「ぐ、この……!」
「ほらスカーレット頑張ってー! あと30秒も残ってるよー!」
「わかってるわよ……っとぁ!?」
「あー言わんこっちゃない。ダメダメ、最初からやり直ーし!」
「クソ、次こそは……!」
スカーレット来訪から1週間後。今日も今日とてテイオーとの合同練習。今日はトラックではなく、ウイニングライブの練習等で用いられるホールで練習を行っている。
事のきっかけは、スカーレットがテイオーにある質問をしたことだった。
『──テイオー、柔軟性を鍛えるトレーニングって何か知ってる?』
スカウティング以降、スカーレットなりにテイオーがもつ武器に何かを感じたのだろう。自分に不足しているものを考え、積極的に取り入れようとする姿勢。良い傾向だ。互いが互いを貪り合って向上していく。これこそが正に俺が今回の合同練習で求めたものだ。
というわけで、未だ療養中のテイオーはスカーレットに自分がやっていたという練習を教えている。現在やっているのは片足を軸に立ち、両腕と片足を限界まで伸ばしてバランスを取るトレーニング。普段やらないポーズにスカーレットはなかなか苦戦している。
「良いトレーニングだな、コレ」
「でしょ? ボクがトレーナーに発案したんだよ?」
「あぁ。柔軟性ってのは、簡単に言えば
「流石カツキ、詳しいね」
「まぁな。で、このトレーニングは筋肉の柔軟性を高めると同時に、体幹を鍛える事ができる。効率の塊みたいな練習だぞコレ。よく思いついたな」
「色々試行錯誤したけどね。ほら、ボクの柔軟性は最初からもってたものだから、どっちかっていうと維持の側面が強くて。だから同時に体幹を高めるためにこのトレーニングをしてるんだよ。この後は、スカーレットに柔軟性に特化したストレッチを教えるつもり。最初はかなり痛いと思うけど、続ければスカーレットならできるようになると思うよ?」
「継続は力なり、ってか……そういえばお前、惜しげもなく自分のトレーニング法をスカーレットに教えてるけど、そういうの気にしないのか?そりゃあ俺達からすればありがたいけど」
「え? んー……」
俺の質問に、顎に指を当てて悩んだ表情を見せるテイオー。暫くしてその表情は、笑顔へと変わった。
「別に教えたところで、ボクが弱くなっちゃうワケじゃないしね! 僕のトレーニング法で学んだことは、れっきとしたスカーレットのモノだよ。それにボクも今度スカーレットのレースプランの話とか思考法とか教えて貰うつもりだし!」
「ふーん……そうか」
「そして何より──教えた上で勝ちたいんだよ。自分の為に隠すなんて、そんなズルいヤツにボクはなりたくない」
そう言って、テイオーは笑みを深める。しかしその小さな身体から滲み出た、大気を揺らがせるような濃密な殺気に、俺は全身がビリビリと痺れるような錯覚を起こした。驚きながらも思う──そういえば、コイツも立派な“ばけもの”だったな、と。
「ありがとなテイオー。本当に助かるよ」
「良いよ良いよ! ボクの大事な友達と、大切な恩人の頼みだしね──ね、
「よせよ、そんな大層なことはしてない──あとその呼び方やめろ」
「はいはーい、気を付けまーすっ」
「テイオー!? アンタちゃんと時間測ってるんでしょうね!?」
「わ、やば……!」
スカーレットからの怒号に、テイオーは焦りながら走っていった。
その後ろ姿を見ながら、俺は小さく呟く。
「ありがとなテイオー。ここまでは、
その呟きを聞き取った者は、俺以外には居なかった。
▼▽▼
「夏合宿?」
「そう。七月まるっと1ヶ月、環境を変えて合宿をしようと思うんだが……どうだ?」
トウカイテイオーの考案する柔軟性向上トレーニングを終えてチーム部屋に戻ったスカーレットに提案されたのは、夏合宿だった。
(合宿、ねぇ……)
タオルで汗を拭き、スクイズボトルでドリンクを飲みながら彼女は思案する。
環境を変えて練習する事、それ自体は悪い事ではない。普段と違う環境に身を置き、学園にいるときではできない練習で自身の技能を新たな側面から伸ばす。表情には出さないが、彼女はかなりワクワクしていた。
「いいじゃない。行きましょ、合宿」
