勝てなきゃ走る意味が無いと、俺はハルウララに言った   作:加賀崎 美咲

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轍の中で咲く花

 9月も終わる頃だというのに、公園にはセミの鳴き声が響いていた。

 

 虫だって懸命に命を全うしているというのに、俺は変わらず死んでいないだけだ。

 

 変わったことといえば、そうやって腐っていくのが俺一人でなくなったこと。

 

 カラカラと、車椅子が小さく軋みながらやってくる。

 

 トウカイテイオーだ。

 

 平日の真昼間だというのに、制服を着たまま彼女はこの公園で何をするわけでもなく、ぼんやりと座っていた。

 

「えへへ。学校、サボっちゃった」

 

 困ったなー。ボク、フリョーだよ、とトウカイテイオーは力無くはにかむ。

 

 トレセン学園は全寮制を採用している。本来授業をサボることは難しいはず。それなのにトウカイテイオーがこうしてお目溢しを受けているのは、それだけ周囲が彼女の扱いを決めあぐねているからだ。

 

 本当ならもう走れないかもしれない彼女は厳しい学園の基準で言えば除籍処分になる。けれど、そうならないのは彼女が成し遂げた功績を鑑みているからだろう。

 

 トウカイテイオーは帰ってくるのかもしれない。そう淡く期待されて、彼女は放置という名の療養を受けていた。

 

 けれど当の本人にはもう、そんな気概があるようには見えなかった。

 

 自身のトレーナーには迷惑をかけたくないと、契約を解除してしまったと言う。

 

「あっ、見てよヒバリだ。南に飛んでいく……。そっか、もう夏も終わりなんだね」

 

 飛び去っていく雲雀を羨ましそうに眺めながら、トウカイテイオーは手を伸ばそうとして、諦めて下ろしてしまった。

 

 春を告げる雲雀がいなくなり、代わりに湿った秋風が公園を通り抜けて、彼女の髪を揺らす。

 

 その痛々しい姿にかける言葉を俺は持っていなかった。

 

 一緒にいるというのに、俺たちの間に言葉はなかった。よく考えればそれも当然だ。

 

 俺たちの間には何の関係性もない。トレーナーでもなければウマ娘でもない。

 

 ただの俺とトウカイテイオー。

 

 負け犬二人。

 

 仲良く時間を人気のない公園で浪費しているだけだ。

 

 俺たちはどこにも向いていない。

 

 時間ばかりが経っていく。

 

 

 

 ●

 

 

 

 10月となった。

 

 俺とトウカイテイオーはあいも変わらず、公園でただぼんやりと座っている。

 

 公園は少し騒々しい。

 

 もうすぐ学校で運動会があるらしい。小学生たちが楽しそうにかけっこや騎馬戦の練習に励んでいた。

 

 その様子をトウカイテイオーはぼんやりとした表情で眺めていた。

 

「ボクね、トレセン学園に来る前の学校で一番だったんだよ」

 

 それがかけっこの話だということはすぐに分かった。

 

 ここにいる間、彼女はよく自分の話をする。俺は黙って聞き流すばかりだ。

 

 それなのに彼女は言葉を続ける。

 

「ある日パパに連れられて、カイチョーのレースを見に行ったんだ。カッコよかったなー。今もカイチョーはカッコいいけど」

 

 それはトウカイテイオーの原点。夢の出発点だった。

 

「あの時のカイチョーは本当にカッコよくて、ボクもあんな風になりたいって……。それからだよ、無敗の三冠ウマ娘になろうって考えるようになったのは」

 

 でも、それはもう叶うことのない夢だ。

 

 足に巻かれたギプスは重く、彼女の足を車椅子に縛りつける。

 

 虚しくも、ただの怪我一つで、トウカイテイオーは幼い頃に抱いた夢を叶える機会を永遠に失った。

 

「いっぱいトレーニングとか頑張ったんだけどなー……」

 

 走る理由を失った。

 

 無敗の三冠ウマ娘という、憧れを目指した。それがトウカイテイオーの原点だった。

 

 だがそれはもう叶わない。

 

 ならば、今更何のために走れというのか。

 

 周囲が何か言うことでもない。

 

 他でもないトウカイテイオー自身が、求めていないのに。

 

 夢破れた敗者は静かに朽ちていく。

 

 あれほど騒がしかった公園も静かになった。

 

