それから一週間が経った。医者も唸るような驚異の回復力で、スカーレットは練習復帰への許可を得た。
痛みも完全に引いたようで、彼女は今心の底から嬉しそうにターフの上を走っている。勿論全力ではなく、体を慣らすためにゆっくりと。
「ふー……」
「お疲れ。どうだ?」
「全然。寧ろしっかり休んだ分調子が良いくらいだわ。結果的に見れば良い休暇になったって感じね」
「そうか……一応言うが、無理はすんなよ」
「わかってるってば。じゃあアタシ、もう少し慣らしてくるわね。
「……」
「……
彼女の背を見送りながら、俺は呟いた。
怪我をしました。治りました。全て元通りです。
──そんな話が、あるわけがない。
痛みは無かろうと、必ずあるはずなのだ──前とは違う、漠然とした違和感。そして再発への恐怖が。
だから彼女は、それを振り払う為にジョグを重ねている。スカーレットの言った通り、本当に全てが元通りになっているのならば、彼女の性格上あそこで出てくる言葉は『慣らしてくる』ではない。『走ってくる』のはずなのだ。
これがウマ娘の怪我の恐ろしい所。外傷が完治しようと、心に負った傷は簡単には癒えない。彼女らにとって脚は武器であり、相棒であり──
──それを失えば、彼女達は文字通り選手生命を絶たれて、
故にウマ娘とトレーナーは、足の負傷に対して非常にナイーブになる。それはあの勝ち気で自信家の彼女とて例外ではない。
走ってもう一度怪我をしてしまったら?
全力で走ったのに、タイムが落ちていたら?
そんな
それが負傷というものの本当の恐ろしさだ。
そしてそれはスカーレットにとって、初めての経験。
「……まぁ乗り越えられるとは思うが、時間はかかるだろう」
俺は信じている。彼女はこの経験すら糧に、更に飛躍していくだろうと。だがそれは、簡単なことじゃないと重々理解している。これは一日二日で治るような、単純な話ではないのだから。
「……次のレース、か」
スカーレットの言う通り、予定してある次のレースは近い。そしてそれは、俺と彼女の“夢”の到達点でもある。
──『有馬記念』。
ファン投票で選ばれたウマ娘だけが走ることを許される、文字通りのオールスターマッチ。そこで勝利することは、文字通り“いちばん”のウマ娘となることを意味する。
そんなオールスターマッチに、今年度の『トリプルティアラ』である彼女が選ばれないはずもなく、彼女は見事に出場権を勝ち取ったのだ。その時の彼女の表情は、今でも鮮明に思い出せる。彼女が心からの笑みを浮かべた、数少ない場面だったから。
──ソレとコレとは、話は別だ。
俺が下すべきは、客観的な判断。
彼女の思いだとか願いだとか、そういうもの一切を切り捨て、己の目で見た事実だけを勘定し、結論を出す必要がある。
「……」
静かに、ターフへと視線を移す。
瞳に映るのは、必死に駆ける彼女の横顔。
それは確かに、次なる目標を見据えていた。だが同時に、何かを振り払うかの様に必死に走っているだけのようにも見えた。
「……」
わかっている。答えはもう、ハナから決まっている。
「──
お前自身じゃなくて、俺を。死ぬほど。
心の中でそう呟いて、俺は一周を終えた彼女の元へと歩きだした。
▼▽▼
「何? 話って」
「あぁ、次のレースのことだよ」
練習を終えてチーム部屋に戻った克樹とスカーレットは、テーブルを間にして向かい合う形でソファに腰掛けていた。
「ふーん、何?」
「……」
「ちょっと、トレーナー?」
「あ……あぁ悪ィ」
神妙な面持ちをしている克樹を不信に思ったダイワスカーレットは、思わず克樹へと問いかけた。そんな彼から帰ってきたのは取ってつけたような笑顔と生返事だけ。
そんな彼女を他所に、克樹は己の気持ちを固めていた。
「……ふぅ」
溜息を、一つ。
