敗者の権利、或いは怠惰と善意
「……以上計六ヶ所のヒビ。骨折は無し。あとは筋繊維の断裂……肉離れだね。内出血も酷いし……どうしてこんなになるまで走ったの?」
「……スミマセン」
翌る日の朝。ダイワスカーレットは病室で医師から自分の足の状態の説明を受けていた。淡々と彼女の病状を説明する医師の視線が刺さる。彼女は思わず目を逸らす──よく見るとその目は腫れ、隈もできている。
克樹と別れ、一頻り泣いた後も彼女は感情の整理が付けられずに上手く眠れなかった。それでも徐々に近づいてきた眠気を手繰り寄せ、ようやく眠れそうだ……と思っていた矢先。明け方が近づくにつれて足の麻酔が切れ始め、激痛が彼女を襲い始めたのだ。こうなるともう、睡眠どころの騒ぎでは無い。結局彼女は夜中二時に目覚めて以降一睡もすることができなかった。
「まずは絶対安静です。数日は様子を見ていきましょう」
「はい……あ、あのっ」
「何かな?」
「な、治るんでしょうか……私、また走れるようになりますか?」
「それはこれからの君次第だね。私からは何とも言えないよ……勿論、最善は尽くすがね」
勇気を出して、ダイワスカーレットが自分の今後を問いかけてみるも、返ってきたのは要領を得ない返答のみ。ともすれば、それは患者であるはずの自分を、冷たく突き放しているようにも思えた。
「そう、ですか……」
「とにかく、絶対安静です。快復を望むなら大人しく療養に専念することだね。リハビリなんかはまだ先だよ」
「……わかりました」
「痛み止めは強めのを出しときますから、六時間は必ず間隔を開けてくださいね」
「はい、ありがとうございました……」
資料を纏めて椅子から立ち上がり、病室を去ろうとする医師に対して、彼女は謝意を述べながら礼をした。
医師は退出しようとドアノブに手を掛け──そのままの姿勢で、彼女に問うた。
「……君、克樹くんトコの
「えっ……そう、ですけど」
「彼、本当に心配してたよ? 必死の形相で私に頼み込んできたよ──『コイツを助けてやってください』って」
「っ……!」
突如明かされた事実に、ダイワスカーレットは驚きを隠せない。
「知り合い……なんですか?」
「昔からね。だからこそ、彼がこうして私を頼ってきた理由もわかる──あの時は、
「ちょ、ちょっと待ってください! 何の……何の話をしているんですか?」
医師の言葉を遮り、彼女は問う。それを聞いた医師の表情は、怪訝なモノへと変わった。
「……もしかして、彼から何も聞いていないのかい?」
「だから……何の話ですか?」
「そうかそうか……合点がいったよ、だから君はそんな怪我を負うまで……知っていればそんな走りはしないだろうから」
「あの、本当に何なんですか?」
一人納得しながら頷く医師の姿を見て、いよいよダイワスカーレットも苛立ちを隠せなくなってきていた。
しかし医師は彼女の質問に回答する事はなく、笑顔を見せるのみで。
「本人から聞いていないことを、私の口から話すのは筋違いだよ。知りたければ、克樹くんに聞きなさい。私から言えるのはただ一つだけ……
「あっ……」
彼女の返答を待たずに、医師は病室を後にしてしまった。
「……なんなの、あの人」
残されたのは答えの出ない疑問のみ。彼女の呟きは誰に届くこともなく、虚空へと消えていった。
▼
『オグリキャップが大外から仕掛ける! おーっとダイワスカーレットも一気に先頭へ!』
その後、改めて『有馬記念』の自分の走りを見ることを決めたダイワスカーレット。彼女自身、終盤の記憶が欠如している。故に残り400mからのレース展開は、目を疑うようなものだった。
「──なにこれ」
自分では無い、別のナニかを見ているような錯覚さえ覚えた。
何だこの──自分のガワだけを被ったような、勝利という猛襲に取り憑かれた異形は。
(アタシが覚えているのは……不思議な扉が見えて、覚悟を決めて使用を禁じられてた“三段階加速”をやろうとしたところまで……その後は意識が朦朧としてたけど、こんなことになってたの?)
眼前の異形は、驚異的な加速を見せてオグリキャップを抜き去っていく。
しかし次の瞬間──オグリキャップもまた覚醒する。纏う気配が変わったのが荒い映像越しでも分かった。
(……凄い。まだ底を隠していたなんて──いやでも、違う……これは何ていうか、枷が外れた……いや、自分で外したみたいな。そんなイメージ……?)
