わたモテ世界の派手な女と地味な女が、裏世界に迷い込みます。
「う……うまく撒いたかな?」
肩で息をしながら、理科室の分厚い机の下で声を潜める。
教室の中は薄暗く、私たちの息遣い以外は物音も聞こえない。人生を通して理科室でしか見ないような例の長方形をした木製の椅子はいくつも床に転がっており、それぞれの机に据え付けられた深めの洗い場には割れた実験器具が山積みになっていた。
「どうだろう? 足音や声は聞こえないようだけど……」
隣にいる相手はそう呟くと、ふぅと息を整えた。
彼女は加藤明日香。普段からきっちり化粧してると思ってはいたけど、こうして肩が触れ合うほど近づいてみるといい匂いしかしない。
香水のおかげというよりもシャンプーや柔軟剤、その他諸々が複合的にいい匂いを作り出しているんだろう。少なくとも私とは無縁の匂いだ。
ぶんぶんと頭を振って雑念を振り払い、彼女の顔の横で二つの扉を指す。
「一応もう少し隠れてよう。幸い私たちが入ってきたドアにも準備室の扉へも近いし、どっちから入ってきても逃げられるはず」
片方よく見てて、という私の指示に、彼女は小さく頷いた。
「わかった、とりあえず気を落ち着かせないとね」
髪をかきあげ、私の顔をじっと見つめる。
「頼りにしてるよ、小宮山さん」
「あれ、小宮山さん?」
ショッピングモールの雑貨屋で棚を流し見していたころ、不意に自分の名前を呼ばれた。反射的に声の方へ振り向くと、同じ学校の制服を着た女子が立っている。
「あ……ども……」
なんとなく気まずい雰囲気を隠すことも出来ず、商品を手にしたまま軽く会釈を返した。
同じクラスの加藤さんだったかな。派手めで美人でカースト上位って感じだけど、なぜかあいつと仲がいいんだよな。去年まで不憫になるほど交友関係が皆無だったのに、いつの間にかいつも誰かに囲まれている黒木の顔を思い浮かべた。
「こんな所で会うなんて偶然だね。よく来るの?」
「いや、買い物する時は大概ここだけど、あんまり来るわけじゃないかな。だいたいネットで買っちゃうし」
「そっか、確かに小宮山さんバスだから方角も違うしね」
よく仲も良くないクラスメートの通学方法なんて覚えてるな。
「じゃあ今日は買うものがあったんだ?」
「うん、中学の時の友達……あ、成瀬さんのことは知ってるだっけ。その子が誕生日だからプレゼントを買おうかなって」
へぇ、成瀬さんの、と加藤さんは一歩距離を詰めた。何だ? 社交辞令的な挨拶で別れる流れじゃなかったのか?
「智ちゃんとは一緒じゃなかったんだね」
「別に一緒に買い物するような仲じゃないから。それにあいつは受験勉強で忙しいだろうし」
「そうだね、正直合格確実ってラインとは言えないもんね」
そういえばこの人もあいつと同じ青大志望か。私が言うのもなんだけど、こんな時期にモールで買い物とは余裕そうだな。成瀬さんなんてスカイプ勉強会するたびに頭から煙出してるのに。
「ねぇ、私も一緒に選ばせてもらっていい? 成瀬さんとは最近仲良くしてもらってるし」
露骨に嫌な顔をしそうになり、何とか作り笑顔で取り繕う。
確かにこの人センス良さそうだし、おしゃれな成瀬さんが喜びそうなもの選んでくれそうだ。ただ正直なところ友達の友達くらいの距離感の人と一緒に買い物をしたくない。こっちは成瀬さんと伊藤さんくらいしか友達がいないんだぞ。
「あぁ、まぁ……構わないけど」
結局断る口実も思いつかないので一緒にモール内を回ることになってしまった。断ったところでこの人結構グイグイ来るイメージあるし、無駄だったかもしれないけど。
実際回ってみるとあいつや成瀬さんの中学時代の話題で結構話せたし、私の想像通りプレゼントを選ぶのにもこなれてる感があったのでそこまで苦痛な時間ではなかった。ロッテの話をしても伊藤さんみたいに聞いてくれるし、悪い人じゃないみたいだな。
アクセサリーやちょっと高めのコスメやハンドクリーム、受験生らしく最新文具などを見て回ってから互いの贈り物を決め、今日のお礼ということで最後にスタバに入った。
「今日は助かったよ。私や黒木ってあんまりおしゃれや流行に詳しくないからさ、成瀬さんが何を貰って喜ぶかがいまいちわかんなかったんだよね」
私たちと同じような学校帰りの高校生や買い物終わりの品の良さそうなおばさんたちが談笑する中、私たちは店の一番奥のソファ席に陣取っていた。
モールの入り口すぐ近くのこの店は壁がガラス張りになっており、さかんに出入りする人々の様子がよく見える。久々に来てみたけど、やっぱり平日でも人が多いな。
「ううん、私が好きでやったことだから。それに小宮山さんもメイクすればもっと可愛くなると思うけど」
「いやぁ……あんまり興味ないかな」
あいつや伊藤さんの顔を思い出し、やんわりと断る。
そのあと少しだけ化粧関係の話をして、互いの飲み物(私はジンジャーラテ、加藤さんはアイスゆずシトラス&ティー)がなくなったタイミングを見計らって腰を上げた。
「じゃあそろそろ解散しようか? 時間的にもちょうど……」
時計を確認しようと電源を入れたスマホの画面を見て、私は凍りついた。
時間表示のあるはずの場所に並ぶ見たことのない文字列。インストールした覚えのないアプリのアイコン。そして壁紙も智貴くんの写真から、AIが自動生成したような不気味な画像に変わっていた。
画面から顔を上げると、目の前の彼女も同じような状況に巻き込まれていることを察した。加藤さんも私と同じく、スマホの画面を睨みつけながら顔をこわばらせている。
「おかしいな? 壊れるようなことした覚えはないんだけど……」
二人でしばらくスマホをいじっている中、私は言いようのない居心地の悪さを感じて急いで店内を見渡した。
先程まで客の話し声で溢れていたと思っていた店の中にはいつの間にか私たちしかいない。
「あしたはないぬいのひなので あしろにきをつけてください」
「さわび ちい わこまくで しかたない」
「かたうででね またこんど どうぞ」
「またこ」
カウンターの奥に転がるブラウン管テレビからは、支離滅裂な言葉が流れ続けていた。私たち、これを人の話し声だと思っていたのか?
