結婚を前提に付き合ってください!! 作:粗茶Returnees
自分の部屋から出て階段を降りる。多かった人の気配は消え去った。2階には己しかいないことを感じ取りながら、1階の様子を感じ取る。
やはりこちらも人が減った。賑やかなリビングに人はいない。違う部屋には数人いるようだ。湊はそちらの部屋を覗かず、リビングに隣接しているキッチンへと目を向けた。伸びた髪を後ろで1つに纏め、エプロンを付けて料理をしている彼女へと。
「おはよう小南」
「おはようってもう夕方よ航」
「昼寝してたから」
「そ。……どうかした?」
お玉で鍋の中を優しく混ぜる小南にくっつく。壊れ物を扱うように、彼女のお腹へと手を回した。
料理中にも拘わらずくっついた湊に、しかし小南は怒らない。叱りもせず、何かあったのかと聞いた。背後に立たれているから彼の顔は見えないが、どんな表情をしているかなんとなく察してもいる。
「夢を見たんだ」
「……懐かしい夢?」
一瞬硬直したのが伝わる。
「はは、わかっちゃうんだ?」
「あんたが
「……敵わないな」
「当然でしょ。なんたってあたしは航の彼女なんだから」
背後でうっすらと笑っているのを感じる。ひとまず気持ちを少しは上向きにさせられたらしい。大事なステップをしっかり踏めたことに小南は一安心する。
「小南に告白した時のことを夢に見たよ」
「……そ」
「本当に……今でも嬉しく思ってる」
お玉から手を離し、火を止めてから振り向いた。弱った顔でも見てやろうと思ったのに、この少ないやり取りで立ち直れたらしい。それこそあの頃のように、元気が有り余っている笑顔だ。……それを無理に浮かべている。
まぁそうなるかと半ば理解している。彼が、弱った姿をはっきりとは見せようとしないから。さっきみたいに、顔が見えない状況でしか晒してこない。
男はそういうものらしいと、何年も過ごして理解してる。
「カレー?」
露骨な話題転換。小南はやれやれとため息をついてからそれに乗った。
「新人が来たから。美味しい料理でも振る舞ってやらないとね」
「新人……?」
「あー、航はいなかったから知らないわよね。中学生3人が入ったのよ。ボスの指示で、あたしとレイジさんととりまるで1人ずつ見てるわ」
「へ~? ってことは、1人見込みある子がいたんだ?」
「よくわかったわね」
「小南が楽しそうに話すから」
「そ、そう? あたし顔に出てた?」
「ちょっとだけね」
自分の頬を触る小南に微笑みつつ、その新人たちに会いに行くか悩んだ。どうせこの後新人たちを交えて夕食を取るのは、今の状況を見ればわかる。ならば今顔を出しに行く必要もない。
「そうだ。航も指導する? あたしがついてる遊真って子一番見込みあるし、動きもまぁまぁ悪くないわよ。実力で言えば上位の
「……面白そうだけどやめとく」
「なんで!?」
「小南だけの方が良さそう。なんとなくだけど」
「なんとなくって……」
「他の2人はどんな子?」
「……はぁ。だいぶまぁまぁの千佳は
「修って子には、いずれ何か教えたりするのかな」
「かもしれないわね。航も器用だし」
小南からの褒め言葉。それを噛みしめるように腕に力を込めた。腕の中にいた小南と密着度が増し、さっきまで落ち着いていた小南もこれには焦りながら頬を赤く染める。
「ちょっ、誰かに見られたらどうするのよ! もうすぐ夕飯の時間なのよ!?」
「新人に見られてもそれはそれで説明が早いし」
「だ・め!」
「はい」
おとなしく手を離して小南を解放する。あっさりと解放されたことに小南は口籠った。
「そういえば迅は?」
「いないならどっか出かけてるんでしょ。いつも通りよ」
「たしかに」
迅が単独でふらつくのはいつもと同じ。今に始まったことではない。それは頭で分かっているのだが、湊は支部の外を、ボーダー本部がある方向をしばらく眺めた。
「……好きに動きなさいよ」
「うん?」
「迅が何する気なのか知らないけど、手伝いたいんでしょ? なら行ってきなさい」
「……いいのか?」
「絶対に怪我せずに帰ってくること」
「了解」
「無茶しちゃ駄目よ。……もし戦闘するなら誰かに負けることも許さないわ。けど強行突破とかはやめて、それから──」
指示が段々とただの心配に変わっていく。湊はそれに苦笑し、小南の手を握った。
「大丈夫。ちゃんと小南のカレー食べに帰ってくるから」
「……当然よばか。航の分確保しとくから」
「ありがとう小南。心から好きだ」
「知ってるわよ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
◇
湊は現状を一番知らない。玉狛支部に入った新人たちの経緯も、本部との揉め事の真っ最中であるということも。それ故に、迅がどこで何をしようとしているか分からない。連絡をしたものの迅が反応してくれず、湊は支部を飛び出してから早速途方にくれていた。
迅が反応しないのは、取り込み中だからというわけではない。湊の立場を考慮し、巻き込まないようにしようと思ったからだ。しかし彼には未来視がある。それが叶わないことも理解している。それでも、だからといって自ら巻き込むような行動は取れない。
「迅が出ないならこっち」
『もしもし湊くん?』
「もしもし綾辻。今何かしてる?」
『何かって?』
「作業中じゃないなら聞きたいことがあってさ。
踏み込んだ質問。
『そうだよ。今日勤務日だから』
それを綾辻は表面的な説明だけで返す。外部の人間に内容を伝えるわけにはいかないから。
「そうなんだ。ボーダーってこの時間でも働くんだね」
『そうだよ。内容にもよるけど、私はやることあるから残ってるの。残業ってやつ?』
当たり障りのない範囲で聞きながら情報を整理していく。
「そっか。頑張ってね」
『うん。ありがとう。って用件は何だったの?』
「暇ならお土産の和菓子渡そうかと」
