呪術廻戦 and U 作:来宵
意識が浮上して、私は目を開ける。
視界に映ったのは見慣れた白い天井ではなく、そもそも視界自体霞んでいてよく見えない。光が異常に眩しく感じる。
すぐに瞼を閉じて、瞳を突き刺す光量に耐えた。ボワンボワンと周囲からの音が耳に届く。異常事態に周囲の様子を探ろうにも、四肢も満足に動かせない。
これはいよいよ本格的に詰んだか——と諦めの境地に立ったところで。
私は思いっきり尻を叩かれて思わず鳴いた。
「おぎゃあっ!!」
……はい?
◆
私はオラクル船団に所属するアークス。その集団に二人しかいない役職、
可愛い相方のマトイと切磋琢磨しながら宇宙を渡り、宇宙を脅かすダーカーの殲滅や様々な惑星に住まう原生住民との交流をしながら、日々楽しく任務に明け暮れていたはずだ。
はずなのに……。
結論から言おう、私はどうやら
この状態になるまでの記憶などなく、気がついたら冒頭の状況になっていた。
最初は記憶を移植する緊急事態にでもなったのか、手違いで生体パーツ開発のモルモットにされているのか、はたまた頭のおかしいマッドサイエンティストの冒涜的な研究の材料にされているのかと思ったが(二番目と三番目に大して違いがないな)、どうやらどれにも当てはまっていなかったらしい。
生まれたばかりの未熟な感覚ながらも周囲から必死に得た情報でここは地球だと判明した。ただし、マザーやPSO2、ヒツギ達が存在していない別の世界線のようだが。
生後数ヶ月でそれを断言できるほどの情報収集ができたのはなぜか。
それは単に私がいろんな大人の手に渡り、いろんな施設をたらい回しにされたからだ。
はい。私、実の両親に気味悪がられて捨てられました。
道端ポイではなく、児童養護施設に預けられたのは良いものの、どこにも馴染めないので大人達にあっちこっちにたらい回しで荷物のごとく運送されています。
言葉もしゃべれない赤子なのに馴染めないなら、それは中身が問題なのではなく外見の問題になる。
どうやら私はアークス時代の記憶だけではなく、当時の容姿までも引きずって生まれてしまったらしいのだ。
外国人の先祖も持たない東洋人の両親から生まれたとは思えないような、似ても似つかぬ赤子は夫婦仲の破綻原因になるだけでなく、さぞや不気味だっただろう。
まず肌。雪のように薄い色素はまるで石膏ようになめらかで、いっそ血が通っているか怪しいほど血色がない。まさにキャストパーツの生体部品のよう!
次に眼。生まれてから瞼が完全に開くまで誰も気付いていなかったが、どうやらカーマイン色らしい。
最後の記憶が正しければ、終の女神シバの瞳を模したシバアイなるものに眼球をカスタマイズしていたので、もしかしたら瞳孔が白い異形の眼になっているかも……。
とはいえ、私の記憶の中にある地球人はヒツギやコオリ、一連の戦いで出会った者たちくらいで、彼らも随分と色鮮やかな虹彩をしていた気がするのだが……。
鏡がないのでまだ自分では確認出来ていないが、この様子だとまだ産毛しかないだろう髪の毛も象牙色のような白髪にカーマイン色が混じっているのだろう。
アークスのエステを侮ることなかれ。髪色どころか、肌色顔の造形、骨格さえも瞬時にカスタマイズできる技術である。
生身の肉体を持つ者でさえ凄まじい自由度で容姿を変えられるのだ。キャスト種族であった私はなおさら限度がない。
日々発売される可愛い戦闘服を着こなすために、表面上は生身と変わらない姿で過ごしていた。なかなかに美少女をしていたと思う。
故に容姿を引き継いだ今世も輝くような美貌の赤子のはずなのだが……。
なんで誰も私の世話をまともにしないんだ!!
