬ。
過ぎた考えであろうか。殊人情などというものに対して、微に入り細を穿つような鋭敏な見識をまさか己のような粗略漢が持ち合わせている訳もない。見当違い、全くの勘違いと判ずるがまだしも妥当か。
まあ、それならそれでよかろう。阿呆が余計な気を回して馬鹿を見るだけだ。
「先生はなんぞ御趣味などありますかな」
「はい?」
まっこと唐突な話題振りに、当然ながら教諭は返答など出来ず反問した。
その当惑にしかし、あえて取り合わず。
「趣味などと言うと大仰かね。もっと気楽に、そう気を楽ぅにする某。楽しみってぇやつですよ。ありますかぃ」
「え、えぇと、そうですね……お酒、とか」
「へぇ、何を飲まれるんで?」
「う、うーん? なんでも飲みますよ。ビールも日本酒も洋酒も。カクテルとか、市販のチューハイ、珍しいリキュールを見付けたら試してみたり」
「ほっ! そいつぁ豪気だ! 近頃の若ぇ連中は酒なんぞに興味はねぇもんかと思っておりやしたが、先生はイケる口でしたかぃ。いやぁ立派立派」
「あはは、そんな。全然大したものじゃないです。ただ好きってだけで」
「いやいや一番の上等じゃござんせんか。好きこそものの上手なれ、と。特にここいら富士の麓は水が良い。水が良い土地は地酒が旨ぇときたもんだ。お召しになったこたぁありますかね、富士河口湖の方にある醸造店の」
「知ってます! 富士山の伏流水を使ってるんですよね! 冷涼な気候では育ち難いお米を、それでも土地の水で育てて使用するこだわりっぷりで。正真正銘富士産の地酒! 湧き水みたいに澄んで、いぃい味なんです……」
「そいつぁ今の時期こそ、あえて冷でいきてぇとこだなぁ」
「いいですねぇ……鍋物で温まった体にキューっと!」
「それもいいがね、ありゃあなんつっても臭ぇもんがべらぼうに合うのよ。炙ったあん肝とやった日にゃこいつぁもう堪えられんぜ」
「あん肝ぉ。いいなぁあん肝。自炊だとなかなか手が出なくて」
「ちょいと足伸ばせば幾らでも旨ぇ店があるんだがねぇ。おぉ、なんなら一軒見繕うぜ。どうだいこの後一杯」
「いいですね! 是非────」
疲れも吹き飛ぶ晴れやかな笑顔がこちらを向き、そのままの形で凝り固まる。さながら酔いから醒めたといった風情で。
それは少なからず、己の身にも詰まされる心持ち。つい口が滑り、調子よく滑って、一時己が身の上を失念した。
「……と、まあ、うちの爺さんなら言うでしょうなぁそらもう一も二もなく。先生のような可愛らしいお嬢さんと一献酌み交わせるとなりゃ冥途の土産に釣りと特典が乗るような具合で……ねぇ?」
「薙原くん」
「へい」
娘さんから、教師の声音へ。
真剣みのある呼ばわりに背筋を伸ばし、傾聴の体を作る。
暫時、こちらをじっと見詰めた鳥羽教諭は、深く溜息を吐いた。
「……ダメですからね」
「あいや無論で」
「真面目に」
「へい、御心配なく。未成年飲酒は御法度ですからな。うむ」
「…………もぉ、調子に乗って話合わせちゃった私も悪いですけど」
若き女性教諭はその場でこんこんと、自らの言動を恥じた。恥じ入るというか、恥じらうように。
その様がなんとも愛らしく、可笑しい。
「あっ、今笑いましたか!? 笑いましたね!?」
「いえいえ滅相も」
「本当にダメなんですからね!? 若い内からアルコールと仲良くしてるとバカになりますよ!?」
冗談めかし、などではなく。妙に実感の篭った警告であった。
なにやら思った以上の時間を費やして、我々はようやく保管庫の扉の前まで辿り着いた。
ぷりぷりと怒りながら、彼女は抱えた段ボール箱を、己の腕にある箱の上に置く。容赦のない荷重が連鎖して全身に響くが、むくれ面の娘さんはそんなもの知らないとばかり。保管庫の鍵を悠々ポケットから取り出し。