電話の向こうで息を呑んだのが聞こえた。甘いもの好き仲間からのお土産だ。和菓子の消費期限が短いことも考えると、早めに受け取っておきたい。それが叶わないことに、綾辻はほんの少しだけ今の任務を呪う。
「明日ならいける?」
『時間作るね。ありがとう』
「どういたしまして?」
『ふふっ、なんで疑問形なんだか』
区切らなければどこまでも雑談が続きそうだった。「切るね」と言ったのはほぼ同時で、互いにくすりと笑ってから通話を終えた。
綾辻との通話が終わり、今度は別の人間へと電話をかけた。その相手が電話に出てくれるかは不明だ。仲が悪いわけではない。たんにその相手が、社会で生きていくのに支障が出るレベルで、異性に苦手意識を持っているだけである。
「あ、もしもーし」
『な……、なんですか?』
電話には出てくれた。緊張と、幾ばくかの強ばりを感じさせる声で。
「志岐って今本部にいる?」
だから努めて軽く話すことにしている。それは会話する機会があればいつも心掛けていること。
『家にいます』
「なら丁度いいや」
『……何がですか』
「今からオペしてほしい」
『ひっ……。な、何言ってるんですか!?』
微かな悲鳴にちょっとだけ傷つくも、志岐は気づかないし湊も感じさせない。彼女のためにならないから。
「頼むよ。たぶん、志岐が適任なんだ」
『人選ミスです他の人に頼んでください』
「えっちょっ! ……切られた」
切られたものは仕方がない。嫌がる相手に無理は言えない。湊は他に頼める人がいるか、連絡先を見ながら考えた。友人は多い方だ。しかしボーダー内部の人間となるとその相手は減る。派閥のことも考えると、誰がどの派閥か把握しきれていないためさらに減る。
そうなってくると誰かに頼むのも諦めたほうが良さそうだ。たとえ派閥に興味がない人間でも、バレると後々面倒なことになるかもしれないから。
「支部と本部。直線上を移動しとけば当たりそうだな」
志岐に電話してしまったことに反省。後日に那須に立ち会ってもらいながら謝りに行こうと決めた。
警戒区域には住人がいない。トリオン兵との戦闘もそのおかげでスムーズに行える。そして、今回のような内輪揉めが起きても周辺住民に気づかれる心配がない。
「おっ、人影発見」
トリオン体で屋根伝いに移動していれば人探しもやりやすい。同じように屋根伝いに移動している集団がいればなおさらだ。
その隊服は赤かった。目立つ色で分かりやすく、その隊の隊長は色に負けじと熱い男だ。熱血系という意味ではなく、他人をとことん思いやれるヒーロー性を持つという意味で。
「嵐山隊はっけ~ん。で、やっぱり迅もここか」
「あっちゃ~。やっぱ来ちゃったわけ?」
嵐山隊が足を止めたポイント。そこに参入すると、1人だけポツンと孤立して立っていた。その人物こそ探していた迅悠一である。
彼は湊がここに来たことに、困ったように笑っていた。先の未来も見えているのだろう。深刻な顔をしていないということは、悪い展開にはならないらしい。
「じっとしてられない性分だからな」
「迅さんに嵐山隊に、
「お前と同い年くらいに見えるけど、知り合いではないのか出水」
「見たことないですね。違う学校の生徒か、あるいはトリオン体で変装してるか」
「なるほど。迅とは顔見知りってことは、そいつも玉狛と見ていいだろう」
腰に差している刀に手をかけつつ、ボーダーNo.1攻撃手の太刀川は、自分の隊の一員である出水と言葉を交わした。一応オペレーターの国近にも確認を取ったが、彼女も知らないらしい。
「油断するなよ。あいつは手強いぞ」
「風間さん知ってるんですか?」
「少しな。いわゆる旧ボーダー。その頃からいたメンバーの1人だ」
「そりゃ手強い」
ボーダーのA級トップ3の隊に三輪隊。それに対峙するのは嵐山隊と迅と湊だ。数では後者が劣るが、迅の未来視は強大な力。さらに迅は黒トリガーを持っている。戦力差では大差ない状況だ。
「湊。我々の邪魔をする意味を理解しているのか?」
スコーピオンをその手に持ちながら、風間は湊へと視線を向けた。迅を除けばこの場で唯一過去のボーダーのことを知っているからだ。現ボーダーの司令、城戸と湊の関係も知っている。
「これぐらいでは問題ないでしょ。むしろ納得すると思いますよ? 蒼也さん、悪いけど俺は、
「……そうか」
「お前も近界民を擁護するのか」
風間は納得しても、近界民を恨む三輪は納得しない。擁護するのなら、その者すら敵だと息巻くほどに。彼がそこまで苛立つのは、知らない人間が飄々と近界民の味方をしようとするからだろうか。あるいは、単に湊と相性が悪いのかもしれない。
そんな三輪に睨まれても、湊はどこ吹く風といった様子で流し首を傾げる。
「……近界民? 誰が?」
「おまっ、知らないで来たのかよ」
「変わった奴だなー」
「ははは。航らしいっちゃらしいな」
これには米屋と出水が呆れて苦笑し、迅はからからと笑う。代表して教えたのは、特に近界民に恨みもない米屋だ。先日その近界民と交戦したからというのもあるだろう。
「白い髪のちびっ子だよ。玉狛に入隊したってさっき迅さんが言ってたぜ? 名前はたしか、遊真だったかな」
「……遊真か」
呟くと同時に湊の様子が変わったのを、その場の全員が理解した。彼を中心に空気がピリつく。
「あっちの狙いは正確には遊真の黒トリガー。でも事情があって渡すわけにはいかなくてね」
「説明はいいよ迅。遊真が狙いならなおさら引けないな」
「そうだろうな」
湊がその手に刀を構える。戦闘が開始されるということを誰もが理解し、緊張感が一気に高まった。
「嵐山。三輪隊を受け持ってくれ」
「了解した。この子は?」
「湊航。好きに動かさせたらいいよ」
迅が移動し、ライバルである太刀川が追いかける。迅が持つ黒トリガーを知っている風間も追いかけ、その隊員である菊地原と歌川も続いた。目の届く範囲にはいないが、スナイパーたちも移動している。
「……迅の方は、なんとかなるか」
「わりと冷静だな」
「地獄はとうに経験した」
「へ~?
