英雄伝説 天の軌跡Ⅱ 作:十三
■設定⑨【スワンチカ家】
《マーナガルム》の《二番隊》副長補佐、ライアス・N・スワンチカの生家。
《獅子戦役》に於いて《槍の聖女》リアンヌ・サンドロットと共に最後まで戦った一族であり、アルゼイド家と共にサンドロット家に仕えた忠臣の一族であった。
■設定⑩【ツバキの性別】
《マーナガルム》諜報部隊《月影》の隊長であるツバキは、少女に寄った外見をしているが、その本当の性別を知る者は少ない。本人は「兄上(レイ)が望むのならどちらでも」という妖しい言葉を残している。
■設定⑪【レイの専用戦術オーブメント】
士官学院在籍時は、「呪力を扱い、魔力というモノを元々有していない」レイの為に、オリヴァルトがリベールの《ZCF》に依頼して、専用の戦術オーブメントを用意していた。レイは貴重なサンプルとして使用データなどを逐一《ZCF》及びラッセル家に送っていたが、先の《天翼》フリージア戦の際に欠片も残さず消失。
「
『
短い通信を終え、レイは戦術オーブメントを閉じる。
現在潜伏している場所は、首都ヘイムダルより僅かに離れた、舗装された森林保護地帯。つまりは意図的に植え付けられた自然の一画。
とはいえ、そんな状態で向こう100年も経とうものならば、それはもう立派な自然地帯だ。11月の寒風が木々の間を通り抜け、肌に刺さる。
だがそんな事は問題ではない。現在この近辺を守護しているラマール領邦軍の《近衛隊》の目を掻い潜ってこの一画に辿り着いてから、はや30分。
時刻は既に22時を回っている。冬期である事を鑑みても、周囲には点々と設けられた七耀灯の光しか存在していない。
だが、夜目の慣らし方はこういった界隈に身を寄せている場合義務教育レベルである。僅かな光源を頼りに、周囲の状況を把握する。
12時間前にこの作戦を依頼してきた
つまり、これ以上この作戦の開始タイミングを先延ばしにすれば、現在重要度だけで言えばバルフレイム宮よりも高いこの場所の警備が更に堅牢になる可能性が高い。それこそ、鼠一匹通さない厳重体勢。
オリヴァルトよりデータ化して渡されたカレル離宮内の見取り図と、想定できる警備体制を組み合わせて作戦を練る。
侵入ルート及び作戦実行ルートは何通りか思い浮かんでいるが、その内の幾つかは十中八九
「あのアホ皇子……遠慮なくコキ使いやがってよぉ」
「どうするッスか、大将。《
茂みに身を潜めるレイの背後でそれなりの長躯を屈ませているライアンが、僅かな不安を滲ませた声でそう言った。
《
「今まで何度も鉄火場潜ってきたっすけど、コイツぁ飛びぬけて厄ネタ案件っすよ」
『グチグチ文句言うんじゃありませんよ、ライアス』
その声は、レイの口から出たわけではない。するとレイは、現在存在していない筈の
直後、その左腕がバラバラに分解されていく。それを構成していたのは骨と肉ではなく、特殊な紙の集合体。レイの”左腕”に擬態していたそれは、一度完全に分解されてから再びヒトの形を取る。
「そもそも貴方の派遣を決定したのはヘカティルナ団長です。貴方に拒否権は元々ありません」
「どストレートに正論叩きつけないで下さいよぉ……ツバキ姐さん」
緑の中に溶け込むにはあまりにも不適切な、しかし闇夜に紛れるには最適な黒の和服と同系色の外套。その気配の消し方は堂に入ったものだった。
得物としても使う鉄扇を開き、口元を隠しながらライアスの脇腹を肘で突く。矮躯から繰り出されているとは思えないその威力に咽せかかるが、何とか寸前で飲み込む。
「そんじゃ、始めるぞ。事前打ち合わせ通りに動け。……ま、打ち合わせって言う程のモンでもねぇけどな」
時間は、5時間前まで遡る。
―――*―――*―――
「アホ皇子からカレル離宮の内部図が送られてきた」
バサリと《フェンリスヴォルフ》の作戦指令室の机の上に設置されたホログラムビジョンには、本来皇族及びその場所の警備を司る者以外には不出である筈の見取り図が映し出されていた。
カレル離宮。エレボニア帝国の歴代皇族たちが主に避暑地に使っている場所であり、帝都ヘイムダルの近郊にありながら、緑豊かな自然に囲まれた建物だ。
年に数度、帝都庁主催でツアーが組まれ、一般市民にも開放される場所ではあるが、当然ながらその時に見学できるのは極一部の区画だけだ。離宮の警備担当か世話役でもなければその全域を知ることは無いだろう。