「そうか。納得してくれるなら助かる」
「元より、アタシはアンタの決めた事に異論なんてないわよ。ちゃんと事前に相談してくれれば文句なんて言わない」
「わかってるって。気をつけるよ」
どうだか。内心で彼女は呟いた。
その宣言は、全くもって信用ならない。
ただあの日──彼女が克樹の家を訪れて以降、克樹と話すことが増えたのは事実。以前も話していなかったわけではないが、練習メニューやレースのことなど、指導的側面が大きかった。それが他愛もない日常会話を積極的に持ち掛けるくらいには、克樹は積極的に彼女と関わりをもとうとするようになった。彼女が打ち明けた本音は、彼と彼女の関係を少しだけ変えたのだ。
「で? 場所は?」
「茨城」
「その心は?」
「…………当てがあるから」
「当てが無いと行けないワケ?」
「詳しいことはタマモクロスに聞いたらどうだ」
「あっ」
唐突に顔が死んだ克樹を見て、聡明な彼女は全てを察した。そういえば指導が終わってからも定期的にご飯を食べに行っていると言っていたことを思い出した。
「い、いいわよね茨城! ほら……あの……その……く、空気が美味しいし!」
「お前今すぐ全茨城県民に土下座しろ」
「ふぉ、フォローしてあげたんだからそんな言い方しなくていいでしょ!?」
あまりに酷すぎる克樹の物言いに、彼女は怒り心頭といった様子。いや彼女の茨城に対する感想も大概だが。
「あ、そういえば学校ってどうなるの? 七月頭って、まだ夏休みにならないんじゃないの?」
「特別申請書ってシステムがあってな。トレーナーから学園に申請して、該当のウマ娘を公欠扱いにして貰えるんだよ。審査もあるが、まぁお前なら通るだろう。成績も優秀で普段の外面が完璧な分印象も良いし、『秋華賞』のためって言い張れば最悪『
「なんか余計な言葉が聞こえた気がしたけど……まぁ良いわ。でもなんか、ズルしてるみたいでちょっと申し訳ないわね」
「学園に設けられた正式な権利だから気にすんな。お前が望むなら補講も開いて貰えるから、学業の遅れも心配しないで良いぞ」
「……そう、助かるわ」
自分が心配していた部分をピンポイントでフォローされ、彼女は戸惑った。
「てなわけで、1週間後に茨城に出発だ。土日挟んでるからその間に諸々の準備は済ませておけよ」
「わかった。じゃ、アタシ帰るわね」
「おう、俺ももう少ししたら帰るわ」
「……無理しないでね?」
「わかってる。あと30分もすれば帰るよ」
「……そ。じゃあ、お疲れ様」
「お疲れ様。また明日な。気をつけて帰れよ」
椅子に座り、彼女に背を向けながら克樹は手を振る。それを眺めながら、彼女はチーム部屋を後にした。
▼
「……」
寮へと続く夜道を一人で歩く。その心中で思うのは、先程自分を送り出した彼のこと。
(──どうしちゃったのかしら、アタシ。最近ずっと、アイツのこと考えてる)
鼓動の高まりを感じた彼女は、握り拳を作って胸を押さえた。
キッカケは、わかっている。克樹の家を訪れたあの日。克樹が眠れるようにと、彼女は純粋に、何の他意もなく彼の横で添い寝をした。自分がよく母親してもらっていたからと頭を撫で、あろうことがハグまでした。
それに対して、彼が返したのは。
(──あんな顔、初めて見た)
自分を押し倒した彼の表情は、いつもの凛々しい顔でも、時折見せる優しい笑顔でもなかった。
『トレーナー』という皮を剥ぎかけた、『松田克樹』という1人の男が、そこにいたのだ。
彼は勿論それ以上をするつもりもなかったし、結果本当に何もしていないのだが、それでも彼の雄の部分が、彼女を目の前にしてほんの少しだけ溢れ出していた事に、本人は気付いていない。
そしてそれ以上に彼女を戸惑わせるのは。
それを不快と思わなかった自分が居たこと。
気の迷いだ、と言い聞かせる。
雰囲気に流されかけただけだ、と言い聞かせる。
何度も、強く言い聞かせている。
克樹のアレはあまりにも無防備が過ぎた自分に対する警告行為であり、そこから先をする気は一切無かったという事も重々承知している。
それなのに、それなのに。
(アイツがあんなこと言うから──!)