――店の外は!?
ガラスにへばりついてモールのエントランスを見るが、そこにもやはり人影は見当たらない。暖色系の明かりに照らされた明るい廊下には、高い天井から何本もスズランテープがぶら下がるという異様な光景が広がっていた。
「何……これ……」
向かいの席に座っていた加藤さんも異変に気づいたようで、ガラスの向こうを見て息を呑んだ。
「もしかしたらだけど……私、何が起きたかわかるかも」
彼女に付いてくるよう促し無人のスタバを出る。そしてなるべくスズランテープに触れないよう廊下を進むと、エントランスの自動ドアの前で立ち止まる。
ガラス張りで見通しがいいはずの自動ドアの向こう側は、まるで真夜中のように闇で塗りつぶされている。正確な時間こそわからないが、間違いなく今はそんな時間じゃない。
「加藤さん、わけわかんないことが起こるかもしれない。でも、あんまり混乱しないでね」
「どういうこと? 本当に何が起きているの?」
焦りと恐怖の色が隠せない彼女の問いには答えず、目の前の扉を見据えながらふぅと一呼吸つく。そしてセンサーが届く範囲に足を一歩踏み入れた。
いつもどおりに音もなく開く自動ドア。しかし開いた先に広がっていた光景は、見慣れたはずの広々とした駐車場ではなかった。
目に飛び込んできたのは青々とした牧草地帯のような風景。雲もほとんどない晴天の下、地平線までくるぶし丈くらいのやわらかそうな草が風に揺れている。
どうやら私たちがいる場所は少しだけ小高くなっているようで、見下ろすような形で散在する深い緑の茂みや雨水が溜まったような池、そしてぼんやりとだけど建物のようなものも見える。
「……どこ、なの? ここ」
私の横で加藤さんがへたり込む。そりゃそうだ。いきなりこんなところに放り込まれたら誰だって混乱する。
「私も小説で読んだだけだし、本当にあるなんて信じてないんだけどさ」
さっきまでお茶をしていたというのに喉がカラカラだ。目の前に広がる非現実的な景色を睨みつけながら、生唾で喉を無理矢理潤す。
「どうやら迷い込んだみたい。裏世界に」
「裏世界」
『裏世界ピクニック』というホラー小説に出てくる異世界のことだ。
異世界と言っても最近流行りの転生ものとは異なり、基本的に人間はおろか鳥や昆虫の類すら見かけることはない。自然と現実を模したような人工物に囲まれた、生物の息遣いが全く感じられない世界である。
現実世界のどこかとゲートのようなものを通じて繋がっており、作中ではこんな風に巻き込まれるような形で迷い込んでしまった人がたくさん出てきた。
そして現実世界から裏世界へ移動する際は中間領域と呼ばれる場所を通ることとなり、そこでは先程のモールのような読めない文字、不気味な現象などに見舞われることとなる。
「なるほどね、異世界に迷い込んじゃったってことは理解できた」
ミネラルウォーターのペットボトルを肩から掛けたトートバッグに仕舞うと、加藤さんは裏世界の風景を一望した。さぁっと吹く風がピンクゴールドの髪を撫で、旅行会社か何かのCMのような雰囲気を醸し出している。風も爽やかで気持ちいいし天気もいい。ここが得体のしれない異世界だということに目をつぶれば何とも居心地のいい場所だ。さすがに目をつぶるには問題が大きすぎるが。
それと太陽がまだ東に傾いているのにも気になる。私たちがモールにいた正確な時間はわからないけど、少なくとも夕方の5時は回っていたはずだ。現実の時刻とリンクしてなかったのかな?
「それで、戻る方法はあるんだよね? その小説にはなんて書いてあるの?」
加藤さんの真っ直ぐな視線で当然の疑問をぶつけられて、つい私も萎縮してしまう。
「帰る方法自体はある。主人公の二人は何度も裏世界に出入りしてるし」
「何でそんなことを? 危ないんじゃないの?」
「いや、そうなんだけどさ……」
あの主人公二人は何というか、狂ってんだよな。
「この裏世界と現実世界を繋ぐポイントをゲートって呼ぶんだけど、そこを通れば2つの世界を自由に行き来できる」
「じゃあ私たちも入ってきた場所を通れば……」
加藤さんの提案に黙って首を振る。
「入ってきたゲートが形として残ってればそれでいい。でも困るのが、『いつの間にかゲートを通ってしまっていた』今回みたいなケース。入ってきた場所がわからないから、出口を別に探さなきゃいけないんだ」
私たちが入ってきた場所に二人で目を向ける。自動ドアだったものは粗雑に木枠を組み上げた鳥居のようなものになっており、覗き込んでも向こう側の景色が見えるだけでモールには繋がっていない。
「つまり、この広い世界のどこかにある出口を探さなきゃ帰れないってこと? それって……」
黙って頷く。
「たぶん、めちゃめちゃ大変」
私の言葉を受けた加藤さんは一つため息をつくと、額を抑えてうなだれてしまった。恐らくある程度覚悟はしていたのだが、現実を突きつけられて打ちのめされてしまったのだろう。
別に仲がいいわけではないが、いつも活気あふれる彼女の弱った姿を見ると胸が締め付けられるような気持ちになってきたので、慌ててフォローの言葉を探す。
「いやでも! ここが裏世界なら私も小説で読んでるからある程度知識はあるし!」
「そもそもここがその裏世界だっていう根拠はあるの? そして仮にそうだとして、小説ってフィクションでしょ? その知識が役に立つの?」
全くその通りである。今の私を客観的に見れば「漫画でサバイバル術を学んだから遭難しても大丈夫!」と息巻く中学生みたいだ。全然大丈夫じゃない。
