英雄伝説 天の軌跡Ⅱ 作:十三
《獅子戦役》の折、ドライケルス・ライゼ・アルノールと共にノルドでの旗揚げに同行した16名のノルド戦士の呼び名。ちなみに16名の内10名が達人級という強者揃い。残りの6名も、内戦の中で3名が達人へと昇華した。
それでも、戦役が終戦した後まで生き残ったのはたったの6名。ノルドに帰った者もいれば、そのまま獅子心皇帝への忠義を貫いて貴族になった者もいる。ガイウスやウォレス・バルディアスの先祖はこの生き残り。
■設定⑲【《輝双剣》ロラン・ヴァンダール】
若きドライケルスの護衛であり、幼馴染であった人物。ヴァンダール一族の中興の祖と言われる。
一言で言えば苦労人。基本的に気の赴くままに動くドライケルスのブレーキ役であり、矯正役であり、そして一番の理解者であった。
武人としては”準達人級”の階梯で止まってしまっており、不甲斐なさをいつも嘆いていたが、ドライケルスの窮地を救うために身を挺し、戦死する。
このすぐ後に邂逅したリアンヌ・サンドロットはドライケルスの口からロランの武勇伝をよく聞き、「一度お会いしてみたかった」と零していたという。
―――ふとある時に、自分は弱い人間なのだと理解した。
大陸の二大大国の内の一つである帝国の皇族、それも皇位第一継承者という立場に生まれた者。父と母も優しく、少し意地悪だが活発で明るい双子の姉、そして年齢の離れた頼れる異母兄。そんな家族に囲まれた暮らしと、恵まれた環境を不満に思った事など一度も無かった。
ただ、生来の病弱ぶりに関しては、物心がついたころから辟易としていた。
しかし、その悩みを父や母に打ち明けたことは無かった。母を悲しませたくはなかったし、父を失望させたくもなかった。姉には話したことはあったが、「ムキムキになったセドリックを見るのなんて嫌よ」などと揶揄われて終わってしまった。
彼にとって、”強い人間”というのは憧れだった。
物語の英雄譚に綴られる、悪魔や竜と戦う戦士や魔術師。250年前の《獅子戦役》で、ノルドの戦士や《槍の聖女》らと共に内乱を収めた自らの先祖である《獅子心皇帝》を始めとした、強者を体現したような英雄たち。
彼らの生き方に憧れた。その精神に、その強さに。それは「男として生まれたからには斯く在りたい」という、幼い少年が一度は夢見る願いであったとも言えるが、彼の立場がそれを夢のままで終わらせなかった。
異母兄は庶子であり、当人も皇位は継がないと断言していた。となれば必然的に、次期皇帝を継ぐのは自分という事になる。
であれば、
故に、彼の目標は自ずと決まっていた。
《鉄血宰相》。貴族が幅を利かせていたエレボニア正規軍の中に突如として現れた”英雄”。武勲を挙げ、悪徳貴族を粛清し、そして宰相という位に就いて尚、雄々しさの具現ともいえる振る舞いを崩さない人間。
灼熱のような生き様。不条理にも困難にも屈さない強靭さ。それは強さがあるからこそ辿れる道筋であり、だからこそ自分もそう在らねばならないと奮起していた。
だが、その心は脆くも崩れ去る事になる。
”戦争”を見た。
強大な力が、守るべき民を踏みつぶす瞬間を見てしまった。皇城から離宮に避難する間の一瞬の出来事ではあったが、彼にはそれが酷く恐ろしいものに見えた。
強い者が弱い者を嬲り殺すなどというのは、戦場では特に珍しくもない光景だ。多く戦場に立つ者は、最初こそその光景に憤り、恐怖を抱くものだが、数をこなせばその感情は死んでいく。
力を手にするという事は、そうした悲惨な光景を多く目の当たりにするという事。そして、己の正義感と上手く折り合いをつけていくという事でもある。
どれ程強い者であったとしても、弱者の全てを救う事は出来ない。理不尽な目に遭う全てを守る事は出来ない。何かを救うために何かを切り捨て、何かを得るために何かを捨てる。そういった取捨選択の先にある自分なりの「最適解」を見つける事。それが為政者としての責務でもある。
だが、彼は優しかった。
かつて皇城内で飼っていた犬が寿命で死んだ時、一日中泣き腫らしたような心優しい少年が、どうして他者の犠牲を許容できようか。