「俺とお前たちじゃ
「なんだと」
「てかお前らバカだろ。この眼帯見て舐めプとか思うのは心が荒んでるぞ!」
「なんか言い始めたな」
「眼帯はカッコイイだろがバカめ!!」
「「バカはお前だ!!」」
米屋と出水のツッコミにカチンと来た湊は、左手で
それに合わせて佐鳥が狙撃するも、その弾は三輪のフルシールドによって防がれた。即席ながらの鋭い連携である。
狙撃が阻まれようと、嵐山たちの銃撃がある。即座に湊に合わせ、出水たちと米屋を分断。「迅に信頼されているらしい」という一点のみで、嵐山は湊を信用しているようだ。人が良すぎる。
「秀次じゃなくてオレに噛み付くのな」
「戦いたそうにしてたから乗ってやった」
「そりゃどうも!」
孤月の改造版である槍で攻撃してくる米屋に、湊はその手の刀で対応する。A級隊員はボーダーの中でも精鋭たちだ。そこに所属し、前衛を務める米屋の動きは鋭い。
自身の得物たる槍。その特徴を理解した攻撃。リーチと細さを存分に活かした攻勢を、しかし湊は見切って捌いていく。
旧ボーダー時代から鍛えているという年季の違い。少数精鋭の猛者たちの中で磨いた技術。培った経験。どの点においても米屋を上回る。加えて──
「まじかよ」
──初見で
そのトリガーは初見殺しもいいところ。刃の部分を自在に瞬時に変形させることで、相手の防御をすり抜けて斬るというもの。たとえ知っていても対処が難しい。というのに湊には通用しなかった。
「A級って言ってもバラつきあるんだな」
「おっと?」
挑発にしては声色が平坦過ぎる。落胆でもなく高揚でもない。ただ率直に感想を呟いただけだろう。
間近にいたからこそ聞こえた米屋は、浮かべていた笑みをそのままに思考を走らせた。短時間ではあるが、刃は交えた。オプショントリガーも躱された。それだけあれば、相手の力量を推し量れる。
そうした上で、どう戦うか。
「そこか」
湊が後方に飛び退きながら左手で握った銃を右方向に乱射。米屋がいるのは正面で、出水と三輪は湊から見て左奥。右には誰もいない。しかし米屋はその弾に目を見開いた。変化弾や追尾弾であれば視界の端、あるいはその外から飛来してくる。
それを警戒して
「っ!?」
放たれた弾丸が、その場にいないはずの人間に向けて射たれたものだからだ。その弾はシールドによって防がれているが、狙いは相手を落とすことではないから十分な成果だろう。
「オペレーターがいないと踏んでたんだけどな~」
米屋の言葉に合わせて隠れていた人物が姿を現す。光学迷彩と同じ効果で、相手の視界から姿を消すトリガーことカメレオン。それを歌川が解除した。
カメレオンの弱点は、オペレーターからはその位置を把握されるということ。弱点と言っても、分かるのは位置だけであるため、相手の体勢や仕掛けようとしている攻撃などはわからない。もう1つの弱点は、他のトリガーとの併用ができないこと。
そちらはさておき、米屋の言う通り歌川もそこを狙っていた。遅れて単独でやってきた湊には、オペレーターがいないのではないかという点を。
加えて言うなれば、湊の眼帯は右目にある。視界の右側は遮られていられる。そこも突いての行動だったわけだ。
実際、彼らの読み自体は当たっている。湊にオペレーターはいない。それでも対応できるのは、湊が迅と同じでオペレーターの支援が無くとも支障が出にくい人間だからだ。
「なんとなくだよ。経験の差かな」
「言うね」
米屋と歌川が構え直し、湊と向き合う。
「彼すごいですね」
「迅が好きにさせるのも頷けるな」
嵐山隊にはオペレーターの綾辻がいる。嵐山隊は彼女の助言のもと湊に援護射撃するつもりでいた。戦闘員が4人いて、対する出水たちは3人。狙撃手の佐鳥が離れているにしても、湊がいることで結局人数有利。それにより余裕が生まれており、カメレオンで奇襲しようとしていた歌川を、時枝が止めるつもりだったのだ。いらぬ世話となったが。
「……落とすか。嵐山隊援護よろしく」
「任された」
味方とはいえ、初対面同士での連携は難しい。それならばいっそ、目的だけ統一しといて、それ以外はそれぞれのやり方に任せた方が動けるものだ。だからお人好しの塊たる嵐山も、最初から湊との連携を考えていない。必要な時にだけ手を貸せばいいと考え、隊員もそれに従っている。
嵐山隊の強みは、狙撃手の佐鳥以外がそれぞれ前衛も中衛もこなせること。3人の万能手が状況に応じて役割を変え、鋭い連携を取れることにある。