しかし迷い込んだときの状況があまりにも似通っているし、小説の中の知識が役立つ可能性も実は結構考えられる。
先程も述べたように、小説の中では裏世界に人や生物はほとんどいない。ただ生き物ではない、怪異のようなものに巻き込まれることは多々ある。
その怪異たちは実話怪談やネットロア、そういった創作物の形をとって現れる。つまりここが裏世界であるならば、「裏世界ピクニック」という創作物の設定が反映されているかもしれないのだ。
そんな風な説明を彼女に対して必死でまくし立て、何とか脱出の芽があることを理解してもらえた。
よかった、通常のメンタルだったら絶対信じないような粗だらけの説だったけど、とりあえず落ち着いてくれたみたいだ。
「それじゃあ出口を探すとして、それはどういう形をしているの? たぶんわかりやすく扉の形をしていたりしないんでしょう?」
「あ、うん。祠とかビルの屋上の扉とか、そういうところがゲートになってたかな」
「なるほどね、いかにもどこかに繋がってそう。じゃあ見える範囲で言うと……あの建物とか怪しいのかな?」
加藤さんはネイルの施された指で、遠くにぽつんと建つ建物を指す。
「んー……確かに闇雲に探すよりは確率は高いと思うけど、建物だからって現実世界と繋がってるわけでも……」
野球観戦の後リュックサックに入れっぱなしだった双眼鏡を覗き込む。比較物がないから大きさや距離はつかみにくいけど、だいたい3階建てくらいに見える。距離は……何とか歩いていけそうな距離ではあるかな。
双眼鏡の倍率を上げてそのまま外観を眺める。外壁はコンクリートっぽい感じで、廃墟みたいに崩れているような雰囲気もない。金網のフェンスに囲まれてはいるものの、ところどころ穴が開いて入るのは簡単そうだ。
建物の形に沿って舐めるように覗き込んでいると、思わぬものを見つけて声を上げてしまった。
「何? なにか見つけた?」
「うん、もしかしたらあそこにゲートあるかも」
思わず差した光明に興奮しながら加藤さんに双眼鏡を手渡し、覗き込む彼女に向かって上ずった声で続ける。
「あそこ、学校だ」
校庭のどこからでも見えるよう外壁に据えられた時計の文字盤が、陽の光を反射させてきらりと光った。
「うん、誰もいないっぽい。入っても大丈夫だよ」
ガラス張りの扉から校舎内を覗き込みながら、後方の植え込みにかがみ込んだ加藤さんに手で合図する。そのままの姿勢でそろそろと近づいてきた彼女と並んで生徒用の玄関をくぐると、下駄箱の並んだ空間を二人で見回した。
風が吹き込んだせいか若干土っぽい感じがするが、意図的な破壊や汚染の形跡が認められないのでいわゆる廃墟のような印象は受けない。どちらかと言えば掃除が行き届いていない建物特有の、埃っぽさが気になってしまう。
「ごめんね、偵察みたいなことやってもらっちゃって」
廊下の先を覗き込んでいた加藤さんが、バツが悪そうな笑顔で振り向く。
「いいよ、私のほうが背も低いし髪も短い、それに黒髪だから目立たないだろうし。こういうのは適材適所ってことで」
「でもこの世界に詳しい小宮山さんがやられちゃったら、私もそこでおしまいじゃない?」
言われてみれば確かにそうだ。
特にこの裏世界には「見たら終わり」みたいな怪異も結構いるし、真っ先に私がそういう奴らの影響を受けちゃったら対処もできずにゲームオーバーだろう。
顔だけこちらに向けていた加藤さんはくるりと踵を返し、掃除用具入れを背に考え込んでいた私の前で立ち止まった。自然と見上げる形になる。まつげ長っ。
「だから私にできることがあったら何でも言ってね?」
「……わかった。お互い無理はしないようにしよう」
加藤さんはにこりと笑って頷いた。背が高いからってのもあるけど、この人妙な威圧感あるんだよな。
「でも私は色々知識がある分融通が利かないからさ。ここに来るまでの間みたいに加藤さんが思ったことを言ってくれると助かるよ」
「グリッチのこと? 役に立ったなら嬉しいな」
――グリッチ。
蠢く怪異たちの他に裏世界に存在するもう一つの脅威。
地雷のようにそこかしこに点在する天然不可視の罠であり、その領域に踏み込んだ対象に何らかの悪影響を及ぼす。例えば原作小説には超高温で焼き尽くすグリッチや、機械を狂わすグリッチが登場した。
踏んだら何が起きるか見当もつかないこれを回避する方法が「目の前の地面に一々石やらナットやらを投げる」というものだったのだが、彼女は「こっちのほうが早くない?」と、長い棒で目の前を払って進んでみせた。
ローグライクゲームの罠探知やTRPGの10フィート棒の原理。正直なところ誰でも思いつくような方法なのだが、変に「正解」を与えられていた私には選択肢に上ることすらなかった。
「あれを思いついてくれなかったら、ここに来るまで何時間かかるかわかんなかったよ。本当、半端な知識は思考を止めるね」
「先っぽがグリッチに触れた途端ズタズタになった時は心臓が止まると思ったけどね。すっごい振動が手に伝わってきたよ」
そんなことを話しながら、私たち二人は玄関正面の階段を上がった。
「それで小宮山さん。目的地に学校を選んだのは、怪談話がたくさん残っているから異世界に通じているような場所もあるんじゃないかってことだったよね?」
「うん、学校の七不思議って言うくらいだからね。ぱっと思いつかないけど、神隠し系の怪談も結構あったはずだよ」
