「カツキー!」
「お、テイオー。来てくれてたのか」
ダイワスカーレットと別れた後、観客席へと向かっていた克樹は後ろから声をかけられた。振り返れば、手を振りながらこちらへと駆け寄ってくるトウカイテイオーの姿があった。
「そりゃ来るに決まってるよ! スカーレットの一世一代の大勝負だもん!」
「……まぁお前との勝負も割とそうだったけどな」
「お、嬉しいコト言ってくれるじゃーん」
「世間一般の評価もそうだろ。あんなレース、そうそう見られるもんじゃない。俺も観客席で震えたよ」
「ふふん! そう言ってくれるとボクも鼻が高いよっ」
誇らしげに胸を張るトウカイテイオー。
克樹は少し可哀想だな、と思った。何がとは言わないが。
「そういえば……お前は辞退したのか、『有馬記念』?」
「ん、そーだね……悔しいけど」
克樹の問いに、トウカイテイオーは苦笑する。彼は元々、出走ウマ娘一覧の中に彼女の名前がないのが気になっていた。今期『トリプルティアラ』のダイワスカーレットが選ばれているのなら、今期『三冠ウマ娘』の彼女も選ばれて然るべき。だがしかし今本人の口から直接聞いたことで、選出外ではなく、出走辞退だということがわかった。
「負傷か?」
「んーん、全然元気だよ。どっちかっていうと気持ちの問題かな」
「気持ち?」
「そう。目標だった“無敗の『三冠ウマ娘』”にもなれて、最強のライバルと競うことができて……そして負けちゃった。ボクの全てを賭けて、それでも尚スカーレットには届かなかった。そんな状態で、一ヶ月後の有馬記念でリベンジだー! ……なーんて、思えるわけないよねー」
後頭部で手を組みながら、トウカイテイオーは軽い口調で言う。そこに若干の悔しさが滲んでいるのに、克樹は気づいていたがそれを指摘することはない。
「だから少し、自分を見つめ直すことにしたよ。今日の主役はスカーレットに譲ってあげる。ボクに勝ったんだもん、負けたら承知しないよ?」
「何で俺に言うんだよ。でもまぁ、きっと勝つさ──ただ」
「ん、何か心配事?」
「……いや、なんでもねぇよ」
歩きながら俯いた克樹の様子を伺うように、下から覗き込むトウカイテイオー。そんな彼女の心配を、克樹は心配ないと遠慮する。
(……胸騒ぎがする)
それは今に始まったことではない。『有馬記念』にオグリキャップが出走すると知ってから──彼女が原初のエゴを取り戻してからずっと。
(……いや、よそう。信じるんだアイツを)
そんな胸騒ぎに、克樹は無理やり蓋をした。これから二人の夢にために全力を尽くそうとしている相棒に対して失礼なことだと、自分に無理やり言い聞かせる。
強く、強く言い聞かせて。強く、強く蓋をする。
自分が不安を抱いているモノの正体に、とっくに気付いていることにも。
▼
そして始まった、『有馬記念』。
克樹はトウカイテイオーと共に、関係者用の最前列で観戦している。
息を呑む観客。数万人いることを感じさせないほどの静寂が訪れる。
ゲートが開いた瞬間、爆発したかのように響き渡る歓声。そして一気にレースが動き始めた。
「なっ……!」
「っし、いけ……ッ!」
驚きに目を見開くトウカイテイオーと、拳を握りしめて唸る克樹。
両者の視界に映るのは、開幕から全力疾走で駆け上がって行くダイワスカーレットの姿。
つまり、今回の彼女の作戦は。
「……
「あぁ。何時間も話し合ってこれがベストだと判断した」
「カツキの入れ知恵?」
「いや、このプランはアイツが主軸で考え抜いたモノ。俺はあくまで修正を入れたに過ぎないよ」
「ふーん……確か前に逃げを打ったのは『シンザン記念』、それこそオグリキャップとの勝負の時だったよね? まさかそれも意識してる?」
「そうだな、そしてそれを強く意識するのは──実際に前にスカーレットと対峙してる、
▼▽▼
(ほう、今回は“逃げ”か……)
現在6位につけるオグリキャップ。全体の趨勢と、トップを走るダイワスカーレットを視認した彼女は、口角を釣り上げながら笑う。
(フッ……
あの時。彼女が言うのは勿論、かつて自分と共に競った『シンザン記念』の時のことだ。
(意趣返し、といったところか……良いだろう、その挑発に乗ってみるか)
オグリキャップの言葉通り、前回の展開をなぞるように、極めて早いレース展開が繰り広げられている。前回の『シンザン記念』とは違い、『有馬記念』は2500mの長丁場。ダイワスカーレットが構築した馬鹿げた速度のレース展開の狙いは、スタミナの消耗だ。対戦相手のスタミナを削ることで、自分が操り易い駒を作り上げる算段だろうとオグリキャップは読んでいた。その上で、彼女はその策に乗ることを決めた。
以前と全く同じ策で勝てるという浅はかな考えで、彼女がレースに参加しているわけがない。その変更点を見極めるため……そしてその策を利用し、最後に喰い返すために。
そして残り800mを切った。状況は変わらず、ダイワスカーレットに動きはない。
(まだ動かないか……ならばこちらから、行くぞッ!)
