夜の小学校。
生徒も職員も誰もいない、事前の通達で警備員も不在で完全な人払いができている建物。
廃墟ではないのに昼間とは全く違う雰囲気の学校は、なるほど子供が好奇心で肝試しをしてみたくなる気持ちも少し分かる。
「では、お二方とも頑張ってください。くれぐれもお気を付けて」
「はーい、行ってきますね、門倉さん」
帳が降りる最中、完全に隔たれる直前にかけられた激励ににこやかに応える。伏黒も門倉の激励の対象に含まれているのに本人といえばさっさと先に進んでいる。
「ちょっと伏黒! 待って」
「おせぇ」
文句を言うものの素直に立ち止まるのだから良しとしよう。
「改めてこれからの段取りを伝えるよ。窓からの事前情報では既に呪物の封印は解けかけており、早速弱い呪霊が発生しているらしい」
「それは道中も聞いた」
「はいはい。幸いまだ被害者は出ていないようだね。けど、直接来て分かった事が一つ」
「ああ、どうせ雑魚ばっかでめんどくせえと思ったが」
「ふふ、その様子じゃ君も気付いているね。どうやら
「肩慣らしにはなるだろ」
「そうだね、私も試したいことがあるし相手としては丁度良いのではないかな」
気配の強さは丁度今の私の等級と同じ一級相当か? 相対していないのあくまでも予想だが。
「聞くまでもないと思うけど、君、仕事道具の呪具はちゃんと用意してあるんだろうね?」
言ってるそばから伏黒が口の中からゲロった呪霊を取り出していた。何度見ても絵ヅラよ。
伏黒が収集した呪具は強力な効果を持つものが多い。ただでさえ希少な武器だが、特級呪具も複数所持している。
伏黒が扱う呪具については上層部に突っ込まれはしたけど私の鹵獲品だから渡さなかった(ゴリ押し)。上層部が呪具に対して正確な情報を持っていないのも功を奏した。
結果、ほとんどの呪具はそのまま徴収されることはなく伏黒が継続して使用している。
ただ、唯一あの短刀、術式を打ち消す破格の効果を持つ『天逆鉾』だけは五条家の預りとなった。
最も危険度が高いと見なされたのもあり秘密裏に封印されるらしい。
手元に置けば強力な切り札となるので正直惜しい気持ちもあるが……実際に五条はそれで死にかけたのだし、その判断を尊重することにした。上層部関係でいつもお世話になているしね。
「じゃあ、呪霊は君に任せるよ。私は呪物が収められているらしい祠を探してくる」
「五分で終わらす。テメェも早くしろよ」
「何事もなければね……と、その前に」
ちょいちょい、と伏黒を手招く。怪訝な顔で近くに寄ってきた。うん、十分範囲内かな。
「シフタ、デバンド」
「……なんだこれ」
見えないながらも伏黒は自身を包む力を感じ取ったようだ。
「攻撃力と防御力を上げる補助テクニックだよ。君がいるおかげでやっと実戦で使えるよ。早速実験させて」
発動に使用したアストラルで対象を包み、攻撃力・防御力の活性フィールドを生み出す。私が自身に施すアストラルの強化を第三者に施すイメージだ。
今まで使用する対象もいなかったけど、伏黒相手なら反発も気にせずに扱える。
元々のテクニックは効果時間が短く戦闘中に細かくかけ直す必要があったが、少々改良して、注ぎ込んだアストラルが消費し尽くされるまで効果は持続するようにした。予め多めに与えればその分効果時間は伸びる。
とはいえ注ぎ込めば注ぎ込むほど良いわけでもなく、一定以上は霧散してしまう。それでも大きく効果時間を伸ばすことに成功した。
「五分程度なら効果は続くはずだ。後で強化前と強化後で感想を聞かせてよ」
「ふーん。ま、俺は俺で適当にやっとくわ」
拳を何回か閉じたり開いたりを繰り返すと、伏黒は地を蹴って校舎へと飛び込んでいった。
踏み込みで地面が陥没して小さいクレーターが出来てんだけど……。こんな無駄に力を発散させるタイプではないだろうし、強化された分を持て余しているのかな。どうせ直ぐに慣れるだろうけど。
「さてと、私も仕事をしますか」
例の特級呪物、両面宿儺の指は校舎裏の祠に収められているらしい。
事前に学校の大体の敷地図は頭に入れているので、迷いなく目的地へ向かう。
校舎裏の一角、裏山へと続く場所にその小さな祠はあった。手入れされていないようで雑草が繁殖し、祠そのものも古びている。
「生徒が近寄らないように結界がかけられているのか」
雑草を掻き分ければ結界の媒体となる呪具が規則正しく祠を取り囲んでいる。その呪具も随分と風化しており、結界の維持も危うい。本当にギリギリ間に合ったって感じ。
結界の外からでも漏れる呪力を感じる。この中で更に封印されているはずなので、漏れ出た呪力だけでも結界を突き抜ける力はあるわけだ。
「お邪魔しますよー」
と言いながら、遠慮なく扉を開ける。
小さな祠に見合う、小さな木箱がぽつんと中に収められていた。木箱を手に取り念の為に中身を確認する。札でぐるぐる巻きにされて実物は見えないが、問題なくあることを確認。