必要悪、最低限の犠牲。国を回す為にはどうしてもついて回るそれらを見据える事などできはしない。
だから、皇帝ユーゲントは息子に息子に対して厳しく当たったりはしなかった。
或いは、それが良くなかったのかもしれない。身体が弱く、心優しい息子を心優しいままで居させてしまったのだから。
憧れはするが、手を伸ばせない。眩しくは思っても、それより前に出ようと一歩を踏み出そうともしない。
『脆弱』―――その言葉を最も忌避しながら、その概念から抜け出す事が出来なくなった人間。
それが分かっていたからこそ、情けなくて、情けなくて。たった一人で夜な夜なベッドの中で嗚咽を漏らす日々。
異母兄はあんなにも行動的で、皇族の一員としての務めを果たしているというのに。双子の姉はあんなにも積極的に世を見て、親友を作り、自分に出来ないことは無いかと模索しているというのに。
弱い自分にできるのは、国民や貴族の子女から「可愛らしい」と褒めそやされるだけ。これでは店先に並ぶ客寄せの人形細工とどう違うというのか。
「強くなりたい」という思いは日増しに大きくなっていった。
腹の内で渦巻くような感情。込み上げてくるそれが、正しいものなのかどうかすら分からない。
離宮から少し離れた場所で起きている戦火が、オズボーン宰相の今までの手腕の果てに引き起ったものであるならば。それに倣った”力”とは果たして正しいものなのか?
何が正しくて、何が間違っているのか。それすらも分からない堂々巡り。息苦しさと吐き気を催す程の精神的疲弊を覚えた時。
―――その人は、また僕の前に現れてくれたのだ。
―――*―――*―――
目が覚めた時、感じたのは肌を劈くような寒さだった。
身体が震える。吐いた息が白く濁り、差し込んだ朝日の中に消えていく。
むくりと身体を起こす。寝袋に包まれてはいたが、寝転がっていたのは枯草の上だった。チクリと首筋を指す痛痒さが、セドリックの意識を現実に引き戻す。
あぁ、と。自分がしでかしたことを思い出す。
後悔は、していない。今更戻って釈明しようとも思わない。ただ、実感が薄かった。
本当に自分が、
「おや、起きられましたか。殿下」
その声に反応し、顔を上げる。
そこに居たのは、火の番をしていた青年だった。
離宮で出会った時は暗視スコープ越しであったために外見的特徴の幾つかは不明であったが、改めて見ると良く分かる。
「御気分は如何ですか? ……といっても、優れてはいらっしゃらないでしょうが」
「あ、だ、大丈夫です。ちょっと頭がクラクラはしますが……」
「あれほど動かれた後です。もう少しお休みください」
パチリ、と焚火の中の火種が弾ける音がした。
セドリックにとって、こういった雰囲気を味わう事そのものが初体験であった。とはいっても、安全な山中でキャンプをしているのとはわけが違うのだが。
「ここは、どこですか?」
「帝国西部、ラマール州にあるエイボン丘陵です。イストミア大森林の東端辺りですね」
そう説明すると、サイドポケットから小さな帝国地図を取り出し、現在位置を指さして教えてくる。
「この辺りはラマール州の中でも僻地ですからね。領邦軍の巡回ルートからも外れていますし、地形も入り組んでいますからまず見つかる事はありません」
「そう、ですか。……あっ‼ く、クルトは⁉ クルトはどこに⁉」
友人でもあり、自分の騎士でもある少年。数ヶ月前に就任して以来、様々な場所を共にした彼は、気付けば自分の隣で未だに目を覚ましていなかった。
とはいえ、その寝顔は苦しそうなものではない。小さい寝息を立てて横になっているその姿を見て、セドリックはほっと胸を撫で下ろした。
「良かった、です」
「手荒な真似をしてしまい、申し訳ありませんでした殿下。なにぶん
一時的とはいえ、軍用飛空艇すら置き去りにする速度で逃げ去ったのだ。特別な訓練を受けていない二人をそのままの状態で付き合わせれば、要らぬトラウマを刻むことになりかねなかった。
