天使とは、何か。
それは神の使いだ。
彼らはヘブライ語ではマルアハ、ギリシア語ではアンゲロスと呼ばれ、その何れに於いても「伝令」や「使者」と言った意味を含む者達である。
彼らの役目は所謂「神」の存在や意思を人々に伝える事、即ち御使いでありその姿は古今問わず様々な宗教画に描かれてきた。
そう、姿だ。
人が先ず「天使」と聞いて思い浮かべるのは彼らの外見だろう。
最も一般的とされる天使の外見は
天使が翼の生えた「人」であるとされるのはオリエントやペルシアの精霊の概念と混同され、特に中世以降顕著に目立った傾向である。
では、初期の天使はどんな格好をしているのかと問われれば──キショい。
ユダヤ教やキリスト教を信仰していらっしゃる方々に石を投げられる覚悟で率直に言ってしまえば、尋常ではない位気色悪い。
例えば
偽ディオニシウス・アレオバキタの「天上位階論」に曰く上位から3番目の階層にあるとされ、神の「玉座」である彼らの外見は──車輪である。
重ねて言う。
しかもめっちゃ目が付いているし、めっちゃ燃えているし、動く度に稲妻のような光と轟音を立てるとされるとんでもない車輪なのである。
もうなまらヤバい。
このように、天使は一概に翼を生やしているワケでもなければ人型であるワケでもない。
割と千差万別だし、特に上級天使に近付く程ぶっ飛んだ格好をしている事が多いのだが──問題は
これが問題なのだ。
1日や2日ではなく、もう2ヶ月間も僕は
ああ、どうか聞いてくれないだろうか。
世にも情けなく、みっともなく、あんぽんたんな僕の懺悔を聞いて欲しい。
だが──これを読んでいる貴方にだって正直信じて貰えるとは思っていない。
普通の人なら作り話かホラだと考えるだろうし、例えば僕の両親は精神科に行く事を強く勧めてきた。
挙げ句の果てに、昔から手のかかる子供だったのにいよいよ頭まで可笑しくなったのかと泣かれてしまった。
これからするのはそれ位突飛で、馬鹿らしくて、正気を疑うような話だ。
故にだ。
そんなに気負わないで読んでくれると助かる。
僕のプライベートやら家族関係やらに深く関係する話なので、ラノベとか漫画を読む程度の娯楽として、或いは居酒屋で酔っ払いの戯れ言を聞く位の適当加減で読んでくれると非常に助かってしまうのだ。
分かるだろ──いや、頼む。分かってくれ。
分かってくれないと羞恥で死ねる。
取り敢えず────ちょ、ま、止め
皆 見 て ま す ー ?
「────」
怠い。
恐らくは昨日2時まで夜更かしをしたせいなのだが、兎にも角にも怠すぎる。
寝違えたのか首はずきずきと痛むし、手足もぴりぴりと痺れを訴えている。
僕──相澤理人は昔から寝相は悪い方だが、今日はとりわけ重体だ。
お陰で布団から起き上がる気力すら湧いてこない。
率直に言ってしまえば、このまま全人類の夢たる二度寝を遂行したいところだが──生憎、我が家に
具体的に言えば2ヶ月前に奪われた。
「──て!あ──よ!」
「────」
今だってそうだ。
何と言えば良いのか──足りない語彙力を振り絞って表現すると、綺麗で、透き通って、1DKには似つかわしくない少女の美声が降り注ぐ。
序でに言えば掛け布団もゆさゆさと揺さぶられ、沈みつつあった意識が急速に覚醒へと傾く。
「朝でーす!起ーきーてー!」
「うるさいぃ……」
だが、甘い。
一見すれば声が綺麗な少女に起こされるという夢のシチュエーションだが、現実はそんな優しいモノではないのだ。
今僕から布団を引き剥がさんとする某かは、少女でもなければ女性でもない。
況してや
であるが故に、掛け布団を掴む力が突然
「いつまで経っても布団から出てこない怠け者には……こうですっ!」
「あっ……!?」
窓から射し込む朝陽に堪らず細めた視界に、羽毛。
それも1本や2本では済まない、無数の羽が降り注ぐ。
そう、そうだ。
此処まで言えばわかるだろう。
艶やかな金糸の髪を靡かせる彼女(仮称)は、いや
「ケルビムさん、後1時間寝かせて……」
「ヤです!朝御飯作ってください
俗に言う、天使と言うヤツだ。
「早くぅ、はーやーくー!」
「今目玉焼き作ってる所だからもうちょっと待ってて下さい……」
ケルビムさんはご飯を作る事が出来ない。
それは料理の手腕が下手くそだからとか、包丁を握らせる事すら危険に感じる程幼いからとか、そういう話ではない。
「てかいつも言ってるんですけど、そのクソデカい羽邪魔だから仕舞ってくれませんか?家1DKですよ?」
「無理です!