目の前に不意に現れた人影にぎょっとしたが、踊り場に据えられた大きな鏡だった。私はそれを一瞥してから息を整えて続けた。
「怪談話も都市伝説の一種、それどころかインターネットが発達する前は学校の怪談こそ都市伝説の主役だった。きっとこの裏世界でも創作物の形をとって存在すると思うんだよね」
「私が思いつくのなんて花子さんとかひとりでに鳴るピアノとか、あとは人体模型や二宮金次郎像が動くなんて噂もあったかな」
加藤さんは唇に手を当てながら、虚空に視線を向けて記憶の糸をたぐっているようだ。
「動かないはずのものが動くとか、いないはずの者がいるとか……子供のネットワークで拡散される怪談だから、そういうわかりやすいのが多いかな」
階段を登りきると3階の廊下にたどり着く。風雨の影響を受けない分1階よりも雑然とした印象は受けない。しかし廊下の真ん中に据えられた教壇、水飲み場に放り込まれたビショビショのカーテン、窓枠に整然と並べられた新品の黄色いチョークなど、こちらの理解を拒むような不気味さを醸し出していた。
逆に生徒の談笑や机と椅子を引く音、体育の時間の号令や校内放送など、学校で聞こえるべき音はまるで聞こえない。本当に誰もいないんだと改めて感じた。
「な……なんか気味が悪いね」
身を寄せてきた加藤さんの袖を思わず握ってしまう。本当に彼女と、というか誰かと一緒でよかった。一人だったらとっくに発狂している。
「あ、あと学校の怪談に多い話なんだけどさ」
緊張を解そうと口を動かす。自分でも可笑しくなるくらい声が上ずっている。
「やっぱりわかりやすいからなのか、遭遇した時の結末が語られる怪異が多いイメージがあるね。殺されるとか、追いかけられるとか、異次元に引き込まれるとか」
「へぇ、例えばどんな話があるの?」
「そうだなぁ、具体的には……」
そんなふうに気を紛らわせながら歩みを進めていると、薄暗い廊下の向こう側から何やら音が聞こえてきた。
キィ、キィ、キィ――
二人とも反射的に足を止め、息を呑む。
キィ、キィ、キィ――
軋んだ車輪のような音は、ゆっくりとだが私たちの方へ近づいてくる。体が固まってしまい、隠れたり逃げることもできない。
キイ、キイ、キイ――
「ぐ……具体的には……」
キイ……
音の主が私たちの目の前で立ち止まった。医療道具を載せたステンレス製の台車、ぼさぼさの髪に隠された青白い顔、そして端々が血で汚れたナース服。
「……こいつとか」
目の前の看護婦が髪を振り乱しながら駆け寄ってくるのと同時に、私たちも悲鳴とともに跳ね飛ばされるように逃げ出した。
「廊下に現れる看護婦」
闇の看護婦、ゾンビ看護婦などとも呼ばれる。
夜の学校など人気のない廊下を歩いていると看護台車を押しながら現れる看護婦姿の怪異。
出会うと恐ろしい形相で追いかけてきて、捕まった生徒は車椅子に乗せられて永遠に連れ回される。
「さっきの奴はたぶんこれだね。話を聞いた時は『何で学校に看護婦が?』って滑稽に思ってたけど……」
「実際遭うとめちゃめちゃ怖いね」
「それ!」
二人とも緊張しすぎて張り詰めていた糸が切れたのか、こんな状況だというのに机の下で声を押し殺して笑った。
「それで、あの看護婦さんからはどうやったら逃げられるの?」
「うーん、話の中では……」
この話では追いかけてきた看護婦に直接捕まるわけではない。
話者はトイレの個室に隠れてやり過ごそうとするが、怪異が手前から順に個室の扉を開けて確認する音が響く。そのまま目を瞑ってうずくまっていると、いつまで経っても開けられる気配がない。
ようやく朝になり逃げ切れたと思ってふと顔を上げると、実は個室の上からずっと覗いていた看護婦と目が合うというオチだ。
「というか出口が2つあるとはいえ、ここも密室だよね。結構ヤバいんじゃない?」
私は返す言葉も紡げないまま、加藤さんの目を見つめながら黙って頷く。
「ごめん、つい咄嗟に駆け込んじゃって」
「あっ! ううん、責めてるわけじゃないの」
加藤さんは両手を口に当てて慌てたような口調になる。
「ひとまず早くここから出ようか。小宮山さんの話の通りなら隠れてても逃してくれなそうだし」
加藤さんは中腰で机の下から這い出し、扉の隙間からメイク道具の鏡で廊下を覗き込んだ。
「うん、いないみたい。今なら出られるよ」
「あっ、うん。今行く」
二人で理科室を抜け出す。加藤さんの言う通り看護婦の姿は見えないが、あんなのがどこかにいると思うとこの薄暗い廊下はより一層不気味に思えた。さっきまでは誰もいない学校を歩く心細さが勝っていたが、今は命の危機を感じずにはいられない。
これが裏世界。人の正気を蝕む空間。
それからは元の世界に帰るようなヒントを求めて学校内を探索して回った。
ピアノの音が響く無人の音楽室。すすり泣きが聞こえる女子トイレ。石膏でできた胸像の視線を感じる美術室。なぜか卒業式の準備がされた体育館。
「さすがに疲れるね。精神的に」
「うん、襲ってくるようなやつはいなかったけど、的確にこちらの正気を抉ってくる感じ」
散々歩き回ったら二人とも参ってきたので、比較的綺麗そうな教室を見つけて椅子に座り込んだ。こんな時だというのに律儀にも自分の席があった場所に座っているのがおかしい。
「それでどうだった? なにかヒントでも見つけられたかな?」
「うーん、いまいちピンとこない……というか看護婦のイメージに引っ張られて襲ってくる系怪談しか頭に浮かばない」
