「…………あれ」
「お疲れ様」
レース場の外へ出たダイワスカーレットを迎えたのは、優しい笑みを浮かべる克樹。
「タマ先輩は?」
「先帰ってもらった。今日はお前と、ゆっくり話したくってな」
「……そう」
「飯は? 向こうに帰ってから食うか?」
「……そうする。あんま食欲ないかも」
「わかった。じゃあ行こうぜ」
克樹の促しに返事をする事なく、彼女は彼を追うように歩き始めた。
▼
「…………」
「…………」
そして無言のまま、彼らは東京まで帰り着いてしまった。新幹線を降りた後、克樹が『付いてこい』と彼女に向けて放った言葉が最初で最後だ。
「……いい加減にして。話があるんじゃなかったの?」
「まぁ落ち着けって。ちゃんと話すからもう少し待てよ──お、見えてきたな」
「はぁ? こんなとこに一体──って、ここ……」
彼女の眼前に飛び込んできたのは、河川敷。
彼と彼女の、“始まりの場所”だった。
「懐かしいな──もう一年近く前になんのか」
「……」
「
「……ふはっ、何同じ事してんの。バカじゃないの?」
口ではバカにしながらも、彼女は思わず吹き出してしまった。先に座った克樹の隣に、彼女もサッと座り込む。
「で? なんでココな訳?」
「──この場所なら、嘘はないだろ」
「え……」
「俺もお前も、この場所に嘘は付けない。腹割って話そうぜ、スカーレット。俺はちゃんと向き合って、これからのことをしっかりと見据えていきたいんだ」
克樹の目に、迷いはなかった。
この場所で嘘をつくこと。それは彼と彼女の“あの日”への冒涜。それがわかっていたから、克樹はこの場所を選んだのだと、彼女は理解した。
「──わかった」
「ありがとな、さてスカーレット。今度は時間はやらねぇぞ──
「……」
それはあの日と同じ問いかけ。
あの日と違っているのは、夕焼けの有無。
街灯の薄明かりに照らされて揺れる暗い水面が、まるで自分の心象を表しているかのようで、彼女は強く歯を食いしばる。
「──
奇しくも、それもまたあの日と同じ答え。
「原因は?」
「事前の調整不足。焦りからくるオーバーワークの疲労が抜けきらなかった。迷いながら走った。悩みながら走った。まだまだ沢山あるけど何より今日アタシは──
半ばヤケクソのように、彼女は敗因を吐き散らす。それでも彼女は今、この期に及んで漸く──己を縛り付け続けた弱音を、受け入れた。
「そうなったのは──『シンザン記念』で、オグリキャップ先輩に完膚なきまでに負けてから」
そして弱音を受け入れた心は、自分を客観視する強さを手に入れた。
「勝てると思ってたのよアタシ。練習して強くなった自覚もあった。作戦も上手く決まったし、あのレースは自分の中で最高の走りだったって、自覚してた」
「……俺もそう思ってたし、その通りだと思う。映像見た日にも言ったけどな」
「そう。アンタもそう言ってくれたわよね……じゃあ──」
──
その問いかけに、克樹はすぐに答えを返す事が出来なかった。だが彼女の視線は、彼に答えを求めている。どんな答えでも受け入れると、訴えかけている。克樹は彼女の覚悟を受け止め、静かにその答えを告げた。
「──お前より、オグリキャップの方が強かったからだ」
「……やっぱ優しいわね、アンタ。この期に及んでまだアタシの心配してくれてる。キッパリと言えばいいのに。『アタシが弱いから』だって」
「いや、俺はそんな……」
「わかってる。重々承知なの、そんな事。オグリキャップ先輩は、アタシなんかより遥かに強い。はー、なんか口にしたらスッキリした!」
そう言って彼女は、憑物が落ちたかのように笑った。事実彼女の心は晴々としていた。今まで一人で抱えてきた潰れそうなほどの肩の重荷を、漸く下ろすことができたのだから。
「……そう、強かったのよ。笑っちゃうくらいにね。まるで勝てるビジョンが湧かないの、あの日から。それでずっと思ってた。必死に練習して強くなって、最高の走りをして、それでも勝てないのなら──アタシは一体何のために練習してきたんだろうって。これから何のために練習していけばいいんだろう、って」