 お昼となって子供たちは一旦帰ったのだ。

 

 けれどすっかり遊びに夢中になっていたらしく、公園の端には誰のか分からなくなったボールやバトミントンが転がっていた。

 

 その中に小さな物でゴムボールがあった。

 

 一つ取り上げて、手の中で転がしてみる。

 

 気まぐれに壁に投げてみる。軽い音を立ててボールは弾んで返ってくる。

 

 少しだけ腰を上げ、トウカイテイオーの前に立って。

 

 別に誰かに頼まれたからじゃない。

 

「トウカイテイオー、キャッチボールをしないか?」

 

 彼女に同情したからじゃない。

 

 子供たちが忘れていったおもちゃを少し借りるだけだ。

 

「……え?」

 

 ここで俺から彼女に話しかけたのはこれが初めてだった。

 

 そうだ。お礼だ。

 

 一人でこんな場所に飽きもせずに、俺に話しかけてくれたことへの礼。

 

 そういうことにしてくれ。

 

「キャッチボールだ。知らないか?」

 

「そりゃあ、キャッチボールくらい知ってるさ」

 

「ダメか?」

 

「……いいよ。別に、何でもいいよ」

 

 車椅子の車輪にストッパーをかけゴムボールを投げ合う。

 

 パツンパツンと小気味良いゴムの弾む音。

 

 これが何になるのか知らない。

 

 けれど時間は無限にあるんだ。ならどうやって潰したっていいじゃないか。

 

「昔、あるバカなトレーナーがいたんだ」

 

 ボールを投げるとともに言葉を乗せる。俺の言葉を。

 

「キミのこと?」

 

 返ってくるボール。

 

 これは名もなきトレーナーの話だ。

 

「そのバカはある娘のために生まれてきた。そいつには生まれた時から叶えなきゃいけない目標にしたがって、バカは無力なのにそれを叶える手伝いをしなきゃいけなかった」

 

「そう……」

 

「でも、バカは無能だったから、一番大事なところでやらかして、何もかもを捨てて逃げ出しちまった」

 

「サイテーだ」

 

「ああ、最低だ」

 

 ボールを返す。

 

 今度はトウカイテイオーが投げる。

 

「そのおバカさんはどうしてるの?」

 

 ボールが返ってくる。

 

 どうしているんだろうな。

 

「何も。ただ死んでいないだけで、生きてもいない」

 

「あはは、ならボクと一緒だ」

 

 彼女の言葉が飛んでくる。

 

「無敗の三冠ウマ娘になりたかったおバカな子がいたんだ」

 

「なりたかったってことは、叶わなかったのか?」

 

 大きく深呼吸。

 

「うん。夢を叶えることはなかった。届きかけて、あと少しってところで、もう叶わないことになったんだ」

 

「そうか。それは、……大変だな」

 

 トウカイテイオーの声に嗚咽が混ざっていく。

 

「うん。その目標のために今まで頑張ってきたのに、もう無理なんだ。酷い話だよね」

 

 投げたボールは弱々しい放物線を為して、届かない。

 

「負けるどころか、勝負の場にすら立たせてもらえなかったんだもん」

 

 ボールは二人の間を転がって止まった。

 

 もうボールは投げられそうになかった。

 

「おかしいよね。こんなのってないよ」

 

 キャッチボールをやめて、俺はまたベンチに座り込む。

 

 トウカイテイオーはまだ泣いている。

 

 けれど俺がかけられる言葉はない。

 

 敗北はそいつだけのものなんだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

「ボクの話を聞いてくれてありがとう」

 

 一通り泣き腫らして、落ち着いたトウカイテイオーはそう言った。

 

「お前が話したのは、俺の知らないウマ娘の話だろ? なら、お礼を言われる心当たりはない」

 

 そう言うとトウカイテイオーはキョトンとした顔を作り、すぐに微笑んだ。

 

「そっか、……そうだよね。ごめん、今のは忘れて」

 

 沈黙。

 

 けれどそこにあったのは、今までの虚しい時の流れじゃなくて、もっと心地の良い静けさだった。

 

「そうだ、どこかに遊びに行こうよ。ずっと公園にいて、なんか、つまんなくなっちゃった」

 

 申し出された提案を断る理由もなく。

 

 車椅子を押して、俺たちは公園を出ることにした。

 

 季節はすっかり冬を迎えようとしている。

 