だが、冬の寒空の中を超高速で飛行したのだ。低体温症寸前になっていた二人を回復させるのに、相当苦心したのは内緒である。
「あの、ありがとうございました。えっと、ライアスさん、でしたよね?」
離宮を脱出する際、途中で合流した目の前の青年と一言だけ挨拶を交わしたが、それだけである。セドリックも皇族の一員として、一度聞いた名を忘れないように日々努力しているが、思わず聞き返すような口調になってしまったのは仕方のない事だと言えるだろう。
「はい。改めて自己紹介をさせていただきます。猟兵団《マーナガルム》にて《
その挨拶は、彼が自称している”無作法者”とはかけ離れた、堂に入ったものだった。決して付け焼刃ではない、それこそ幼い頃から叩き込まれた習慣でもなければ滲み出せない、”貴い者”の雰囲気があった。
その時、ふとセドリックは思い出す。幼い頃から何度も読んだ、《獅子心皇帝》の武勇を謳った英雄譚の中に、その家名があった事を。
《槍の聖女》リアンヌ・サンドロットが最も信頼したという二名の副官。その内の一人であり、《
アルゼイド家の英傑、シオン・アルゼイドと共に、ドライケルス皇子と聖女が歩む道を切り開いた忠臣。戦役を最後まで生き抜いたシオン・アルゼイドとは違い、ゼラルド・スワンチカの方は帝都での最終決戦の際に主を先に進ませるために寡兵で偽帝の軍勢を相手取って討ち死にしたと言われている。
しかし圧倒的多勢を前にしても一歩たりとも退くことなく、その最期も数多の剣槍と矢をその身に受けながら尚、血塗れの仁王立ちのまま敵を睨み続けていたと綴られている。
まさに豪傑。戦火の中にあって最後まで主の勝利を疑わず、その壮絶な死は敵である偽帝の将軍すら畏れさせ、追撃を思い留まらせたという。
その後、《槍の聖女》は自らの家名である<サンドロット>の頭文字である<S>の字をアルゼイド家に受け継がせた。スワンチカ家はゼラルドの息子が継いだが、レグラムの街に余計な混乱を招きたくないという思いから、自らローエングリン城を後にした。しかし、その武勇と忠誠心を高く買ったドライケルスは皇帝就任後、現在の南部パルム市周辺の土地を恩賞としてスワンチカ家に与えたという。
だが、250年経った現在、
彼の父を、そして彼自身の人生を大きく狂わせたのは、長い月日を経て腐敗した貴族の堕落した思想と思考。そして、セドリックの父であり、現皇帝ユーゲント・ライゼ・アルノールはその一連の事件に終ぞかかわることは無かった。
後に起こった《百日戦役》も含めた以後の戦後処理を行ったのは全て、当時エレボニア正規軍准将であったギリアス・オズボーン。その際に、ライアスの父を嵌めた貴族を含めた多くの悪徳貴族が処罰された。
……正直、ライアスの中に皇帝陛下への恨み言が無いかと言えば嘘になる。
諸悪の根源は自らの権益と大貴族への阿諛追従しか考えていなかったクズの地方貴族共。それは勿論理解している。だが、それら全ての頂点に立つ皇帝が、こういった暴走を止める事が出来なかったという事実。それに対しての憤りを未だに忘れていない自分もいるのだ。
それは単なる恨みの転嫁。真っ先に憎悪をぶつけるべき相手が既に存在していないが為の感情であり、正当なものではない。
それを理解しているからこそ、先程からのライアスのセドリックへの敬意は偽りのものではなかった。家は既に取り潰されているが、それでも父が存命であった頃に受け取ったものは忘れていない。
皇帝家への忠誠。猟兵として人殺しの業に塗れた自分が何を馬鹿なという思いはあるが、この皇子の姿を見た時、自然とこのような態度を取っていた。
……同時に、
「(いやまぁ、確かに一番の近道ではあるんでしょうけど……なんつーかさぁ‼)」
声にならない叫びを押し殺していると、セドリックはキョロキョロと辺りを見回し、やがてある一点で目を止めた。
それは火の番をしているライアスの背後。それなりに樹齢が高い木に寄り掛かるようにして眠っている少年の姿を、セドリックは捉えたのだ。
「(へぇ……)」
ライアスは思わず感嘆の声を心の中で漏らした。