その事を湊は聞き及んでいるし、対面して人柄を察したからこそ雑に丸投げした。
「ん?」
湊がその場で真上に跳躍する。生身よりも遥かに高い身体能力を誇るトリオン体でなら、2階程度の高さにまで跳ぶことも可能だ。
その意図を出水たちは測れなかった。嵐山隊に援護を任せたとしても、真上に跳ぶメリットが思いつかないから。射手の出水と銃トリガーを持つ三輪がこの場にいるなら尚更だ。蜂の巣にされたっておかしくない。
「あれは……まさか」
◇
「小南、航はまだ上か?」
「出かけたわよ」
「……今日にでも顔合わせさせるつもりだったんだけどな」
「急ぐ理由もないんだしいいんじゃない?」
「烏丸先輩。航さんというのは?」
支部にいる者たちで食卓を囲みながら、三雲は自分の師たる烏丸に問いかけた。その名前自体は何度か耳にしたが、当の本人にはまだ会っていないからだ。
「一応この支部所属の人だ。年は小南先輩と同い年だから、今高2」
「ちなみにこなみのフィアンセだぞ」
「え!?」
「あ、だから小南さんは指輪をつけてるんですね。……あれ? でも高校2年生なら……」
衝撃のあまり口を開けて固まる三雲の隣りで、雨取は初日から気になっていたことに納得がいったらしい。しかし日本の法律のことを思い出し、年齢を考えると
「右手の薬指につけるはず、でしょ?」
「はい」
後輩の疑問を汲み取った小南が、つけている指輪を見ながら答える。近界で生まれ、そちらで育った空閑はカレーを食べながら耳を傾けている。
「いいのよこっちで。航がつけてくれたのがこっちだったから」
その頃を懐かしむように、小南は指輪をそっと撫でた。
「あと1年だしね」
長かった。自身は結婚できる年齢になっても、男は18歳にならないと結婚できないから。待ち遠しく、残りのあと1年も、やっぱり長く感じている。
それは叶えたい約束で。叶えなければいけない約束。
完全な形では叶わないとしても、あの頃の約束の1つなのだから。
「変な決まりがあるんだな~。んで、
「はっ! そうだった。そこを聞きたいんでした」
復帰した三雲に苦笑しつつ、小南は烏丸に視線を飛ばした。三雲が烏丸に投げた質問の延長なのだから、お前が答えるんだとその目で伝える。
それを遮ったのは木崎だった。玉狛支部に来てから何年も経っているわけじゃない烏丸に答えさせるのも、少し筋が違うだろうと思って。
「航のやつはボーダーに所属してるわけじゃない」
「え!?」
「ほう?」
「旧ボーダーでは隊員だったんだが、現ボーダーの姿勢が好きじゃないようでな」
「でも4年前の侵攻の時は戦ってたのよ」
何もしないわけじゃないのだと、一応の擁護を小南が挟む。
「あの時の撃墜数だと、誰も数えてたわけじゃないけどトップ3には入ってたんじゃないかしら? 1位は間違いなく忍田さんだけど」
「ってことは、強い方なんですね」
「あたしよか強いわよ」
「小南先輩よりですか!?」
「へ~。ぜひ手合わせしてほしいね」
「ふふん当然よ。なんたってあたしの彼氏なんだから」
単純に考えたほうが納得もいくだろう。直結する理由ではないにしても、小南は「弱い奴は嫌い」と明言している。そこで考えてしまえば、彼氏が小南より強いというのも頷きやすい。
彼氏のちょっとした自慢ができて機嫌をよくしたのか、小南はアホ毛をぴこぴこ動かしながら控えめな胸を張る。その胸中では、複雑な気持ちを抱いていても。
「宇佐美さんも会ったことあるんですか?」
「もちろん。普通に良い人だよ。ムードメーカーだし、人に優しくて気の利く人だし。モテるタイプだね。去年のバレンタインとか烏丸くんと並んでチョコ多かったし」
「待って。それあたし聞いてないんだけど?」
「小南先輩に知られたら怒られるからって言って男性陣に振り分けてましたからね」
そのおかげで烏丸が過去最多数のチョコを家に持ち帰ることになったのだが、きょうだいからは大好評だったらしい。湊はチョコの人と呼ばれるようになったとか。
ちなみに貰ったのものはちゃんと一口ずつ食べている。
「おさむたちもわたるとなかよくなれるとおもうぞ」
「そうそう。とりまるはバイトも多いから、代わりに修に指導することもあるだろうし」
「それはそれでありがたいですが……」
当の烏丸自身はその事についてどう思うのか。修は烏丸に視線を向けるも、烏丸自身特に気にした様子は無さそうだ。
「あの人は器用だからな」
付き合いは比較的短い方だが、信頼している相手だ。
