そして1ヶ月半後。ついにレースの前日となった。今日も今日とて、タイヤが地面と擦れる轟音が響いている。
「ん、ッ、があああああ!!」
「よーしそこまで。お疲れ、スカーレット」
「ええ……ありがとう」
水分補給をしながら、彼女は笑顔で俺の労いに応える。終わる度に全身を地面へと投げ出していた練習当初に比べれば、見違えるほど余力を残したままタイヤ引きを終えることができるようになった。
「だいぶ慣れてきたみたいだな。タイム、最初に比べれば半分近く縮まってるぞ。立ったまま休憩できるようにもなったじゃないか」
「そりゃ毎日続けてればね。引っ張るコツと押すときのコツをアタシなりに掴んだのよ」
「へぇ、そりゃめでたいことだ。『勉強』の方もミス減ってきたし、いいことだ」
「そっちもなんとなくやり方がわかってきたのよ。フフン、コレで明日のレースは……万全……」
「ん? どうしたスカーレット」
自信満々の口調が、徐々に弱々しくなる。疑問に思った俺が声をかけると、彼女は泳いだ瞳で俺を見た。
「……ねぇ、アタシ、1ヶ月半その2つだけを続けてきたわよね?」
「いや、そうだけど」
「──走る練習は?」
「……………あっ」
「あっ、じゃないでしょうがァッ!!」
「ふべらっ!!」
今回のビンタは、格別だった。
踏み込みで助走をつけて、まるでピッチャーのように体全体を振り切りながら放たれた一撃。鼓膜が破裂したかのような爆音と衝撃に、俺は無様に数メートル後方まで地面をゴロゴロと転げ回る。
「うっ、ぐ、は……ッ」
「何してくれてんのよアンタ!! このままレースに出ろっていうわけ!?」
「いや、お前だって今日この日まで何も言って来なかっただろうが!! 俺だけのせいにしてんじゃねぇ!!」
「ぐっ……」
暴力に、正論を返す。俺の言うことにも理があると分かったのだろう、スカーレットは怒りはそのままに押し黙るしかなかった。
「まぁやっちまったもんはしょうがない。切り替えていこーぜ?」
「綺麗に纏めようとしてんじゃないわよ!! はぁ……」
「あー……不安になるのはわかるけど、俺は何も心配してないから。普段通り走れば、勝てると思ってる。お前は最強のウマ娘になるんだろ? このくらいのアクシデント、乗り越えてなんぼじゃねぇのか?」
「……ま、アタシはアタシにできることをするだけよね。今回ばかりは、アンタの口車に乗ってあげる」
スカーレットは、不安を滲ませながら微笑んだ。
「さて、部屋に戻って最後のミーティングだ。明日出場するウマ娘のビデオがあるから、相手を分析するぞ」
「ええ。先に行ってて。アタシこのタイヤ戻してから行くから」
「おう、じゃあ準備して待ってる」
そう伝えて、俺は一足先に部屋へと戻った。
▼▽▼
「はぁ……」
タイヤを元の場所へと戻し、部屋へと向かう帰り道。ダイワスカーレットは溜め息を零しながらトボトボと歩いていた。もう何度目になるかもわからないそれが、彼女の心情を如実に表している。
腕が重い、脚が重い、思考が鈍い。初めて迎える大舞台、彼女は緊張と不安に苛まれていた。普段の自信に満ち溢れた発言と高飛車な態度から勘違いされがちだが、それは自分を鼓舞する為のものであり、望む自分でいられるようにという一種の言い聞かせに近いものだ。故に彼女だって人並みに緊張はするし、それどころか、彼女は人並み以上の“緊張しい”であった。
「はぁ───」
一際大きい、溜め息を一つ。
自信がないわけではない。寧ろ、あるが故の、それが打ち砕かれた時の恐怖。
自分の力を疑っているわけではない。寧ろ、信じているが故の、それを尽くして及ばなかった時の恐怖。
緊張というものは、“たら”や“れば”という仮定が齎す想像の産物。彼女は賢い。だからこそ、考えてしまう。彼女は努力を重ねてきた。だからこそ、考えてしまう。
その努力が打ち破られた時、果たして自分は望む自分の姿を見失わずにいられるのだろうか、と。
──勝てるのかしら、アタシ。
普段の彼女からは想像もつかないような弱音が、頭を過ぎる。それほど彼女は精神的に追い詰められていた。
デビュー戦が決まってからの1ヶ月半、彼女は確かに努力を重ねてきた。しかし先程露見したように、トラックを走る練習を全くしていないのだ。そのことに対する不安が、1番大きい。
──大丈夫よ、大丈夫。アタシはアタシにできることをするだけ。
そう、自分に言い聞かせる。しかしそれでも、彼女の足取りは重い。無意味な自己暗示が、頭の中で何度も行き交う。
──負けたくない。負けるのは嫌だ。
そして緊張と不安から生まれた弱気が、彼女の気高い望みをすり替える。『最強を証明したい』という絶対的な自信からくるそれから、『負けたくない』という酷く受動的なものへ。
部屋に戻って行われたミーティングも、どこか上の空だった。その思いを解消することなく、彼女はその日を終えた。
そして運命のデビュー戦がやってくる。
▼▽▼
──『メイクデビュー杯』。
京都レース場、芝2000m。天候晴、良バ場。
ついにこの日がやってきた。