ケルビムさんは智天使なのだ。
智天使は何ぞやと言う方の為に説明させて頂くと、旧約聖書の創世記3章に於いて知識の実を食べ主たる神の怒りに触れたアダムとイヴが追放された際、再び彼らが永遠の命を得てしまわないようにエデンの園の東に「回転する炎の剣」と合わせて配置された天使である。
そんな彼らの容姿は、控え目に言ってヤバい。
何しろ人・獅子・牛・鷲の4つの顔に、広げた一対と体を覆い隠す一対の計4枚の翼を持つ悪魔顔負けの化物だ。
どれだけ美声でも、こんなんが我が家にいたら1週間と持たずに帰省する自信がある。
まぁ幸いにもケルビムさんは全身を包む巨大な2枚の羽から顔だけニョキッと突き出していると言う大変愛くるしい格好なのだが──これで料理なんてさせてみろ。
瞬く間にその綺麗な翼に燃え移ってしまうのは想像に難くない。
それは、何と言うか────
「良くないでしょ」
「んー?何がです?」
「いえ、何でもないです。それより、そろそろできますよ」
「やったぁ!」
思わず口に出してしまった己を恥じつつ、卓袱台の前に座ってもそもそと震える毛玉のケルビムさんを横目に捉えて半熟の目玉焼きを皿に移す。
今日の朝食は目玉焼き、昨晩作り置きした味噌汁、白米に納豆にバナナと我ながら大変オーソドックスなメニューだ。
だがまぁ、折角の土曜日なんだしこれ位手を抜いたって──きっと許される筈。
「いただきます」
「恵みに感謝を」
僕は手を合わせて、彼女は天に向かって祈りを捧げる。
宗教が違っても文化が違っても、命に感謝する基盤は変わらない──それは何だか、とっても素晴らしい事のような気がした。
ケルビムさんは毛玉だ。
正確には羽が4枚の翼を持つ、縦に長めの楕円形の形をした毛玉だ。
それらの内2枚で体を包み、残り2枚は上に向かって交差するような奇抜な形状だ。
当人曰く広げたらこの部屋にも収まらないらしく、必要に応じてほっそりした手や足がニョキッと出てくるのを見かけたりする。
つまり、彼女は明確に人の形をしており、宗教画とかで偶に見る「顔と翼だけ」の一般的な智天使とはその形状からして異なる事を如実に示している。
その証拠として、今もほら──────
「んー……」
叩き起こされた時の溌溂さはどこへやら、ケルビムさんはぼけーっとした表情で歯ブラシを咥え、瞼を半ばまで下げてもにょもにょと唸っている。
洗面所のド真ん中を占拠しており、迷惑な事この上ない。
ONとOFFの差が激しいと言うか、悠々自適でマイペースと言うか、それとも他人を振り回す事に躊躇が無いと言うか。
上手く言葉には表せないがそう言う人──いや、そもそと人で良いのか?
