それから2人は準備を済ませ、スタートライン上に立った。
「2人共、準備はいいか?」
「ええ」
「完璧や」
「よし、距離は直近の『シンザン記念』に合わせて1600mで行く。タマモクロス、スカーレットの為に走ってくれるのはありがたいが、絶対に無理するな」
「わかっとるわかっとる。心配症な所は相変わらずやな、アンタも」
「……?」
克樹の念押しに、タマモクロスは鬱陶しそうに応えた。その返しに、ダイワスカーレットは若干引っかかる何かを感じた。しかしその違和感の正体を掴むには時間が足りないし、何よりそれに集中を割くわけにはいかない。これからのレース、自分の全てを出し切らなければ勝負にすらならないだろう。彼女はそのことを重々理解していた。
「……それじゃ、始めるぞ。合図は俺のホイッスルだ。スカーレット」
「……なんですか?」
「思いっきりやれ。胸を借りるなんて思わなくていい、死ぬ気で勝ちにいけ」
「言われなくてもわかってるわよいます」
「お前もうめちゃくちゃだな」
本能と理性が混ざり合って意味がわからないことになっているスカーレットの姿を見て嘆息し、克樹はトラック端へと移動した。
「……トレーナーも言っとったが、遠慮なんてせんでええからな」
「大丈夫です。遠慮する余裕なんて、アタシにはありませんから。先輩こそ、負けた時の言い訳を考えておいてくださいね」
「……せやな、五七五でカマしたるわ」
両者共に、これからの戦いに高揚する心を抑えられず笑みを浮かべている。そして開戦の号砲は、高らかに鳴り響いた。
(──先行したのは、やはりスカーレットか)
中盤に差し掛かったレース、克樹は現在の状況を見ながら心中で呟く。
見ればダイワスカーレットは、タマモクロスに大きく差をつけて前を走り続けている。
(だがそれはタマモクロスを相手取るなら当たり前と言って差し支えない、言うならばタマモクロスから与えられたリード。そのこと、ちゃんとわかってるか……?)
(──とか思ってんでしょうね、アイツのあの顔)
タマモクロスに後方から追われながらも、彼女の
(わかってる。タマモクロス先輩の武器は、後方からの強烈な追い込みを可能にする、尋常じゃない末脚)
彼女は相手の戦法を、正確に理解していた。勉強熱心な彼女は、常日頃から情報収集に余念がない。故にタマモクロスが1着を取ったレースなど、何度見たかもわからないほど目に焼き付けてきている。
(ただその映像よりも、明らかに走りにキレがない。やっぱり休養明けで本調子じゃないのか、それともアタシの様子を伺ってるのか──いや、前者に期待するのはダメ、タダの油断。とりあえず後者だと思って走らなきゃ)
克樹の心配は不要なもので、大きなリードをつけながらも彼女の心に一切の油断も慢心もなかった。
そして第四コーナーを終え、勝負は最後の直線へと持ち込まれる。タマモクロスは、未だに仕掛ける気配がない。
(まだ来ないっ!? いくらなんでも残りの距離でそこから巻き返すのは不可能じゃないの……!?)
彼女の目は、不適に笑いながら後方に付けるタマモクロスを捉えている。そしてそんな様子を見て彼女の心に湧き上がったのは、苛立ち。
(……巫山戯るな、勝ちを譲るつもりなのかアタシを舐めてるのか知らないけど、どっちにせよ──気に食わないわねェッ!!!)
そしてターフに響く、力強い踏み込みの音。ダイワスカーレットが一瞬でトップギアに移行し、タマモクロスをどんどん突き放していく。
(これがアタシの全力ッ!! 追いつけるモンなら追いついて──)
「──なんや、もう終いか?」
呟きは、鮮明に聞こえた。
「──ぇ」
呻き声すら置き去りにして、白い稲妻がターフを焦がす。追い込み位置に付いていたと思っていた。事実、ダイワスカーレットはそれを確かに
(意味が、わからない……! なんでッ、なんでもうそんな所に……!?)
抜かれた、と感じる暇すらなかった。並のウマ娘とは一線を画する──否、そんな言葉すら陳腐になりかねない、埒外の末脚。
(どうやってあんな速度が──歩幅? 腕の振り方?)
彼女はタマモクロスの走りを凝視する。一挙一動を見逃さぬように、網膜に焼き付けるように。
そして“白い稲妻”は瞬く間にゴールライン直前まで辿り着くと、減速の為のオーバーランをすることなく、ゆったりと白戦上で停止した。それ即ち、
白線上に佇むタマモクロス。そして彼女は、ゆっくりと、首だけで彼女を振り返った。
──その瞳孔の開いた澄み渡る水色の瞳から、文字通り白い稲妻が音を鳴らして迸っていた。
(これが……“最強”と謳われた、“白い稲妻”──ッ!)
