そして迎えた、『シンザン記念』当日。
『メイクデビュー杯』以来となる京都は、季節相応の冷え込みを見せていた。
「外さっぶ……! これアップで結構体動かさないと上手く走れないだろうな」
「せやな、それだけならええけど最悪怪我にも繋がりかねんわ。スカーレット、アップは念入りにな」
「はい。
克樹達は、控室の中で出番を待っていた。そこには東京から観戦と応援に来たタマモクロスの姿もある。
「当たり前やろ。弟子の大一番や、最前列で応援してやるさかい楽しみにしときや?」
「あはは。心強いです」
「おう、俺も大声で応援してやるからな」
「アンタは別にいいわ」
「んだとゴラァ!!」
「あら、温まったみたいで良かったじゃない」
フフン、と彼女は鼻を鳴らしながら憎たらしく笑う。その様子を見てタマモクロスも声を上げて笑った。
ちなみに彼女はもうタマモクロスに素の自分を隠し通すのは諦めた。克樹に対しては普通に接し、タマモクロスには優等生モードのまま接するという、側からみれば奇妙な口調をしている。
「さて、スカーレット。ウチと練習した2週間で、オマエは確実に成長した。そこは自信をもってええ」
「はい。先輩から教えてもらった末脚の極意……とても勉強になりました」
「最後にモノを言うのは心や。気合い入れぇや。勝算は十分か?」
「はい! 対戦相手のデータや過去のレースを見て、アタシなりに考えたプランをトレーナーと話し合って綿密に組み上げてます。後はそれ通りに走るだけです」
「…………そうか」
「タマモクロス?」
どこか物憂げに相槌を打ったタマモクロスを不審に思った克樹が、声を掛ける。
「……いや、なんでもない。さ! そろそろ時間や、かましてこい、スカーレット!」
「はいッ! 行ってきます!」
「いやそれ俺の台詞」
克樹の言葉を無視して、スカーレットは控え室を飛び出して行った。
「……俺も言いたいことあったんだけどな」
「まぁまぁ、普段通りみたいやし、良かったやないか」
「いやそうなんだけどさ」
「トレーナー!」
「うおっ!?」
行ってしまったと思っていたスカーレットが、ドアからひょっこりと顔を出しながら自分を呼んだことに、克樹は声を出して驚く。彼女は不敵に笑うと、克樹に指を差しながら言う。
「見てなさいよ、アタシがあの“怪物”を倒して1着を取る姿!」
「……はっ、頼まれたって1秒たりとも見逃してやんねぇよ」
「それでいいのよ。それじゃあね、勝ってくるわ」
「おう、いつも通り勝ってこい」
克樹の言葉に満足そうに笑った彼女は、今度こそ控え室を後にした。
▼
「えーっと……何処にいるのかしら」
パドックでの入念なアップを終え、ダイワスカーレットは周囲を見回して、あるウマ娘を探していた。それは勿論、今回の彼女の目標である彼女。
「……あ、居た! すいませーん!」
目当てを見つけた彼女は、手を振りながらそのウマ娘の元へと向かった。
「……? 私に何か用か?」
「はい!どうも初めまして──オグリキャップ先輩」
彼女──オグリキャップは、スカーレットの言葉に不思議そうに首を傾げていた。
「君は?」
「アタシは、ダイワスカーレットって言います。先輩の事は良く知ってます。先輩のレース、映像で何回も観ました」