家で飲むために買っていた2Lタイプのお茶を二人で回し飲む。廊下の水道にはコップも据え付けられていたのだが、裏世界のものを使うのは忌避感が強かった。
「とりあえずちょっと休もうか? 焦ってもいい考えは浮かばないよ」
「そうだね、頭を冷やして考え直してみる」
「じゃあ、はい」
加藤さんは座ったまま体をこちらに向け、膝を差し出した。
「はい?」
「枕になってあげる。学校の椅子じゃ硬いでしょ?」
いやいや、いやいやいや。
「いや、さすがに悪いというか……ぶっちゃけ恥ずかしいというか」
つい意識してちらりと脚に目が吸い寄せられる。めちゃめちゃ綺麗だ。
ムダ毛全然ないし、膝もツルツル。細いけど引き締まってて、骨ばった印象は受けない。むしろすっごい柔らかそう。
「こっちのほうがよく休めるでしょ? 智ちゃんにもやってあげたことあるし、気にしなくていいから」
あいつ……
「じゃあ、はい、よろしくおねがいします」
さすがに直に膝枕させてもらうのは気が引けたので、ハンドタオルを敷いてから頭を預けた。
うーん、なるほど。想像してたより居心地がいいな。智貴くんの布団にくるまれた時の1000分の1くらいの気持ちよさだけど、それでも気を抜いたらそのまま寝落ちしてしまいそうだ。
頭も体も安らいでいくがしかし、頭が整理されてくるとつい余計なことに考えを巡らせてしまう。ここから戻れなかったら、もう智貴くんと会えないのか。元の日常は、もう帰ってこないのか。
もぞりと寝返りを打って目をつぶる。
こうして日常から離れて俯瞰的に見てみると、高校三年間。結構悪くなかったな。
仲のいい友達は伊藤さんだけ、あとはたまに朱里ちゃんと一緒にご飯を食べる程度。それでもロッテの話ができて、同じ人を好きになった子に会えて、球技大会や勉強合宿、文化祭みたいなイベントも結構楽しめた。
学校の外では成瀬さんともまた仲良くなれた。中学の頃とは結構雰囲気変わってビックリしたけど。
あとは腐れ縁が続いていたのは黒木だけど、あいつとは改めて仲良くしたいとは思ってなかったんだけどな。でもあいつの周りはいつの間にか変な奴らが集まってきて、傍から見る分には退屈しなかった。
高校時代はいつか終わる。そんなことはわかっていたし、別段終わってしまうことに執着はなかった。でも、こんなふうに唐突にこれから先の未来ごと取り上げられてしまうとは思わなかった。
滲んできた涙を悟られぬよう、ハンドタオルに顔を押し付ける。
いきなりいなくなっちゃってみんな心配するかな。特に理由なく深夜徘徊とかはしてたけど、家出はしたことないし動機不明の行方不明事件として扱われるのかな。
それにお母さん。父親に続いて娘の私までいなくなっちゃったら、どうなっちゃうんだろう。
悲しませたく、ないなぁ。
「きっと戻れる」。どこかでそう確信していたからこそ好奇心を原動力に動いていられたけど、少し探索してみてそれが甘い考えだとわかると、どんどんと不安が鎌首をもたげて飲み込もうとしてくる。加藤さん、こんな状況でよく毅然としていられたな。
ああ、このまま目を瞑っていたい。
まどろんでいる間は楽しい元の世界の思い出に、訪れるはずだった未来に耽ることができるから。
眠い、眠い、眠い。
もう起き上がれない。脱出とか、どうでもいい。
今はとにかく、眠っていたい。
眼鏡を外される感覚を感じる。ああ、加藤さんが外してくれたのか。本当にトップカーストの女は気が利くな。じゃあお言葉に甘えて、少し眠らせてもらうから――
「いい加減起きて! 小宮山さん!」
意識の片隅で彼女の声が聞こえたかと思うと、次の瞬間頬に思いっきり衝撃が走る。
「痛ったーーーー!! って何? え? 何?」
完全に虚を突かれる形で驚いて跳ね起きると、膝枕をしてくれていたはずの加藤さんが私に馬乗りになっている。
「え、何? どういうこと?」
「っ……よかったー、起きなかったらどうしようかと」
目の前の加藤さんは安堵しきった声で私にもたれかかった。眼鏡が外れて視界がぼやけているが、何となく声の調子からどんな表情をしているかも読み取れる気がした。
「ごめん、ちょっとずつ頭がはっきりしてきた。何があったか教えてくれる?」
「あっ、ごめんね。重いよね?」
加藤さんは慌てて私の上から降りると、傍らに置かれたパイプ椅子に腰掛けた。彼女から受け取った眼鏡を掛けて周囲を見渡すと、どうやらここは保健室のようだ。いつの間にか私はベッドで布団にくるまれて横になっていた。
「実は私も気付いたらここで眠っていたの。それで小宮山さんを起こそうとしても全然起きなくて。だから、その、ちょっと切羽詰まってたとはいえ叩いてしまって……ごめんなさい」
彼女の話を聞きながら自然と頬に手がいく。まだヒリヒリするし耳鳴りも凄い。顎の関節も若干変になってる気がするし、そりゃ昏睡しても起きるわ。
「ううん、危なかったところを助けてくれてありがとう。たぶん、怪異からの攻撃を受けていたんだと思う」
ぼんやりしていた頭が通常運転を開始してきたので、さっきまで私たちに起こったことを思い出していく。
まず訪れたのは強力な眠気。疲れていたからといって、こんな訳のわからない所で揃って熟睡するのは考えにくい。
それと思考の誘導かな? 私の場合はネガティブな考えが増幅されて、夢に逃げ込もうとされた感じか。眠ったままにさせたい理由が何かあるのかな? うーん、学校の怪談にそんな奴いたかな?