「なんたってあの人は──」
◇
湊たちが交戦する戦域から離れた場所で、もう1つの戦いが行われている。予知のサイドエフェクトを持ち、黒トリガーを所有する実力派エリートこと迅悠一。彼と対峙するのが太刀川、風間、菊地原。さらには高所で射線を確保している狙撃手の奈良坂と古寺。もう1人の狙撃手こと当真は、湊たちの方に向かっている最中だ。
予知のサイドエフェクトを持つ迅が相手となると、人数差の優劣がつきにくい。行動は先に把握され、最適解で対応されるからだ。狙撃も同様で当たらない。
しかし行動の制限はできる。狙撃によって仕留めるのではなく、狙撃によって攻撃手たちを援護する。奈良坂は割り切ってそれに徹し、古寺にもそうさせている。
狙撃を当ててなんぼだと思っている当真は、それが嫌で隣の戦域に向かったわけだが。
「航の援護は手厚いな」
離れた場所から狙撃する奈良坂たちには、迅の言葉は聞こえない。しかしスコープ越しにその顔を見ることは可能だ。
スコープの中にいる迅が、隙を見つけてこちらに視線を向ける。予知者相手に隠密など不可能だと分かっていても、視線が合うのは心地よくはない。
こちらを見た迅が意味ありげに笑う。薄っすらと、寒気を覚えさせるような笑み。
その意味は、直後にわかった。
その笑みの意味を勘違いしていたこともわからされた。
「え……?」
古寺の溢した声を、初め奈良坂は聞き流した。狙撃手としての腕前、戦術への理解は認めているところだが、古寺は少々アドリブに弱い。想定外のことがあると気を乱すことがある隊員だ。
同じ隊でもあることから、それに慣れている奈良坂は、古寺のその声の理由がまた迅にあると思った。不敵にこちらを見やって笑ったからだと。
[章平くん
それが違ったと思い知らされたのは、珍しく驚いた様子を見せるオペレーターの声によってだった。
耳を疑いつつ、数秒だけ迅から視線を外して隣を見た。そこにいたはずの仲間はたしかにおらず、緊急脱出した軌跡が本部へと伸びている。
[わりぃ!
なぜ。その疑問の答えはすぐに消えた。
しかしにわかには信じ難いことだ。隣の戦域にいる狙撃手は佐鳥だけで。佐鳥の居場所からこちらの居場所は狙い撃てない。たとえ射線を変えたとしても、佐鳥の狙撃の最長距離を超えているはずなのだ。
[佐鳥ではない。湊航という男だ]
今度は三輪から。歯噛みしてそうな、重々しい口調で。
誰がやったのか。それが割れてももはやどうでもいい。驚異的なのは、初見で対応が遅れたとしても、三輪たちと対峙している状況で、僅かな時間のみで精確な狙撃をしてきたこと。その技量。
もう狙撃はさせないように米屋たちが距離を詰めるだろう。だからといって、狙撃箇所を変えないわけにはいかない。
一発の狙撃により、1人脱落させた上でもう1人の攻撃の手も一時的に止めさせる。
それは、狙撃手として理想な戦果の形だった。
◇
狙撃した直後に武器を狙撃銃から刀へと戻す。真下から伸びてくる斬撃。旋空によって伸ばされたそれを防ぐために。
「おいおい今たしかに狙撃銃だったろ」
「玉狛のワンオフトリガーの1つ、か」
狙撃銃を消して刀を生成したのではない。本当に狙撃銃から刀へと形が変わったのだ。それも時間をかけていない。1秒もあれば終わっているし、変形中も物質としての形はあるらしい。だから斬撃を防がれた。
といっても多少は斬れてるようで、湊の横腹から薄っすらとトリオンが漏れている。
「小南は双月。レイジさんは枠拡張。京介はあのずっこいやつと来て、こいつは変形トリガーか」
「その分枠は食うけどな」
少し不満そうに言う湊に、米屋はやれやれと肩をすくめた。
「コスパとしちゃ十分な戦果出してんだろ」
湊が何か言う前に歌川が言葉を挟む。賞賛の篭った声色だ。
「
「……全範囲対応できなかったら、守りたいもんも守れないだろ」
実感の篭ったその言葉に、誰も返す言葉がなかった。それほどまでに、彼の言葉には重みがあった。
風間は"旧ボーダー"の人間と言った。なるほどそれなら、現ボーダーしか知らない者たちには知り得ない過去があるのだろう。
[……こ、古寺くん
どんな会話が行われているのかも露知らず、湊の脳へと声をかけたのは一度断ったはずの志岐だった。
湊は意外そうに内心で驚くも、米屋たちに悟られないために表情を変えずにいる。
[ありがとう。でもどうして?]
[あとで知られたら……那須先輩に何か言われそうで]
[那須ってそういうタイプだっけ?]