それは克樹自身も反省していた、彼女に向けた言葉の中身だった。
──『良いか、スカーレット。
他の誰にも。
それは深読みすれば、
──『
普段そんなことを思っている様な素振りは一切出さないくせに、あんな状況で“可愛い”なんて言われたら。
(アタシ、まるで、トレーナーを──)
「ッッ!!!」
夜の市街地に、轟音が響いた。
それは彼女が昂った感情を押さえ付けるために、近場の電信柱に思い切りヘッドバットをカマした音だった。
見れば電信柱には小さなクレーターが発生し、周囲に小さく破片が舞っている。鍛え上げられた彼女の力が、しょうもない場面で発揮された一幕だった。
額から滴り落ちる血が唇に触れ、彼女はそれを煩わしそうにペロリと舐めた。
「ひっ、ひあああぁぁあァァァァァッ!!」
そんな彼女の様子を見ていた近所に住むサラリーマンが、悲鳴を上げながら逃走していった事に、彼女は気付かない。
(落ち着け……落ち着くのよアタシ。アイツはアタシのトレーナー、それ以上でもそれ以下でもない。こんな事にうつつを抜かしてる暇なんてない。アタシには『秋華賞』を取って、『トリプルティアラ』を戴くっていう目標があるんだから)
「フゥゥゥゥゥ─────」
バチ、バチと瞳から出た紅い稲妻が夜闇を照らす。痛みと闘争本能、その二つを駆使して彼女の心は漸く平静を取り戻した。
(大体アイツにそんなつもりがあるわけない。あんなのを本気にしたところで、惨めな気持ちになるだけよ。はぁ、どうかしてたわ全く)
先程までの自分を、冷めた心で客観視することができた。
(──っぁ)
その際生まれた、小さな心の疼き。
心を刺すようなその疼きに対して、彼女はまだ名前を付けることが出来なかった。
「──痛った」
そしてその疼きは、額から広がる猛烈な鈍痛に上書きされて消えていった。早急に何とかしなければ酷く腫れてしまう事は明白だった。
「……なんて言い訳しようかしら、コレ」
はぁ、と溜息を吐いて、彼女は再び寮までの道のりをトボトボと歩き始めた。
▼
そして、迎えた七月。
トレセン学園から克樹が車を走らせて、高速道路で1時間半程。
「もうすぐ着くぞ、スカーレット」
「あら、思ったよりも早かったわね」
目的地を目前にして、彼女の心は興奮に包まれていた。見慣れぬ土地、新たな練習。全てが楽しみでしょうがない。
「っし、見えてきた」
「え……? こんな所に施設があるの?」
「いやいや、ここは住宅街だから施設なんてものはないぜ?」
克樹の言葉に、彼女は疑問を抱かざるを得ない。
一見そこは、辺り一帯が民間で固められた住宅街。そして道沿いには砂浜が見える。普通、合宿といえば彼女の想像しているようにそれなりの施設を用いるだろう。だから克樹はその施設に当てがあるのだろうと、彼女は勝手に思っていた。
──嫌な予感がする。
彼女の本能が、警鐘を鳴らした。
「……ねぇ、合宿先って、どこなの?」
「ん? 言ってなかったっけか」
「また悪びれずそういう事を……この前約束したばっかじゃない」
「ごめんって。合宿先は───」
──俺の実家だけど。
「…………は、はああぁぁぁァァァァァ!?」
迫真の絶叫が、車内を貫いて雲一つ無い蒼穹に響いた。
斯くして彼女の夏合宿──もとい、家庭訪問が幕を開けたのだ。