あまりに放置されるので、本当の赤子よろしく、腹が減れば泣き、オムツを替えて欲しければ泣き、とにかくなにかしてもらいたい時は泣き、を繰り返した。
ギャン泣きしたことで最低限の世話はされるものの、逆に必要ない時以外は泣かない赤子はそれはそれで恐ろしいらしい。それを知ったのは走り回れるようになって大人の影口を盗み聞きしてしまった時だった。
解せぬ。
◆
私が生まれ落ちた国、日本は義務教育と言って子供が一定の年頃になったら学校で勉学を習うらしい。
とはいえ、純粋な子供でもない私は歩き回れるようになって早々、独学で勉強を進めて文字を読めるようにした。短い足でせっせと日々図書館に通い、知識を集める。
そうして知ったのは、私が日本の都市である東京都の郊外に住んでいること、そしてヒツギたちが生きている時代よりも数十年単位で早く生まれていたことだった。
彼女たちは生まれてさえいない。私がいるこの世界線でも生まれるかも不明だが、いつか探し出して会いに行ってみるのも一興か。
と、集中して読書している私の視界の隅で、不可解な生き物が蠢いた。
うんざりとした気持ちでそちらを見やる。奇妙な羽を背中に生やした、なんとも不気味な形をした小さな化物がいた。
私が見ていることに気が付いたのか、それと目があった瞬間、ビュンと顔面を狙って跳んでくる。私が容赦なく机に叩きつけると、手に伝わる潰れた感触とともに血と肉片が飛び散った。
「……ちっ」
自分でやっておいて最悪な気分である。
この化物はダーカーのようにすぐに消えないくせに、ダーカーのような不穏な気配がする。
見れるからには触れるようなのでこうして叩き潰すことも可能だが、虫のようななりの割には血肉があるので片付けが面倒だ。
肉片をできるだけかき集めて置いてあるゴミ箱に入れ、持参したハンカチで手と汚れた本を
おかげで読書をする気分ではなくなったので、少し汚れが染み付いたままの本を本棚に戻した。
実に適当な後処理だがこの化物は私にしか見えないので、見るからに生々しい肉片が捨てられていようが、多少机に血糊が残っていようが誰にも気付かれやしない。
時間は少しかかるが死んだ化物の体は最終的に消えるのも確認しているし、あの本の染みもそのうち消えるだろう。
流石に気持ちわるいので手は洗うが。
時計を見やればそろそろ施設の門限が近い。子供の足で歩けば確実に間に合わないだろう。
今日は少し急ぐか。
図書館の外に出て人通りのない裏路地に入る。
前世のフォトンを扱う感覚で体にエネルギーを巡り渡らせて、身体強化をして走り出した。人間離れした速度で駆け抜け、時には障害物を飛び越える。
もっと暗くなれば屋根の上を走れるので直線で帰れるのだが、いくら都市郊外とはいえ薄暗いうちは人目がある。これ以上一般から逸脱されたところを目撃されたら今いる施設も追い出されかねない。
この世にエーテルもフォトンも、ましてやダーカー因子も感じられないのに(単に人間の私が探知できないだけかもしれないが)、不思議なことにフォトンと同じように扱える力が存在していた。
その力の元となるものは、大概どこにもある不穏なドロドロした無形の何かで、私はそれをダーカー因子のように取り込んで中和する力を持っているようだった。
ただ中和するだけなら空気清浄機に徹するしかないのだが、この体には別の能力も備わっていたらしい。
中和した謎のドロドロを、私が扱いやすい謎の力に変換する、という謎しかない能力だ。
変換したあとのエネルギーはフォトンとほとんど同じ扱いができるのに、フォトンともエーテルとも違う力。
フォトンが無味のミネラルウォーター、エーテルが幻想みたいな甘い味のジュースとするなら、この謎の力は少し刺激的な炭酸水みたいだ。
味は違うけど全部液体だから扱い方は同じ感覚。
炭酸だから一度に大量に使おうとすると微妙に酷い目に合うけどな!
具体的には頭がちょっと痛くなる。試しにしばらく我慢して使い続けたら鼻血出たし。脳が炭酸の刺激で処理落ちしているのだろうか?