[……湊先輩が知らない一面だって、あるんですよ]
それはあるだろうと納得する。誰しも相手の全てなんて知らないし、自分も小南に見せたくない面があるから。逆もまたあるだろうと思っている。
けどそれはそれとして、彼の中にある那須の印象からは、想像がつかないらしい。
[ところであの、この状況はいったい……]
[たぶん知らないほうが良かったやつ。巻き込んでごめん]
[うわっ……]
小南経由で怒ってもらおうと志岐は静かに決めた。
今も嵐山隊が中距離戦を繰り広げ、湊もそれに合わせて後退している。彼のトリガーの変形機能の中に、もちろん中距離戦用のものもあるのだ。それが無くとも変化弾を装備している。
「さっきの狙撃すごいな。どうやって場所を割り出したんだ? 迅から?」
隣に並んだことで、嵐山が湊へと声をかけた。その手の攻撃はやめず、その目も出水たちに向けたままで。彼らは今、射線を切るために家の塀へと移動している。それを見届けると、嵐山も一旦手を止めて湊を見た。
嵐山隊は捨てられた家であろうと、誰かが過ごした家を傷つけたがらない。そこを使われてしまうと、位置を変えて相手の動きを待つ態勢に入る。
「いえ勘です」
「勘? そんなもので狙撃したんですか?」
わざわざ相手に隙を晒してまでやった行動。結果こそ出してはいるが、それが外れたら元も子もない。そんなものに付き合わされたということに、木虎は目を細めた。
「おれの勘はよく当たるからな」
「そういうサイドエフェクトなのか」
「当たりです。迅の下位互換とでも思っておいてください」
「いやいや下位互換とは思わないよ。君の強みの1つなんだから」
「あ、もしかして歌川くんの場所がわかったのも」
そのサイドエフェクトの力があったからかと時枝は納得し、勘なのだからわかったというのは少し違うかと自ら訂正する。
「迅の方は無視しても問題なくなったんで、あとはこっちっすね」
「そうだな」
前方から飛来する多くの弾。出水の作った変化弾が、軌道を何度も変えながら広範囲に降り注ぐ。変化弾の強みは遮蔽物を無視できること。リアルタイムで軌道を決めて撃てる出水なら、銃手の射線を切りながら一方的に攻撃を通せる。
奇襲ではなく、相手を動かすための範囲攻撃。各々回避行動を取るが、隊としての行動を取る嵐山隊と、単独で行動する湊とでは回避の方向に少しのズレが生じる。
それを狙っていたのだろう。第二陣として放たれたのはメテオラで、それは嵐山隊と湊の間で着弾。爆破による一時的な煙幕は、縦一列に丁寧に着弾していくことカーテンのように長く伸びた。
「浮いた駒からってのは定石だな」
湊を脅威と認めた。単独で落とせる相手は少ないだろうと判断した。しかしボーダー隊員たちは、現ボーダーの人間たちは連携して相手を倒す。チームで戦うことを前提とする。
そんな彼らから見れば、単独で動く湊は浮きやすい駒だ。そして放置してはいけない駒であることもつい先程知った。ならば、可及的速やかに連携して落とせばいい。
最後の一撃に繋げればいい。
[志岐]
[歌川くんが回り込んでます。たぶんカメレオンでの奇襲です。彼は通常弾なども構成に入れてます]
[ありがとう。それと綾辻に連絡して]
煙の方角からは、出水の変化弾の
変化弾を凌ぎ切った直後。タイミングを狙っていた三輪が
シールドを継続して張っていれば、通常の弾なら防げるタイミングだ。直感でシールドは意味ないと悟りつつ、しかし適切な防御は間に合わない。不可避のそれに、湊は一応体を退けつつ左手を犠牲にした。
「おもた!」
左手で作った変化弾は、米屋と歌川への牽制のために分けて使う。攻撃の手と接近の手が止まるのと同時に、湊は自ら左腕を斬った。
トリオンが漏れるが、重りがあるよりはいいという判断だ。
それも束の間、米屋と歌川が前後から挟む形で攻撃を仕掛ける。
「うはっ! やっぱこれも避けんのかよ!」
「さすがは玉狛だな」
体を完全に仰け反らせる。膝を曲げ、もはや倒れたと言っていい低さにまで体を下げた。
一度は避けても次に繋がらない。体が完全に倒れないように、右手の刀を短刀に変えて地面に刺しているとしても。
そんな避け方に米屋も歌川も手を止めない。続く第二撃には、薄くなった煙から飛び出した嵐山隊が対処した。
木虎が歌川の刃を受け止め、時枝が米屋の槍を受け止める。
今の湊の姿勢と米屋たちとの距離のせいで、時枝は横から手を伸ばすような形。木虎は湊の頭を跨いでいる。
(社会的に死んだ)
自分のせいではないにしても、女子を下から覗く形なのは事実だ。湊は目を閉じ、背中に回していた肘から先を落とした左腕で変化弾を作った。
完全なる死角。
自分の体と地面の間にある僅かな空間に弾を走らせる。
「陽介!」
離れた位置にいる三輪と出水には、それがはっきりと見えた。
隊長の声で察した米屋だったが、湊もそれ前提で軌道を決めていた。そして時枝もまた追撃しないほど甘くない。得物をスコーピオンからアサルトライフルにすぐさま変えている。
嵐山を三輪に任せた出水が援護射撃を入れる。トリオンの多い出水なら、弾を半分ずつ使っても十分相手を落とせる。狙いは当然2人。
(ここだな)
湊の放った変化弾が米屋を貫く。下からの攻撃。球ヒュンものである。作戦室へと戻された米屋はベッドの上で正座した。