うむ、回収完了。あとは伏黒が呪霊を全て狩り終えるのを待つだけ、だね。
どうせ待っている間は暇なので、今頃元気に呪霊をぶっコロがしているだろう伏黒を見学でもしようかな。
踵を返した時。
地面から飛び出した鯉のような呪霊が箱を持つ手を狙って飛び掛ってきた。
「うぉ!?」
咄嗟に腕を振り上げて回避するが——
「あ」
蓋が滑り落ち、呪物が投げ出される。
そしてそれは、まるで水面を泳ぐように移動する呪霊によってパクリと食われた。
呪霊はドプンと再び土の中に浸かるとそのまま何処かへと去っていく。
「ノォオオオオ!?」
思わずに頭を抱えて、遠ざかっていく気配を呆然と見送る。
いやいや、見送っている場合じゃない、追いかけなくては。
幸い、帳が降りているためすぐに敷地外へ逃亡される心配はしなくて良い。
高速で離れていく呪霊の気配。校舎をグルリと回って向かおうとしているのは……校庭か。
ここから最短距離で先回りをするには校舎を乗り越える必要がある。ベランダの手すりや壁面の凹凸を足場にして校舎を垂直に登っていく。屋上を突き進みそのまま地上へダイブ。
その僅かな時間にも思考は回転する。
地面に潜り込む隠密性の高い呪霊。隙を見て呪物を奪い取る算段だったのだろうが、それだけなら問題なかった。咄嗟の判断ではあったが奴の飛びつきを回避はしたのだ。
だが——。
「あの呪物……いや、
咄嗟に振り上げた小箱。
しっかり閉じられていたはずの蓋が、偶然にも開き、そして偶然にも呪霊の前に投げ出された呪物。
——そんな偶然、あってたまるか。
「流石に特級呪物は伊達じゃない。年代物の封印、紙切れ同然の札では大した抑止力もない、か」
あの屍蝋にはどれ程の意識が残っているのだろう。呪術師に回収されるくらいなら呪霊に食われようとするなんてね。
呪霊を追って踏み入れた校庭。その中央で地表から飛び出した魚の呪霊は瞬く間にその呪力を膨れさせていく。比例して図体も膨れていき、最終的に殻を持つ真円の卵のような形をとった。
——これ以上成長する前に壊す!
ヒーローソードを手に持ち、卵を真っ二つにしてやろうと剣を振り上げたその時、殻が割れると中から触手のようなものが飛び出してきた。
腕力で無理やり剣の機動を変えて触手を切り飛ばす。それらは呪力によって即興で造られたのか、すぐに根元から霧散していく。
一秒にも満たぬ僅かな時間稼ぎ。だが、相手にとってはその一瞬で十分だったらしい。
卵を割って飛び出した影が凄まじい速度で肉薄してくるのを辛うじて目視し、反射的にそれを蹴り飛ばした。
ズザザ、と地面を削りながら着地したそれ。四足で蹲っていたと思っていたそれは、まるで人間のように後ろ足で立ち——いや、正しく人型となったそれは二本足で立ち上がったのだ。
顔面に小さな目を複数浮かべているものの、人間のように歯の生え揃った口がある。肌色は異常に青白いが、その体は筋肉質な男性そのもの。ところどころ魚だった時の名残なのか鱗が表面に残っている。まるで魚人のようだ。
元は雑魚の範囲を出ない弱小呪霊が、特級呪物を取り込めばこうも変わるとは。この威圧感に感じられる呪力、今は奴こそが特級呪霊と認定して差し支えない。
ああ、全く。たかが呪物を回収するだけの任務に、どうしてここまで手こずってしまうのか。
この際だ、私の油断が原因だと認めよう。他の呪霊にだけ集中しすぎた。呪いの王の呪物への警戒が足りなかった。ただの
「……ハァ」
めんどくさ。
腕時計をチラリと見やる。伏黒と分かれて四分ちょっと。
「おい、
剣の切っ先を真っ直ぐ呪霊に突き付ける。
「まともに相手するのも手間だ。秒で昇天させてやる、さっさとかかってこい」
特級は、明確に分類された一級以下の呪霊とはその扱いが違う。一級でさえも役不足な強力な呪霊のみが特級に数えられる。
だが逆説的には、ある一定の実力さえ満たせば特級とカウントされるのだ。そこからどれだけ実力に差があろうと、特級は特級。
故に特級同士を比較してしまえばその実力はピンからキリ、振れ幅が大きい。
つい数分前まで虫ケラだった呪霊が、宿儺の指を取り込んで特級に足を突っ込んだとは言え、その力などたかがしれている。よしんば本当に強いとしても、急に降って湧いた能力を十全に使いこなせるとは思えない。
言葉が通じたのだろうか。呪霊は挑発されたのが理解出来たらしい。
虫けらに相応しい単純さで激高を露わにすると、腕を広げて呪力を飛ばしてくる。
底辺とは言え特級のエネルギーをまともに相手する気はない。刃で切り裂いて両脇に逸らす。
エネルギー放出を囮に、呪霊本体が拳に呪力を纏わせて追撃してきた。それを既に持ち替えたエトワールダブルセイバーで弾く。
私の見た目からは想像できない膂力に弾かれ、呪霊は驚愕を顔に浮かべている。
人間に近いから表情がわかりやすいな。
呪霊は上手く力を受け流せなかったのか体勢を崩した。その隙を見逃す筈がない!