水面を見据えながら、彼女は呟く。その呟きを、克樹は黙って聞き続けていた。
「……そしてその気持ちは、今でも変わらない」
「えっ」
「アタシもう、わからなくなっちゃった。これから何のために練習して、何を目指して走ればいいのか」
「お前、何言ってッ」
「だからね、トレーナー」
彼女は笑う。色々な物がぐちゃぐちゃになって混沌と化した心情とは掛け離れた綺麗な笑顔で。
「──アタシもう、走るのやめる。アンタとアタシの夢は、今日で終わり」
「……本気で……言ってんのか……?」
「今までありがとね。アタシなんかのために色々考えてくれて。嬉しかったわ。それじゃ」
そして彼女は立ち上がってその場から去ろうとする。克樹も遅れて立ち上がり、彼女を引き止めるべく腕を掴んだ。
「おい、スカーレット──」
「触るなッ!!」
しかし返ってきたのは、怒声と拒絶。
面食らった克樹は思わず手を離してしまった。
「もうこれ以上……ッ、何の意味があるのよ……!」
俯いたまま、彼女の口から出たとは思えないような低い唸り声が、河川敷に響く。
やがて彼女は、心に巣食った負の感情を凝縮したような歪んだ表情で、克樹を睨みつけながら叫んだ。
「どんなに練習して成長したって、“ばけもの”達に届きはしない……! それならもう練習の意味なんてないじゃない!! それでもまだアタシに練習しろって言うのなら、その意味を教えてよ……! 何のために走れば良いのよ、勝てもしないのにッ!! 答えてよ!! ねぇってばッ!!」
それは彼女が、『シンザン記念』から溜め込んできた苦痛の思いだった。口に出せば、より傷ついてしまうから。誰も良い思いをしないから。それを押し殺す為、忘れ去る為に彼女は練習へと没頭していたのだ。
しかしそれは、今日の敗北で遂に心から溢れ出してしまった。
「勝ちたい、そう願うだけなら簡単よ……! でも現実はそう上手くいかない、アタシがどれだけ練習して強くなったって、アタシより強いウマ娘なんて沢山居る! 努力すれば勝てる、努力は裏切らない、そんな言葉は全部嘘ッ!! 努力に縋ってきた凡才如きが、その努力さえ否定されたらっ、一体何が残るって言うのよォッ!!!」
半ば狂乱しながら、彼女は叫ぶ。溢れ出した彼女の感情が、濁流のように渦巻いて克樹へと流れ込んで行く。
「1番にしか価値がない、それを改めて思い知らされた……現に『シンザン記念』も、『チューリップ賞』も、誰もアタシなんて見てなかった……! アタシなんて所詮その程度の存在、誰の記憶にも残らないまま自然に消えていく! それが怖いのよッ、どうしようもなく……!! アンタにはわからないでしょうけどねェッ!!」
憤怒の形相で、彼女は克樹を睨み付ける。微かに残った彼女の理性は、彼が何一つ悪くないことを理解していた。だがそれでも、誰かに聞いて欲しかった。矛先を向けるしかなかった。そんな自分自身の気持ちには気づかぬまま、彼女は胸の前で拳を強く握りしめたまま俯き、呟く。
「どうせ誰も見てくれない、アタシの走りになんて興味ももってくれない。興味あるのは“ばけもの”達がどう勝つかだけ……っ、それならっ、アタシがっ、アタシが走る意味なんてもう──」
「俺が居るだろうが!!!!」
「──ぇ」
「誰もお前を見てない? ふざけんじゃねぇぞ!! ここに!! 俺が……ッ!! 居るだろうがよォッ!!」
彼女の胸ぐらを掴みながら、克樹は吠える。その瞳には、涙が滲んでいた。
「俺は見てるぞスカーレット、
感情的な相手に感情的に返す。それが最大の悪手であることは、彼も重々理解している。
だがそれでも、見過ごせなかった。
自分がどんな思いで彼女の側に居たのかを、彼女は1ミリも理解していなかったから。
「それでも俺は、お前を見てる!! ずっとお前の側で、お前だけを見てるッ!! 一瞬たりとも、お前から目を逸らさない!! それだけが、俺にできることなんだよ……!!負けたからなんだ、相手が“ばけもの”だからなんだ……!