この一連の攻防で落ちたのは、3人だ。
1人目は米屋。
その直後に、出水の狙いが湊と木虎であることを感づいた時枝が、2人のためにシールドを張った。
それを見逃すほど、狙撃手ランク1位の当真は優しくない。
2人のためにシールドを張った時枝が当真によって撃ち抜かれた。
そして、
まるで狙撃の瞬間を待っていたと言わんばかりに。
「時枝先輩!?」
「なっ!」
時枝の脱落に驚く木虎の声と、当真の脱落に驚く出水の声は同時だった。
時枝が脱落したことで、出水の弾を防ぐはずだったシールドも消えている。それをすかさず嵐山が湊へとシールドを張り、嵐山ならそうするだろうと思っていた湊が木虎にシールドを張る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。あとそこから動いてくれ。おれが動けん」
「……」
「ぐぇ!」
木虎が無言で湊の顔面を踏みつけてから移動。歌川への牽制射撃も忘れない。
「ご褒美とか言うタイプ?」
「言わねぇよ!」
揶揄う出水に噛みつきながら起き上がる。小南ならどうだろうとちょっと考えたが、小南相手でもご褒美とは思わないなと自分のノーマルさに安心した。
[あちらは終わりました]
[ならこっちも終わりかな]
「迅の方は勝ったみたいだな」
湊が志岐と話している横で、嵐山が全員に言うように声を発した。全員を倒すまで戦う必要性を感じていないのだろう。こちらも終わりにしようと交渉を始めている。
「……まだだ!」
「もうやめとけよ」
「っ!」
三輪が構えた銃に湊が短刀を投げ刺す。
たしかに迅の方は戦闘が終わった。しかしこちらでは、まだ出水も三輪も歌川も五体満足だ。しかしそれは嵐山隊も同じ。時枝が落とされ、知らぬ間に嵐山が鉛弾を食らっているとしても、湊がいる上に迅が駆けつけることも可能だ。
趨勢は決した。
「仕事熱心なのはいいけど、引くとき引かないと長生きしないぞ」
「何を偉そうに。近界民を擁護しようとするお前が言えたことか! あいつらに慈悲などない」
「知ってる。よく知ってるさ」
被せて遮った。苛立ちを感じさせる声で。
その目を見て三輪は理解する。
「……それでいてなぜお前は近界民を擁護できる!」
「それは……お前より近界民のことを知ってるからな」
近界の世界のことを、多くの人よりは知っている。遠征部隊よりも。
けれど、それだけではない。相手によっては、心の底にある憎しみに駆られもするだろう。己の勘はそう告げている。
今そうならないのは、彼女のおかげだ。
「小南が久々に楽しそうなんだよ」
「……は?」
「ボーダーのランク戦に参加できなくなってからは、少し退屈そうだった。それが今は楽しそうなんだ。その時間が増えたのは、新人が来たから。だから、それが奪われる可能性があるならおれはそれを排除する」
「あ、桐絵の彼氏って君か!」
その場の空気を一新するように、空気を読んだ上で空気を読まない行動をした嵐山に視線が集まる。何言ってんだこいつ、と。
湊だけは、彼女のことを下の名前で呼んでいることに反応しているが。
「実は桐絵の従兄妹でさ、彼氏ができたってことだけは聞いてたんだけど、名前とかは知らなくて。そうか君だったのか」
「お兄さま!?」
「いや従兄妹だって」
完全に空気は和やかなものだ。出水と歌川も力が抜けたようで交戦の意思はない。それぞれの隊長が落とされたのもあるだろう。
三輪も、歯を食いしばってからオペレーターの進言を聞き入れた。
[ふぅ。……あたしは落ちますね。お疲れ様です]
[お疲れ様。本当にありがとう]
[いえ、ほとんど何もしてないですけど]
[いやいや、相手のトリガー構成を教えてくれたのとか助かったよ]
[それならよかったです。では]
[うん]
志岐との通信を終える。なんで家にいながらオペレーターの仕事ができるのか。それについての追及は野暮というもの。
それを待っていたわけではないだろうが、タイミングよく木虎が湊に話しかける。どこか投げやりに。冷徹に。やはり先程の一件がいけなかったらしい。
「綾辻先輩から伝言です。明日ちゃんと話してもらうから、だそうです」
「……はい」
「湊くんうちのオペレーターからも伝言だ」
「どなた?」
「ああすまない。オレは歌川遼。うちの隊のオペレーターは、三上歌歩だ」
その名前を聞いて湊がピクッと反応する。それを見て歌川は、やはり何かあるのかと確信した。
だがそこは聞かない。目的は三上の言葉を伝えることにあるから。
実は三上、綾辻と同様に湊が現場に現れたのを知って動揺していた。いや、和菓子仲間程度の綾辻よりも、その動揺は大きかったのだろう。
何かあると察し、風間の許可の下歌川はこちら側の戦闘に参加した。少し控えめな立ち回りも、落とされないことを優先し、こうして三上と湊の中継役をできるようにするためだ。
「予定を合わせて、
「……そう、だな。うん。ちょっと端末貸して」
歌川の端末を借り、メモ機能を使って数字を打ち込んでいく。
それが終わると湊は歌川に端末を返し、本部の方へと足を進めた。行く場所があるから。
「それおれの連絡先」
見向きもせず、けれど態度とは裏腹にその声は優しく、同時に幼い印象さえ与えるほど柔らかい。