ちなみに、ダーカー因子はカビみたいに舞い散る霧っぽくて、この世界に漂うドロドロは泥水みたいと思っている。
それを私というフィルターを通して綺麗にして、残った液体である炭酸水エネルギー(仮)を操ってアークス時代と同じ動作を再現できているようだ。
余談だが、アークスが各自のフォトンカラーを持つように、私の操る炭酸水エネルギー(仮)は指向性を持たせて活性化させるとカーマイン色に発光するようだ。
理解できなくて良いぞ、私は感覚派だからな。
先ほど殺した虫の化物もそんなドロドロの泥水が自然に固まって出来た泥人形のようなものなのだが、こいつらは放っておけばどんどん成長して人を襲うようになる。
確かにそこに存在しているのに、知覚できない人間は簡単に餌食になってしまう。
まぁ、普通に生活していれば遭遇するのは先ほどのほとんど無害な小物ばかりだし、見ていると気付かれなければ襲っても来ない。
(人間を積極的に襲う大物が出るとすれば……)
随分と人通りが少ない道を選んでいると空家が多い区画に入った。その中で一段と古めかしい一つの廃墟ビルがある。三階程度のそれは特に大きくもないが長年放置されているのか老朽化が進んでいるようだ。
敷地の前を通るついでに中を覗き見る。
(……ああ、居た)
ビルの入口、かろうじて建物の中に収まっているが、じっと外を見つめる異形。二本足で立ってはいるものの決して人間にあらず。
じっと観察すれば、見られていると気付いたそれは、あっさりと入口をすり抜けてこちらに走り出した。ギョロギョロと体中にある無数の目を見開き、子供など一呑みできそうな巨大な口から涎を撒き散らかしている。聞くに耐えない謎の叫声にピクリと顔が歪みそうになるのを制して、掌をそれに向ける。
巨口が後僅かで指先に食らいつく、その寸前——発射された気弾が直撃し、異形は吹き飛んだ。
「む、これでは殺しきれないか」
アークスのクラス・ヒーローが扱う、エネルギー消耗が限りなく零の初歩的な攻撃法。
連続で五連射された気弾を十分に引きつけた上で体内に直接叩き込んだのに、流石にこれだけ強い個体はこの程度では倒せないようだ。
前世ならいざ知らず、この体はまだまだ弱い。炭酸系エネルギー(仮)はフォトンと同じように扱うにはまだ調整と研究が必要であるし、何より一種の増幅器である武器もないのでは大した威力が出ないのも仕方がないか。
ピクピクと痙攣しているソレに近付きながら、今度は気弾をすぐに放たず、掌に数秒留めてチャージする。今の練度では二段階チャージは厳しいようだ。
仕方がないのでもう片手にも気弾をチャージして同時に発射した。
これだけ近い的に外すはずもなく直撃、衝撃で肉片があたりに撒き散らかされる。
それらをげんなりした気分で避けた。
なんでこいつらの散り際は尽くこんなに汚いんだ……もっとダーカーのように跡形もなく消え失せれば良いものを。
「いや、出来るんじゃないか……?」
こいつらは泥人形だ。泥水を中和出来る私なら、泥人形そのものを中和すれば良いのでは?
物は試しだ。日本のことわざにも思い立ったが吉日ってのがある。早速やってみようではないか。
手始めに小さめの肉片に触れてみる。中和するつもりでいると、少しずつその体積が削れていく。
(ビンゴ!)
さすがに泥水のように簡単とはいかないが、練習すれば同じ速度で中和できそうだ。泥水と同じように炭酸水エネルギー(仮)にも変換できたし。
回復速度としては前世のフォトンが自然回復する速度と同じくらいか。
私の体が保有できる最大上限が低いので、溢れる分は泥水を中和するだけになるが、まばらに点在する泥水の溜まり場を探し回って補給するよりよっぽど効率が良い。
思ったよりこの方法ってば画期的ではないか?
汚物は処理できるし、私も炭酸水エネルギー(仮)を回復できる。
おお、良いね!
これで思う存分鍛錬できるし、エネルギー切れはすぐに補給できて効率も上がるし、私が強くなればもっと強靭な化物を早く多く殺せる。それも補給源にしてここに無限ループの出来上がり! 修行が捗るね!
そうやって私が化物の抑止力になれば、襲われる人間も減るはずだ。
「フフ……あの子じゃないけど、私も随分とヒーローっぽいことを考える」
脳裏で元気な少女が、恐縮です! と敬礼する姿を思い描いていると、気が付けば異形の体はすべて中和し終わっていた。気付かぬ間に集中していたらしい。
その時、夕焼けチャイムが鳴る。童謡のメロディーとともに子供の帰宅を促す放送をする、例のアレだ。
「あ……」
私、何のためにこんな人気の少ない場所をわざわざ選んで走り抜けていた?
