『──ボクはトウカイテイオー! よろしくね!』
それは、未だに褪せない記憶。
彼女と彼女の、記憶の最初の1ページ。
彼女は、笑っている。
彼女は、戸惑っている。
なぜなら彼女にとって彼女は、遠い存在で、追いかける背中で──越えるべき壁だったから。
そんなことを露にも思わない彼女は、彼女へと手を伸ばす。
なぜなら彼女にとって彼女は、漸く現れた存在で、自分を超えようとする相手で──好敵手足り得るウマ娘だったから。
それが彼女と彼女の、
2人はまだ、これから訪れる運命を知らない。
「──ット、おいスカーレット! 聞いてんのか?」
「え……あぁごめん、ぼーっとしてた」
「しっかりしろよ。もうすぐ本番なんだぞ?」
回想の深海から、克樹の呼び掛けによってダイワスカーレットが浮上する。
ふと前を見れば、彼は心配そうに彼女を覗き込んでいた。
「わかってるわよ。ちゃんと集中してるから安心して」
「それならいいけど、本当に大丈夫か? 相手はあのテイオーだ、気合い入れないと一瞬でケリが付いちまうぞ」
「大丈夫だってば。そんなの、アタシが1番わかってる」
本当に呆けていたわけではない。
『菊花賞』から2週間が過ぎて、11月中旬。
今日はG1レース、『エリザベス女王杯』。
彼女とトウカイテイオーの、決戦の日だった。
「ならいい。さて、スカーレット……『秋華賞』から約1ヶ月も経っていないスケジュール、正直俺は今回の出走、反対だった。だからお前が出たいって言った時は、耳を疑ったよ。そのリスクを、お前が理解していないはずがないからな」
「……重々承知よ」
「そして相手はトウカイテイオー。お前が合同練習で、圧倒的に負け越している相手だ。そのことも、わかってるな?」
「ええ、大丈夫」
「その上で聞くぞ、
一見すれば、彼女の無謀な挑戦を貶しているようにも聞こえる。しかしそれは、断じて違う。彼は改めて確認しているのだ。彼女が今日、何を思い、何を目指して走るのかを。
「──愚問ね」
彼女は心底面倒くさそうに吐き捨てた。
「──アタシは今日も、アタシの
瞳孔の開いた瞳から、紅い稲妻が音を鳴らした。
「……いい返事だ」
克樹はニヤリと笑う。それは彼自身を納得させ得る答えだったから。
「さ、そろそろ時間だ」
「えぇ……行ってくるわね」
「あぁ、行ってこい」
克樹の促しに応じて、ダイワスカーレットは席を立った。そして出口まで歩み寄りドアノブを掴んだところで──不意に静止した。
「……トレーナー」
「どうした」
「……今回ばかりは、流石に負けるかもしれない」
「は……?」
久しく聞いていなかった、彼女の弱音。克樹はその言葉に、かつての“あの日”をフラッシュバックした。
「お前、どういう……」
「相手はテイオーだもの……絶対勝てるなんて、口が裂けても言えないわ」
「……」
「……でも、でもね」
そこで彼女は言葉を切り、克樹を振り返った。
「アタシ、勝ちたいの。アイツに、トウカイテイオーに。そこからアタシは、漸く始まる気がするから」
笑顔はぎこちなく、声にいつもの自信はない。
それでも心は、死んでいない。
表情とは裏腹に、その瞳は本能のままにギラついている。己の存在証明に、打ち震えている。
だから彼は、何も心配しなかった。
「……まぁそうだよな。テイオーは、練習で散々ボコボコにされた相手だもんな」
「ちょっと、そんな言い方……!」
「仕方ないさ、ビビって震える気持ちもわかるからな……で、
「えっ……」
「
「っ──」
強い口調での問いかけに、ダイワスカーレットは思わず閉口する。
「お前、自分よりテイオーの方が強いって思ってんだろ」
「……悔しいけど」
「だろうな。でもそれは違う──違うぜ、スカーレット」
「え……」
「──
「あ……」
「勝者と敗者は、勝負の結果によって定められる。練習で何度勝とうが、何度負けようが、それ自体は大したことじゃない。本番で勝たなきゃ、何の意味もねぇんだからな。いいかスカーレット、覚えとけ──
「……そうね、そうよね。どうかしてたわアタシ」
彼女の表情に、力が戻った。
「アタシはアイツに、勝つ。そしてアタシの最強を証明して見せる……!」