何故なら今彼の背後で寝ている少年―――レイ・クレイドルは、限りなく気配を消した状態で眠っているからだ。本人曰く、「屋外で睡眠をとる時はほぼ無自覚でこうしている」らしく、警戒心が強い魔物ですら存在を捉えられない程である。
それを目で捉えた。振る舞いからして武術の経験など皆無に等しいだろうに僅かな気配を察知できたという事は、才能はあるのだろう。
「レイ、さん? なんで、左腕が……でも部屋で見た時は確かにあったのに……」
「あぁ、その時はツバキ隊長がこの人の左腕に”擬態”していましたからね。大将の……レイさんの左腕は、この内戦が始まったあの日、帝都で消失したんです」
”消失”という表現は間違いでも何でもない。あの時あの瞬間、レイの左腕は誇張表現無しでこの世界から消滅した。
ライアスはその様子を直接見ていたわけではなかったが、壮絶な戦闘風景であった事は想像に難くない。何せあの滅茶苦茶な師に鍛えられ、《結社》時代に幾度も死闘を繰り広げて尚五体満足でいられた事を鑑みると、四肢の一つを犠牲にしなければ切り抜けられなかった事態というだけでも戦慄ものである。その場に居合わせたら確実に灰になっていた自信がライアスにはあった。
……実際、ダメージは今も彼の身体を蝕んでいるし、こうして眠っている時にも幻肢の痛みが全身を駆け巡っているはずだ。
それでも意図的に痛みを散らし、意識を強制的に落とすようにして眠りについている。常人であれば数日で発狂する様な状況に置かれて、それでも何も問題が無いかのように振舞うその精神力は、まさしく異常と称する外にない。真に異常なのは、このような状態であっても闘気・殺気の類を感知したらコンマ数秒以下の反応速度で飛び起きるであろう事だが。
「ん……」
珍しい事もある、とその時ライアスは思った。
《結社》時代からよく行動を共にしていたせいでレイと野営を共にした事は数多くあったが、彼が睡眠中に声を漏らすという事は珍しい事であった。
本来であれば夢すらも見ない程の深い深い眠りにつく事で、短時間で効率の高い休息を取るのがレイだ。だが、今その眠りは一時的に浅くなっているらしい。
それだけこの状況に安心しているのか。それならば火の番をしている身としては嬉しい事だが、敢えて気付かないふりをしながら耳を傾けてみる。
「うぁ……ミリアム、テメェ……塩、入れすぎたからって……砂糖入れりゃいいってわけじゃ……ねぇぞクソッタレがぁ……」
ん? と数秒固まった後、セドリックと目を合わせる。
「待てラウラ……それジュースじゃなくて調理酒……誰かあの馬鹿を、ぶん殴ってでも止めろぉ……」
「エマぁ……
「マキアスぅ……お前いい加減ナス食えるようになれやぁ……」
寝言とするには長すぎる言葉の羅列。しかしそれらは全て、半年以上共に生活してきた学友たちとの日常のそれだった。
先に笑ったのはセドリックの方だった。それに釣られてライアスも笑う。
他愛のない学友たちとの日常。それがレイにとってどれほど楽しいものであったのか。この寝言を聞けば充分に理解できるというもの。
……だからこそ、歯痒いものはある。本当は彼だって、その日常を続けたかったはずなのだ。例えそれが無理な事だと分かっていても尚。
考えれば考える程、始まったばかりのこの内乱は多くのものを既に奪っている。レイも、セドリックも。だからこそ、
「リィン……そっちは……任せた、ぞ……」
それは、本当に信頼している者に対してしか出ない言葉だった。
誰も彼もを信頼しているのだ。出会ってからまだ半年と少ししか経っていないというのに、その全員が生きてまた会えると信じて疑っていない。
羨ましいと、そう思わないと言えば嘘になる。自分もその中に居れば、少しはマトモな人間になれたのだろうかと。
小さく
そんな邪念を追い出すように側頭部をトントンと叩きながら、レイの肩を揺らした。
「大将、大将起きて下さい」
「ん……ライアス、俺はどれくらい寝てた?」
「三時間くらいっすね。殿下もお目覚めになられましたよ」
そうか、と短く返答して、レイはセドリックの方に向き直る。