彼女にとって……否、俺にとっても運命の一戦。このレースが、彼女の夢の第一歩。だが俺には一つ、大きな懸念があった。
「やー、やっぱ京都でも5月になるとあちぃな」
「……」
「ん? スカーレット?」
「ふぇっ!? あぁ、何? どうしたの?」
「いや、お前がどうしたんだよ」
この通り、スカーレットの様子がどこかおかしいのだ。
俺の言葉に反応が鈍いし、どこか上の空のようにも思える。
「……別に何もないけど?」
「……なぁ。まさかとは思うが、お前緊張してんの?」
「…………はぁ!? んなわけないでしょ!? どこをどう見たらそんな考えが浮かんでくるのよ」
「今のお前の全てだよ」
うーん、コイツはそんなのとは無縁の存在とは思っていたが……選抜レースでも、結果こそ振るわなかったものの堂々と走っていたし。
まぁでも、気持ちはわからんでもない。何せ初めての大舞台だしな。直前まで走る練習もしてない──俺のせいでもあるが──し。だが、昨日ははぐらかしたもののそれに関しては
と、考えていたら暫く時間が経っていたらしい。彼女は居心地悪そうに呟いた。
「…………なんか喋りなさいよ」
「えっ? あぁすまん。
「っ……!」
「しっかり気合入ってるみたいだし、安心したよ。大丈夫、お前は勝つよ。昨日から言ってるだろ? 俺はなーんも心配してないからさ」
「……そ。ありがと」
彼女は明後日の方向を向きながら、素っ気無く返した。
必殺、
1ヶ月半、共に練習してきたとはいえ、俺達にはまだそれだけの関係しかない。故に、こんな時に、彼女にどんな言葉をかけてやるのが正解なのか、俺にはわからない。
だからこの作戦の効果も、正直不明だ。だがこれが、今の俺の精一杯。トレーナーとしては失格だろうが、自省も後悔も後でいい。今俺がすべきことは、彼女がベストな状態でターフの上に立てるようにしてやること。
最善は尽くした。後は彼女の持ち前のメンタルコントロールで立て直すことを信じるのみ。元々スカーレットには、その能力がある。彼女の緊張が、彼女のキャパシティを超えていないことを祈るのみ。
そこから一度の会話もなく、俺達は控え室へと向かった。
▼
そして時は来た。
本バ場へと続く地下道を、スカーレットと並んで歩く。俺が行けるのはここまで。最後の時まで、彼女に寄り添っていく。
「ついに本番だな……心の準備はできてるか?」
「当たり前でしょ。アタシは、アタシに出来ることをするだけよ」
「……そうか」
“自分に出来ることをするだけ”。
大事なことで、間違いではないのだろう。
だが、普段の彼女の自信から放たれるような言葉では、無い。
結局、直前を迎えたこの期に及んでも、彼女が調子を取り戻すことはなかった。
「……っし、俺はここまでだ。大丈夫。それだけ集中しきってるならお前は勝てるよスカーレット。自分を信じろ」
「……ええ。じゃあ、行ってくるわ」
「あぁ、行ってこい」
彼女は俺を見ることなく、歩き始めた。
その後ろ姿を見送っていると、彼女が不意に立ち止まり、振り返る。
「ねぇ」
「ん?」
「──優しいのね、アンタ。ありがとね」
そう呟いた彼女は、弱々しい笑顔を浮かべて、本バ場へと向かっていった。
「……失敗した、か」
賢い彼女は、全てわかってしまっていたのだろう。俺の言葉の意図の、その裏さえも読み取って。
「……優しくなんかねぇよ」
吐き捨てるように呟く。俺はお前の、トレーナー失格だ。
何が最善だ。何が出来ることはやった、だ。練習の意図も隠して、投げかけた言葉の意図すらも隠して。全部、何もかもを彼女に隠してばかりだ。
挙句そのせいで彼女の不安を煽り、緊張を悪化させた。しかもそれを改善してやることすらもできずに。相棒のコンディションも整えられなくて、何がトレーナーだ。
最善だと言い聞かせて、自分で気づくのが大事だからなんて嘯いて。触れてこない彼女の優しさに甘えていただけだろうが。
「クソ──ッ」
拳を強く握りしめ、歯を食い縛る。
溢れ出す後悔が、自分を決して許そうとしない。だめだ、こんな心境じゃ。わかっているのに、わかっているのに。早く行かないと、レースが始まってしまう。彼女の応援をしないと──
「トレーナー!」
呼ばれた声に、振り返る。
そこには、消えたはずの彼女の姿があった。
「──ちゃんと見てなさい! アタシの走り!」
指を突き出し、彼女は不敵に笑う。
「──
「っ──!!」
その言葉だけを残して、彼女は再び光の中へと姿を消した。
普段の自信は、欠片も感じない。
誰がどう見ても、空元気。
それでも。
「……俺がアイツに元気付けられてどうすんだよ」
吐き捨てながらも、笑みが溢れる。
そうだ、まだ何も始まってなんかいない。
積み重ねてきたものが最善か、そうじゃなかったか。それを決めるには、まだ早すぎる。
賽は投げられた。後はその答えを、確かめに行くだけだ。
「──頑張れ、スカーレット」
俺の言葉は、彼女の心に届いているだろうか。
消えた背中に呼びかけて、俺は駆け足で観客席へと向かった。