とはいえ、庶子である事を差し引いてもオリヴァルト・ライゼ・アルノールは皇族の一人だ。加えて人たらしの性格であれば、こういうものを調達する事自体は難しい事ではないだろう。―――問題はその重要機密事項を作戦成功の為とはいえ、ただの猟兵団に流しているという事なのだが。
「この作戦が終わったら破棄してくれとは一応言われてるけど……うん、
「あぁ……
「流すところに流すなら軽く二桁億ミラは捥ぎ取れるでしょうからねぇ」
大国の皇族避暑地、及びヘイムダル中心地で大規模のテロ事件等が起こった際の皇族の避難地区であるという事を考慮すれば、その情報がどれ程重要であるのか、想像に難くない。
とはいえ、そこはこの猟兵団の金回りの一切を管理する《経理班》の面々の良心を信頼するとして、本題はここからだった。
現在この指令室にいるのは、レイ、ヘカティルナ、ライアス、ツバキの四名。その中で、マップの隅々にまで目を通していたヘカティルナが口を開いた。
「まず、今作戦の勝利条件を答えてみろ―――レイ」
「第一に、依頼にあったセドリック・ライゼ・アルノール皇太子の身柄の保護。
それは逆に言えば、たとえ拒んだとしても無理矢理連れてくるという事。
今回の作戦は、事が発覚した時点で成功させるしか道はない。最悪の事態は幾らでも考えられるが、最高の結果を掴み取る道筋はかなり細い。
「第二に、離宮警備部隊を
正直な話、皇太子を拉致するというだけでも一族郎党極刑ものの大罪ではあるのだが、「帝都ヘイムダルを武力で占拠した挙句、皇族を不当に監禁している」という尤もらしい言い分をオリヴァルト側が表明すればまだ何とかなる。
だが、皇太子奪還時に「殺害」というプロセスが加わるとその立場が揺らぐ。そちらも所詮は武力行使で皇族の利権を搔っ攫おうとしているだけだろうと、強制的に同じ土俵に立たされてしまう。
こうした極秘作戦に於いて、「殺害」という手法は大きな意味を持つ。暗殺及び工作任務であればその方法を厭わないが、様々な立場で縛り付けられている状態では迂闊な行動一つが容易く最悪なシナリオへの一本道を作り出してしまうのだ。
「第三に、
そう。ここまで条件を整えて、
指示したのがオリヴァルトであるという事はすぐに勘付かれるだろう。だが彼には正当性がある。今の貴族派はどう取り繕おうとも、首都の中心地に最新鋭の兵器を大量に投入し、市民に少なくない死傷者を出したという結果を残してしまっていた。
そんな面々に監禁されている今、皇位第一継承者であり、何より腹違いであるとはいえ自らの弟が危険に晒される可能性が高いという
だが、当然ながら《マーナガルム》にはその理由が適用されない。そも、オリヴァルトが自ら率いる部隊で奪還を成し遂げたのならまだしも、事もあろうに猟兵団に依頼して為したとあれば風聞が悪くなる。
貴族派に属する者達が独自に猟兵団を雇って暴れ回っている現状で何を今更、と思うかもしれないが、「正義」を成そうとする側であるのなら、痛くない腹を突かれる要因と言うのは一つでも多く潰しておかなくてはならない。
他の戦闘で《マーナガルム》に戦闘を要請するのならいざ知らず、今回の任務ではオリヴァルトは可能な限り《マーナガルム》との繋がりを隠しておきたいのだと思われる。
だからこそ、通常の依頼料とは別に「カレル離宮の見取り図」という、外患誘致に抵触しかねないというか限りなく真っ黒に近いダークグレーのような情報を寄越したのだろう。
「キッッッッッツ‼」
「まぁ確かに難易度は高いですね。そこら辺の木っ端兵士が警備しているならともかく、相手にしないといけないのはあの《皇室近衛隊》ですから」
《皇室近衛隊》―――それは文字通り皇室の警護をする貴族部隊の中でも、最精鋭と謳われる部隊。皇族個人の守護を仰せつかったヴァンダール家とは異なるものの、その練度は勝るとも劣らない。
構成人数そのものは20名と少しでしかないが、全員が”準達人級"以上の武人であり、総隊長と副長に至っては”達人級”に至っている。
真正面から斬り合うような場面であれば勝機を生み出す戦い方が出来なくも無いが、今回のような隠密が大前提の作戦では正直かち合いたくはない。
「接触は避けては通れない。そこを工作する程の時間は無いからな。そうだろうツバキ」
「仰る通りです団長。如何に《月影》といえど流石にエレボニアの皇族の周囲に諜報員を配置する事はできていません。……まぁ共和国側に人員を結構割いているのが原因ではあるんですけどねー」
「共和国側のマフィアやらギャングやらは勢力図が滅茶苦茶すぎるし、そこに政府組織やらも絡むと毛細血管並みに複雑怪奇だからな……」