答え、門限を守るためさ。
「これは……間に合わないと今夜は夕飯抜き、かなあ」
軽く泣きたい気持ちになりながら、さらに面倒な事態を避けるために急ぎ足で帰るのだった。
◆
修行は順調だ。何せ
バックアップしてくれる組織も共に歩む仲間もいないが、この戦争もない平和な国で、持て余している闘争本能と磨き上げた武力を遠慮なくぶつけられる獲物がいるだけ幸運だろう。
そんな私は数年前から小学生を元気にやっている。
今年で小学三年生。まだまだ小柄な体。相変わらずの陶器のように白い肌。
象牙色の髪も伸びて今では背中で揺れるほどの長さになっていた。
瞳を隠せるように前髪は少し長めに切り揃えている。思いがけずテリザヘアーに近くなった。
私の眼は結局バッチリとシバアイだったが、常時発光まではしていなかった。ただ、力を使用するとやはり光ってしまうが。
今日はどこの廃墟を巡ろうか。
泥水が溜まりやすい場所、化物が集いやすいスポットというのはだいたい決まっており、この近所は網羅している自信がある。
あとは化物が強くなりすぎないように定期的に回って、適当にやつらの力を削いだり、増えすぎたら狩ったりしている。
そのせいなのか、近頃奴らは私が現れると逃げ始めるので、隠れんぼよろしく一匹ずつ探さなければならない事態になってしまった。
感知はできるが、探し出す手間が面倒なのも事実。目が合えば襲いかかってくる習性じゃなかったのか、全く。
河原近くに伸びる道を歩きながら今日の予定を組んでいると、足元に結構な勢いで小石が飛んできた。
アスファルトにあたって、大きく跳ねた上がったそれは何もしなければ私に顔面直球コースである。首を横に傾けることで避けると、そのまま石を投げた張本人共に顔を向けた。
川原で数人の子供が集まって私を睨んでいる。
「おいっ、よけんじゃねえよ、真っ白お化け! つまんねーだろうが!!」
「「そーだそーだ!!」」
大多数は男の子で、少数の女の子も混じってるが、全員いかにもやんちゃそうだ。
何を隠そうこいつらは私の学校の生徒で、上級生も含んだなかなかの悪ガキ集団。
社会的地位の高い親を持つ子供も幾人か混ざっているために教師も手を焼いているほど。身寄りもない社会的弱者な私への度が過ぎた嫌がらせを止める大人はいない。
だからって私も大人しくしていないが。
「うっせー! クソガキども! 生えたばっかの永久歯ガタガタいわせんぞ!!」
瞬く間に走り寄って、リーダーと思われる上級生の男の子に飛びつく。首に足を絡めてそのまま後ろに倒れた。
「うぇっ!? ちょっ、テメ、それはずるいぞ!!」
「今更泣き言いってんじゃねー、真っ白お化け舐めるなよっ!! おら、お化けパワーでお花畑が見えるだろ!!」
「ま、待ってギブギブギブっ!!」
くはは、愚かなやつらめ、まだお化けなんて信じているのか。可愛い奴らよ!
「すっげー! 三角締めだ!! いいぞいいぞー!!」
「やれやれー!! 真っ白お化けにポテチ二袋!」
「俺三袋!!」
「テメーら見てねえで助けろ!? ぐふっ」
はい、子供たちを教育するためにお灸を据えてやったところで夕焼けチャイムが鳴りましたね。結局今日は何もできずに帰るしかない。
「ぐっ、てめぇ、次は覚えてろよっ!!」
「誰が覚えるか、さっさとおうちに帰っとけっ!!」
こいつらには暖かいご飯を作って待ってくれている家族が居るのだから。
吠える負け犬どもに中指を突き立ててやって、踵を返す。
私にはメシマズ職員が大量に作り置きしたクソまず
◆
夜蛾は呪骸に祓わせた呪霊の残骸を見下ろす。
消えかけたその残片は、もとは平均的な日本人男性を余裕で上回る巨体だが、等級にすれば驚異度は三級の中の下程度。
故に、
「——弱い」
夜蛾のこの一言も妥当な評価である。
だが、それではおかしいのだ。
夜蛾がいる建物は呪いのたまりやすい条件がいくつも重なった地だ。そこらじゅうに怨念や恐怖で集まった呪力が漂っている。これだけの負の感情のたまり場なら、本来なら顕現する呪霊もこの程度では済まないはずだ。下手したら一級が出てもおかしくない。
顎に手を当てて思考する夜蛾の感知に新たな呪霊が引っかかった。今まで影もなかったのに、新たな呪霊が生まれたのだ。