「と、鳥羽先生!」
「はい?」
不意に呼ばわれる。それは元来た、廊下の向こうから。
一人、女子生徒が歩み寄ってくる。やや落ち着いた色味の茶髪は緩く巻かれ、それが側頭に一つ髪留めで結われている。なにやらひどく、
その足取りが淀む。目当ての人物を見付けたにも拘わらず。迷い、躊躇うように、少女は実におずおずとして。
鳥羽教諭、そして教諭の影に立つ己の姿を見て取り、遂にその足を止めてしまった。
「犬山さん? どうかしたんですか」
「え、あ……い、いや、その」
「?」
要領を得なかった。台本を紛失して当日舞台に立たされた役者のような。用意した言葉全て、喉奥へ叩き戻され。
少女は途方に暮れる。今にも、泣き出してしまいそうな顔で。
この世の終わりめいている。助けを求める迷い子の……大仰であろうか? この心証。この読解は。
否。迷いなく否やと言える。
何故なら己はそれを、この必死な顔を、苛まれる目を──知っている。不二崎甚三郎
「……」
「……犬山さん、ここでは言い辛いことなのね?」
「鳥羽先生、
「……そうですね。すみませんが薙原くん、あとをお願いできますか?」
「ええ、では」
教諭は実に機微に聡かった。己の申し出などなくともこの場を預ける程度の機転は働いたことだろう。
とりあえず、と。鳥羽教諭は手ずから扉に鍵を差し込んだ。
「あら? 開いて……」
なにやら訝ってそう呟いた瞬間、突如、扉が引き開けられた。
開け放たれた保管庫の内側に、人影が立っている。
紺のスーツを着た女。女性教諭である。
「た、田原先生。いらしたんですか」
呼ばわりに銀縁眼鏡の奥、切れ長な目が鋭く細められる。
教諭、田原は無言で扉から進み出た。行く手を空ける為に鳥羽教諭が後退る。しかしそれはまるで目の前の人物を恐れ、気圧されてたじろぐかの様相だった。
伏し目がちに、鳥羽教諭は顎を引いた。
田原教諭の視線がこちらに向く。己、というか己の抱えた荷物に。
「まだ資料の整理をしていたんですか、鳥羽先生。随分とゆっくりですね」
「す、すみません」
「生徒の手を借りないとこの程度もお一人では片付けられませんか? でしたら今後は、もうお頼みしない方がよろしいかしら」
「い、いえ! そんなこと」
「無理に引き受けていただかなくても結構です。お忙しいんでしょう?
反問、抗弁の余地すら与えない。取り付く島もない撥ね付け様。言い回しはどこまでも慇懃であったが、その手触りは実に鋭利。耳孔を針で刺すかの辛辣さだった。
見る間に鳥羽教諭は肩身を縮ませる。真正面から無能の烙印を捺されたのだ。心穏やかで居ろという方が無理な話だろう。
そしてその萎縮した姿はなお一層に、対手の不興を買った。
「ご不満があるようなら遠慮なく教頭か校長に申告なさってください。私は一向に構いませんよ」
「そんなっ! そんなつもり、ありません」
「ならさっさと雑用くらい済ませてください。期末試験だって近いのにもたもたと。いつまでも新任気分でいられては困るのですけど」
「……すみません」
「謝罪ではなく、その勤務態度を改めたらどうなんです? だいたい以前から、貴女は生徒との距離感を少し取り違えてる節があるようで。友達感覚で接していれば人気が取れるとでも考えたんでしょう。不謹慎ね。若くて容姿に自信のある人は人生生き易そうで羨ましいわ」
「っ」
「これもそうなんでしょう? 大方そっちの男子に、色目でも使って────」
「どっこい……」
両腕を開く。一挙に、左右へ。
そうするとどうなるか。当然自然の成り行きで、腕に抱えていた物体が支えを失くす。
宙に投げ出され、そのまま自由落下する。