「いつもの小宮山さんに戻ったみたいだね」
加藤さんは冷凍庫から保冷剤を取り出して、ハンカチに包んで頬に当ててくれた。
「理科室でも言ったけど、小宮山さんってすっごく頼もしい。一人だったら私、何にもできないと思うから」
「そんな。今だって加藤さんに助けてもらったし」
保冷剤を受け取って頬に当てる。頬というより顎が冷やされていい感じだ。鏡がないからわかんないけど、腫れてたりしたら嫌だな。
「ところで加藤さんはよく自力で起きられたよね。私なんか完全に夢に囚われるところだったよ」
「うん……」
隣で笑顔を浮かべていた加藤さんは、急にその顔を曇らせてうつむいた。しばらく沈黙が横たわったが、「私が見たのはね」。と彼女は口を開いた。
「私が見た夢は、友達みんなで仲良くする夢だったの。夏帆も美保も風夏も智ちゃんも、それに茜や根元さん、田村さんと内さん。南さんも。みんなで高校を卒業しても大人になっても、ずーっとずっと仲良くする夢」
彼女は体を起こし、作ったような笑顔を向ける。
「その夢って可笑しいの。智ちゃんが髪を短くして、私みたいに髪を染めてて……」
思い出に浸るように宙を眺めていた加藤さんだったが、再びその顔には陰が差した。
「でもその光景ってね、私がいつも夢に描いていたものなの。寝る前にいつもいつも。それで朝起きて、ああ夢だったんだなって思うんだ」
頬にかかる髪をかき上げる。
「だから今回も思ったの。いつもの夢だから、早く目覚めなきゃってね。ちょっと残念だったけど」
ああ、この人も何かを手に入れたくて仕方がなかったんだ。
充実した今に満足していると思ったけどそうじゃない。求めても届かない理想に手を伸ばして、一人もがいている。私と同じ、普通の高校生だ。
「大丈夫、絶対帰ろう」
頬に当てた手を加藤さんの手に重ね、彼女の目を覗き込む。
「私が絶対に帰る方法を思いつくから。その夢、現実にしなよ」
「……ありがとう。うん、二人で帰ろう」
作り物じゃない、本当の笑顔が彼女の顔に戻る。何となく気後れしていたけど、私の中のそんなわだかまりはいつの間にかなくなっていた。
「ゲートを作るような怪談を探すのもそうだけど、まずは今回攻撃してきた怪異を特定したいかな」
「また眠らされたら困るものね」
ベッドから降りて窓の外を眺める。段々と日が傾き風景がオレンジがかってきた。夜が来てしまう。
裏世界で夜を迎えるというのは、私たちにとって死を意味すると言っていいほど危険だ。
人工的な照明がほとんど存在しないので闇に包まれてしまうというのはもちろんのこと、夜は人ならざるものが活発に活動を始める。そんな所で探索を続けたり一晩明かしたりするのは現実的じゃない。一刻も早く対策を思いつかないと。
「夢……夢……あっ!」
今まで見てきた光景と、夢というキーワードが細い糸で繋がった。
ここが学校だから学校の怪談で語られるような怪異にばかり気が向いていた。でもここは本当の学校じゃない。裏世界で造られた、ハリボテの学校だ。
だったら、そこで起きる怪異は限定されない……だとしたら!
「もしかしたらと思うけど……加藤さん、付いてきて!」
ベッドから跳ね起きて保健室から飛び出す。
「ちょっと小宮山さん、どこ行くの!?」
「美術室! もしかしたらそこに、犯人がいるかも!」
離れにある保健室を出ると体育館の前を横切り、渡り廊下を駆け抜け、眠りに落ちた教室、女子トイレ、音楽室、今まで探索してきた場所を逆走していく。
そして美術室の前にたどり着く。二人とも膝に手を付きながら肩で息をしている。
「ここっ、美術室、何か……、んっ、関係あるの?」
息も絶え絶えという風の加藤さんの言葉に、深呼吸で心臓を落ち着かせてから答える。
「美術室というよりも中の物に対してかな。推測でしかないけど」
ガラリと扉を開けて再び美術室に入る。油絵の具やニスの匂いが鼻を突く中、手探りで照明のスイッチを点けるといくつもの胸像の全てが私たちの方を向いていた。
「私の考えが正しければ、こいつらの中に……」
入り口に据えられた消火器を構えると、一番近くにあった石膏像に向かって思い切り振り下ろした。
ガシャリと派手な音を立てて砕け散る胸像を尻目に、私は一つ、また一つと消火器で砕いていく。
ガシャガシャと欠片を踏みしめる音と胸像の断末魔のような破壊音がしばらく続き、ついに残された像は一つだけになった。
「あの、小宮山さん。そろそろ何をしているのか教えてもらってもいい?」
「うん、ごめん……」
ここまで全力で走った後に消火器を振り回したのでさすがに息が上がってしまった。額の汗を袖で拭うと、深く息を吸って目の前の像を見据える。
彫りの深い顔立ちをした若い男が、ギリシャ神話に出てくるような葉っぱでできた冠を被っている。他の物と同様に石膏で造られた胸像だ。首から下に刻まれた筋肉、そしてそれを覆う布地に至るまで美しく形造られていた。
「これを壊したら、説明するから!」
思い切り遠心力を加えて、胸像の側頭部を消火器で打ちすえる。彫刻刀の傷まみれの机に載っていたそれは思い切り床に叩きつけられて、派手な音を響かせながら粉々に砕け散った。どうだ……?