これだけ呪力が集まっていればおかしくない現象であるが……やはり弱い。本来なら留まるすべての呪いを吸い尽くしてより強力な呪霊が発生するはずだ。
それなのに気配から読める強さはやはり三級。
「……意図的に弱体化している? まさか
夜蛾はこの廃墟に来る前にいくつか近場に発生していた呪霊を祓ってきた。だが、どこもここと同じく漂う呪いの濃度に見合わない弱い呪霊ばかりが発生していた。
三級、良くて二級にならない程度の呪霊が祓っては生まれ、祓っては生まれ、それは呪霊が生まれる
気味が悪かった。まるで誰かが揃えて誂えたかのように、一定の数で、一定の強さの呪霊が発生する。意思を持つ何者かが意図的に操作しているとしか思えない。
だがこれだけ呪霊が発生しやすいにも関わらず、この近辺は被害者が圧倒的に少ないのだ。いや、正しくは数年前から減少傾向に有り、ここ最近に至っては全くないと言って良い。
「呪霊を統率する存在……特級でもいるのか?」
それだけの大物が発見されないまま放置されてきたのならかなり危険だ。万が一遭遇したなら流石の夜蛾とて一人では厳しいが、現時点ではあくまで可能性である。
今回の任務は周辺の呪霊の除去、そしてこの区域の呪いによる被害者零という嬉しくも異常な事態の原因を究明すること。
その遂行のために、夜蛾は再び呪骸に命令を出し始めた。
◆
「なんてことでしょう……」
私の修行場が見事に荒らされていますねえ!
それもたった三日間来られなかっただけで、管理していた化物が生まれるパワースポットが全滅! 今じゃただちょっと雰囲気があるだけの廃墟である。
これはどう見ても人為的になされたとしか思えない。そんな形跡がある。
好き勝手に暴れる化け物どもと違い、指向性を持った泥水の名残がそこらじゅうに。
「はあ……順調だったのになあ」
想定していなかったわけではない。
化物が存在し、それが人間を襲うなら、人間の中にもそれらを狩り、駆逐する存在が居てもおかしくはない。
そうでなければこの世は化物共の好き放題に荒らされて、襲い放題の宴会し放題、化物による人間踊り食いだ。
現に
多分そいつらが泥水が適度に渦巻く修行場に勘付いたのだろう。
(暫くほとぼりが冷めるまでここに寄るのはやめておこう)
いつかは邂逅する時が来るだろうが、それは今ではない。
人間に仇なす化物と敵対している時点で悪ではないのだろうが、だからといって私にも敵対しないとは言い切れない。接触するにしても安全マージンを取れるように私が強くならないと。
たまたまガキどもの相手が重なったり、別の用事で忙しくてこの場所に来られなかったのは、鉢合わせを避けるという意味ではむしろ僥倖だったか。
生身でも化物相手には戦えるけど、それを狩る者にどこまで有効かわからない。
ああ、本当に武器がないのは辛いなあ……。
「ん……?」
足早に立ち去ろうとする私の足に、一匹の化物が引っ付いてきた。
弱い弱い化物だ。昔よく叩き潰していた虫にも満たないような、
それは必死に私の足に縋り付いているようにも見える。よほどここに残りたくないのだ。
「なんだ? 助けを求める相手が違うのではないか?」
私は発生する化物たちにしっかり言い含めていた。
増えすぎず、強くなりすぎず、ここから一切出ないのなら存在を許す、と。
果たして言葉が理解できたのか不明だが、繰り返しそう告げるうちに、一定以上泥水を孕んだ化物は生まれなくなった。
強すぎる奴は中和して削り、多すぎて目障りになれば討ち、過剰に泥水を飲んで反抗して来た個体は念入りに骨の髄まで抹消したのも功を奏したのかもしれないが。
だから勘違いでもしたのだろうか、弱ければ私が助けるとでも。
「まあ、良いだろう」
今となってはこの個体くらいしかまともに残ってはいないだろう。
またこの場に泥水が満ちるまで時間はかかる。それまでは散らばっている泥水をこれに飲ませて保管庫にすれば良いか。
便利な道具も強力な装備もない今、役に立つものは利用しなくては。
私はその靄を指ですくい上げると笑いながら語りかける。
「せいぜい私の役に立つんだよ? そうすれば存在を許してやろう」
小さな靄の震えを、私は肯定として受け取った。