「アタ、シも……」
「お前は勝てる、俺が勝たせてやる!! そのためなら、どんなことだってやってみせる!! 後はお前だ、スカーレット……! お前にまだ少しでもその気があるなら、俺と
そこで苦しそうな表情を浮かべたまま克樹は言葉を切り、彼女から手を離した。
「……悪ィ、感情的になっちまった」
「……」
「でも、俺の言ったことに、嘘はないから。俺は今でも、お前と二人で
「……」
彼女は俯いたまま、何も返さない。しかし彼の言葉は、確かに彼女の心に響いていた。
「……なぁ、スカーレット……」
「……──っ」
呼び掛けに応じ、顔を上げたスカーレットの眼前に飛び込んできたのは。
涙を溢れさせながら優しげに笑う、“相棒”の姿。
「勝たせてやれなくて……っ、ごめんなぁ……」
「──ぁ」
その言葉は、彼女の中の何かを壊した。
「ぁ……あぁ……」
信じてくれていた。
誰よりも側で、彼女の勝利を願っていた。
「──ごめん、なさい……」
それなのに、誰よりも先に自分自身が諦めてしまっていた。
彼はずっと自分を責めていたのに。
自分よりも傷ついていたのに、それを悟らせることすらせずに。
「んぐっ、ごめん、なさいっ、トレーナー……アタシっ、あたしっ」
──裏切りたくなかった。
貴方と2人で、最強になりたかった。
それなのに、それなのに。
勝手に諦めて、彼を傷つけて。
なんて酷いことを、重ねてきたのだろう。
「違う、違うの。ごめんなさいっ、ごめんなさい、トレーナーぁ、うっ、ぇぐっ、うわぁぁぁ……」
彼女は頽れ、その場で顔を覆いながら泣き出してしまう。そんな彼女の様子を見た克樹の体は、全ての感情を置き去りに勝手に動き出していた。
「───ぇ……?」
彼女の体を包む、優しい温もり。
自分が彼に抱き締められていると気づいたのは、暫くしてからだった。
「……違う。謝るのは俺なんだ、俺の方なんだ。ごめん、ごめん、本当にごめんスカーレット……! お前を信じるって決めてから、本当に信じることしかしてこなかった。お前一人に全部背負い込ませて、こんなことになるまで何も出来なくて。重かったよな、辛かったよな」
頭を撫でながら告げられる、彼からの懺悔。
その優しい暖かさが、荒れ狂った彼女の心を鎮めていく。
そして不意にその手を離すと、克樹は彼女の目を見て、涙を流した表情のままで優しく笑った。
「……俺は無力だ、お前と一緒に走ってやる事はできない。だから俺にも背負わせてくれ。忘れんな、お前の痛みと苦しみは、俺とお前2人のモンだ。俺は信じて側に居てやることしかできないけど、それだけはできるからさ」
「……ぁぁっ、あああ……アタシっ、アタシ……っ」
彼女の瞳からこぼれ落ち続けていく、大粒の涙。心の中で溜め込まれ続けたモノが、形となって解き放たれてゆく。泣きじゃくってぐちゃぐちゃになった顔。誰にも見せたことのない、絶対に誰にも見せないと決めていたその顔を隠すこともせずに克樹を見つめながら、嗚咽混じりの掠れた声で彼女は呟く。
「アタシっ、
「ああ、知ってるよ」
「勝ちたい、勝ちたい……貴方と勝ちたいっ、貴方と一緒に
「気にすんな」
「また、負けるかもしれない、みっともないところ、見せちゃうかもしれない……それでも貴方は──アタシの側に、居てくれる?」
「居させてくれよ。俺はお前の側に居てやることしかできないんだからさ」
「うっ、うぅっ……」
「もう一回、頑張ってみようぜ。どんなに無様に負けても、泥だらけになっても、それすら糧にして立ち上がる。俺が知ってるダイワスカーレットは、そういう奴なんだよ。それでも苦しい時は、俺が背中を押してやる。そうやって何回でも、何回でも立ち上がって行こう」