それだけで、彼は己の心の靄を振り払う。
揺るがぬように、流されぬように、覚悟を鋼のように固める。
そして彼は、ゆっくりとそれを言い放った。
「──辞退しよう、『有馬記念』」
「……………は?」
驚きのあまり、ダイワスカーレットの口からは吐息の様な声が溢れた。
「なん、で……なんでっ、そうなるのよッ!?」
テーブルを力強く叩きながら、彼女は克樹へと問いかける。
「折角ここまで来たのに……どうしてそんなこと言うわけ……? ねぇ、アタシと“いちばん”になるんじゃなかったの? こんなまたとないチャンス、みすみす見逃せって言うの……!?」
「落ち着け、スカーレット」
「落ち着いていられるわけないでしょ!?」
もう一度、彼女は感情のままに机に掌を叩きつけた。そんな様子を目にしながらも、覚悟を決めた克樹の表情はピクリとも動かない。そしてその表情のまま、彼は彼女へと告げる。
「端的に、客観的事実だけを言う──今のままじゃ、お前は勝てない」
「は?」
「勝てないって、言ってるんだよ」
「巫山戯るのも大概にしなさいよ。何を根拠に……っ」
「新走法の身体的負担、『秋華賞』と『エリザベス女王杯』の連続出走、負傷明けのバッドコンディションに再発の危険性。これだけ言えば十分か?」
言葉通り、端的に羅列された理由。しかしその一つ一つが理に適っているのも事実。ダイワスカーレットは唸りながら顔を顰めた。
一つ。新走法は従来よりも脚への負担──主に膝への負担が大きい。これは彼女の最高速度が、克樹の想定を上回っていたことによる誤差が原因だ。故にその誤差を修正し、新走法に耐え得る下半身が完成するまで、基礎練に重点をおくべきだと彼は考えているから。
一つ。間隔の詰まったG1レースへの連続出走。一度のレースでウマ娘にかかる心身的負担は決して軽いものではない。ましてG1となれば尚更だ。更に先の『エリザベス女王杯』では、トウカイテイオーと文字通りの限界を超えた“死闘”を演じた。その疲労は、すぐに抜け切るものではない。それが抜け切らないまま『有馬記念』の為の調整を行うことには、大きなリスクが伴うから。
一つ。練習中にも言ったが、負傷を甘く見てはならない。それが心身に与える影響は大きい。癒えたはずの負傷の影に、暫くの間彼女は苛まれ続けるだろう。そんな状態で最高の走りなど出来るはずもないから。
その正しさを、彼女は重々理解している。
そう、理解しているのだ。
しかしそれを受け入れられるかは、別の話。
「──なにソレ」
絞り出した声は、彼女自身も驚くほど低いものだった。
「“信じてる”なんて嘯いて、アンタアタシの気持ち──アタシのこと何にもわかってないじゃない」
怒りが込み上げた、失望が込み上げた。
だがそれでも、彼が自分のコンディションを心から慮ってくれているのもわかっていた。
両者に折り合いをつけ、現実に目を向けることができるようになるには──彼女はまだ若すぎた。
「……」
その点で言えば、克樹は彼女よりも精神的に成熟している。故に彼女の非難を無表情のままに受け入れることが出来ている。
「──言いたいことは、それだけか?」
あくまで静かに、克樹は問いかける。それは何を言われようが自分の意思を曲げるつもりは無いという、明確な意思表示。そんな彼の態度がまた、ダイワスカーレットの神経を逆撫でする。
「ッ──!!」
そして彼女は突如立ち上がり、感情のままに手を振り上げた。
しかしその手は行き場を無くし、力無くぶらりと垂れ下がった。そして彼女は大きく息を吐きながら勢いよくソファへと座り込んだ。
「……惨めね、アタシ」
「……何がだ」
「ここでアンタに手を上げたら、本当に思い通りにならなくて力に訴えかける子どもみたいじゃない──ええそうね、アンタが正しいわ」