「セドリック、お前の騎士を起こしな」
「え? く、クルトの事ですか?」
「他に誰が居るんだ。お前を本当の意味で、心の底から護ってくれるのはそいつだけなんだ。絶対に、それだけは忘れるな」
それは言外に、
最も近くに居る忠臣の言葉を信じ切れずに為政者を名乗ろうなど片腹痛い。この幼い次期皇帝陛下が今最も信じるべきは、未熟ながらも主を守る事に命を賭けられるこの若き騎士であるべきなのだ。
そんな事を考えている内に、セドリックが肩を揺らしてクルトを起こす。そして状況を理解した若き騎士は、すぐさま己の得物へと手を伸ばしかけ、そこで動きを止めた。
そも、彼は離宮で武器を携帯する事を許されていなかった。それは《皇室近衛隊》の意向であり、ヴァンダールの剣士たる彼にしてみれば屈辱的なものではあったが、それでもセドリックの傍に居ることができるならとそれを了承した。……まさかこのような事になるとは、思ってもみなかったが。
「流石に動きが良いな。若くてもヴァンダールの継承者か」
コキコキと首を鳴らしながら、レイはクルトに賛辞を述べる。
「ん……ヴァンダールは伝統的に大剣を得物に扱う武人が多いって聞くが、お前の動きは
「っ……‼」
己の得物を見透かされ、更に警戒度を強める。だが、そんなクルトの気負いなど気にも留めず、眠気を完全に覚ますように一つ背伸びをして―――右腕を鋭く振り下ろした。
「えっ―――?」
その行動の結果を目で終えたのはライアスだけだった。否、本音を言えばライアスも追いきれたとは言い難い。
その目線の先、およそ30アージュ。木々が入り組んだその先で此方の様子を窺っていた狼型の魔獣二体の首に深く、それは刺さった。
レイが常に服の袖の中に隠し持っている投擲用ナイフ。強敵との戦闘に於いては目晦ましにすらならないそれだが、こうした状況に於いては重宝する。それを二本同時に投擲し、放物線すら描かない最高速度を維持させながら魔獣の首元に届かせたのだ。
無論、ただ徒に命を奪ったわけではない。当たった、という結果そのものには特に反応せず、あっけからんと言い放つ。
「腹減ったな。とりあえずメシにしようぜ」
―――*―――*―――
カレル離宮最上階。山間からようやく差し込み始めた朝日が巨大な窓から室内を照らす。
そして、その窓の傍から朝日を眺めている男こそ、現エレボニア帝国皇帝ユーゲント・ライゼ・アルノール。そしてその背後に傅くのは、《皇室近衛隊》総隊長ガラディエール・ヴラウ・ウィトゲンシュタイン。
局地的とはいえ、あれほど離宮内を騒がせた騒動から数時間。たった数時間で全てを収めた手腕が、そのまま近衛隊の練度の高さを反映させていた。
騒動の中で気を失ってしまっていた隊員は、目が覚めた瞬間己の失態を悟り、それが皇太子の誘拐に繋がったと知ると自死を懇願した程であったが、他ならぬガラディエールがそれを止めた。
彼は己にも他人にも厳しい人間ではあるが、今回に至っては失態を侵した部下を一人たりとも叱責するつもりはなかった。何故かと言えば―――。
「……済まなかったな、ガラディエール。此度の件、
「そのような事を仰らないで下さいませ。我ら近衛騎士団、皇帝たる御身からの拝命とあれば即座に命すら捧げまする」
泰然自若としたその雰囲気に、しかしユーゲントは恐怖を覚えることは無い。
この忠義の塊のような騎士とは長い付き合いになる。それこそまだ皇太子であった時分から、《雷神》マテウス・ヴァンダールと共に自身の守護騎士を務めていた男である。
故に、その忠義心に偽りがない事は良く分かっているのだ。皇室に対して身命を捧げるその心はもはや病的とすら言ってもいい。その心があったからこそ、元々は爵位の高い貴族の武勲という名の箔を付ける場所でしかなかった《皇室近衛隊》という組織を、帝国最精鋭部隊にまで変える事が出来たとも言える。
そして、そんな旧知の間柄とも言える男に対してとある命令を下さなければならなかった事に対して、ユーゲントは心を痛めていた。
「我が息子は、セドリックは無事に行ったか」