「——吹っ飛べ!!」
瞬時に形成された巨大なアストラルの刃を蹴り飛ばす。
スキップアーツ・セレスティアルコライド。
エトワールの燃費最悪、単発最高ダメージを叩き出すフォトンアーツ。
反動で私も後ろに弾き飛ばされるのを、エトワールの特有のフワフワ滞空で衝撃を殺す。
勢い良く放たれた刃は抵抗なく呪霊を貫通し、その胴体に巨大な風穴を開けた。ピクピクと痙攣している様は既に死に体だ。呪霊は術師より反転術式で回復しやすいと聞いたことがあるので、ダメ押しにシューティングスターで剣を降らせといた。
肉片の間に混じる屍蝋を拾い上げる。
仮にも特級呪霊を屠る攻撃力で壊れないか。無下限呪術でも破壊できないらしい。
残っていた肉も晦冥に食わせたところで、校舎に潜む呪霊を掃討し終えた伏黒が合流した。
「おや、五分ぴったりだね。お疲れ」
「そっちもか? 引き上げるぞ」
伏黒は戦闘の形跡を見渡すと、確認なのか聞いてきた。
「うん、万事問題なし。帰ろう」
帳を解除する前、こっそりと晦冥に宿儺の指は取り込めるか聞いてみた。
『まずそう いや』
そっかー、嫌なら仕方がないねー。
◆七海 健人、灰原 雄
「『安藤さんが男を飼い始めた』らしいよ」
「は?」
灰原らしからぬ物言いに七海は反射的に聞き返した。
「だから安藤さんが」
「いや、二度は言わなくて結構」
律儀に言い直そうとするのを手で制して、七海は優秀な頭脳を一瞬で巡った様々な憶測に、自然とこめかみを押さえた。
「……色々と突っ込みたいことはありますが、またどういった経緯でそんな話をしようと?」
「や、なんか噂になってるから七海にも教えておこうと思って」
「そこで何故私」
「だって七海、安藤さんの保護者じゃん」
「なんですかその不本意な認識は。というか、その噂を私は聞いたことがないのですが」
敷地が広い高専とは言え業界柄、関係者は多くない。付き合いも限られてくるので実際のコミュニティは狭く、本当にそのような噂があるなら知りたくなくても七海の耳にも入るはずだ。
「うん、だって十分前に初めて聞いたし」
「………………」
十分前に誕生した噂らしい。
七海は同級の灰原とよくセットで任務に当たるが、それでも四六時中一緒にいるわけではない。だから、十分前に灰原がどこで誰と会って何の話をしたかなど知るはずもないが……状況からおおよそ察することはできた。
補助監督見習いの同級生に噂好き、かつ、自称安藤ファンを名乗る者がいる。恐らく、いや十中八九、その者が言い出したはずだ。
安藤は話すと途端に残念感がにじみ出るのだが、
最も七海からすれば、十人すれ違えば八人振り向いて、二人は一目ぼれし、喋ったら十人ともイメージと違うと幻滅させるのだと思っている。
件の自称安藤ファンもファンを名乗るくせに『黙っていれば可愛い』と宣っていた。むしろ吹聴していた。お前本当にファンか。
「その噂? の根拠がどこから来たのか分かりませんが、実際に自分の目で見てもいないのに——」
「あ!」
言ってるそばから安藤が見知らぬ男を引き連れて……襟元掴んで引きずって来た。
「え、もしかしてアレ? え、あれガセじゃなかったんだ……」
ガセネタだと思いながら報告したんかい。
七海たちが談笑しているのは寮にある共有スペース、いわゆる談話室や休憩室にあたる部屋だ。広い間取りで見通しもよく、男女で別れたエリアの両方から繋がる構造になっている。男女の部屋は正反対に位置しているため間違うことも早々ないのだが……安藤は女性部屋エリアへ繋がる廊下から男を引きずってきたのだ。
高専寮は生徒だけでなく教員も入寮しているので大人の男性が居ても問題ない。特別厳しい男女間の交際制限はないし、異性の部屋を訪ねることもある。ただ、それは大抵が大勢が集まる場合であり、ましてや男性が女性の部屋に行くのは暗黙のうちに避けるべきだという風潮があった。
「げ、現行犯! 七海、今だよ!!」
「私にどうしろと」
なんて言っているうちに、安藤と男のやり取りも耳に入る。