想像以上の強さに、思わず苦笑いが漏れる。突き付けられた実力と敗北。だが悔しさよりも押し寄せたのは、これから自分はこの人に稽古をつけて貰えるかもしれないという期待と高揚感だった。
▼
「お疲れ様、2人とも」
「おう! 久々に走ると気持ちええな!」
「……」
トラックから帰ってきた2人を、克樹が労う。それに対してタマモクロスは快活な笑顔で、ダイワスカーレットは無言で答えた。
タマモクロスは先程の鬼神が憑いたような表情からは想像もつかないほど、瞳を輝かせてダイワスカーレットに話しかける。
「スカーレット、やるやないかお前! いい勝負やった、口だけやないみたいやな!」
「……あれだけ大差つけられて、いい勝負だなんて口が裂けても言えませんよ。ありがとうございます。“白い稲妻”と呼ばれる所以、この身で感じさせて頂きました」
「堅苦しいわ! 遠慮なんかせんでええ。スカーレット、オマエにはオグリと戦う資格がある。ウチが保証するわ。これからよろしく頼むで!」
「……そう、ですか。ありがとうございます、タマモクロス先輩」
「なんやぁ敬語なんて使って。遠慮せんでええって言うてるのに」
「これがアタシにとって自然体なんです」
どの口が言ってんだよ、と克樹は半目でダイワスカーレットを見た。
「ま、ええわ。これから慣れていくやろ。んじゃスカーレット、ウチはこのトレーナーと少し話してくるから、そこで待っとき」
「あ、はい。わかりました」
「ほな行くで、トレーナー」
「わかった」
一足先に歩きだしたタマモクロスの後を追うように、克樹も踵を返す。最後にダイワスカーレットの方をチラリと見ると、彼女は本性丸出しの鋭い瞳で克樹を睨みつけていた。『余計なことを言うんじゃないわよ』と、言わんばかりに。
「……わーってるよ」
溜息を零しながら片手をヒョイヒョイとふり、彼はその場を後にした。
▼
「どうだった? アイツの走りは」
部屋へと向かう道すがら、彼はタマモクロスに話しかけた。彼女はうんうん、と頷きながら、質問への答えを返す。
「いいモン持っとる。加速し始めてからトップに入るまでもスムーズやし、なんや色々考えながら走っとるのもわかる。しかもアイツ、途中でウチが前に出にくいように、徹底的にウチの横移動に合わせて軸をズラしてきおった……見えとるんかってぐらいに。伸びるで、あの子は」
「……そうか。きっとアイツも喜ぶだろ」
「ただ……」
そこで言葉を切ると、彼女は立ち止まって振り返り、続きを告げた。
「──
「……手厳しいな」
「今のところ、の話や。ウチはスカーレットを充分評価しとる。ただ今のままじゃ、十中八九オグリには勝てんやろう」
「そう、か」
「アンタが暗い顔してどないすんねん。言うたやろ? 今のところ、やって……なぁトレーナー、一つ質問ええか?」
「ん……?」
「あの子は今日これまで、
「……そう、だな。苦戦っていう苦戦は最初の『メイクデビュー杯』だけだ」
克樹はこれまでの彼女のレースを振り返る。二戦目のレースでも危なげない、織り込み済みのレース展開で完勝し、その前後で行われいた他チームのウマ娘との練習レースでも、事前のプラン通りの試合運びをして、圧勝している。
そこまで告げると、静かに話を聞いていたタマモクロスはやけに神妙な面持ちで口を開いた。
「……ええかトレーナー。これからウチの言うこと、ちゃんと聞きぃや」
「お、う」
神妙な顔で見つめてくるタマモクロスを見て、克樹はゴクリと息を飲む。
「……トレーナー、アンタは良くあの子のこと考えとる。今持っとるスカーレットの武器は、アンタが伸ばしたものやろう。でもその結果──アンタは
「え……?」
「わかっとらんやろ。それはきっとスカーレットが
「……」
タマモクロスの言葉に、克樹は胸が締め付けられる思いだった。何より、彼女の言葉に見当がつかない、ということが彼にとって辛いことだった。
「……ええんや。あの子の積み重ねてきたモノは、間違いやない。それはウチも保証する。やからトレーナー、これからのこと、ウチも一緒に決めさせて欲しい」
「……ああ、元よりそのつもりだった」
「あの子にとって、厳しい道になるかも知れん。それでも、ええか?」
「……俺は信じてるよ。アイツは折れたりしない。どんな目にあっても、必ず立ち上がるさ」
克樹の言葉に、タマモクロスは満足げに笑った。
▼
(何が“気に食わない”よ──舐めてたのはどっちだって話だわ)
その頃スカーレットは、木陰に腰を下ろし、背を預けながら先程のレースの内容を振り返っていた。
(タマモクロス先輩、凄かった……あれが伝説と呼ばれたウマ娘の実力)
瞳を閉じれば、鮮明に思い出せる。あの距離を一瞬で詰め寄られ、剰え大差を付けられた。“白い稲妻”の名に恥じない、まさに雷速。心の奥底から湧き上がる震えに抗うことができずに、彼女は思わず身震いした。
(そしてアタシが今度戦う相手は、そのタマモクロス先輩に勝つことの出来る、怪物)
思考は『シンザン記念』で相見える、オグリキャップへと移り変わる。彼女は本気で勝つ気でいるし、自分の全力をぶつければ勝てると、本気で思っていた。だが現状の実力不足を、今日突き付けられた。
(──本当に勝てるのかしら)
故に弱気が、彼女の心の中で生じてしまう。
それを振り払う様に、彼女は握り拳を力強く地面へと叩きつけた。
「──冗談じゃない」
彼に誓った。
彼と誓った。共に頂に登り詰める、と。
その誓いに、恥じない自分でありたい。
だからこんな弱気は、許されない。
(──待ってなさいオグリキャップ、アタシはアンタに勝ってみせる)
己に巣食う弱気を燃料に、彼女は闘志を燃やした。