「それで良いんだよ。気持ちで負けてちゃ、ハナから勝負になんねぇからな。負けそうとかそんな邪魔なモン、俺に預けて此処に置いて行け」
調子を取り戻した彼女の様子を見て、克樹は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。初めて試合前にアンタが頼りになると思ったわ」
「るっせぇ余計なお世話だ。さぁ行ってこいスカーレット。結果はどうあれ、俺はずっとお前の側に居るから」
「……! ええ、行ってくる! いいえ……勝ってくるわ!」
「それでこそお前らしい。頑張れよ!」
「勝ったら死ぬほど奢ってもらうから、ちゃんとATM行っときなさいよ!」
「ちょっと待ってそれは話が違くない???」
急に現実へと叩き落とされた克樹の情けない声を背に受けながら、彼女は満面の笑みで本バ場へと向かって行った。
無事に済んだダイワスカーレットと、無事では済まなそうな己の財布を秤にかけて、克樹の感情はめちゃくちゃだった。
「……っはは」
そして彼は、心情とはかけ離れた穏やかな笑みを浮かべた。
「幾らでも奢ってやるから──勝てよ、スカーレット」
その言葉と共に彼の頬を伝った滴の意味を知るものは、何処にも居なかった。
▼
トウカイテイオー。
端的に言って彼女は、“天才”である。
恵まれた身体技能──柔軟性。それを最大限に活かす為、彼女は幼い頃から努力を惜しまなかった。
かつて見た、
──ボクもあの人みたいになりたい。
それが彼女の走る理由。『無敗の三冠ウマ娘』を目指したのもそうだ。事実それから彼女は鍛錬を重ね、自身の才能を磨き続けた。そうして夢を現実に変えるだけの技量と覚悟をもって、『トレセン学園』の門を叩いたのだ。
その結果は──
同期のウマ娘に、彼女に敵う存在など居なかった。
──この程度か。
『“トゥインクル・シリーズ”で走りたい』。そう夢を語るウマ娘が居た。
レベルが低いと、彼女は嫌悪した。
『G1で勝ってみせる』。そう決意を述べるウマ娘が居た。
程度が知れると、彼女は唾棄した。
彼女にとって、それらは通過点に過ぎない。見ているレベルが違うのだと、彼女は入学して数ヶ月で察した。
──ここはぬるま湯だ。浸かれば自分は腐っていくだけ。
彼女はそう自分に言い聞かせ、クラスメイトとの切磋琢磨を、時間の無駄だと切り捨てた。
ふと振り返れば見える、遥か後方で自分の背中を見つめる同期達の姿。その目は、“死んでいる”。勝とうという意志もなく、悪戯に夢を語るだけ。そこに至る為の努力もしていないくせに、本気で叶える気もないくせに。
──おかしい。ボクはこんなに頑張ってるのに。
どうしてキミたちも頑張らないの?
彼女は終ぞ、
思春期に青春全てをかなぐり捨て、自身の鍛錬と修身に費やす彼女の姿は、ハッキリ言って異常である。しかしその
しかしある日、彼女は遂に見つけたのだ。
切り捨てた有象無象の中から、心の奥底で何よりも欲していた存在を。
「はぁ……全く、時間の無駄だよこんなの」
それはある日、彼女が同期達との模擬レースを終えた後のことだった。
その結果は勿論、トウカイテイオーが大差をつけての一着。走る前から見えていた結果だけに、そこに驚きも感動もない。ただあるのは、時間を無駄にしたという苛立ちだけ。
「ん……あれは」
自主トレのためにトレーニング室に向かっていた彼女は、その先に歩く数名の同期のウマ娘を見つけた。
「やー、惜しかったねぇ、スカーレット」
「そうね……一着を目指してたけど、悔しいわ」
トウカイテイオーは、冷めた目でその様子を見ていた。吐き気のするような傷の舐め合いだ、と内心では思った。
「まぁでも、テイオーなら仕方ないよねー」
「うんうん。なんか私達とは違うって感じだしね」
何気なしに呟いた、同期のその言葉。
それは小さく──確かにトウカイテイオーを傷つけた。
(ほら──そうやってみんな、勝手に諦めて)
ギリッ、と嫌な音が虚しく響く。
勝つとか負けるとか、そう言う話じゃない。勝負の場にすら立てていない。
彼女には理解できなかった。
──どうして戦う前から決着を急く?