「あぁ、ありがとう。ダイワスカーレット……と言ったか。私にとって久々の復帰戦だが今日はいいレースにしよう」
「はい、でも──」
そこで言葉を切り、彼女は滾る闘志を剥き出しにして、笑いながら宣言する。
「──勝つのはアタシです。アナタには、絶対に負けない」
その言葉に暫く驚いていたオグリキャップ。しかしその表情を笑顔に変えて、返事をしようとした瞬間。
オグリキャップの腹が、盛大に鳴った。
「…………」
「…………」
「……お腹空いた」
「そう……みたいですね」
悲しそうに腹部を抑えるオグリキャップの姿を見て、ダイワスカーレットは毒気を抜かれて思わず苦笑いしてしまう。その姿は、どこをどう見ても“芦毛の怪物”と呼ばれる伝説からは程遠い。
「控室でも食べてきたばかりなんだが……どうにも燃費が悪くて困る」
「先輩、
「あぁ、トレーナーにも良く怒られる。私を追ってわざわざ『地方』から『中央』に来てくれたんだが、私の食費の所為で財布がいつも寂しいと」
「あはは! それは大変」
楽しげに語るオグリキャップとダイワスカーレット。一頻り笑った後、オグリキャップが再び会話を切り出した。
「さて、ダイワスカーレット」
「……?」
「さっき言ったな、自分が勝つと」
「……はい」
「いい自信だ、悪くない。だが私は君も知っての通り、食い意地の張った欲張りなのでな──勝利の方も、私が美味しく頂くとしよう」
「ッ!?」
寸前のところで、ダイワスカーレットは身動ぎを堪えた。視界に入るのは、不敵に笑うオグリキャップの姿。それだけなのに、一瞬それ以上の“何か”を感じたのだ。
「……さぁ、そろそろゲートインの時間だ。行こうか」
「あ……はいっ」
彼女が感じたモノ。その正体に辿り着くことはないまま、歩き始めたオグリキャップの背を追って彼女もゲートへと向かった。
▼
──『シンザン記念』。
京都レース場、芝1600m。天候曇、バ場状態
ダイワスカーレットとオグリキャップを含む総計12名のウマ娘達が、パドックからゲートへと入った。
(大丈夫、体も軽い。いつも通りのコンディション)
ゲートの中で、ダイワスカーレットは瞳を閉じて精神統一を図る。開戦を間近に控え、周囲で緊張の糸が張り詰めているのを感じる。しかし彼女はそれに飲まれることなく、克樹と組み上げた事前のレースプラン、己の勝利だけを思い描いていた。
(オグリキャップ先輩は──ッ!?)
しかし2つ隣のゲートに居るオグリキャップの姿を見て、彼女は驚愕する。
そこにいたのは、先程までの様子からは想像も付かない、全身からドス黒い殺気と闘気を撒き散らし、瞳で灰色の焔を燃やす一頭の怪物。瞳孔の見開かれた目が見据えるのは、対戦相手ではない。己の勝利、ただそれだけ。歯向かう者は、誰であろうと容赦なく蹂躙するのみ。
(はは──笑えてくるわね)
張り詰めた緊張の糸の正体を、彼女は理解した。これは緊張感ではない。周囲のウマ娘達はこの怪物の殺気に当てられ、
(英雄っていうよりも悪役──まるで魔王ね)
ゴクリ、と唾を飲み込もうとして彼女は自分の口内がカラカラに乾き切っている事にようやく気づいた。
(けど、勝つのはアタシ。負けて這いつくばるのは──アンタの方よッ!!)
そしてゲートが開いた──瞬間。
(いっくわよォ──ッ!!)