先に仕掛けたのはオグリキャップ。速度を上げて、少しずつ自信の最高速を存分に発揮できる場所──大外に向けて突き進んでいく。そんな彼女の様子を“観て”いたダイワスカーレットが、ついに動きを見せた。
自分のスパートに合わせて、一瞬左に踏み込んだダイワスカーレット。それを見たオグリキャップは、勝利を確信する。
(それは
以前の『シンザン記念』で、彼女はオグリキャップの進路に現れて抜け道を塞ごうとした。その際にオグリキャップは、より大外に回ることでそれを交わして一気に抜き去る対策を行い勝利を手にしている。
故に来るのがわかっているならば。
(
オグリキャップの抜ける道を塞ごうとする分、ダイワスカーレットの走行ルートは膨らむ。しかしその影響を受けることのない場所にいち早くポジショニングすることができれば、ディスアドバンテージを被るのはダイワスカーレットのみ。多少大外に膨らむことになろうと、自分の末脚ならば十分にお釣りがくる。
そう踏んでいた怪物は、眼前の光景に目を疑った。
左に動いたはずの真紅が、
(な……しまった、フェイントッ!?)
オグリキャップは、己の失策を悟った。
そう、ここまで全ては真紅の掌の上──!
(嵌ったわね、オグリキャップッ!!)
真紅の“視点”は、必要以上に大外に膨らむオグリキャップの姿を捉えていた。
(そう、意識させれば良かった。『シンザン記念』をなぞるようなレース展開をすれば、アンタは必ず考える──
頃合いを見て、自分が左側へ向かう様子を見せれば、怪物は必ず反応するはずだと彼女は読んでいた。事実オグリキャップは、来るはずだった彼女の幻影を回避するために、必要以上の大外へと向かっている。彼女の狙い通り、怪物は己の意図とは逆に距離的ディスアドバンテージを背負うこととなった。
(対してアタシは絶好の好位置。仕掛けるのは──ここしかないッ!!)
踏み込んだ右足から、轟く雷鳴。
残り約750m地点。真紅が一気にスパートを掛けた。
(ッ! くそッ!! 後手を踏まされたかッ!!)
少し遅れて、真紅に追い縋るように怪物もスパートを掛け始める。
尋常ならざる加速だが、外に膨らんでいる分ダイワスカーレットとの距離が空いた。
そして一年で成長した彼女に対し──その距離は致命的だった。
(行ける、まだ差は大きいッ! このまま一気に……逃げ切ってやるぅうううう!!)
「ああああああああッ!!」
ターフに響く、渾身の咆哮。
自分を鼓舞しながら、真紅は駆ける。
その心に、一切の慢心も油断も無い。
だから、決して驚きはしなかった。
視界の端に飛び込んできた、驚きの光景にさえ。
(そう、わかってる。ここまでしてなお、アンタとは互角……ッ!!)
現実離れした、こちらの策の悉くを無に帰す、怪物の“力”。
しかしそれに嘆く暇などない。
嘆くような弱い自分は、過去に置いてきた。
万策尽きた。故にここからはもう。
(こ、ん、性だああああああああああああ!!!)