「お前さぁ……マジでもうテレビ買え」
「んな金あるならレースに賭けるわ」
「あ゛あん!? つーかまた私のおやつを漁りやがっただろ! 遠出しないと買えないご当地お菓子の袋捨ててあったの見たかんな!」
「ツマミ切らしてんだよ」
なんだかものすごく情けない内容だった。
ドスドスと歩き方にも怒りがにじみ出ている安藤の詰問をのらりくらりと男は躱す。長身で筋肉質な大の男を片腕で軽々と引きずっていく小柄な少女という絵ヅラはそれなりに異様だったが、この場にそれを突っ込む者はいない。
安藤は共有スペースを横切っていき、男性エリアへの通路へ向かって男を蹴り飛ばした。ボールみたいに飛んでいった男は、壁にぶつかる前に華麗な体捌きを見せて綺麗に着地した。
それが、数日後に体術講師として顔を合わせた伏黒甚爾という男との初エンカウントだった。
『安藤が男を飼い始めた』という噂は結局は長続きはしなかった。
二人を初めて見た者は最初こそ、すわ噂は本当だったのか、と頭をよぎるのだが、安藤が男にガチ切れしている場面を見せられては、一瞬でその考えが払拭されるのだ。
安藤が口を開くたび、「今日で何日任務に出てないと思ってる? だらだら遊んでじゃねえぞ」とか「養育費稼いでこい」とか「また有り金スったのか!?」とか「休みの日くらい家に帰って子供の相手しろッ!!」とか。そんな説教のような台詞ばかりが飛び出る。
七海に言わせれば、安藤こそ保護者役なのでは? と。世話役とか仕事の仲介役の方が近いので、ある意味『飼う』というのはあながち間違った表現でもないのかもしれない。
ダメオヤジを仕方なく相手する苦労人に見えるのは間違いない。とはいえ、どうも一方的に安藤だけが苦労しているわけではないようである。
「ツラ貸せ、人体実験だ」とか「ちょっと腕一本もいでいい? ちゃんと新しいの生やすから」とか、結構バイオレンスな要求をする場面も散見されるからだ。
嫌がって逃げ回る男を本気で追い掛け回す。たまに何故か家入も加わっている。
「逃げんじゃねえ! 内臓よこせ!」
「血肉よこせ~! 」
男が超人的な動きで広い高専内を縦横無尽に走り回るのを、安藤がこれまた縦横無尽なデタラメな機動で追い回す。家入はマイペースに歩きながら激闘現場に向かう。
「あれもう一種のホラーだよね。言っていることがめっちゃ血生臭いし」
「もう放っておきなさい」
七海は興味もないと示すように、読んでいる本から視線を外さない。
その光景が日常の一部に変わってしまうのに時間は必要なかった。
伏黒が来てからデメリットどころか七海たち生徒にはメリットしかない状況だ。
安藤は伏黒が暇そうにしていると高専生の体術訓練を手伝うように指示をする。伏黒は面倒さを隠しもしないが、言われた通りに生徒の相手をしてくれる。
実際に目にした彼の実力は本物で、七海も、人として尊敬はできないけどその技術は信用できる、と真面目に指導を受けている。
灰原は最近遠距離の呪具を使って戦う方法を試行錯誤していた。伏黒は武器使いとしてもエキスパートらしく、灰原はよくアドバイスを貰っているようだ。
そんなわけでそろそろ夏到来だけど、今日も高専は皆で仲良くやっています。
◆家入 硝子
高専にある施設の一つ。家入は与えられた研究施設でサンプルの採取を行っていた。
手術代に寝かせた人体を解剖し、内蔵を取り出していく。
「家入先輩、例の研究、進捗ありました?」
「ん~、あんまり芳しくはないかな」
「残念……生物から呪力を完全に取り除くには道のりが遠そうですねえ」
「それは最終目標でしょ? 今は何とか取っ掛りを手に入れる段階だから、気長にやるしかないね」
「私の呪術なら一時的に体内の呪力を中和することは可能なんですが……」
「その原理をどの術師でも再現できて、なおかつ恒久的な効果が実現できれば解決だね」
言わずもがな夢物語である。
この場にいるのは家入だけではない。最近何かと付き合いの増えた安藤と雑談をしながらの作業だ。