「
「其方の目にも、適うほどであったか」
「真に賊であれば我が全てを以て斬り伏せましたが、
全身を漆黒のローブで覆い隠しており、碌に姿も見えない闇の中での戦いではあったが、僅かに身体から漏れ出ていたその闘気を見間違えるほど耄碌はしていなかった。
以前、皇帝陛下との謁見を許された士官学院生達。その中に在って、突出した氣を練り上げていた一人の少年。
矮躯ではあったが、その佇まいは間違いなく達人のそれであった。願わくばこの少年が敵に回らない事をと祈ってはいたが、それは叶わなかった。
しかし、落胆はしていなかった。相対の時間そのものは短くはあったが、隻腕の状態で見事に自分に喰らいついていた。恐らくは、皇帝陛下を保護という名の監禁から救い出すために再びこの離宮を訪れる事になるだろう。
皇帝陛下を離宮内に留め置くというこの状況自体を、無論ガラディエールは好ましく思ってはいない。この状況に持ち込むことを提案したカイエン公爵の思惑など透けて見えるようだが、他ならぬ皇帝陛下が無意味な混乱を防ぐために提案を受け入れたのだ。
であれば、ガラディエールとしては声を荒げる事すらできない。内乱がおさまるまで、守護任務に専念するつもりだった。
だが、その憤懣やるかたない感情を払拭したのもまた、皇帝陛下からの命だった。
『オリヴァルト皇子より連絡があった。……セドリックを鍛えてやりたいとの事だ』
その言葉自体には特に思うことは無かった。セドリック皇子は紛れもない次期皇帝候補。であれば鍛えすぎて困るという事も無い。
問題は何故今なのか、という事。それを問うと、ユーゲントは少し言葉を詰まらせ、続きを話した。
『オリヴァルトが雇った者達にセドリックを
それはつまり、《皇室近衛隊》に
要は、セドリック皇太子を預けるに値する者達かどうかを見極めろという事だ。そして眼鏡に適うようであれば皇太子誘拐の罪を見逃せと。
それは、皇室守護を旨とする近衛隊の在り方と真っ向から反する行為である。ガラディエールは皇室に絶対の忠誠を誓っているが、忠誠の在り方を見間違えてはいない。必要とあれば諫言もする。
だが、ガラディエールはそれを口に出来なかった。その命を口にしたユーゲントの表情が、覚悟で満ちていたからだ。
いつからだろうか、と思い返す。
とある時期を境に、ユーゲントは達観する事が多くなった。否、諦観と言うべきだろうか。国政のほぼ全てを《鉄血宰相》に任せ、自身はそれで足りない部分をフォローするような形。何も国の王が万能である必要はないのだが、運命を受け入れてしまったかのような目をする事が多くなった。
だが、今回は違う。眉間に皺を寄せながら一言一言に重みを乗せて話すその姿には威厳が滲み出ていた。
『余は愚王だ。民に苦しみを強要し、我が子らにも本当の意味で愛を注いでいたとは言い難い』
そのような事は、とまで言いかけたところで、ユーゲントは言葉を挟んだ。
『特にオリヴァルトには苦労を掛けた。だがあれは、私の子とは思えない程に立派に育った。少々奔放すぎる衒いはあったが、人を見る目は確かであったのでな』
『リベールより帰った際。そしてあの隻眼の少年を士官学院に迎え入れた際。オリヴァルトは余に進言して来た。「父上の抱いておられる懸念を、私が払拭してみせましょう」とな』
その言葉がただの虚勢の類ではないというのは理解できていた。
何故なら彼の母―――アリエル・レンハイムもそういう人物であったからだ。己の言葉に責任を持ち、人を惹きつける魅力と共に理想の実現の為に尽力を惜しまない。
トールズ士官学院在籍時、彼女は平民でありながら貴族生徒とも積極的に交流し、その一部とは身分の垣根なく友人関係を築いていた。今以上に身分制度の差別意識が強かった時代にその行動力は異常とも言えるものであり、学生時代のユーゲントも、彼女のそういった天真爛漫でありながら芯の通った性格に惹かれたのだから。
そんな母親の血と性格を引き継いだ彼は、それに加えて貴族社会で生き抜くための狡猾さも身に着けた。人を惹きつける笑みを振りまきながら、その表情の内側では己が今何をすべきかの思考を止めない。