 木々から葉は落ち、街は彩りを淡く変えていた。

 

 ゲームセンターに行ってみた。

 

 プリクラというらしい。写真を一緒に撮った。

 

 ハチミツドリンクの屋台があった。

 

 トウカイテイオーは美味しそうに飲んでいた。

 

 俺には甘すぎて、水で割ったら信じられないという顔をされた。

 

 トウカイテイオーは遊びをよく知っていた。

 

 この街は俺の知らない場所ばかりだった。

 

 ゆっくりと車椅子を押して進み、そこにそれがあることを思い出した。

 

 俺は苦い顔をしているに違いない。

 

 この街で俺がよく知っている場所。

 

 レース場だ。

 

 まだレースをしているらしい、まだまばらに観客が入っていくのが見えた。

 

「入ってみる?」

 

 他に行くところも思いつかないし。そうつけ足して問われた。

 

 もう二度と足を運ぶことはないと思っていた。

 

 もう俺とは関係のない場所のはずだ。

 

 だというのに、俺はトウカイテイオーを押しながら足を進めていた。

 

 最終レース、終盤。

 

 実況のアナウンスがけたたましく場内に響く。

 

『圧倒! 圧倒的! もう誰も追いつけない! 「最強」メジロマックイーン! 二着と16バ身以上の差をつけて走り抜けていく!』

 

 見間違えるはずもない。あの走りを忘れるはずがない。

 

 最後の時よりも圧倒的に洗練された走りは、彼女が健在だということを示していた。

 

 そしてそのままゴール。

 

 勝負にすらならない。圧倒的な走りだった。

 

 真新しい喪服のような黒い勝負服を着た彼女は、観客席に一礼すると去っていく。

 

「あれがメジロマックイーン……」

 

 唯一無二の走りにトウカイテイオーも言葉を失って、観客席は沸いていた。

 

 圧倒的な勝者に。

 

 その輪の中に俺たちはいない。

 

 敗者にはその光景はあまりにも眩しかった。

 

 目を焼かれ、傷ついてしまうほどで。

 

 俺たちは逃げるようにレース場から去った。

 

 

 

 ●

 

 

 

 12月。

 

 それなりに時間が経つが、俺たちはやはり公園にいた。

 

 あれからまた、俺たちは公園から出られなくなってしまった。

 

 最近はぼんやりと座っていることは少なく、何かしらの遊びをすることが多い。

 

 色々やった。将棋、ゲーム機、トランプ。

 

 やらないのは公園から出ること、それと走ること。

 

 歩けないトウカイテイオーのために座ってできる遊びばかりだ。

 

 彼女の足からはギプスがなくなっていた。骨はくっついたらしい。

 

 それでも彼女は車椅子から降りなかった。

 

 歩けはするのかもしれない。

 

 けれど、自分の足で立って、それで、どこへ行けというのか。

 

 トウカイテイオーの走る理由は失われたまま。

 

 見た目ばかりが治っただけで、何も変わりやしない。

 

 彼女はまだ車椅子の上にいた。

 

 風が吹いた。

 

 ベンチの上に置かれたトランプが数枚吹き上げられ、近くに散らばる。

 

 トウカイテイオーは何の気無しに車椅子から立ち上がって、トランプを持ち上げる。

 

 そして自分の足で立っていることに気がついて、崩れるようにその場にへたり込んでしまった。

 

 両足は小さく震えて自分では動けそうにない。

 

 どうしよう、と困った顔をこちらに見せる。

 

 仕方がないと彼女を抱え、車椅子の上に戻してやる。

 

 顔を赤くして恥ずかしそうに俯いたトウカイテイオーはつぶやく。

 

「足……、治ったのにね。あはは、困っちゃうなー」

 

 ペチペチと自分の足を叩いて笑う。

 

 その姿があまりにも痛々しくて、見ていることすら苦しくて。

 

「もう良いんじゃないか?」

 

 おい、やめろ。何をいうつもりだ。

 

「ウマ娘でも、レース以外の生き方だってある」

 

 そんな生き方を、こいつは望んでないだろ。

 

「もう走らなくたっていい、お前は頑張ったんだ。二冠だって、なかなかやれないことだ」

 

 でもこいつが望んだのはその先。

 

「もう、走ることをやめたって良いんじゃないか?」

 

 トウカイテイオーは目を見開いた。

 