自嘲めいた笑みを浮かべたまま、ダイワスカーレットは吐き捨てた。
「はぁ……そうね、アンタの言う通り。アンタが正しい」
「……お前ならわかってくれる──いや、
鉄面皮を貫いていた彼が、初めて柔らかな笑顔を見せた。
克樹は終始、彼女と話し合うということに重きを置いていた。感情的に思いをぶつけ合うのではなく、あくまで冷静に話し合うことでしか、この問題が解決することはないだろうと考えていたから。
「……そう、アンタが
──だからこそ。
「──例えアンタの言葉がどれだけ正しかろうと、アタシは……アタシの思いが、
ここからが、本番なのだ。
溢れた激情のままに克樹を睨みつける彼女との、彼が望んだ
「……あくまで出走を諦めない、っていうことか?」
「そう捉えてもらって結構よ」
「無理無茶無謀は、承知の上か?」
「それが正しいって言ったじゃない」
「……最後に一つだけ。それがわかった上で、何のために走るんだ?」
「アタシの“いちばん”を、証明するためよ」
「言ってること無茶苦茶だぞお前」
「あら、そうかしら?」
事もなげに笑う彼女の姿を見て、克樹は顔を顰めた。
「……じゃあ、どうやって一着を取るんだ」
「……」
「もっと現実的な話をしろ。“でたいものはでたい”とか、“勝ちたい”とか抽象的な理由は言語道断、検討にも値しない。聞かせてみろよ、お前のプランニングを。どんな戦略で練習をして、どんな戦術で本番走るつもりなんだ。お前の今の状況と、これからの推移を勘定して俺を納得させてみせろよ」
「それ、は……」
克樹の問いかけに、彼女はそっと視線を逸らした。
「言えないんだろ」
「……そんなにパッと出てくるわけないじゃない。今までだって何度も相手のレースを見て、アンタと話し合いながら決めてきたんだから」
「ンな屁理屈で俺は許可しねぇぞ」
「わかってる……わかってるわよ……!」
苦しい言い訳だと、彼女自身も理解している。あくまで理論的に、克樹はダイワスカーレットの反撃の糸口を潰していく。
「アタシは……アタシ、は」
口内が乾いて、カラカラだった。
思考が上滑りし、答えを導き出すことができない。
彼女が出走を志す理由──その根元はただ一つ、克樹も言い当てた通り、“走りたい”という気持ち。それとチャンスを手放したくないという気持ちが入り混じって、彼女は引くに引けずにいる。客観的に見た自分の状態──怪我のリスクやコンディション──を理解しているにもかかわらずだ。
(──言ってしまえば、アンタはきっと怒るでしょうね)
彼女自身──
彼女は、自分の本能に従うことを是としている。それは『エリザベス女王杯』での彼女の走りを見ても明らか。
──筋繊維の引き千切れる音がする。
無茶な稼働に、下半身が悲鳴を上げている。
それでも構わない。ここで壊れても構わない。
ここで負けるくらいなら──
勝利への欲求、己の存在証明。本能が叫ぶままに、彼女は“今”を生きている。それはあまりにも刹那的思考、しかしその尋常ならざる思いが彼女の底力になっているのもまた事実。彼女はどこまでも、自分の“今”を見据えている。
たとえ此処で終わっても走りたい。
そういえば、彼は頷いてくれるだろうか。
一瞬の思案。導き出した答えは、“否”。
彼は絶対にその理由で走ることを許容しない。何故なら克樹はダイワスカーレットの“未来”を見据えているから。
二人で
彼はレースで共に走ることができない。夢を彼女に託すしかない。だからこそ、彼女の体調管理には細心の注意を払っている。
“未来”を見据える克樹と、“今”を見据えるダイワスカーレット。それは、決して交わることのない平行線。
「……」
「答えは出たか?」
静かに、克樹が問いかける。
彼女は俯いたまま、何も答えない。
数分経った。その間2人とも何も言葉を発さない。時計の針の音だけが、チーム部屋に木霊する。