気持ちの勝負。
相手を捩じ伏せる。その気持ちの強い方が勝つ。残り540m、残りの相手を大きく引き離して、真紅と怪物の一騎打ちが始まった。
「う、おおおおああああああああ!!!」
「はああああああアアアアッ!!!」
絶叫と共に、両者は駆ける。
一進一退の攻防を繰り広げながら、競り合いが続いていく。
しかし徐々に均衡が崩れつつあった。
(……ちっく、しょうッ!!)
オグリキャップが、徐々に前へと上がっていく。ダイワスカーレットが追い縋る形へと変化していく。
両者の最高速は、ほぼ同等と言って良い。ではどうして差が開き始めているのか──理由は簡単、
オグリキャップにディスアドバンテージを背負わせるために、ダイワスカーレットは今回“逃げ”でハイペースの展開を作った。序盤に最高速付近で駆け抜けたツケが回って来ているのだ。
得意とする先行策で挑んでいれば──と一瞬考えて、彼女はそれを強く否定した。
(そんなの言い訳だッ!! 全ては勝つための取捨選択、んな弱音吐いてる暇なんてないのよォ!!)
思考に回す酸素すら惜しい。負けない、絶対勝つ。
一年前のあの頃とは違う。最後の一瞬まで、絶対に諦めない。
決意を胸に、真紅はひた走る。
しかし無情にも、怪物の背は遠ざかっていく。
(届かない──いや、絶対諦めないわ!! 勝つ、絶対勝つ──
極限状態に陥った彼女が自覚した、自己犠牲を厭わない獰猛な本能。
かつての貴婦人の教えに反するそれを是とした時──使い果たしたはずの自分の手札に、
(アタシは、アタシは──ぇっ)
突如訪れた、時間が引き延ばされていく感覚。
周りの全てが、スローに見える。
不可解な現象に動揺している彼女の目の前に、それは唐突に現れた。
(何、これ──)
彼女は目の前に、巨大な扉を幻視した。
その先に、自分が求めるものがある。
直感的に、そう理解した。
(……)
そっと扉に手を触れ、力を込める。
しかしそれは、びくともせずに鎮座したまま。
扉は笑っている。お前に開けるわけがないと。
先を行く資格を、備えていないと。
(……覚悟を示せ、ってことね)
上等だわ、と彼女は口角を釣り上げた。
そして心の中で、小さく呟く。
(──ごめんなさい、トレーナー)
瞬間、ダイワスカーレットが雷鳴を轟かせながら踏み込んだ。
そしてそのまま急激に加速──することはなく。
「アイツ──まさか本気でやるつもりか!?」
克樹は驚きのあまり、悲鳴のような声を上げた。彼女が今やろうとしていること──それは【
【
しかし克樹がダイワスカーレットに、トウカイテイオーとの練習で身につけさせたかった技は、
柔軟性。それは確かに克樹がトウカイテイオーから学ばせたかった事である。それをダイワスカーレット自ら切り出したのは僥倖であり、克樹自身も計画が思うように進んだ事を喜んでいた。
── 「ありがとなテイオー。ここまでは、
しかしながら克樹は、柔軟性を得たダイワスカーレットが手に入れる技能として、全く別のものを想定していた。
それが一度目の踏み込みで得た速度を、
この技能が完成すれば、彼女は更なる初速を手に入れることができる。それこそが、彼女の末脚の完成形だと彼は思っていたのだ。
しかしそれは、【
(正直、スカーレットと出会ったあの日──あの踏み込みを見た時からこの発想はあった。それを実現するために必要だったのが、強靭性と柔軟性を極めて高い次元で兼ね備えた筋肉。実現可能なレベルまで育てるのに1年半以上もかかっちまった。だが、それでもまだ完成していない。夏合宿前に完成させたつもりだったが、【
今のままでは、“ただ怪我をしないだけ”。
よしんば踏み込めたとしても、その先の加速に耐えられる脚が残ってい───
「──────────……は?」
思考は途切れ、克樹は絶句した。
見れば彼女は、二度目の踏み込みでもまだ、加速していない。
そう、それは即ち。
(──
──空前絶後の、
いくらなんでも無理だ、耐えられるわけがない。
「やめろスカーレット……! ブッ壊れるぞ!!!」
──それは“いつか”のお前が至る到達点。
“今”のお前が踏み込める場所じゃない!!