「な──ッ!?」
周囲のウマ娘達が驚きの声を上げた。
ダイワスカーレットが、出だしからトップスピードで駆け上がっていく姿が見えたからだ。
観客席からも、動揺のざわめきが響き始める。その姿を見ていたタマモクロスが、口を開いた。
「やっぱ驚いとるな」
「スカーレットのことを知ってるか、スカウティングしてきた奴ほど驚くだろうな」
そう、今回の作戦は、“逃げ”。
今まで見せて来なかった作戦は奇襲となり、対戦相手達に大きな動揺を与えた。特に普段から“逃げ”で走っているウマ娘達は、そのスピードの違いに大きく戸惑っている様子が見て取れる。
「奇襲としては百点満点やろうな。せやけど、最後まであのスピードが保つんか? かなり全力でスパート掛けとるみたいやけど。あれって
「まぁ無理だろうな。いくら練習重ねてきたとはいえ、スタミナの前に脚が壊れる。だからある程度引き離したらラストスパート分のスタミナを残して中盤は流せ、って指示してある。不安も多い作戦だが、それ以上にアイツは逃げで走るメリットを取った」
「メリット?」
「そう。一つはまあ、今の現状のように対戦相手に動揺を与えること。焦りは思考を削ぎ、冷静な判断力を奪う。これは後半のゲームメイクへの布石だ。そしてもう一つが……ほら、見てみろ」
克樹の促しに、タマモクロスはトラックに視線を移す。見ればダイワスカーレットが後続に大差をつけて第一コーナーを曲がり切るところだった。そして最後尾が曲がり終えたところで、克樹が手にするストップウォッチのタイムを見た彼女は驚愕する。
「なんやこの
「そう、それがアイツの狙いだ。
「えげつないこと考えるでホンマ……ウチ、別に
克樹の解説を一通り聞いて、タマモクロスは引き笑いを浮かべた。
(……さぁ、ここまでは及第点。だけどこっからが本番。全てはあの“怪物”を斃す為)
レース中盤に差し掛かり、徐々にペースを落としていくスカーレットの姿を見ながら、克樹は思いを巡らせる。
(俺達の牙がアイツに届くかどうか──お前次第だ、スカーレット……!)
(──今のところは、事前の打ち合わせ通り)
中盤で一息入れながら、スカーレットも勝つ為に思考を走らせていた。
(オグリキャップは──今10位か。結構後続につけてるわね)
研ぎ澄まされた集中は彼女に天からの視点を与える。それにより、標的の正確な位置を把握することが出来ていた。
(思ったより後ろなのは──そうか、アイツの前が
鍛錬を重ね、彼女は5月当初よりも更に広く、正確な視野を手に入れることができた。
もう一度深呼吸をして、彼女は今後の動き方について脳内でシュミレートを行う。
(大丈夫、落ち着け、焦るな──今から必ず、アタシと後続の距離は縮まっていく。それはわかってる。勝負は、アイツが動き出してから……!)
そして第2、第3コーナーとレースは動いていく。彼女の懸念通り、彼女と後続の差は徐々に縮まっていた。そのまま迎えた運命の最終コーナー。後続のウマ娘達が一斉にスパートをかけ始めた。その時。
──ドクン
後続に位置付けていたウマ娘達は、確かにその音を聞いた。それは脈動、或いは怪物の降臨を知らせし胎動。
1人が堪えきれずに、音源を振り返る。
刹那。
「ヒッ──!!」
彼女は迫り上がった悲鳴を、抑えることができなかった。
“芦毛の怪物”が、暴風を纏い、両目から灰色の焔を噴き出しながら加速した。
横開きになった先行集団を嘲笑うように、常識外の大外から彼女は駆け上がる。これが幾度も奇跡を起こした、オグリキャップの必勝パターン。周囲のウマ娘は驚きを隠せないでいる。しかしこの展開は。
(来たわね──待ってたわよッ!!)
──彼女にとっては、織り込み済み。
「ッ!?」
オグリキャップは驚愕した。
自分だけに許されたウイニングロード、大外。そこに、
(これでアンタが抜ける道なんてもう何処にもないッ!! あとはアタシがスパートをかけて引き離すだけ……!)
勝利を確信し、ダイワスカーレットは内心でニヤリと笑みを溢した。
(オグリキャップ……いや、“芦毛の怪物”。アタシはアンタを──超えて往くッッ!!!)
力強い踏み込み、それは半年以上の鍛錬と、タマモクロスの指導を経てより強力となった。精神状態に左右され、姿勢を崩していた彼女の面影なぞ疾うに皆無。
故に結果は必然。ダイワスカーレットは芦毛の怪物を置き去りに、鮮やかに後続を引き離して行った。
(計算通り! アタシの──勝ちだッ!!)
だが彼女は失念していた。
今自分が対峙しているのは、有象無象のウマ娘ではなく、“怪物”であるということを。
故にその結果も、必然であった。
(──は?)