ずどん、と重い音を立て。廊下に三箱分の紙束を収めた段ボールが倒れもせず積み重なったまま着地する。
「しょっとぉ。あぁあぁ重てぇ重てぇ」
「……」
「おっと話の腰を折っちまいましたかな。いやこれはこれは、失礼仕った」
言って、頭を垂れる。慇懃無礼にならぬよう心掛けてはいるが、さて。
「……貴方」
「ん?」
田原は己の顔を見て、刹那静止した。一呼吸にも満たぬ微かな間。有るか無きかすら判然とせぬほどの。
しかし確かに、かの女性教諭はこちらを認識した途端……驚いていた。
「っ、とにかく、雑用は手早く終わらせて本業に戻ってください」
捨て台詞もつんけんと、田原教諭はその場から歩き去る。廊下を打つ靴音さえ怒らせて。
その背中が廊下の曲がり角に消え足音ももはや聞こえぬまでに遠ざかったその頃合いで。
「感じワっっル!!」
「犬山さん……」
「いやあれはあかんわ。あれはホンマにあかんて。なんなんあの暴言。いくらなんでも失礼過ぎやろ」
苦笑するばかりの当人に成り代わってくれようとでも言うように、少女は、犬山という女子生徒は憤慨を露わにした。
怒れる少女を鳥羽教諭は依然落ち着いた様子で、両の手で宥める。
「なかなか、厳しいお人のようで」
「ええ……そうですね」
「厳しいとかいう問題!? あんなんただの八つ当たりやん! 自分の不幸を笠に着て……!」
「犬山さん!」
ぴしゃりと、一声が響く。たおやかで柔らかだった気配を鮮烈にして。
萎縮した様などもはや微塵とてありはしない。真剣な顔で鳥羽“先生”は女子生徒を叱り付けた。
「田原先生の言葉はとても厳しいです。ですが、全部が間違っている訳ではありませんから」
「でも……」
「ありがとう」
労しげな少女に鳥羽教諭は微笑んだ。
その微笑がこちらを向く。それがなにやらまた一層に、華やいだように見えた。
「薙原くんも」
「はて、俺ぁただ荷物運んでつるっと落っことしただけですがね」
「ふふ、そうでしょうか」
「そうですとも」
「じゃあ、そういうことにしておきますね」
軽やかに言ってから、鳥羽教諭は思い出したように女子生徒へ向き直った。
「あ、そうだ犬山さん」
「え」
「何かお話があったんですよね。今からなら時間作れますから」
「あ……で、でも! お仕事あるんですよね? そんな重要な話ちゃいますから、また今度! 今度また時間のある時に」
「え、でも……」
「ほな、さよならー!」
矢継ぎ早に捲し立てるや、少女は慌てて踵を返し立ち去った。
教諭の呼び止める声から、まるで逃げるように。
「犬山さん……どうしたのかしら」
「……」
その気遣わしげな呟きに、もはや先程帯びていた気鬱など一切なく、ただただ一心に生徒を慮るばかりであった。
まったくもって教職とは激務。そして……聖職だ。
「さてさて先生よぅ、この大荷物は何処に放りやしょうかね」
「あ、はいただ今!」
そんなこんな、ようやく整理もついた頃。
何やら余計に懸案は増えたような気もするが。
作業の最中から今もなお心配顔の娘に笑みを向ける。
「然らば一つ、不肖この薙原が遣わされましょう」
「はい?」
またしても唐突なる物言いに可愛らしく戸惑った顔をした後、然したる間もなくその目に得心の光を見せる。
しかし次いで、その表情は翳る。この身に対する不信からくる不安、ではなく。
ひどく、労しげに。
「いえ、いいえ。それは、私の役目です。私は犬山さんの、貴方達の先生ですよ」
「なればこそ。あの娘は先生を慮ったんでしょうよ」
「そんな……」
「いやいや責めに思わんであげな。子供ってなぁ大人の思う以上に大人に気を遣いやがるのさ。心の、感度ってやつですかい? そいつが一等鋭敏な年頃なんでしょうなぁ」