私の肩越しに覗き込んだ加藤さんは、その光景を見るや短い悲鳴を上げる。
「小宮山さん……この欠片」
「うん」
最後に破壊した像の欠片は表面こそ石膏のようだが、その内側は貝殻の裏みたいに虹色の光沢を放っていた。螺鈿で細工したわけではなく元々貝のような構造のようで、その証拠なのか脈動する臓器のようなものが筋繊維で癒着しており、紫色の体液が滴っていた。
「ヒュプノス―――眠りの神の器だね」
「ヒュプノス」
元はギリシャ神話に登場する神であり、ラヴクラフトは同題の短編で眠りの中で魂が宇宙の秘密に迫る者に災いをもたらす存在として描いた。
悠久に若く、美しい若者がヒナゲシの冠を被っている姿をしているといわれている。別名〈眠りの大帝〉。しかしその本当の姿は悪夢のように歪んでいる恐ろしい存在であるらしい。
後世で旧支配者の一柱として数えられることとなり、夢を媒介として対象を夢の中に閉じ込める。
「神様? そんなものまで裏世界にはいるの?」
「それはわかんないけど。ヒュプノスはたぶんTRPGのキャラクターとしての姿を採ったんだと思う。怪談やネットロアとは随分形が違うけど、世界一有名なTRPGでその特性が多く語られたせいなんじゃないかな」
ヒュプノスは夢を操るという性質から、クトゥルフ神話TRPGというゲームにおいて事件の元凶として頻繁に登場する。そこで語られた姿や特性がリプレイ小説や動画を通して拡散され、不特定多数に怪異のイメージとして植え付けられたんだろう。
「よくわかんないけど、これで倒したの?」
加藤さんの問いかけに無言で頭を横に振る。
「たぶん殻というか……力を使うための触媒みたいなものを壊しただけで本体は無傷だと思う。それでもしばらくは動かないんじゃない?」
「そっか、よかった。じゃあ今度こそ戻るための場所を見つけよっか」
「急ごう。こいつもいつ復活するかわからないし」
その時、突然チャイムが鳴り思わず身をすくませる。聞き慣れたはずのその音は誰もいない廊下や教室を通り抜け、すっかり夕焼けに染まった裏世界に吸い込まれていった。
「びっ……くりしたー」
不意をつかれて早鐘を打つ胸を押さえて、壁にかけられたスピーカーをにらみつける。
「下校時間のチャイムかな。あの時計が合ってるなら、今4時半だって」
「4時……あっ! 4時! 鏡!」
持っていた消火器を床に落とし、パンと手を打つ。
「4時44分に鏡を見れば異世界に連れ込まれる……おあつらえ向きの怪談があったじゃん! ああ、どうして気が付かなかったんだろう」
この校舎に入った時、階段の踊り場で大きな鏡を見た気がする。怪談の舞台になるのは廊下や階段に設置された大きな鏡だ。
「あと10分ちょっとある。これで帰れるね!」
「まだ確定じゃないけど、可能性は高いはず!」
加藤さんと手を取り合って喜ぶ。悪夢みたいなところから脱出できる。帰れるんだ!
「じゃあ行こうか。最初に入った玄関なら5分もかからないと思うよ」
「あっ、うん」
ガシャガシャと石膏像の欠片を踏みしめながら教室を出る。
その時、ふと扉の上の高窓なんて見なければよかった。
そうすれば、美術室を覗く看護婦と目が合うこともなかったのに。
「加藤さん! 何分だった!?」
「38分! まだあと6分!」
二人で廊下を走りながら、通り際の教室の時計で時間を確認する。後ろからはキイキイと車輪を鳴らしながら、看護婦姿の怪異が迫る。
目的の階段の踊り場へ向かおうとした私たちは、教室を出ようとした瞬間にずっと看護婦に覗かれていたことに気付いてしまった。もちろんそのまま逃げ出したのだが、走って踊り場の鏡の前に向かっても4時44分まで異世界と繋がることはない。だから4時44分になるその瞬間まで、学校中を逃げ回っているのだ。
「あぁもう! 何で台車押してるくせに昇降できるんだよ!」
「いいから走って! 帰ったら全部聞いてあげるから!」
音楽室、女子トイレ、教室、渡り廊下に体育館、そして保健室。再び逆走しながら時間を稼ぐ。
「あっ! 40分になってたよ!」
「よし! 鏡に向かおう!」
階段を駆け上がっては廊下を駆け抜け、再び階段を駆け下りることの繰り返し。一筆書きの経路で続けられた逃走劇もようやく終わりが見えてきた。
「見て、鏡に映ってる景色が」
2階から踊り場の鏡を見下ろすとそこに映るはずの景色は無く、明るい照明のモールのような場所が映し出されている。
「本当に繋がってる……飛び込もう!」
階段を駆け下りて残りの5段をジャンプで飛び越える。手を伸ばせば出口だ、というところで、後ろから加藤さんの短い悲鳴と床に倒れる音が響いた。慌てて壁を蹴って止まると、階段から生えた手が加藤さんの細い足首をがっしりと掴んでいた。
「なに、これ……いきなり足を掴んできた」
「十三段目の階段……」
「十三段目の階段」
学校の怪談の一つ。
普段は12段のはずの階段が、何度数えても13段のことがあるという。
13段目を踏んでしまうと足を掴まれて転ぶとか死後の世界に引き込まれるとか、とにかく恐ろしい目に逢うという。
「ちょっと! 離して!」
「くそっ……! 力が強い!」
青白く血の気のない手はどれだけ力を込めても彼女の足を話そうとはしなかった。そうこうしている間にも、キイキイという台車の音は近づいてくる。
「小宮山さん先に行ってて。早くしないと鏡が閉じちゃう!」
「馬鹿言うんじゃねーぞ! 看護婦も来てるんだぞ! 加藤さんを置いて行けるわけないじゃん!」
「でもこのままじゃ二人とも!」
加藤さんの言う通り、これを振りほどく方法がない以上、このままじゃ二人とも脱出の機会を失って看護婦に殺されるだけだ。何か、何か方法は……?