「やめろおおおおおオォォォォ!!!」
悲痛な叫びが、観客席に木霊した。
(ごめんなさい、トレーナー。アタシ、約束守れそうにないわ)
脚先から全身へ迫り上がる激痛。まるで鉄骨解体用のクレーンで脚を殴られたようだった。
あまりの痛みに、吐き気すら催した。
今すぐやめたい。全てを投げ出してしまいたい。弱気な自分が悲鳴を上げている。
それでも彼女は、笑っていた。
(自分が壊れていく音がする。それでも消えない、アタシの中のエゴ。アタシはそれに、嘘を吐きたくない。だってそれは、アタシが死ぬことと同じ。アタシはアタシを捨てた時にこそ死ぬんだって、体がそう叫んでる)
──できるとか、できないとか、そういう事じゃない。
アタシの中にあるのは、勝つか負けるか、ただそれだけ。
いつかきっと、できるようになる?
だから今は、やめた方が良い?
ふ ざ け る な
(そんな“いつか”なんて、アタシは要らない──アタシに必要なのは、今ここで“怪物”を
だから、だから──!!
彼女は渾身の力で、扉をこじ開けて。
(──寄越セ あタ シの全 て ヲ今 コこ デ)
力強く、扉の先へと踏み出した。
(なんだ……後ろで何が起こっている……!?)
オグリキャップはスパートをかけながらも、後ろから感じる重圧に冷や汗を流していた。
(何かが、何かが居る──私を引き摺り下ろそうとしているッ!!)
そしてそれは、直ぐ其処まで来ていた。
彼女は、遂に重圧に屈してそっと後ろを流し見る。
(ッ──!?)
其処にいたのは、真紅“だった”ナニか。
極限まで見開かれた瞳の内、右目の眼球の色が
剥き出しの牙は砕け散らん程の力で食いしばられ、皮膚に突き刺さった部分から鮮血が伝い、飛び散っていた。
「gAAAAAAAAA!!!!」
叫びは、言葉を為していない。
そしてそのまま、オグリキャップを抜き去っていった。
彼女の様子を見たオグリキャップは、内心で絶叫する。
(……
G1を闊歩する、“ばけもの”達。その中でも更に一握りの“ばけもの”だけが踏み込むことを許される、限界を超えた先、更にその先に在るその“
今目の前の紅い“ばけもの”は、正当な“資格”を持たずに、意志の力だけで己の身体を其処へねじ込んで来た。
力には、代償が伴う。
領域から与えられる力を享受しきる器、即ち資格を備えていなければ── その先に待つのは、避けられない“破滅”。
二度とレースで走れない、
事実今の彼女は、痛みすら感じていない。一歩毎に、自らの脚を壊しながら走り続けているのだ。
(……いけない)
才気溢れる少女だった。
勝利に貪欲なその姿勢は、まるでかつての自分を見ているかの様だった。
(勝たせちゃ、いけない)
そんな彼女は、ただこの一勝の為に、それ以外の全てを棄てようとしている。
そんなことが──許されるはずがない。
(──君を、勝たせるわけには行かないッッ!!)
白銀の瞳が、ギラリと輝いた。
(……故障以降、封印していた。これは劇薬だ。資格を有していようが、扱いを違えれば簡単に己を壊してしまうから)
オグリキャップとて、ソレを使えばどうなるかわからない。怪我を経て衰えた身体が、それを許容できるか全く以って未知。
(──そんなこと、知ったことか)
今目の前の少女を救えずして、何が伝説だ。
(例え私が壊れようとも──私は君を、救って見せる!!!)
──
彼女から放たれる黒い重圧を、白銀の焔が焼き尽くしていく。
同様の焔が噴き出す瞳が、先を行く“ばけもの”を見据えた。
(君が壊れる前に──私が引導を渡してやろう)
“芦毛の怪物”の、最後の枷が解き放たれた。