「…………」
「それを見て放っておけねぇ、頼って欲しい我が儘言って欲しいってぇ思えるあんたは、いややはり立っ派な先生だ。その誠実さをしかし今一時曲げて、待ってやっちゃあいただけやせんか」
どうして……声ならぬ疑問がその全身から発露している。
「ほんの一度、己を噛ませてくださればいい。潰しの利く緩衝材とでも考えなすって」
「……同年代同士の方が、話し易いこともあるでしょうか」
「は? あ、そいつぁ、まあ、そうやもしれませんな。ハハハッ! うんうん」
「?」
早速出そうになった襤褸を飲み込んで笑う。誤魔化しに笑い飛ばす。
今度こそ不思議そうな鳥羽教諭の視線から身を逸らし、頭を掻いた。
「……なんだか、不思議な人ですね。薙原くんって」
「そんなこたぁないとあっしは思うんですがね」
「あっし? あ、いえ、別に変だって言ってる訳じゃないですよ? ただ、そう、まるで……私の方がフォローされて、生徒の相談事まで引き受けてくれようとしてる……不甲斐ない私なんかより、頼り甲斐があって」
「んな大仰な」
「ふふっ、まるで、ずっと年上の方みたいで」
「気の所為でござんすよぅ。えぇそらもう、気の所為で」
背中に快ろしくない汗を掻いた。
くすくすと愛らしく笑う娘子が今ばかりは少々厄介だった。
目当ての背中は部室棟二階の最奥で見付かった。
頭の片側に結われた茶髪が、その足取りと共に揺れ動く。軽やかとは言い難い、淀み、重い歩み。
それは迷いが生むものか。思い悩むゆえの忘我。
いや、今少し違う。そう己の勘は告げる。
それを確かめる為に、己は歩を進めた。努めて、大きく、甲高く足音を立てて。
「っ!」
「……」
背後からでも見て取れる。少女の肩が大きく震えた。
背筋の強張り、小刻みな震撼。その怯えを、ありありと感じられる。
少女は怯え、竦み、こちらに振り返ることすらしない。
しかし取り合わず、なお一歩また一歩と近付いていく。足音は、おそらくその小造りな耳孔を盛大に叩いていよう。
もうあと五歩、それで間合はなくなる。
その時、遂に少女はこちらを向いた。決死の覚悟を滲ませた、恐怖に歪んだ顔がそこにはあった。
「! あ、え、と……薙原くん……? やったっけ」
「おう、そうだよ。薙原哲也ってもんだ。お前さんとは以前に……話しぃ、したこたぁあったかい?」
「う、ううん。ない、と思うわ。うん、たぶん」
「そうかい。ならば改めて、どうもはじめまして」
「あ、これはどうもご丁寧に……」
その場で辞儀する。すると眼前で娘子もちらに倣った。
間の抜けた応酬であった。だが、それがほんの僅か、少女から緊張を取り去ったのは確かなようだ。
「わ、私になんか用?」
「ああ、ちょいと確かめてぇことが一つ」
「確かめる……?」
困惑の色滲む顔で、少女は小首を傾げる。
「随分、後ろを気にしてるな。足音が恐いかい」
「え……」
「ポケットに入ってんのは携帯じゃあねぇな。防犯ブザーか? そうだろ」
「っ!? なん、で」
廊下を歩く背中を見付けた時から、この娘はスカートのポケットに常に手を入れていた。まるでそうしなければならぬと己自身を強迫するように。
そうしなければ、不安で立ち行かぬというように。
「なんで、わかったん」
「なに。お前さんのような子供を、昔よく見てたんでな」
「……」
「もし間違ってんならそう言いな。そうすりゃ己は黙って立ち去る。気を悪くしたってんならそれこそ、もう二度と近寄りゃしねぇからよ」
なるたけ優しく、いや自然態にそう言い置いて。
「お前さん、誰かに付き纏われてるんじゃあねぇかい?」
「!?」
出会ってからより一際に、少女はその身を震わせた。核心を衝いたのだ。
