「さっっぶいなァ!」
「今年一番の冷え込みって言ってたわね……流石に憂鬱になるわ」
ついにこの日が来た。
師走の暮れの日曜日、『トゥインクル・シリーズ』屈指の祭典、全ウマ娘達の憧れのレース。
──『有馬記念』。
中山レース場、芝2500m、天候曇、バ場状態稍重。
控室を出て、パドックへと向かう道中。屋内ではあるものの、吹き抜けから入り込む風は、刺すような痛みを錯覚させるほどに冷たかった。
「しっかり身体あっためとけよ」
「わかってるわよ。そこら辺は抜かりないから安心して」
「手編みした手袋とかいらんか? カイロと湯たんぽもあるよ?」
「おばあちゃんか!」
コートのポケットをゴソゴソと漁りながら言う克樹に、ダイワスカーレットは思わず突っ込んだ。
「アタシ今からレースなんだけど!? 気が抜けるようなこと聞かないでくれる!?」
「いやほら、気を紛らわせようと……」
「余計なお世話よ、ったく……」
『エリザベス女王杯』の時は頼りになると思ったのに。彼女は心の中で独りごちた。
「……さ、そろそろ行ってくるわよ」
「おう。緊張は無いか?」
「無いって言えば嘘になるけど……それを含めて、レースを楽しんでくるつもり」
「楽しむ、ねぇ……」
「何よ、何かおかしいって言うの?」
「いや、おかしくないけ……待って構えるのやめて。この寒さで叩かれたら流石に死ねる」
スッ──っと右手を構えたダイワスカーレットに、香月は懇願した。
「じゃあ何なのよ」
「いや……やっぱ緊張してんだな、って思ってさ。咄嗟に『勝つ』って言葉が出てこないあたり」
「……」
「緊張っていうか、不安……だな。お前、何が不安なんだ?」
「それは……」
克樹から視線を逸らすダイワスカーレット。本番前に問いただすことでもないか、と思い直した克樹は、それ以上の追求はやめて改めて彼女に言葉を掛けた。
「迷うなよ、スカーレット」
「……迷ってなんかない」
「お前の望みは何だ」
「……オグリキャップ先輩に、勝つこと」
「ブー!」
「はぁ!?」
唇を尖らせて仰々しく腕でバツ印を作った克樹に、ダイワスカーレットが怒りを露わにした。
「違うだろ。お前が俺に、出場を諦めたくないと説得してきたのはその理由じゃなかったはずだ」
「っ!」
「オグリキャップは、“通過点”だろ? お前が目指していたのは、お前の本当の望みは何だ、ダイワスカーレット」
「……フン、やっぱり緊張してるのかしらね。こんな簡単な問いにも答えられないなんて」
鼻を鳴らしながら笑った彼女の瞳に──紅い稲妻が迸る。
「──アタシは、アタシの“
その答えに、克樹は満足そうに笑った。
「そうだ。そしてそれは、
「……そうね、なんかあっという間だった気がする」
「俺に出来ることはやった。後はお前次第だ──しっかりやってこい、“相棒”」
そして克樹は、笑顔で拳を突き出す。そして彼女もまた、拳を突き出して克樹に重ねる。
「ありがと、なんかスッキリした! 後はアタシに任せてふんぞり返ってなさい。勝利の美酒に酔わせてあげるわ、‘’相棒”っ」
晴れやかな笑顔を浮かべる彼女を見て、克樹は安堵した。
「じゃ、行ってくる」
「おう、行ってこい」
その言葉に力強く頷いて、彼女はパドックへと歩き出した。
「……スカーレット!」
「?」
そんな彼女の背中に、克樹が呼び掛ける。
「──無事に帰ってこいよ」
その言葉に数瞬戸惑い──彼女は笑った。
「当たり前でしょ。心配しないで」
そして彼女は、返事を聞くことなく歩き出した。
▼
パドックに足を踏み入れたダイワスカーレット。
そんな彼女に降り注ぐ、歓声と応援。
それを一身に受けた彼女は、感慨深さを覚えていた。
(……一年前までは考えられなかった。アタシを応援してくれる人たちがこんなにも……こんなにも居てくれるなんて)
彼女は知っている──誰にも期待されない、見て貰えない虚しさを。全てのウマ娘が、誰かに期待されるような存在になれるわけではないのだと。故にこの声援は大切にしなくてはならない、かけがえのないモノなのだと、彼女は身をもって知っているから。
(絶対勝ってみせる)
無言で決意を深め、観客に向けて笑顔を見せた。
そして、そこから一際大きくなる歓声。
振り返ればそこには、拳を突き上げて客席の熱狂に応える、“彼女”の姿があった。
(──オグリキャップ)
直接見れば、嫌でも思い出してしまう。
しかし今の彼女は、その程度のトラウマで折れはしない。
全てを乗り越えて、今この場所に立っている。
故に彼女がオグリキャップを見つめる理由は、トラウマでは無く越えるべき壁を見つめているからに他ならない。