 自分の足を見て、俺を見て、また自分の足を見て。

 

 そして小さく笑った。

 

 諦めを受け入れた空元気からくる虚しい笑い。

 

「そう……、なのかもね。もう走れない、それどころか自分の足で立てもしない。それならもうやめちゃっても、仕方ないのかもね」

 

「みんなが夢を叶えられるわけじゃない。妥協したって、誰もお前を責めない」

 

 強いやつ、勝てるやつはどこまでも進んでいく。マックイーンみたいに。

 

 なら弱いやつは途中で立ち止まるしかないじゃないか。

 

 俺たちみたいのは、どこかで夢を諦めて、それなりに前向きに生きていけば良いじゃないか。

 

 誰がそれを責められるっていうんだ。

 

 トウカイテイオー。お前は悪くない。

 

 お前が夢を叶えられなかったのも、俺があいつから逃げ出したのも、誰も悪くないんだ。

 

 それで良いじゃないか。

 

「これからも一緒に遊ぼう。なに、きっと楽しいさ」

 

 負け犬同士、上手くやっていこう。

 

 夢が叶わなくたって、それなりに楽しいことだってあるはずだ。

 

 だから言ってくれ。もう諦めると、そうしたら俺も地獄まで付き合うから。

 

「そうだね……。うん、そうだ。ボク頑張ったんだよ。だから、もうボク、ボクレースを走るのを——」

 

 諦めるよ。

 

 その言葉を言ってくれ。

 

 もうお前は走らなくたって良いんだ。

 

「あきら、あきらめ……」

 

 言葉は詰まる。

 

 言葉にならない音と息遣いばかりが漏れ出て、やっぱりトウカイテイオーは言わなかった。

 

 たった一言。

 

 それだけで楽になれるのに、彼女は言わない。

 

 言葉に詰まり、言葉にならなかった息遣いに嗚咽が交ざって。

 

「やっぱり嫌だ!」

 

 降り積もっていた何かが崩れていく。

 

「ボクは無敗の三冠ウマ娘になりたい!」

 

 彼女の原点。始まりの想い。

 

 輝いていたそれは、もう汚れてしまった。

 

「無理だ。お前はもう、菊花賞には出られない。お前の夢は叶わないんだ。お前はシンボリルドルフにはなれない」

 

 それがトウカイテイオーの現実だ。もう時間は戻らない。

 

 辛くとも受け入れるしかない。

 

 それでも、彼女は叫ぶ。

 

「そんなことはわかってる。けど、それでハイそうですかって、簡単に捨てられるなら、初めから夢に見ないんだよ!」

 

 それを抱いた憧れは、想いは今も胸の中にある。消えやしない。

 

「ボクは立ち止まりたくない」

 

「一人で歩けもしない、そんな足で? それでどうやって戦うっていうんだ」

 

 トウカイテイオーは悔しそうに歯噛みする。

 

 自分の足を見て。手を強く握り込んで。

 

 そして意を決し、座っていた車椅子を後ろへ投げ飛ばした。金属の歪んで潰れる音。

 

 もう使い物にならないだろう。

 

 車椅子から投げ出された彼女は、泥だらけになって地に這いつくばる。

 

 地面を掴んで、止まって見えるほどの鈍さで進む。顔だけは上を見て、俺を睨んでいる。

 

 ゆっくり、ゆっくりと進んで、俺の足元に彼女はいた。

 

 俺の足を掴み、俺を支えにして彼女は立ち上がった。

 

「ああ、そうさ。そうだよ。ボクは一人で立ち上がることさえ出来ない臆病者だ。夢も目標も無くした、負け犬だ」

 

 俺たちは失ったんだ。もう望んでいたものは手に入らない。

 

「けどまだ走れなくなったわけじゃない。まだ終わってない! ボクは負けの、その先に行く」

 

 トウカイテイオーのレースはまだ終わっていないと、彼女は咆える。

 

「だから手伝え! 負けたら終わりなんて言わせない! トウカイテイオーは終わってないって教えてやる!」

 

 腐っていただけの亡骸に火が入った。

 

 諦めかけていた現実にその足で立ち向かう。

 

 失意の中で潰えたトウカイテイオーの伝説。

 

 その第二幕が上がろうとしていた。




今日はトウカイテイオーの誕生日だそうです。
だから何というわけでもありませんが。

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