さっきの消火器みたいに武器になりそうなものでもないかと見回していると、床に転がった加藤さんのトートバッグから可愛らしい包みが飛び出しているのが目に入った。一緒に買った成瀬さんへのプレゼントだ。
「……マジで一か八かだけど、一個思いついた」
「大丈夫だよ」
加藤さんは私の目を見つめながら、強く頷いた。
「私は小宮山さんを信じてるから」
「ありがと、祈ってて」
急いで包みに手を伸ばして包装紙を乱暴に破り捨てる。そして化粧箱もビリビリと開け、中の物を取り出した。それは私たちが普段使うには値段がお高い、ちょっといいファンデーションだ。
「ショップで試させてもらった時に見たけど、これ蓋の内側が鏡になってるよね」
ファンデーションの蓋を開き、私たち二人が入るように高く掲げた。
「こうやって反射させて私たちの姿を踊り場の鏡に映せば……直接体が映ってなくても帰れるかも」
ワイファイを拾うかのように腕を伸ばし、ファンデーションの位置を微調整する。その間にも時間は過ぎていく。
「ま、だめだった時はゴメンね」
「その時は……最後にメイクしてあげようか」
振り向いて彼女の顔を覗き込むと、こんな時だっていうのに穏やかな表情で笑っていた。どんな結果も受け入れる準備が出来てるみたいだ。
「じゃあ、頼もうかな」
吹き出しながらそう答えた直後、小さな鏡からは強烈な光が放たれた。直視できないほどの光に目が眩んで、私の視界は白く飛んだ。
目を覚ますとそこは元のモールだった。
メインストリートから外れた脇道の、機材搬出入口前の大きな鏡。その前で私と加藤さんは横たわっていた。
初めに出た感想は「うるさっ?」だった。
思い思いにおしゃべりする買い物客たち、セールの呼び込みをする店員たち、ポイント10倍を連呼する店内放送。そして感動のワンシーンをリピートする映画広告。こっちの世界って、こんなに音に溢れてたっけ。
続いて思い出したようにスマホを見た。よかった、戻ってる。そして時間を見るとまだ18時前。裏世界をさまよっていた時間と計算が合わない。
夢だったのかと思おうとしても、隣で倒れたままの加藤さんの足首に残った赤黒い手形が現実だと物語っていた。
「加藤さん、加藤さん起きて」
「う……ん、すごい音」
不快そうに眉をひそめてから、今の状況に気付いたのかガバッと飛び起きた。
「ここ、モール? じゃあ……」
呆けたような彼女の目をしっかりと見つめながら、にやけ面で頷き返す。
「帰ってこれたよ。私たち」
それからひとしきり抱き合うなり握手するなり泣き声を上げるなりした後、巡回に来た警備員に不審そうな目をされたのでそそくさとその場を後にした。
さすがにお互い一人で帰るには心細かったので、二人でタクシーを乗り合わせてお互いの家まで帰ることにした。私たちの長い長い一日は、こうして幕を下ろしたのだ。
「結局、成瀬さんへのプレゼント駄目にしちゃったなぁ」
それから何日か経ったある日、下級生たちが期末テスト期間なので代打を頼まれて座った図書室のカウンターでストーブに当たりながらひとりごちる。加藤さんが成瀬さんのために買ったファンデーションは箱も開けちゃったしなぜか鏡に人が映らなくなっちゃうしで、とてもじゃないが渡せなくなってしまった。
「駄目にしちゃたのは私だし、買いに行かなきゃだけどなぁ……」
あんなことがあった後だ。私はモールはおろか、スタバにすら入るのを躊躇うようになってしまった。さすがに二度とあんな思いはごめんだ。
「あっ、いたいた」
ガラリと扉を開ける音とともにそんな声が聞こえて、慌ててカウンターから顔を上げる。そこには顔の半分をマフラーに埋めた加藤さんが手を振っていた。
「どうも。今から帰るの?」
「うん、その前に小宮山さんに会おうと思ってね。そしたら先生が図書室にいるって」
彼女はカウンターを回り込んで、私の隣に座った。普段なら担当でもないのにカウンターの中へ入る奴には鼻白むところだが、今日は私しか図書委員もいないし別にいいか。
「何か用だった?」
「次はいつ行くのかなって」
何言ってんだ。
「あ、モール? 加藤さんのプレゼント駄目にしちゃったしね」
「ううん、裏世界」
マジで何言ってんだ。
「マジで言ってんの? あんな怖い目にあったのに?」
「うん、私もすごく怖かった。帰った日はお風呂に入るのも怖すぎて、シャワーだけで済ませたし。寝る時も電気点けてたんだよ」
「じゃあなんでまた……」
彼女はトートバッグをゴソゴソとあさって、取り出した何かを目の前のカウンターに置いた。石膏の塊のようだけど、内側は螺鈿細工みたいに綺麗な石……
「これっ! ……ヒュプノスじゃん」
思わず声を上げそうになったが、ここが図書館だということを思い出して、すんでのところで声を潜めた。数人から向けられた抗議の目が突き刺さる。
「うん、持ってきちゃった。綺麗だったから」
「やめなよ、何が起こるかわかんないんだから」
彼女は私の言葉を気にする様子もなく、ヒュプノスの殻を再びバッグにしまい込んだ。
「私ね、探検して敵から逃げて、お宝を手に入れて脱出して。そんな冒険がすごく楽しかったんだよね。だからまた二人で行きたいなって」
弱った、思ったよりヤバい奴だった。
「だからさ、今度はサバイバルの準備して行ってみない? ナイフとか携帯食とかを持って」
確かに、私もあそこでの体験に興奮したのは事実だ。もう行けないのかなと思いを馳せたこともある。ただ、自分から進んで行こうとはさすがに思わなかったぞ。
「行く行かないは別にしてさ、何で私を誘うの?」
「うーん、頼りになるからっていうのもあるけどさ」
加藤さんはそっと私に顔を近づけると、耳元でぽつりと呟いた。
「共犯者って、この世で最も親密な関係なんでしょ?」
残り香に包まれて呆気に取られる私を置いて、加藤さんは一つ手を振るとさっさと図書館から出ていってしまった。
あとに残されたのはハンカチにくるまれたもう一欠片のヒュプノスの殻と、裏世界ピクニック1巻。
「いつの間に読んだんだか」
私はその本を『整理中・貸出可』のラックに戻すと、スマホで通販サイトを開いた。キャンプグッズにサバイバル用品。一応もしものために下調べだけでもしておこうかな。
ストーブの上に置かれたヤカンがシュンシュンと鳴る。
もうあんな怖い体験はコリゴリだ。でももし、もしも私の気が変わったら。
その時はまた二人だけの、秘密の場所で会おう。