《月影》に属する諜報員も、勿論多くはない。そして秘匿性が高い場所に潜り込むのならば、その危険性に比例して潜伏期間も長くなる。
リベールのグランセル城にメイドとして潜伏しているサヤなどがそのいい例だ。ましてや軍事大国であるエレボニアの秘匿の中心部に潜るとなれば―――それこそツバキが自ら入り込むくらいしかない。
何せ、一度は皇城バルフレイム宮内にあるオリヴァルトの私室に誰にも気づかれることなく侵入し、部屋の主が来るまでソファーに寝転がって悠々と雑誌を読み耽っていた前科がある。
「潜入、工作、保護、脱出。その全てを闇に紛れて行わなくてはいけません。ただ闇雲にやるだけでは難易度は最高レベルですね」
「……ツバキ姐さんをして”最高レベルの難易度”っすか」
「んー、
それでも”不可能”と言わない辺りにプロとしての矜持が垣間見えたが、「限りなく難しい」と見て間違いはないだろう。
そしてそれを聞いて、ヘカティルナが判断を下す。
「ライアス」
「はい」
「この作戦、貴様が
その言葉に息を呑み、冷や汗が首筋を伝う。
《
だが、彼は猟兵団《マーナガルム》という組織の中で上からの命を受けて動く人員の一人。それが命令であるならば、異論を挟まず実行しなくてはならない。
―――
だから、口から出かかったその疑問を寸前で飲み込んだ。
自分の力が必要とされているのならば、それに応える。ぐうの音も出ない程に完璧に。それが猟兵というものだ。
そんな事を考えていると、作戦指令室の外からドタドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「クソがクソがクソが‼ あンのクソアマ、ネチネチネチネチ文句垂れやがってよォ‼ 死ね‼ 動力部の中心に濡れ手突っ込んで感電して死ね‼」
聞くに堪えない罵倒と共に指令室に入ってきたのは、小柄なツバキよりも更に頭一つ程背が低い赤毛の少女だった。
背丈だけで言えば、まだ日曜学校に通っていてもおかしくない程の年齢に見える。ブカブカな白衣は完全に
バリバリと、その身に宿ったストレスを発散するように口内に入れていた某付き飴を齧り砕く。
「久し振りだな、メルド。相変わらず怒りまくってんな」
「―――ッチ。ンだよテメェかよ。相変わらずムカつく面してやがる。高度100セルジュから自由落下して死ね‼」
「いくら”達人級”でもさすがに死ぬやつだ……‼」
「やかましいンだよライアスよォ‼ 今からおっ死ぬ生贄みてぇにウジウジしやがって。目障りだから死ね‼」
「死に方すら省略されんの嫌すぎるんすけど⁉」
つらつらと流れ出でる罵詈雑言。誰がどう見ても教育に良い存在ではない。
だがこの少女―――マーナガルム《
「テメェから死にに行く大馬鹿野郎どもに、
―――*―――*―――
カレル離宮最上階、皇族専用室。
通常であれば日々の政務や重責から解き放たれた彼らに一時の安らぎを提供するための場所だが、現在その場所は重苦しい空気に支配されていた。
皇帝陛下、皇妃殿下、そして皇子殿下。三名はそれぞれ別の部屋に押し留められ、部屋内と扉の外に常時一名以上の《皇族近衛隊》の隊員が”護衛”に付いている。
無論、それは半分本音で半分建前だ。
《皇族近衛隊》の面々は、貴族連合の実質的なトップ、クロワール・ド・カイエン公爵より「皇族の方々を混迷極まる帝都の喧騒から確実にお守りしろ」との命を受けており、それはつまり「誰一人としてこの静謐の牢獄から出すな」という命と同義であった。
故に、皇帝皇紀夫妻であっても別室に隔離されており、家族が共に在れるのは日中の僅かな時間しかない。普段であれば不敬極まる処遇であるが、緊急事態であるが故、やむを得ないというのが貴族連合の決定であり、ユーゲントⅢ世もこれに同意した。―――それが本心からのものではないという事は、誰の目から見ても明らかであったが。
皇帝も皇妃も、勃発してしまった内乱の中で虐げられ、傷つく民の事を深く憂いていた。それと同時に、未だ行方不明である皇女のアルフィンと、長兄オリヴァルトの事も心の底から心配していた。
行動力の化身とも言える長兄オリヴァルトに対しては、以前に正体を隠してリベールに赴き、現地の友らと共に西大陸を揺るがす事件を解決に導いたという経歴から頼もしく思ってはいたが、それでもその身を案じてしまうのが親心というもの。 皇妃プリシラからすればオリヴァルトは自身の腹を痛めて産んだ子ではないが、それでも彼が皇族の長兄として妹や弟を可愛がっているのを知っていたし、家族の一員として信頼していた。