「うん……うん……っ」
そして彼女も、克樹を強く抱きしめた。
まるでしがみつくように、弱さを曝け出すように強く、強く。そのまま彼の胸に顔を押し付けて、嗚咽を上げる。頂点を志ざす孤高の少女は、いつも隣に彼が居てくれたということに、漸く気づいた。
彼女が泣いている。全てを曝け出しながら。
彼も泣いている。全てを包み込みながら。
そんな2人の姿を、5月と同じように月明かりだけが照らしていた。
▼
「……みっともないところ見せたわね」
「いや、俺の方こそだ」
改めて帰路に着いた2人。その表情は互いにどこか気まずさを滲ませていた。
それもそのはず、互いにガチ泣きして、あろうことか抱き締め合いまでしたのだ。羞恥心がメーターを振り切り、気まずさが天元突破していた。
それでも、忘れたいとは思わない。
少なくとも、彼女の方はそうだった。
触れ合った彼の暖かさが、確かに彼女の心を救ってくれたから。
それを自覚した途端、彼女は自分の頬が微かに熱を帯び始めていくのを感じた。
(冗談でしょ? そんな、そんな──)
彼女は理性的に、それを否定する。
それでも、彼女の手は──
隣を歩く克樹の手を、そっと握っていた。
「……何してんの?」
「はっ!? あ、いや、これはそのっ」
彼女は動揺し、手を離そうとする。
しかし強く握り返された克樹の手が、それを許してくれなかった。
「いいよ別に。そんな気分なのも……ちょっとわかるしな」
「……ぁ、ぅ」
茹だった頬を見られぬようにと、ダイワスカーレットは俯く。それと同時に感じる、彼の手の暖かさ。自分を支え続けてくれていたその手の優しさに、言葉にはできない感情が込み上げてくる。
彼の方はどうなのだろうとそっと様子を伺うと──彼もまた、居心地悪そうに視線を泳がせながら、頬を染めていた。
そんな様子を見て、彼女は。
「──ふふっ」
心の底からの笑みを浮かべた。
その姿を見てしまった克樹は、驚きのあまり目を見開く。
(……やば、かわい──)
そこから先の思考を、無理やり遮った。
そして次の瞬間、照れ隠しで放たれた彼の一言は、端的に言って最悪だった。
「──春先なのに手汗凄いな、お前」
「YAWARAァッ!!!」
「イッポォン!?!?」
現役選手と遜色ない鮮やかすぎる神速の一本背負いに、克樹の体は無様に宙を舞い、受け身をとることすらままならず地面へと叩きつけられた。
「アンタマジでデリカシーなさすぎ!! アホ! ボケ!! なすび!! 童貞!!!」
「おい待て!! 最後のは関係ねぇだろ!! 女が平然とそんな言葉を口にするんじゃねぇ!!」
「うるさい人の気も知らないで! バーカバーカ!!」
「あっ……たま来たァ!! 事あるごとにバカバカ言ってきやがって!! 大体お前がこんな春先で手汗凄いのが悪いんだろうが!!」
「はぁ!? 誰のせいだと思ってんのよ!?」
「俺のせいなのかよ!?」
「そうよ!!」
「なんでだよ!?」
「えっ…………………バーカ!!」
「ったぁ!? なんでぇ!?」
炸裂したビンタ。久々に味わうその痛みに克樹は懐かしさを覚え──ることなど微塵もなく、普通にキレた。
そのあともぎゃあぎゃあと騒ぎながら歩き続ける2人。その両手が繋がれたままだという事にツッコミを入れる存在は、この場には居ない。
それでも2人は、こんなくだらないやり取りに、漸くいつも通りを取り戻したんだという安堵を感じた。