再度加速したオグリキャップを見て、彼女は分析を重ねる。
(……アタシのこれも、似たようなモノなのかしら。明確に違うのは、オグリキャップ先輩はこれを使い熟している。先輩のに比べれば、アタシのソレは暴走も良いところだわ)
事実、自分の限界を超えた力を以てしてもオグリキャップに及ばなかった。
観客の歓声に拳を突き上げて応えるオグリキャップの姿を見終えた彼女は、タブレット端末の電源を落として体をベットに預けた。
(……『死んでも勝つ』。そのつもりだった──ジェンティルドンナ先輩の忠告も、アイツとの約束も全部かなぐり捨てて。その結果、残ったのは
備え付けの棚に視線を移せば──皺のついたまま放り出されている、ソレが目に入った。
──『俺がそれを渡した意味を、しっかり考えろ』──
「……」
チクリ、と。
鋭い痛みが胸に走る。
敗戦を経た自分に渡された、契約解除届。
(渡された時は……『終わった』と思った。凄く怒ってるんだって、アタシに見切りを付けたんだって……アタシのことは、もう必要ないんだって)
故に彼女は涙した。
しかし一晩が経ち、少し冷静さを取り戻した彼女は思う──
(トレーナーは、絶対に意味のない事はしない。だって本気で契約を解除させることが目的ならアタシにこの紙を渡す必要なんてなかった。何より、アイツ自身が言ったのよ──『渡した意味を考えろ』って)
きっと彼が伝えたかったのは、拒絶や絶縁ではない。
そう信じることしか、今の彼女にはできない。これが己の
(だったらアタシはもう、前に進むしかない。前にジェンティルドンナ先輩に言ったこと──あれは嘘なんかじゃないから)
──『敗者に残るのは悔しさだけ。だったら『その悔しさをどうやって糧にするか』、そうやって考えていかなくちゃいけない』──
(アタシは変えてみせる。この敗北すらも糧にして、必ず次に繋げてみせる。それだけが──アタシがアイツにできる唯一の贖罪で、敗者にのみ許された権利だから)
拳を握り締め、瞳を閉じる。
そう、前を向くしかない。自分自身に言い聞かせる。
視界の端に映る、皺の寄った紙は見ないふりをして。
▼▽▼
その日の夜。
『話したいことがある』と、ダイワスカーレットから連絡を受けた克樹は病院を訪れていた。激闘の『有馬記念』から一夜明けた彼女が今日何を思い、どう過ごしたのかは克樹にはわからないが、こうして呼び出しがあったという事は、自分の気持ちに整理がついて答えを出すことができたのだろう。
(……いや、わからないは嘘だろ、俺)
長い廊下を歩きながら、克樹は自重気味に笑う。
自分が信じる彼女なら、すでにこの敗戦も乗り越えて次を見据えているはずだから。
契約解除届を彼女に渡した理由もそこにある。彼女との契約解除は、彼の本意としているところではない。
(一番の理由は、冷静さを取りさせるため。俺は、目覚めた後に自分の敗北したことを理解した後のアイツの行動が正直読めなかった)
克樹は回顧する──『有馬記念』中に突如豹変した彼女の姿を。
(あの本能が暴走している状態を引きずっているとしたら。今後それに縋ろうとしている兆候があるのなら──俺は
だからアレは、楔だったのだ。
彼から彼女へと打ち込まれた、本能の過剰暴走を抑えるための自己防衛装置。
(熱くなった心が冷めれば、我に帰ることさえできれば……アイツはもう、間違えない。限りなく冷静な状態でこれからを見据えることができるはずだ)
だがこれは、克樹にとっても賭けだった。
楔とはいえ、彼は彼女に関係の終わりを示唆する紙を手渡した。
それを受けた彼女が、果たしてどんな結論を出すのかまでは、克樹の想像できる範囲を超えている。
故に彼女が──自分との関係の終わりを切り出す可能性すらあるのだ。
それを彼女が切り出してきた際に、それを拒むことのできる理由は克樹にはない。何故なら、それを渡したのは克樹本人だからだ。
(──アイツがそれを望むなら、仕方ないかもな)
しかし克樹は、その可能性を
(俺はアイツを、止められなかったんだから)
分かっていた──彼女が並々ならぬ覚悟をもってレースに臨んでいたこと。
察していた──“切り札”の構造に気づいた彼女が覚悟を既に決めていたこと。
気づいていた──レース前の彼女がこれからの未来を微塵も見据えていないこと。
(それでも俺は、全部に気づかない振りをして……アイツを『信じる』何て上っ面な言葉で蓋をした)
だから自分は、見届ける義務がある。
彼女が選んだ道を、尊重してやる義務があると。
彼は既に、覚悟を決めていた。
そして、病室の前に辿り着いた克樹。
小さく息を吐き、優しくドアをノックした。
「スカーレット、俺だ」
その言葉に、返事は無く。
『開けるぞ』、と前置いて彼はドアを開けた。
「スカーレット……?」
しかしそこに、彼女の姿はなく。
ベッドと一体化したテーブルの上に、一枚の置き手紙が置かれているのみ。
『屋上で待ってる』
「……?」
意図が読めないまま、克樹は手紙の内容に従って屋上へと向かう。
この病院の屋上は、リハビリ用の遊歩道や運動スペースが設置されており、出入りが自由になっている。
無論入るためにIC付きの許可証も必要だが、克樹が受付に確認すれば確かにダイワスカーレットが許可証を借りている記録が残っていた。
自身も手続きを済ませ、克樹は屋上へと直通のエレベーターへと乗り込んだ。
そして扉が開いた先で。
「……やっほ、トレーナー」
薄明かりに照らされた、車椅子に乗った彼女が優しい笑みを浮かべていた。
後一話だけ、この空気が続きます。