そんなのもう、
孤高の天才は、決意を固める。
要らない。友情も信頼も鎬も切磋も琢磨も協力も──何もかも。
自分の力だけで、のし上がって見せる──そう決意した瞬間。
「──勝てないからって、諦める理由になるの?」
空気が、凍った。
周囲のウマ娘達も驚きに息を飲む。
琴線に触れた不用意な発言が、彼女の器用に被った優等生の皮を引き剥がし始め、そこから飢えた本能が漏れ出し始めていた。
「アタシにとって、トウカイテイオーは越えるべき壁。アタシは“いちばん”になる。そのためなら何度だって挑戦してみせるし──最後には、アタシが勝つわ」
「…………!」
トウカイテイオーは目を見開く。
その発言は、まさに彼女が心の奥底で欲していたモノだった。
(……本気だ。あの子は本気で言ってるんだ)
今は負けても、最後に
実力はまだ無くとも、彼女は資格を有している。
トウカイテイオーの心は歓喜に震えた。
「……と、とか言ってみたり? あはは……」
友人達の様子を見て、ダイワスカーレットは焦ったように優等生モードを取り繕って笑う。
程なく解散した彼女達を見て、トウカイテイオーは意気揚々と話しかけた。
「やぁ! こんにちは!」
「わぁっ!? えっ、貴女……」
「ボクはトウカイテイオー! よろしくね!」
「……知ってる、けど」
「そっかそっか! ねぇ、キミの名前は?」
「えっ……わ、私達、クラスメイト……よね?」
「そうだよ! で、キミの名前は?」
「……ダイワ、スカーレット」
「ダイワスカーレットちゃんか! ねぇ、スカーレットって呼んでも良い?」
「構わない、けど……?」
それからトウカイテイオーは、認識を改めた。曇天の中でも消えぬ輝きを放つ者達が、同期にも居る。それはダイワスカーレットだけではなかった。曇っていたのは、自分の目だと気付かされた。
その日、トウカイテイオーの世界は変わったのだ。
ダイワスカーレットもまた、認識を改めた。彼女は才能に驕った怠け者ではない。努力する天才、とは彼女のことを言うのだろうと悟った。そんな天才に、認められた。越えたいと願う壁は、いつも自分を振り返り、笑っている。『越えられるものなら越えてみろ』、と。それはウオッカと共に、彼女にとって大きなモチベーションとなった。
その日、ダイワスカーレットの世界は変わったのだ。
いつしか彼女の仮面が外れ、ありのままを曝け出せる存在になるまでに、そう時間はかからなかった。
トウカイテイオーは待っていた。
彼女が自身と雌雄を決するに相応しい存在となるその日を。
ダイワスカーレットは待っていた。
自身が彼女と雌雄を決するに相応しい存在となるその日を。
そして出会いから時は流れて───
▼
「テイオー」
回想から引き戻す、その声。
隣のゲートからの呼び掛けに反応して、トウカイテイオーはそっと横を見た。
「……やっほー、スカーレット」
「調子はどう? アタシの方は、最高よ。今日はアタシが勝たせてもらうわね」
腰に手を当て、ダイワスカーレットは不適に笑う。その瞳からは、滾る闘志が稲妻となって溢れ出している。
そんな彼女の様子を見て、トウカイテイオーは小さく笑い、呟く。
「……ありがとう、スカーレット」
「は……?」
「キミがボクにくれたもの、忘れないよ」
「ちょ、アンタ何言ってんの?」
肩透かしを食らったかのように、ダイワスカーレットは怪訝な表情で吐き捨てた。
「まさか腑抜けてるんじゃないでしょうね?」
「──それこそまさかだよ、スカーレット」
「っ!?」
彼女が見に纏う雰囲気の変化に、ダイワスカーレットは気づいた。
灼熱の勝負服を突き破るかのように燃え盛る業火。
宿敵が自分を焼き殺そうとせんばかりに、瞳孔の消え去った瞳で笑いながら見つめてくる。
「ボクは勝つよ。他の全てはどうでもいい。キミに勝つことしか──考えられない」
「ッ──!!」
灼熱が、彼女の表皮を焼いた。
一刻もこの場を離れなければ、自分は灰すら残らず消え失せてしまうだろう。そう思った、思わされた。
──冗談じゃない
「……!」
今度は、トウカイテイオーの番だった。
地響きが、ターフに轟く。まるで落雷が直撃したかの様な轟音。それはダイワスカーレットが自分を鼓舞すべく、力強くその場で踏み込んだ音だった。
その刹那、トウカイテイオーの全身を貫く痺れ。正面に鎮座しているのは、ダイワスカーレットという名の依代。万象一切を消炭に変える、紅い雷神。
「──勝つのはアタシよ。アタシはアンタを、超えて往く」
(──一体キミは、どこまで強くなるんだろうね)
全身から汗を吹き出しながら、トウカイテイオーは苦笑する。紅い稲妻が奔流となって大気に溢れ出して、彼女の瞳を焼いていく。それでも彼女は、ダイワスカーレットから目を逸らさなかった。
燃え盛る業火、迸る紅雷。
一種の地獄と化したトラック上。
周囲のウマ娘達はその重圧に完全に気圧されている。
静まり返る観客席。彼らもこの異様な雰囲気を感じ取っている。開戦まであとわずか。
両者は既に前を向き、今か今かと解き放たれる瞬間を待っている。
(アタシが勝つ──) (ボクが勝つ──)
奇しくも両者が目指すものは同じ。
そして二頭の勝利に飢えたケモノが、ターフへと解き放たれた。