だから、だろうか。やはり娘のアルフィンの方を第一に心配してしまうのは。
彼女もオリヴァルトに似て好奇心が強く、行動力が高い。皇族という使命に縛られながらも、せめて幸せに生きて欲しいという両親の願いの下、天真爛漫に育った彼女だが、こんな状況下で行方不明ともなれば最悪の事態を考えてしまうのは仕方のない事だろう。
そして、そう考えているのは両親だけではない。
「(兄様……アルフィン……どうか、どうか無事で……)」
自室のソファーに座り、俯いたまま、皇位継承権第一位のセドリックはひたすらに女神にそう祈っていた。
それしかできない事を、彼は知っていた。幾ら皇族の一員とはいえ、この場に於いて自分が行使できる権力など無いに等しい、と。
事実、それはその通りであった。セドリックが警備を担当している隊員に頼めば、望むものはある程度用意してくれるだろう。だが、決して自由に外を出歩かせてはくれない。
普段から強くなりたいなどと願っていても、所詮はその程度でしかなかった。帝都が戦火に包まれた際も、何もできずに恐怖心に震えながら、ただ為す術無く《皇室近衛隊》の面々に警護されながら離宮に避難していた。
父と母は、その間も民を案じて出来るだけの事をしようと尽力していたというのに、自分はと言えば比喩でも何でもなく”何もできなかった”のだ。
それを情けないと感じているのは男の性というものだろう。
今こうやって、祈る事でしか兄と姉の無事を案じる事ができないというのも拍車をかけていた。
「殿下……」
そんなセドリックに、声をかける人物が一人。
部屋内で警護に当たっている近衛隊の隊員ではない。セドリックの隣に座っていた、同年代の少年であった。
髪色は、青みがかった銀。セドリックのように、彼もまた中性的な顔立ちをした美少年だった。
「大丈夫です、殿下。皇子殿下も皇女殿下も、きっと生きておられます」
「……うん、そうだね。そうだよね。二人とも、僕なんかよりずっと立派だから……」
元気づけようと声をかけたが、それが実のところ逆効果であった事を察した少年は、顔を伏せてしまった。
どうすればいいのだろう、と思考を巡らせるが、あらゆる言葉が浮かんでは消え、絡まり合いながら沈んでいく。結局は、無力を嘆く若者が二人になっただけだった。
窓の外に目をやっても、真っ暗な暗闇が広がるだけ。今夜は新月。帝都中心部であればこんな夜でも街灯などの灯りがポツポツと見えるものだが、ここには視界を補うにはあまりにも心細い星の灯りがあるだけだ。
恐らく明日になっても明後日になっても同じ日が続くだけ。この国が良い意味でも悪い意味でも落ち着いた時に、連行されるように再び皇城に戻されるだけ。
そこに考えが至った時、形容し難い悪寒が全身を駆け巡り、その細腕で自分の身体を抱いた。帝国の至宝などと持て囃されているが、一部の貴族からは「軟弱」と揶揄されている事も知っている。
そんな自分を変えたくてギリアス・オズボーンに憧れていたというのに、
であれば、今のこの顛末は必然だ。どうすれば良かったかという言葉を投げかける人物は、今この場には存在していない。
どうしたら―――焦燥感にも似た複雑な感情を濁らせた時、ふと視界が部屋の隅を向いた。
何があったというわけでもない。焦りが視界を移ろわせただけだった。しかしその気紛れが、一つの違和感を見出した。
通常、この皇族専用の一室は、内装全てが煌びやかだ。故に生活感というものは極力排除されている。
だがこれらの部屋には、皇族家というこの国で最も高貴な一族を守るために、非常用の隠し通路というものが存在していた。
普段は巨大な絵画に隠されている通路であり、セドリックは幼い頃にも同じ部屋をあてがわれた事もあり、父からその通路の存在だけは知らされていた。
その絵画が、僅かに
「‼ 何者ッ―――」
その違和感を護衛役の隊員も察したのか腰に佩いた剣の柄に手を掛けるが、時既に遅し。
「悪ぃな。ちっと眠っててくれ」
小さな黒い影が、隊員の背後に一瞬で回り込み、右手の掌にあった札を鼻と口に押し付ける。
隊員は僅かな時間呻き藻掻いたが、完全に羽交い絞めにされていた上に関節を決められており、ものの数秒で意識を失った。
あまりにも見事な動きで”準達人級”の実力を持つ隊員を無効化したその人物の脅威を感じ取ったのか、少年がセドリックを庇うような形で前に出る。