瞳が惑乱する。視線は足元や、廊下の窓や、こちらを忙しなく行き来し、最後にきつく瞼が閉じられた。観念したと言うように。
推測は正当したが、何一つ喜ばしいものはない。外れていて欲しかったと心底思う。
しかし現実に事案は発生している。今もなお。ならば。
「ちょいと話を聞かせてくれんか。何か力になれるやもしれん」
「……でも」
「本当は鳥羽先生に相談するつもりだったんじゃあねぇか?」
「……」
「それを己が邪魔しちまった。すまんかったな」
「ちっ、あれはちゃうよ! しゃーないわ。田原先生もおったし、タイミング悪かっただけで、薙原くんの所為とはちゃうて」
「勇気の要ったことだろう。悩みを打ち明けるってなぁ機を逸するとなかなか難しいもんだよなぁ。申し訳ねぇことをしたよ」
「っ、そんな、そんなこと……ない、よ……?」
滲む。その瞳、その声音が。ほろほろと少女の相好が崩れる。
「っ……!」
「先生はいつ何時だってお前さんが話しに来てくれるのを待ってるさ。おぉこいつぁ請け合いだ。あの子はいい先生だ。それでも、どうしても心の準備が付きそうにねぇんなら、一つ己に吐き出してみちゃくんねぇか? なぁに、鳥羽先生にも言ったが、己は緩衝材か練習台とでも思ってくれりゃいい」
笑みを向けると、呆然と少女は己を見返した。この男が何故こうも踏み込んで来ようとするのか、それが不可解なのだろう。不審もまた必然。
しかし、藁をも掴むその心持ちはありありと見えた。
「あの……」
「うん」
「あ、あんな……私……」
おずおずと絞り出すように言を継ぐ。
それをどっしりと待つ。急かさず強請らず、丸一日でも待ち受ける気組で。
待つ。待とうとした。
己が背後から、廊下を蹴る軽快な音が響いた。
「ぅ、うぉおああああああ!!」
「あ?」
振り返ればリノリウムの上を叫びながら駆けてくる人一人。黒縁眼鏡、頭の両側で二つに結われた髪が蔓のように宙を後追う。女子生徒であった。
手には木製の自在箒が握られている。間もなく間境。少女はそれをまるで槍か刺股のように一息でこちらへと突き入れてきた。
半身を翻して、それをやり過ごす。
躱されたことに驚いて、少女は一瞬つんのめり、どうにか持ち直した勢いで犬山ちゃんの傍へ駆け寄った。
「アキ!? ちょ、なにしとんの!?」
「い、イヌ子に近寄んじゃねぇ! こ、こ、このストーカー野郎!!」
「いやいやいやなに言うねん!?」
「ぬぉらぁああああああ!!」
怒号もなにやら小動物染みて、迫力よりも可笑しみが勝る。
笑う無礼を堪えつつ、振り下ろされた箒の柄を躱し──躱し様にその握りの手元を捕った。
「うえっ!?」
「いよっと」
ぐ、と柄を引き込む。
すると当然に少女は全身を強張らせてそれに抗おうとする。
「うぐ、ぐぐっ、うがぁああ放せー!!」
「あいよ」
「へ」
その細身が退く為に足を引き体を流した、その瞬機にそっと、その方向へ押しやってやる。
当然、体重心の移動と共に、少女は仰け反って倒れ込んだ。
「お、おぉうわぁ!?」
すってんころりと廊下にその小さな尻餅を突く。
からから転がった箒を拾い上げていると、少女は尻を擦って掠れた悲鳴を上げた。
「いぃ痛ててて……」
「くく、大丈夫かい。そら、掴まんな」
差し出した手をきょとんと見上げて、少女が目を瞬く。
こわごわと持ち上げられた手を掴み、思い切り引き上げた。
「うわっとっと!?」
「怪我ぁねぇかい?」
「あ、はい。どうも……」
「アァァァキィィィ……」
「ひょ?」
背後から地響きの如くに低く、呼ばわれる。油切れのブリキ人形の様相で眼鏡がそちらを向くと、甘い垂れ目を三角にして怒れる少女がそこにいた。
「なんちゅうことしとんねんアホたれぇ!!」