「……」
「……残念やったな、今日のレース」
「……そう、だな」
部屋の中、椅子に座っているのは2人だけ。来るはずだった3人目は、1人先に姿を消してしまった。
そんな重苦しい沈黙の中で言葉を放ったタマモクロスに、どこか虚に返事をする克樹。彼の頭の中では、別れ際のダイワスカーレットの姿が何度もリフレインしていた。
──『ごめんっ、今日はもう──帰らせて……──ッ』──
あんなに弱々しい……触れるだけで彼女を構成する全てが砕けてしまいそうな表情を浮かべた姿は、克樹も見たことがなかった。
それほど彼女にとって衝撃的な出来事だったのだろう。努力を重ねてきた、自信をもって臨んだ、それに伴う実力も付けてきた。それでも“芦毛の怪物”は、彼女を歯牙にも掛けず、他の有象無象の一つとして薙ぎ倒していった。
そのことが、彼女のプライドを深く、強く傷つけたのだろう。
──だが克樹は、
彼女はどれだけ傷つこうとも、立ち止まることはあるかもしれないが、歩くことを止めはしない。その敗北すら喰らい尽くし、血反吐を吐きながらでも再び歩み出すだろう。彼はそう信じていたから。
しかし今日の彼女の表情を見て、彼は思う。“果たしてこれで良かったのだろうか”、と。
「……正直、善戦した方やと思うで。それくらい、今日のオグリは凄かった。全盛期を彷彿とさせる超大外からの差し。ウチでも追いつけたかどうかわからんわ」
「あぁ、俺もそう思ってるよ。それでも、スカーレットが欲しかったのは“善戦”なんかじゃなくて──」
「“勝利”と“称賛”、か」
タマモクロスの言葉に、克樹は頷く。
「初めて経験した、大舞台での敗者。観衆は勝者のみを称えて、敗者のアイツに残るのは、圧倒的な実力への畏怖と、自分への無力感だけだ」
「アンタは、それも織り込み済みやったんやないんか?」
「……その経験も糧に変えて、アイツは前に進むって、今でもそう信じてる。ただ、アイツのあんな顔見たら、少し心が痛むだけさ」
「少し、なんて顔や無さそうやけどな」
「……俺が傷ついてどーすんだ、って話だよ全く」
彼女の指摘に、克樹は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「アイツは今、苦しんでるだろう。だからこそ、俺が止まってなんかいられない。力を貸してくれ、タマモクロス」
「勿論や。ウチも最後まで付き合うで」
克樹の懇願に、彼女はドン、と胸を叩いて笑顔で答える。その姿を見て、彼は心の底から安堵した。
「ありがとう、助かるよ。じゃあ今日の反省を」
「その前に、一つ確認したいことがあるわ」
「え?」
「……そろそろわかったんやないか? アンタが、あの子から奪ったモノが」
「……なんとなく、だけど」
そうか、と呟いて、タマモクロスは言葉を続ける。
「……初めて一緒に走った時、あの子はウチに抜かれて驚いとった──そう、
そこまで言われれば、最早答えも同然だった。
自分の中で組み上がっていた仮説が答えであると知り、彼は顔を顰める。それでも、ゆっくりと時間をかけて彼は答えを口にした。
「──俺がさせた“理性的な走り”をするための練習が、レース中のアイツの“本能”にフタをした……?」
震える声で絞り出された克樹の言葉に、タマモクロスは頷いた。
彼女の目指す、他者を圧倒する走り。それを実現する為に、克樹は彼女が元より持ち合わせていた“俯瞰する視点”を活かして、レース展開を支配するレースプランナーになる為のトレーニングを重ねさせた。それにより、彼女は冷静な試合運びを行い、理性的な走りをすることができるようになった。
──
彼女が失ったモノ──それ即ち、“野性”。
「理性的に走るが故に、あの子は想定外の事態が起こると動揺しとった。いや、
彼が惚れた、スカーレットの中に巣食う獰猛な本能とエゴイズム。奇しくも彼と彼女が積み重ねてきた練習は、2人の気づかぬうちに彼女の魅力を曇らせてしまっていたのだ。
現に彼女は自分がスパートをかけてオグリキャップに抜かれた後、すぐ抜き返そうとせずに、
だが刹那を競う最終盤においてその思考は、停滞に等しい。抜かれた後に、即差し返そうとしない相手など、タマモクロスに──否、全てのウマ娘にとって何の障害にもならない。その相手はもう、
どちらが良い、という話ではない。野性に身を任せただけの走りでは、勝つことなぞ到底不可能だろう。だが、逆もまた然り。理性的に、冷静な走りをするだけでもまた、勝つことは不可能なのだ。
「ウチに隠しとったんかもしれんが、あの子は心に獰猛な本能を飼い慣らしとる。イイ子ぶってたけど所々漏れ出しとったしな。そして、きっとそれをトレーナーのアンタの前では曝け出しとったんやろう。ましてや、アンタはあの子とレースで競うこともない。やから、アンタは気づかったんやろうな。あれだけ強い本能が、肝心なレースでチラリとも顔を見せんやったんや」
「そう、なのか……」