「
◇
本部へと急行した湊を出迎えたのは、一足先に到着していた迅だ。彼もまた用事があって来たのだが、本部の人間ではない湊を中に入れるには同行させる他ない。
合流を果たし、向かうのは同じ場所。目的は全く別だ。
その部屋の前で湊はしばらく時間を潰し、迅に呼ばれるとその中へ。入れ替わるように、迅と上層部の人間は部屋を出た。人払いは、長たる城戸正宗の指示だ。
「……久しぶり、父さん」
「……」
まだ父と呼ぶ少年に、城戸は言葉を返さない。
わざわざ本部に来た目的が、
少年もまた小さく息を吐き、意識を変える。
「おれはあの頃のボーダーの姿勢が好きだ」
「……お前はまだ、
「っ!! それはどっちさ……!」
ひと息に膨らむ怒りを、けれど湊は瞳を伏せて沈めていく。喧嘩をしに来たのではないから。
閉じた瞳を開け、右目の眼帯に左手で触れる。生身であろうとトリオン体であろうと、その眼帯は変わらない。
それはつまり、右目の視力を奪われていることの証左だ。
けれどその目はまだ生きている。
まだ見ている。
暖かな光を。かけがえのない景色を。色褪せぬ記憶を。
「この目では見えるんだよ。あの頃が」
城戸は何も答えない。
その右目の見るものに、たとえ自分がいると知っていても。
「近界民は憎いよ。すべてを壊した国はね。でも、橋渡しって在り方は今も好きで捨てたくない」
その精神は玉狛支部が受け継いでいる。だから湊も、玉狛支部にいる。いや、支部がそこでなかったら別か。
湊は、あそこに玉狛支部があるから玉狛支部にいるだけだ。
「あそこはおれの家だ。あそこにいた人たちも、今いる人たちも"家族"なんだ」
命を落とした者たちも、去った者も、本部にいる者も。
湊航にとっては、その誰もが家族なのだ。
「だから、家族に手を出すのなら、たとえそれが父さんでも許さない」
2度"家族"を喪った。
もう喪いたくないと思うのは当然のこと。
それだけを告げたかったのだろう。湊は、城戸の言葉を待たずに踵を返した。それこそ、彼の家に帰るために。
「許さない、か」
閉じた扉の向こうを見る。
4年ぶりに再会した息子を。
許さないと、たとえ父親と慕う人間が相手でも、彼女がいる"家族"を選ぶとそう言った息子を。
甘いなと思った。決意しているようで、実際そんなことが起きれば戦いもするだろうが。それでも、許さないと言った相手を、4年前に決別したような相手を未だに「父さん」と呼ぶのだから。
知っている。よく知っている。湊航という少年がどういう人間なのかを。
城戸は目を閉じた。
程よいクッション性の椅子の背凭れに体を預けながら。
「……大きくなったな」
記憶の中にあったのは、成長期に入ったばかりの息子だから。
城戸正宗。
好きなものは、ブラックコーヒー。古い映画。
そして──家族。
夜も遅い時間。戦闘も終わりすぐに帰れば、新人と顔合わせもできただろう。けれど本部に寄っていたから時間は遅くなった。支部で生活することになる空閑遊真となら会えるだろうが、残りの2人とは後日になる。
何でもかんでも後回しにしちゃってるなとひとりごちりながら、少しばかり気の進まない帰宅をする。
遅くなり過ぎたから。小南に何を言われるのか怖い。その姿勢は、母親に叱れると思いながら帰宅する子供のようだ。
「おかえり航」
「!! こなみ……」
そんな件の相手と早速対面し、湊はその場で足が止まった。
「何よ。鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔して」
「いや……まさか外で待ってるとは思ってなかったから」
そう。小南がいるのは支部の外である。真冬にも拘わらず、厚手の上着を着ているとはいえ。
「寒いだろ」
「別に」
そんなはずはない。彼女の鼻が赤くなっていて、思わず包んだ手は冷えている。いったいいつから……。そう聞くよりも先に、小南が言葉を続ける。
「航をずっと待ってたあの時に比べたら全然よ」
「っ…………」
帰ってこないんじゃないかと焦って何度も泣いた。帰ってくるその日まで。帰ってきたその日であっても、やっぱり泣いたけど。
その頃の寒さに比べたら、心の寒さに比べたら。この真冬は比べるまでもないほどに、寒くないのだろう。
「今度はちゃんと帰ってきたわね」
「……うん」
肩に手を置かれた。体を預けるように体重がかかって、それは重くもないものだったけれど、彼女が至近距離にいると焦ってしまう。
今も昔も、小南からのアプローチには弱いようだ。
「口は大きくなってから」
背伸びをした彼女が、頬に柔らかさを感じさせる。
あの時と同じことを言って。
その愛らしさについ強く抱き締めてしまって。
「ちょっ!?」
焦る彼女の心音が煩いくらい高まるのを聞いて。
それはお互い様であることを忘れる。
「……中に入りましょ。航待ってたから、あたしもまだカレー食べてないし」
「それは……ほんとごめん」
体を離し、くすりと笑う彼女と手を触れ合わせる。
指を絡めて。離れないように握る。
「航」
「ん?」
星が歌うように奏でられる声で名を呼ばれる。
歩幅を合わせて向かうのは、当然すぐそこにある
「おかえりなさい」
何よりも美しい笑顔に。
「ただいま」
帰れたことを心から実感した。