するとそんな彼女の視線に気付いたのか、オグリキャップがふとダイワスカーレットの方向へと視線を向けた。
(あっ……やばっ)
予想外の事態に戸惑うも、目を逸らすのも失礼だろうと思い直した彼女は、そのままオグリキャップへと歩み寄り声を掛けた。
「お久しぶりです──って、私のことなんて覚えていませんよね」
そう言いながら、ダイワスカーレットは笑う。しかし当のオグリキャップは、彼女の言葉に首を傾げた。
「君のことを覚えていないわけがないだろう? 久しぶりだ、ダイワスカーレット」
「えっ、どうして……」
「一月に共に走っただろう? まさか覚えていないのか……?」
「お、覚えてますよ勿論っ! ただ、意外だったというか……」
「意外?」
「その……試合前に少し話しただけだし、まさか覚えててくれただなんて。それにレース自体も……完敗でしたから」
苦い記憶を思い出したダイワスカーレットが、自嘲気味に呟いた。そんな彼女に、オグリキャップは笑いかけた。
「君と走ったあのレースは、今でも印象に残っている。あの中で、君は私の動きがまるで
「……!」
「レース後に話す機会はなかったが、ずっと気になっていたんだ。そんな君は、敗戦を糧にして目覚ましい成長を遂げ、『トリプルティアラ』を獲った……正直想像通りだ。きっと成長するだろうと、凄いウマ娘になるんだろうと、勝手に君の未来を想像していた」
胸に秘めていた期待を、笑顔と共に綴るオグリキャップ。それを聞いていたダイワスカーレットは、言葉を失っていた。
(先輩が……ここまでアタシのことを認めてくれていたなんて)
心が歓喜で震える。無力さと絶望に打ちひしがれ、必死にもがいたあの日々が、報われたような気さえして。大事な一戦を前にして、思わず気が緩みそうになった。
──瞬間。
「だから、私にはわかっていた。君が今日私の前に立ち塞がることも」
「ッ!?」
突如向けられる、猛烈な殺気。先程までとは違う人物と話しているかのような豹変。
勝利に飢えた“芦毛の怪物”の、瞳孔の開いた灰色の眼光がダイワスカーレットを射抜いた。
「君を
それは純然たる、殺意にも近しい剥き出しの敵意。
かつて自分なぞ眼中になかった怪物が、今全身全霊をもって自分を叩き潰そうとしている。
そんな事実にダイワスカーレットは──
「っふふふ、あっははははァッ!!」
どうしようもないほど、高揚していた。
「嬉しいお言葉、ありがとうございます先輩……でもごめんなさい、本当は先輩の晴れ舞台に花を添えられればよかったんですけど──」
そこで言葉を切った真紅が──獰猛に嗤う。
「アタシは今日、アンタの栄光に泥を塗りにきたのよ──オグリキャップ」
高揚した心が、本能を昂らせる。瞳から、
優等生の皮を引き千切り、敬語すら忘れ、彼女は昂る感情のままにオグリキャップに挑発を叩きつけた。
「アタシの全てを賭けて、アンタをブッ倒す。“最強”はアタシよ」
「……フフフ、ッハハハ!」
そんな挑発を受けたオグリキャップは、怒りなど感じていないとばかりに声を上げながら笑った。
「……いつぶりだろうか、ここまで純粋な敵意をぶつけられたのは」
瞳を閉じたまま、過去を懐かしむように彼女は呟く。
“芦毛の怪物”と呼ばれるようになり、勝って当たり前と周囲に囁かれるようになって久しい。そして彼女は、周囲の期待に応え続けた。“現役最強”、その肩書きが相応しいウマ娘が誰かという議論においても、間違いなく彼女の名前は上がるだろう。故に彼女に挑戦しようと思う者など、居るはずも無く。よしんば居たとしても、圧倒的な実力者に心を折られて消えていくものばかりで。
そんな中現れた、真紅の瞳を持つ少女。
彼女は本気で、自分を潰そうとしている。
その事実が、何よりも嬉しくて。
「良いだろう。君が“最強”だというのなら、私に勝つことが何よりの証明となるだろう──」
そして“芦毛の怪物”の全身から、ドス黒い殺意と闘気の奔流が溢れ出した。
「全力でかかってこい」
レース場の空気が変わった。周囲のウマ娘たちが萎縮していく。
その中で不敵に嗤うのは、ダイワスカーレットただ一人。
かつては彼女も、その殺意に当てられて恐怖した。しかし今の彼女の心に満ちるのは、“怪物”と闘うことの出来る悦びだけ。
そしてファンファーレが鳴り響く。ゲートインを済ませた選手達が、集中力を高めていく。
(勝つ──絶対に勝つ、アタシの全てを賭けてッ!!)
極限まで研ぎ澄まされた世界。自分の心音がやけに煩く聞こえた。
永遠に思える静寂の中、ついにゲートが開く。
賽は振られた。結果は最早、神のみぞ知る。
そしてこのレースの結果が、真紅の運命を大きく変えることになる。