多少フットワークが軽すぎる衒いはあったが、それらの行動も最終的には帝国の利になるように帰結していた。そも、若き日の衝動に任せた愚行で想い人とその息子を不幸の底に叩き落としてしまった自分が何か言えた義理は無いのだが。
だが、それでもオリヴァルトの
アルフィンとセドリック。幼い二人もすぐにオリヴァルトに懐き、オリヴァルトもまた兄として惜しみない愛情を二人に注いだ。
しかしながら、その”愛情”は父である自分よりも厳しく、そしてまともなものであった。
曰く、獅子は己の子を鍛え上げるために敢えて千尋の谷に落とすという。
生まれつき身体がそれ程頑丈ではなく、どこか内向的に育ったセドリックを次期皇帝として擁立するには、
『余が今惨めな心境に在るのは、恐らく何に対しても諦観的な姿勢でしか当たれなかった臆病者に対する罰であるのだろう。皇帝という立場にありながら、己の子一人の巣立ちすら見送る事が出来ん』
『だからこそ、セドリックには余とは違う道を歩んで欲しい。かの《獅子心皇帝》のように、国の危機に際して立ち上がる事の出来る者になって欲しいのだ』
無論、それがただの理想の押し付けであるというのは理解している。己が成し得なかった理想を子に押し付けるなど、愚劣以外の何ものでもない。
だが、それがセドリックにとって後々利に繋がるというのであれば、ユーゲントは悪魔に魂を売る覚悟すらできていた。結果的に、彼が信じると決めたのは煉獄に潜むモノ達ではなく、自身の嫡子であったわけだが。
故に、ガラディエールはその覚悟にただ頭を下げる事で応えた。
オリヴァルトが雇った者達がセドリック皇子を誘拐するのを見逃す。ただし、皇子を守るに値しないと判断した場合は容赦なく殺す。
最終的に、ガラディエールはその実力を認めた。皇子を救出するルートを敢えて数ヶ所に絞り、そこからの襲撃を予想していたが、離宮全体の導力装置を一時的にとはいえ一斉停止させる導力ウイルスに、それを使用した実に速やかな作戦遂行能力。関わった誰もが一人残らず己の使命を全うし、決して
何より元《執行者》の達人である《天剣》。実際に相対してみて分かったが、想像していたよりも
「父上、陛下は何と仰せでしたか?」
ガラディエールの嫡男であり、《皇室近衛隊》の副長も務めるギルガルド・ヴラウ・ウィトゲンシュタインは、皇族の間から退室した父にそう問う。
「変わらぬ。陛下は引き続き我らに任を全うせよとの仰せだ。―――ギルガルド」
「はっ」
「幾ら陛下からの命とは言え、皇子殿下の誘拐を許したとあれば四大貴族、とりわけカイエン公爵家からの突き上げは必至であろう。某に何かあれば、貴様が近衛隊を率いるが良い」
「父上……」
父親に勝るとも劣らない恵まれた体躯に、背に負った二振りの騎士剣。厳粛そうな雰囲気を漂わせる武人であるが、今は父の言葉に耳を傾ける息子として此処にいた。
「無論、ただで引き下がるつもりはないがな。我らの主は四大貴族に非ず。皇家だ。その事を、貴様も努々忘れるな」
「承知しております。そして、有事の際につきましても了解致しました」
「うむ」
如何に主に尽くすと言っても、彼らは騎士だ。政治家ではない。
主が心底悩んでいるのであれば進言も諫言もしよう。だが、一度下された命には粛々と従うのみ。
彼らは守護者。皇室が抱える最後の剣。
二度目はない。次に相見える事があれば正真正銘、全身全霊を以て敵対者を排除するのみ。
その宣言を胸に、二名の達人は静かに離宮の最奥を後にした。
明けましておめでとうございます‼ どうか今年度も拙作を宜しくお願い致します‼
思えば去年の年末に「英雄伝説 天の軌跡」を完結させてから一年。一年間で執筆できたのがたったの7話分というのは文字通りの亀更新だと反省しております。
2022年はもう少し投稿のペースを上げる事を目標に頑張っていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。