安藤の入学以来、二人が本格的に接点を持つようになったのは、他人に施せる反転術式に興味を持った安藤が、晦冥に反転術式を教えてくれと言い出したのがきっかけだった。「呪霊に反転術式を教えるのは初めてだよ」と家入も安易にノった。
安藤は家入の解剖作業を見ていた。
目下で行われる、
そう、あたかも傍観者のように振舞ってはいるが、実際のところ現在進行形で解剖されているのは安藤自身だった。もちろんこの作業は戯れなどではなく、研究サンプルの採取のためなのだが、事情を知らない人間——知っていたとしてもだが——から見れば狂気の沙汰である。
さすがの安藤も痛覚がない訳ではないので、局所麻酔で痛みを消してはいるが、もはやそんな実情は瑣末な問題だ。
元々呪霊にとって反転術式は人間ほど高度な技術ではないので、晦冥に反転術式を教授するのはすぐに済んだ。
その後、話の種に巻いた話題が二人の妙な行動力によって発展して、今では『呪霊発生の要因となる呪力の漏出を根本的に解決する』という目標を掲げて共同研究をする仲になっているのだ。
つまりは、滅多にいない完全に呪力を持たない特異な人間、安藤と伏黒を研究対象にして、人間から呪力そのものを永遠に除くことはできないかを模索している。
この人体解剖も目標達成のための重要な一環だ。
「家入先輩、これ終わったら焼肉食べに行きましょうよ」
「良いけど、こんな状況でよくそんな提案ができるよね」
「いやいや、私だってこれで思いついたんじゃないですよー? 今夜は久しぶりに皆オフで揃うからって、五条が奢ってくれるって」
「へ~、あいつが? 珍しいな」
「あの人基本的にパリピじゃないですか。またよからぬことでも企んでいるんじゃないですか? 宴会芸だ~とかいって誰かのスカート穿いて突入してきそう」
「そしたらモルモットにしてやるわ」
そうして暫くは取り留めもない雑談が続いた。
最終的に安藤はそのほとんどの臓器を摘出された。
「今ので最後ですか?」
「うん、もういいよ」
摘出が終われば、最後にレスタを安藤が発動してこの作業は完了する。
臓器がアストラルによって再構成されていくのを見て、家入が思わず感嘆の息をつく。
「何度見ても見事だね~」
「流石に毎回毎回凝視されたら照れるんですが」
「毎回毎回だから慣れてよ」
安藤も家入も手馴れている様子のとおり、この狂気的な作業は今回が初めてではない。
何もない場所に臓器が再構成されていくのは一種の創造だが、レスタは生き物にのみ作用する術で、構築術式のように任意に創造できないらしい。家入からしたらこれでも十分だし、アストラルならいずれ創造くらい実現しそうだとも思う。
「私の反転術式もこれくらい出来ればねえ」
「負のエネルギーをかけ合わせて正のエネルギーにするなんて、よく考えたと思いますけど」
「その負のエネルギーを、汎用性の高いエネルギーに変換する君の術式もどうかと思うけど。呪力なんて便利な力があれば普通はそれを使おうと思うじゃない。それをさらに別のエネルギーにしようなんて発想、どこから来たの?」
「……さぁ。本能的に呪力を呪力のまま扱おうなんて思えなかったのかもしれませんね。私にはドロドロと気持ち悪い泥水のようにしか感じないから」
「それは面白い表現だ。やはり、君たちの五感っていうのは普通の術師とはまったく違うのかもしれないね」
レスタによる肉体の修復も終わり、安藤は手術代から降りる。麻酔効果はもう必要ないので、アンティで取り除いた。
因みに最初の頃は安藤に効く麻酔の模索から始まった。それでも全身麻酔を実現するには至っていない。
サンプル比較のため、伏黒も時々その肉体を提供し、最後に安藤が修復するのだが、伏黒は摘出中に会話する趣味がないため終始黙った状態で、終わったらさっさと自室に帰っていく。
「君に限らず、晦冥くんもなかなか面白い呪霊になってきたね」
「え? 急にどうしたんですか?」
家入は壁に寄りかかって一服しながら、服を着る安藤に目を合わせる。