「……ンタが……」
「あ?」
「アンタが考えなさいよバーカ!!」
「──ん?」
「アンタが考えなさい、って言ってんのよ。お分かり?」
「……ふざけてんのか?」
「大真面目。だってそれがアンタの仕事でしょ? アタシが有馬を走れるように、
「…………」
彼女は言う。不敵に笑いながら。そこには一切の動揺も葛藤のカケラもない。いっそ清々しいまでに開き直った彼女の様子を見て、克樹は呆気に取られてしまった。
しかしそれも一瞬、克樹は鋭くダイワスカーレットを睨みつける。
「話になんねぇな。何の答えにもなってない」
「あら? そうかしら」
「煽ろうったって無駄だ。そんな安い言葉じゃ俺の意思は揺らがない」
腕を組みながら、克樹はそっと瞳を閉じた。
そんな彼へと、ダイワスカーレットは思いの丈を綴り始める。
「……アタシなりに色々考えたわ。自分の調子とか、そんなのも全部含めて。勝つために、何ができるのか。でも、
悔しそうに、唇を噛みしめながら彼女は呟く。
その悔恨を感じ取った克樹は、そっと左目を開けた。
「改めて感じたわ。トレーナーはアタシのために、色々考えてくれてるんだって。アタシの……ううん、アンタとアタシの、二人の夢のために全力を尽くしてくれてるんだって。だったら、アタシにできることは一つしかない……だってアタシは……アタシはッ!!」
喉元まで迫り上がる激情が、言葉を詰まらせた。
それを飲み込みながら、彼女は叫ぶ。
「アタシにはっ、走ることしかできないのよ……!」
「……」
「アタシを信じてくれるアンタに、アタシが返してあげられるのはそれだけなの……っ! 怪我をしたのも、調子が戻らないのもアタシのせいだなんてことわかってる。だからこそ、アタシは走りたい。二人の夢を、アタシの都合で潰すなんてこと、アタシは絶対に認めない」
揺らぐ表情、揺らがぬ瞳。
矛盾を表皮に貼り付けて彼女は叫び続ける。
「まだ何も始まってない、始まってないじゃない……! 今現在のアタシだけみて、未来のアタシの結末を勝手に決めないでッ!! アタシのことは、アタシがなんとかする。本番までに、全部元通りにして見せるから!! だから、だから──っ」
尻すぼみに小さくなっていく語尾。そこで言葉を止めた彼女は、しっかりと克樹の瞳を見据えながら、言葉を続けた。
「──だからトレーナー、
彼女の心からの叫びを聞いた克樹はしばらく沈黙を貫いていた。ややあって彼は、大きなため息を吐き、彼女を再び睨みつける。
「……結局、理論立てたことは何も言えねぇのな」
「……」
「でもまぁ──
「えっ」
驚きながら顔を上げたダイワスカーレットの視界に飛び込んできたのは、先程までとは打って変わった優しい笑みを浮かべる克樹の姿。
「感情的な──感情しかないお前の言葉、確かに受け取った。テキトーな御託やおべんちゃら並べられるよりよっぽど良い」
笑顔でそう呟きながら、克樹は立ち上がった。
そしてその表情を一転させ、力強く彼女へと言い放つ。
「──俺がお前を、勝たせてやる」
「トレーナー……!」
「ただしッ!」
「っ」
「出走取り消しの限界まで待つ。その間にお前の調子が戻らなかったり、怪我のリスクが高いと判断したら──俺は如何なる理由があろうと、お前の出走を認めない。これが呑めないなら、今の話はナシだ」
「……その程度の譲歩は認めるわよ」
「ならいい──覚悟はいいか、スカーレット。俺はお前が、『有馬記念』で一着を獲る姿だけを見据えてプランを組む。生半可じゃねぇぞ、付いてこれるか?」
「当たり前でしょ! アンタの方こそ、アタシに気ィ使ってたら承知しないからね!」
彼女の不敵な笑みに、克樹は口角をつり上げた。
かくして、二人の夢の終着点──『有馬記念』への挑戦が、幕を開けた。