武器は没収されて久しいが、それでも少年はセドリックを護るためにここにいた。であれば、たとえ勝ち目があろうがなかろうが、立ち塞がるのが道理であり、忠義であった。
しかし侵入者は、おどけたように軽く両手を挙げてそれ以上近づこうとはしなかった。
「あー、待った待った。別に暴れようなんて思ってねぇよ。なぁ、セドリック」
「あっ、その声は―――」
その声をハッキリと聞いた時、セドリックの顔に笑みが零れた。
忘れない。忘れるわけがない。何せそれは、気弱な自分が初めて作った友の声だったから。
「レイさん‼」
「元気そうで何よりだ。あと声は抑えてな。幾ら防音仕様とはいえ、外の隊員に気付かれる」
全身を覆う漆黒の外套を脱いでその姿を現した若き”達人級”の少年は、右の人差し指を自らの唇に押し当てた。それを見て、セドリックは高揚感を抑えて口を閉じた。
「殿下? えっと、お知り合いですか?」
「う、うん。前に話したことがあったでしょう? 兄様がスカウトした元遊撃士の人だよ」
それを聞いて少年も思い出す。セドリックの護衛に選出されて少し経った頃、初めて出来たという友の存在を。
それならば、と警戒を解こうとしたが、いや、と思い直す。
とはいえ、ほんの少しばかり感じる、底の見えない深い感触は確かに達人のそれだ。父や母と同じ、自分などとは遥かに格が違う闘気。
状況としては完全に、虎を睨みつける子鼠といった有様だ。だがその勇気を見据えて、レイは口元に笑みを浮かべた。
「そりゃそうだ。お前さんは正しい。従者として、ここで警戒を解くのは失格だ。―――あぁ、成程。ミュラーさんから聞いてたわ。お前さん、ヴァンダールの家の
「…………」
「ま、今はそんな事は良いか。それよりも、ホレ」
レイは懐から出した封蠟入りの手紙を、手首から上の動きだけで投げ、それは緩やかな軌道を描いた後、セドリックの手の内に収まった。
「これは?」
「お前の兄貴からお前への手紙だ。それを信用状代わりだと思ってくれ」
はしたなくある事は知りつつ、セドリックは封の一部を強引に千切り、中の手紙を取り出した。
広げて、そこに書かれていた文字を見る。それは確かに兄の筆跡であり、早急に上から下まで流し見た。
そこに書かれていたのは、ある意味セドリックにとっては最大の試練にもなりうる内容であった。
「……殿下、拝見を、させていただいても?」
不敬な行動である事は知りつつも、少年は恐る恐るセドリックの手から手紙を受け取る。
始めはただの近況確認だった。弟であるセドリックに対して、こんなことに巻き込んで済まないという謝罪も添えられていた。
その上で、セドリックにも帝国の混乱を鎮めるために、一緒に戦ってほしいと。
「信じるか信じねぇかの判断は任せるよ」
「……いえ、これは間違いなく兄様からの手紙です」
セドリックには分かる。筆跡などもそうだが、昔からよく皇城を開けていたオリヴァルトと手紙のやり取りをしていたセドリックにしか分からない文章の癖や文字の開け方など、その全てが偽造などではなく本当の兄からの手紙であるという真実を雄弁に語っていた。
「で、どうする?」
レイのその言葉は、先程とは違い、妙に冷え切っていた。
セドリックにも何となく分かっていた。これは、
だが、言葉を紡ぎだせるはずの喉が鳴らない。それどころか、肺から抜ける筈の空気も妙に引っ掛かる。
プレッシャーに圧し潰されそうになる、という経験をあまり有していないが故に、その二択の選択にすら、軽い呼吸困難を伴い始めていた。
兄の偉大さ。それはここ数年で身に染みて分かっていた。名を変えてリベールに赴き、危うく隣国を巻き込む事になりかねなかった大事件を解決し、つい数ヶ月前には皇帝の名代としてクロスベルで開催された通商会議に出席した。
庶子である事を理由に皇帝の座は頑固として拒否しているが、エレボニアに住まう民たちは兄が皇位に就く事を望んでいるのかもしれない。或いは、自分よりも民に好かれることができるアルフィンの方が、と。
とはいえ、そこに嫉妬の感情などは無かった。そこにあったのは、「自分程度の存在がこのような大国を統べる事などできる筈がない」という諦観。
何か切っ掛けが無ければ、セドリックは恐らくこういった極大のプレッシャーに晒されることなく、目の前に差し出された冠を手に取る事になったのかもしれない。エレボニア史上最も軟弱な
だが今、兄の手助けをできるようになれば?