「さっき晦冥くんの反転術式を見せてもらった時についでに調べたんだけど、また呪いの内包量が増えていたから」
「ああ、ちょっと前の任務で強めの呪霊を食べさせたから」
「晦冥くんが弱かった頃からいろんな呪霊を食べさせていたんでしょ? それだけ弱い呪霊がそんなに異物を取り込んで無事なんて、面白いと思ってね」
「ふふ、そんな悪食みたいに言わないでくださいよ。晦冥も両面宿儺は嫌みたいです」
「え、そんなの取り込ませるつもりだったの?」
「まさか。ただ出来るかって聞いてみただけですよ」
「その答えが『嫌』ってわけか」
「不味そうだから、って」
「そうか。出来なくはないんだねえ……。或いはそれが晦冥くんの素質なのかもしれないね」
呪霊の学術的な生体や、知恵を持った個体の考えなど、家入は分からない。研究しようとも思わないが、安藤に従属の意思を示す『晦冥』という弱小呪霊が、際限なくその他の呪いを飲み込んでもその意思を塗りつぶされていないのは特殊な状況ではないかと思う。
事実、晦冥を見た夏油が真似して配下の呪霊に他の呪霊を餌として与えてみたが、呪力が混ざり過ぎて制御が難しくなり、最終的に本体が耐えられずに四散したとか。ただ、その試みで新しい技の着想にはなったらしい。
ともかく他の呪霊ではできないことを晦冥は実現している、ということだ。
「また面白い変化があったら教えてね。晦冥くんの呪力の使い方は研究のアイデアになるかもしれない」
「役立ちそうな情報があったら報告しますよ。さ、焼肉行きましょ~」
「ここ片付けてから行くわ」
採取したばかりのサンプルの処理や分類をしなければならない。
透明な容器に冷凍保存された己の臓物を一瞥だけして、安藤は「ではお店で待っていますね」と言って出口に向かう。
高級焼肉~♪ ホルモ~~ン♪ と歌いながら去っていく背中を家入は見送った。
「あの感性だけは理解できないわ……」
◆伏黒 恵
恵は一人公園のブランコに揺られていた。
恵は五歳だ。時間は正午に差し掛かる真昼間。同じ年頃の子供たちは保育園か幼稚園に通っているのが普通だが、家の事情でいわゆる無園児の恵には関係のない話である。
コミュニティに所属していないおかげで同世代の友人との縁などない。幸か不幸か恵自身、それを熱望しているわけでもなく、残った子供らしい部分が時折寂しさを訴えるものの、育ってきた環境故か、早熟な子供は大人を煩わせようとも思わない。
驚く程手のかからない達観した子供だった。可愛げがない、とも言う。
ギーコギーコとゆっくりとブランコをこぎながら時間を潰す。
津美紀は今年から小学校に入学したため、今頃は授業を受けているだろう。
昼ごはんは適当に菓子パンで済ませており、家に帰っても誰もいない。
(今日の晩飯、どうしよ)
恵と津美紀は義理の姉弟だが割と仲が良い。問題は再婚した津美紀の母と恵の父、両方が蒸発したことだ。
恵の父親は何年も会ってもいないので今更だったが、少し前から津美紀の母親も家から姿を消した。
これまでも母親の数日の放蕩だったら珍しくもなかったが、これだけ長時間家を空けたことはない。幼い恵も、全ては理解できないまでも察することはできた。
津美紀と相談して残っていた多くはないお金で何とか生活してきたが、そのお金も底を尽きつつある。
(そろそろ大家のおじさんに事情を説明するか、津美紀から学校に相談してもらわなきゃな)
考えていると、いつの間にか視界にあるジャングルジムの端に変な生き物がとまっていた。恵と対して変わらない大きさの歪な虫のような生き物だ。
恵は昔からこういった気味の悪いものが見えていた。この化物もまだ小さい方で時には直視するのも躊躇われるような異形もある。
極力見るのも避けてきたそれら。普通の人には感知できないものが見える自分も何かしらおかしいのだろう。
今日も恵はその生き物を知らぬふりをして公園を立ち去る。
——いや、立ち去ろうとした。
どこからともなく現れた人物が迷いのない足取りで生き物に近付き、おもむろにそれを握り潰すのを見るまでは。
(……!?)