「“冷静に落ち着いて走る”。そら大事なことや。それができるのは、あの子の立派な長所になる。やがそれだけで勝てる程──G1は甘くない。今まではそれだけで勝ててしまっていたっていうのもあるとは思うけどな。これが、今日の敗北でウチがスカーレットに伝えたかったことや」
苦々しくも、ハッキリと言い切るタマモクロス。彼女もまた、ダイワスカーレットの身を案じていてくれた事を克樹は理解した。
「……後はあの子次第やろ。ウチらがどうこうできるコトやない。やからトレーナー、アンタが腐ったらアカン。アンタだけは前を向いて、歩き続けんといかんのや……ま、わかってるとは思うけどな」
「当たり前だ」
強い口調で、彼は言い切った。
現に後悔も反省もあれど、思考は既に次の『チューリップ賞』に向けてどうしていくかへと切り替わっている。
彼は信じているから。最強を誓った彼女は、自分の信じた相棒は、こんなところで立ち止まるようなヤワなウマ娘ではないと。
「……明日からは、『チューリップ賞』に向けての練習に切り替えていく」
「その前に、アンタが気持ちを切り替えとくんやで? そんな顔で前に立たれたらスカーレットもたまらんわ」
「……わかった」
自分は、今どんな顔をしているのだろうか。少なからず、タマモクロスが心配を隠し切れずに言葉をかけるくらいには、酷い顔をしているんだろうなと、克樹はぼんやりと思った。
▼
「っし!!」
次の日の朝。克樹は普段より早くチーム部屋へと到着し、スカーレットの到着を待っていた。改めて気合を入れるべく、克樹は己の両頬を強く打った。
(タマモクロスにも言われたけど……俺がアイツの足を引っ張るわけにはいかねぇ。『チューリップ賞』まで残り約2ヶ月、やるべき事は沢山ある)
彼の手元に用意されているのは、彼女の為に考案した練習プラン。彼女の意見ともすり合わせるべく、内容を精査したものを複数用意していた。
(昨日アイツに足りなかったものと、これからアイツが走るために足りないもの。アイツ自身が昨日のレースを反省して、見つけてもらわなきゃ意味がない)
そんなことを考えていると、部屋のドアがゆっくりと開かれた。
「お、来たな。おはようスカーレット」
「え……あぁ、おはよ。早いわね」
「まぁな。早めに来て今日からの練習プラン組んでた。見るか?」
「……そうね、後で良いわ」
「ん? そうか」
克樹に返事をしながら、彼女はソファに鞄を置いて腰掛ける。その様子に、克樹は微かな違和感を抱いた。
「それよりトレーナー。昨日のレース、見せて」
「え?」
「あるんでしょ? 早く用意して」
「お、おう」
ダイワスカーレットの促しに、克樹は素直に従った。やはりどこかおかしい。そう思うものの昨日の反省をしようとしているのは良い傾向だと、彼は自分に言い聞かせた。
「ほら、これだ」
「ありがと」
そして彼女は、昨日のレースを見始めた。その間、彼女も克樹も口を開かない。重苦しい沈黙が流れる。
「…………」
そして映像は最後の場面──オグリキャップに抜かれ、遅れてゴールする彼女の姿へと移った。彼女はその様子を何も言わず……無表情のまま、瞬き一つせずに眺め続けている。まるでその瞬間を、心の奥底に噛み締めるように。
「……なんて顔してんのよ、アタシ」
一頻り映像を見終わって、彼女が漏らしたのは、己を嘲笑うかのような苦笑。彼女は克樹の方を見ることなく、問いかけた。
「ねぇ、トレーナー」
「……なんだ?」
「昨日のアタシの走りは、どうだった?」
「え……」
「あんまり上手に走れてなかったのかしら、アタシ」
表情が見えない。真意が読めない。
だがこれは、ただの質問ではない。
違えれば、致命傷になる。克樹はそう感じていた。
ゆっくりと熟考し、彼は正直に思いを伝えることにした。
「──最高だったよ。途中までプラン通りのレース展開だったし、末脚も格段に早くなってた。これまででベストの走りだったと思う」
彼女は何も答えない。永遠に思えるような沈黙。そして彼女はゆっくりと彼を振り返り、告げた。
「──そっか」
──なんだ、その顔は。
克樹は目を疑った。喜んでいるわけでもなければ、怒っているわけでもない。笑っているが笑っていない。言うならばその笑顔は。
──空っぽ、だった。
「……さ! 練習始めるわよトレーナー! 早くそのプラン見せなさい?」
「え、あ」
「ほら早く! 『チューリップ賞』までに、アタシはもっと強くなって見せるんだから!」
ともすれば、普段の調子を取り戻したかのように見える。事実、友人程度の付き合いの人物が今の彼女を見ても、何も違和感を覚える事はないだろう。
だが、彼は違う。苦楽を分かち合い共に成長してきた彼は、目の前の彼女が己を構成する大切な“ナニカ”を喪ってしまったことを、理解してしまった。
「スカーレット、お前」
「大丈夫よ、トレーナー」
克樹の言葉を、彼女は無理やり遮った。
「──アタシはもう、絶対に負けないから」
彼の眼前で、“抜け殻”が満面の笑みを浮かべていた。