気弱で、貧弱で、優柔不断な自分がここで足を踏み出す事が出来れば、何かが変わるかもしれないのならば?
喉元からせりあがってくる軽い嘔吐感を飲み込み、セドリックは前を見据える。
「行き、ます。僕を、連れて行ってください」
その声は、情けないものであったのかもしれない。震え、怯え、目尻からは緊張感の末に流れた涙もあった。
だが、レイは決してそれを嗤わなかった。覚悟の発露。この段階でオリヴァルトが一番見たかったであろうものを見たレイは静かに頷いた。
「承った。お前を無事に、オリヴァルトの下へと送り届けよう。―――それとお前」
「なん、でしょう」
「お前も着いてこい。セドリック以外を連れて行くなんて契約にはないが、まぁここでセドリックを誘拐した犯人の素性を近衛の連中に漏らされたら任務失敗なんでな」
「僕が、殿下の邪魔になると?」
「見たところそれなりに覚悟キマってるようだが、相手が
そう言われると、口を噤む事しかできなかった。
エレボニア史上最大の内乱、《獅子戦役》。その乱を制し、後に《獅子心皇帝》と呼ばれたドライケルス・ライゼ・アルノールがノルドで挙兵した際から彼と共に在ったという絶対の忠臣。それが現在のヴァンダール家の先祖、ロラン・ヴァンダールであった。
その伝説をなぞるなど、今の自分には恐れ多い事であったが、それでもその話を持ち出されれば行かないわけにはいかない。
「そういえば、名前は? ちなみに俺はレイ・クレイドルという。よろしく」
「……クルト・ヴァンダール。一応、よろしくお願いします」
不承不承、という体ではあった。
この時点で、彼はレイ・クレイドルという存在を何も理解していなかった。それでも、敬愛する主が友と呼ぶ人ならばという点だけで協力する事にした。
その心情をレイもよく理解していたのか、見透かしたような笑みを一瞬だけ見せて、しかしすぐに目の色を鋭くする。
「よし、なら今すぐ二人ともこれを付けろ」
そう言うと、肩から吊り下げていたバッグの中から、それなりにゴツい帽子のようなものを二人に手渡す。見慣れない物の存在に、セドリックは緊迫した雰囲気の中で思わず呆けてしまった。
「あ、あの、これは……?」
「まぁとりあえず装着しろ。そんでもってそのスコープを目の位置に合わせて調節して、っと―――よし、間に合ったな」
「ちょ、ちょっと‼ 説明くらいしてください‼ これは一体何なんですか⁉」
「あんまり大きな声出すなって言ってんだろクルト。説明する時間はねぇんだ。一先ずこれで、お前ら二人のここからの視界は確保できたからな」
クルトの尤もな疑問を容赦なく受け流し、レイは部屋内にあった時計で時刻を確認する。その一連の動作を行ってから、再び二人の方に向き直る。
「さて、早速だがこれから第一の試練を行う。二人とも、捕まりたくなかったら力の限り全力で逃げろ」
「えっと……」
「まさか……」
「これまでの人生で一番過酷な”鬼ごっこ”の始まりだ」
その瞬間。
離宮全域が、完全な闇に包まれた。