呆然とその場に固まっていると、くるりと振り向いたその人物は恵に笑いかけた。
「こんにちは、初めまして! 君が恵くんだね?」
言いながら恵に歩み寄ると、視線を合わせるように腰を折って「わー、そっくり」と感心した様子で恵の顔を覗き込む。
「先輩方にも見せたいくらい。あ、写真撮って良い?」
「アンタ誰?」
それは十代半ばの少女だった。銀髪に蛍光ピンクのような瞳、恐ろしく整った顔立ち。この近くでは見たことのない制服——夏服だろうか——を着ている。
派手で、どこか人間ではないような浮世離れしたその人物は、冷ややかな容姿とは裏腹に気安く自己紹介をした。
「私は安藤優です。君のお父さんの主人……いや、上司……雇い主……? うん……とにかく君のお父さんの知り合いです」
「アイツの……?」
「そうだよ。最近君のお父さんにお仕事を振る立場になったんだ」
「仕事? アイツが?」
「あはは、その様子だとすんごいロクデナシってのも分かっているようだね。人間としても親としても失格だから、せめて子供の養育費でも稼ぎなさいってケツ叩きしてるんだ」
「養育費……なるほどな。それで、アンタ……安藤さんは俺になんの用?」
「……本当に五歳なのかなあ……。うん、今日来たのは君の様子を見に来たからなんだ。本当は一目だけ見て他の人に引き継ぐつもりだったんだけど……ねえ」
昼間から一人で公園にいる五歳児。周りには保護者どころか大人もいない。
恵自身、自分の置かれている状況が普通ではないことぐらい自覚している。
「ま、こんな真夏に立ち話もなんだしちょっとそこのお店に入らない? 食べ物でも飲み物でも、お姉さんが奢ってあげる」
「知らない人について行ってはいけないって言われてるんで」
「そこで急に突き放さないで!? 塩対応だなあ……大丈夫、人がいっぱいいるところを選ぶよ」
「……分かった」
少し悩んだ結果恵は少女、安藤の話を聞くことにした。
顔も覚えていないが父の知り合いである。本当に恵を騙したり拐かそうとする悪人なら、もっと周囲の記憶に残らないように地味な装いをしてくるだろう。
それに、いくら年頃の割にはしっかりしていても、暫くまともな食事にありつけていない恵にとって好きなものを奢ってもらえるのは魅力的な誘いだった。
「ねえねえ写真撮って良い? ツーショットしよ、はい、チーズ♪」
だから正直鬱陶しい絡みをされても我慢してやろうと思う程度には恵は気を許した。
連れて行かれたファミリーレストランで恵はおすすめメニューのチーズ入りハンバーグとドリンクバーを頼んだ。というか、安藤に遠慮するなと勝手にオーダーをされた。
近所にあるこの店に、恵は初めて入る。ファミレスなのに初めて一緒に来たのが初対面の他人というのも皮肉なものだ。
「お父さんの事覚えてるー?」
「……覚えてない。何年もあってないし」
「あー、そんな感じ? じゃあお母さんは?」
「津美紀の母親ならもう家に帰ってこない」
「んん?」
「少し前にまとまった金が入ったらしくてそれ持って消えた。家に金を入れる相手なんて一人しかいないし、今頃二人でよろしくやってんじゃないの」
「わーお……そういう感じねー」
パフェをつついていた安藤は携帯を取り出した。
「お父さんは今私と一緒に働いているから君のお母さんと一緒じゃないよ。流石にお母さんの居場所は調べないと分かんないけど」
「別に知らなくて良い」
「そ。お父さんの写真あるけど見る?」
と、疑問形で投げかけながら返事を聞くまでもなく、安藤は携帯の画面を恵に突きつけた。
「………………」
そこには、顔を掴まれて無理やりカメラに顔を向けさせられた男が写っていた。ピンク色のネイルが同じなので、掴んだ手の持ち主は目の前にいる安藤だろう。
「ほんとーに困ったおっさんでさぁ、こんなのもあるよー。いやぁ、後で何かに役に立つかもしれないと思ってちょくちょく撮ってた甲斐があったねえ」
いや、その
次々と流されていく写真。
競馬実況を見るだらしない男の姿、画面の隅で中指を突き立てているピンクネイルの手。
制服を着た何人もの学生を指導している男。
銀髪にサングラスの制服の男とメンチ切り合っている姿。
空中を刀で切り付ける男。
宙に飛び上がっている男。
(あの化け物は写真には映らないから、この二つはそいつらと戦ってんのか?)