自分のプラン通りの展開だった。
相手の加速のタイミングも、自分が先頭に立つタイミングも、自分が支配していた。
なのに何故、どうして。
(
スパートをかけていたはずの芦毛の怪物は、
理由は単純にして明解。ダイワスカーレットがスパートと思っていたものは、トップギアではなかった。それだけのことだ。
(やば、い、どうしたら……!)
彼女は考える。この現状を打破する方策を。しかしその間にも、みるみる内に引き離されていく。
(なにか、なにか…………ぁ)
そしてそのまま、無情にも勝負の幕は降りる。
“芦毛の怪物”は、堂々の一位を飾り、大々的な復活を遂げた。
「はぁ……ッ、はぁ……」
遅れて2着となったのは、ダイワスカーレット。
ゴールラインを切った後、膝に手を置いて肩で息をしている。
(勝て、なかった──あれだけ練習してきたのに)
強くなった自覚はあった、事実その通りだった。
しかしその努力など無駄だと言わんばかりの、圧倒的で、暴力的な才。自分如きがどれだけ策を弄そうとも、意味がないと身をもって思い知らされた。
(じゃあアタシが積み重ねてきたものって──一体何?)
ピシリ、と。
何かが砕ける音がした。
ふと顔を上げる。そこには観客の歓声に笑顔で答えるオグリキャップの姿があった。
(あれが──“怪物”)
逆立ちしても届かない、異形の存在。
(これが──重賞)
克樹の言っていた事を、ダイワスカーレットは理解した。空気の違い、勝利の重み──敗北の辛酸。
何もかもが違う。今までの自分が積み重ねたものの価値を見失うような絶望感、そして圧倒的な力で自分を斃して行った相手は自分のことを見向きもしないという無力感。さらに誰1人として2着を取った自分を見てくれないという虚無感。
彼女は理解した、理解してしまった。観客が望むのは圧倒的実力を備えし“ばけもの”達の勝利。井の中の蛙の善戦など、誰1人の記憶にも残らないのだと。
そして何より──見せつけられてしまった。
(こんな“ばけもの”──勝てるワケないじゃない)
アタシは今まで──何をやってきたんだろう。
「バカみたい」
その呟きは、彼女の心の中の何かを木っ端微塵に砕いた。
(なんつー前傾姿勢してやがんだ、あの怪物……!)
オグリキャップのスパートを見た克樹は、観客席で息を飲んでいた。
(60度近い角度を維持したままの全力のストライド。常人離れなんて言葉でも生温い、そんな走りができるものなのか? 普通にやってたら前にぶっ倒れる……そうか、足首と膝か。異常なまでに
驚きながらも、彼は冷静な分析を重ねていた。
負けを負けで終わらせない為に、次に繋ぐことができるように。
(──こんなところで止まんないよな? スカーレット……)
彼の視線は、呆然と俯く紅い少女へと向けられていた。
▼
「惜しかったな、今日のレース」
「あのオグリ相手によう善戦したわ。スカーレット、アンタはよーやったで」
「……」
レース場からの帰り道、克樹とタマモクロスはダイワスカーレットを労っていた。しかし彼女は、視線を下げたまま何も返さない。
「……まぁ、アンタの気持ちもわかるわ。今はその悔しさを噛み締めとき」
「……えぇ」
タマモクロスが、パンパンと彼女の肩を叩く。それを受けて彼女はぎこちない笑みを浮かべながら言葉を返した。
「……さて、どうする? いつもみたいに部屋で反省会するか?」
彼は知っている。彼女は自分のレースを振り返り、反省して次に繋げる事の重要性を理解している事を。故にその問いが出るのは自然。そして彼女がそれに是と答えるのも自然だった。
──自然なはずだった。
「ごめんっ、今日はもう──帰らせて……──ッ」
「お、おいスカーレット!」
歯を食い縛り、震える声で呟きを漏らすと、彼女は克樹とタマモクロスを置き去りに駆け出していった。去りゆく彼女の背中に一声かけることしかできずに、彼はそのまま固まってしまう。
「……これは想像以上に──」
──重傷かもしれんな。
タマモクロスの言葉が、彼の中で何度も響いていた。
【ダイワスカーレット:3戦2勝】
『シンザン記念』──2着