台に寝かせられて腹を開かれている男と、その内臓を取り出す女、そして画面の隅でピースしているピンクネイルの手。
「あ、やべ、ちょっと待って今のなし。さっきのよく出来た合成だから」
(合成にしたってあの男がそれを撮るのに付き合うって……一体アイツとどういう関係なんだろ……)
しまった、という顔で安藤は携帯をしまう。
「さて、君のお母さんが持ち逃げしたお金はね、お父さんが君たちの為に稼いだお金なんだよ。今のお父さん結構な高給取りでね、そこそこの金額になっていたはずなんだけど……。どうする? お母さん探して返してもらう? そんでまた一緒に暮らす?」
「俺は別にどうでもいい。津美紀に聞いて決める。津美紀の母親だから」
「おっけー。どちらにしろ生活費はいるよね、またお父さんにお金用意させるね。でも子供二人だけで暮らすのは流石に不味いから、保護者と一緒にいないとね。ということで私からいくつか提案できることがあります」
安藤は指を一本立てた。
「その一、お父さんと一緒に暮らす。そのニ、お父さん以外の後見人を立てる。その三、お父さんの実家の禅院家に身を寄せる。この三つのどれを選んだとしても望めばお母さんも一緒に暮らす事はできると思うよ、津美紀ちゃんもいるし」
次々と立てられていく指を恵はジッと見つめる。
「俺と津美紀だけで暮らすのはできないの」
「出来るよ。要は法的に保護者が居れば良いから、実際に暮らすのは君たちだけでもできる。その場合はお手伝いさんを雇ったり、関係者が定期的に様子を見に行ったり……もしかしたら監視がつく場合もあるかもね」
「監視? なんでだ?」
「あのね、お父さんの実家の禅院家ってのは術師の業界では結構偉い家なんだよ。禅院ってのは才能が大好きでね、そこの血を引いてて
「……さっき禅院の家に行くって選択もあっただろ、そんなやばいとこなのか」
「それは君次第かな」
「……津美紀はどうなる? そこに行けば津美紀は幸せになれるのか?」
「なれないだろうね。提案しておいてだけど『その三』はおすすめしないよ」
「………………」
「あ、生きていくのに大事な注意事項、どれもお金だけは気にしなくて良いからね」
恵は考える。
その一はどうでもいい。家に帰ってこないし親としての義務も果たされていないが、書類上の保護者は恵の父親だ。選べば今後は中身が伴うだけだ。
そのニは父親の立場がすげ変わっただけだ。誰とも知らない奴と一緒に暮らしたくないし、かと言って子供二人で暮らして見張られたりするのも嫌だ。
その三は論外。津美紀が幸せになれないなら選ぶ余地もない。
「『その一』にする」
「あは、やっぱりお父さんと暮らしたいんだね!」
「違う、消去法だ」
「その単語どこで覚えてきたの? ……そっかそっか。確認するけど、お父さんと一緒に暮らしたいとか、別居したいとか希望はある?」
「アイツがどこで何しようがどうでもいい。俺たちの平穏な生活を守るのに役に立つなら利用するだけだ」
「つまりお父さんを名前だけの保護者にして、知らない人から監視されたり定期的に面会されたくはないってこと?」
「ああ」
「へー、やっぱり恵くんって頭が良いんだね。実はね、『その二』で赤の他人を後見人に出来るけど、それだと一応親類関係にある禅院がうるさい可能性もあるんだよね。その点、実の父親なら名ばかりの保護者でも表立っては文句が言いにくい。……複雑な家庭環境だろうからあくまでも提案の一つとしたんだけど、君は一番賢明な判断をしたね」
「分かってて選ばせたんだ。あんた性格悪いな……」
「ええ!? 精一杯の気遣いの結果なんだけど!? ……あ、お節介だけどお父さんと仲良くしたかったら言ってね。仲介役になってあげるから」
「…………やっぱワリィじゃん」
その後、恵は食後のアイスクリームと、津美紀のためにお持ち帰りメニューも奢ってもらった。
◆
ピロリロリン~♪
「お、安藤からメール来てる」
「私の方にも一斉送信できているね」
「あたしもー」
教室で三人時間を潰していた五条、夏油、家入は同時に通知を鳴らした携帯を取り出す。安藤が一斉送信で写真を送ってきているようだ。宛先は他にも一年生や懇意にしている教師陣、そして伏黒も入っている。
件名は『恵くんとツーショット☆ ※伏黒は絶対見ろ、そしてその尊さを(以降は見切れている)』だ。
「ブッ、ナニコレ! マジでそっくりじゃん!!」
「すっごい嫌そうな顔だねえ」
「え、普通に可愛いじゃん。年取ってあんな大人になるのやめてほしいなあ」
爆笑する五条とニヤリと笑う夏油。何かとサンプル採取で伏黒と接点のある家入は早くも子供の将来を気にしていた。
その後、高専の近場に引っ越してきた恵と津美紀の元へ、度々彼らが遊びに行くのはまた別の話。
◆伏黒 甚爾
メールを開けた。
次回、いよいよ玉折編に突入です。