最近は割と慣れてきてしまったが、兎に角「そう言う」御方なのだ。
僕程度の常識には到底収まらない。
「
「……ケルビムさんの方が近いじゃないですか」
「
「……」
「……」
加えて、ケルビムさんは我が儘だ。
しかも頑固で面倒臭い。
今のように何故か自分でやった方が早い事を僕にやらせようとするし、かと思えば気付かぬ内に家事を全部1人で片付けてしまう日もある。
正直何を考えているのか分からない。
天使と言うのは皆こうなのだろうか。
「分かりました、取りますよ……」
「んふー」
とは言え、こうして睨み合っているだけでは何も始まらない。
幾ら急いでないからと言ってもこのまま洗面所を占拠されては不便だし、力ずくで退かせるような相手でもない。
仕方ない、と溜め息と共に洗面台の脇に置かれたコップに手を伸ばし──
「えいっ!」
「んぶっ!?」
視界が、「白」に染まる。
それはさらさらして、くすぐったくて、何も見えなくて──
「どうですか私の羽は?気持ち良いです?」
「──!──!」
「そうですかそうですか、気持ち良かったなら何よりです。もっと埋もれても良いんですよ?」
「────!」
何も言ってない──ではなく口を塞がれて何も言えないのに、ソプラノの得意気な声が降り注ぐ。
そう、羽だ。
洗面台にあるコップを取ると言う事はケルビムさんの肩(に相当するでろう羽の塊)越しに手を伸ばさねばならない事と同意義であり、前のめりになった所に軽く体当たりをされたのだ。
これによって姿勢を崩した僕は体重をケルビムさんに預け、そのふわふわな羽毛に顔を埋める事となった。
「────?」
それだけならまだしも、離れようとしているのに何故だか動けない。
寧ろ正面だけではなく、全身が埋もれてしまうような────
「羽毛サンドイッチ、です♪」
「!?」
「智天使の羽毛に包まれるなんて普通の人間なら一生体験出来ない事ですよ?感謝して下さい」
これは──いや、
体を包んでいる方ではなく、普段は広げている方の1対を折り畳む事で僕の背中をくるんでいるのだ。
動物臭さなど全く感じない、正しく究極のもふもふである。
癒しを超えて何らかの誘惑効果があるのか、しっかりと立ち上がろうとしても上半身が上手く動かない。
「────」
「そう、そうです。力を抜いて、体を委ねて──」
慈愛に満ちた、優しい声が降り注ぐ。
どういう訳かは知らないが、ケルビムさんはこのようにして僕と接触する事を好んでいるらしい。
それも手を握ったりとかではダメで、翼でないと大層に嫌がる。
「今日は休日なんですから、ゆっくりしましょう……?アルバイトも、お休みすれば良いじゃないですか……」
「────」
何でだろう。羽毛に包まれながら考える。
そもそも、何で我が家に居着いているのかもイマイチ分からないのだ。
当人曰く「暇を出された」らしいが、天使に暇とかあるものなのか。
智天使の役割は人類の監視なのに、それを放棄しちゃって大丈夫なのか。
知りたい事、訊きたい事はいっぱいある。
だけど────
「二度寝、しちゃいます?」
「……しない、大体ケルビムさんが起こしたんだろ」
「それでも、しましょうよ」
「……しないったらしない」
──当面は、この誘惑に抗う方が先決だった。
ケルビムさんはだらしない。
昔は──と言うより神様に暇を言い渡される前はかなり厳格かつ清廉だったと当人は豪語しているが、今ではリビングに寝っ転がってテレビゲームを満喫する程度にはだらしない。
それも土曜の午前中から、お菓子をボリボリと貪りながらである。
最早行儀が悪いとか、そう言う領域で片付けられる話ではない。
不健康だ。不摂生だ。こんな生活してたら早死にする。
が、しかしケルビムさんは僕の忠告を意にも介さない。
「そんなだらしない悉くしてたらニキビできますよ」
「私は天使なのでできませーん」
シミ1つ無い美貌を此方に向けて、ケルビムさんはふんすと息巻く。
相変わらず羽毛毛玉の中から顔だけ出しているという奇抜極まりないスタイルなので威厳もへったくれもありゃしないが、実際何度このやり取りを繰り返しても体調を崩す気配は見られないので彼女の言葉は真実だろう。
つまり女性に限らず全人類が望むであろう健康維持能力を、ケルビムさんは食っちゃ寝に使っているのだ。
全く以て羨ましい。
「掃除機かけるから退いてくれませんか?」
「ヤです」
「30秒で良いからさ、お願いします」
「ヤですっ」
────とは言え、それは僕の掃除を妨げる理由にはならない。
ケルビムさんは羽毛の塊であるが故にただ寝っ転がっているだけでも相当な量の毛を撒き散らしているが、当人がそれに構う様子は見られないので僕も仕方なく掃除機を引っ張りだしているのだ。
そういう訳でウィンウィンと唸るフロアノズルを毛玉饅頭に近づければ、ケルビムさんは頭を内側に引っ込めてふるふると震え始めた。
どうやら徹底抗戦をするつもりらしい。
「私はゲームをしているんですよ?」
「そうだね」
「お菓子も食べているんです」
「知ってる」
「今日は土曜日です」
「……まだ分かりませんか?」
「分かんないけど」
あんまりにもだらしな過ぎる生態に冷めた回答を叩き返していると、ケルビムさんは広げている方の翼をバタバタと羽ばたかせる。
紙とかが舞い上がるので正直止めて欲しいが、これは不機嫌な事を示す合図で──十中八九面倒な事になる。
「理人さん────」
「うん」
「貴方何健康的な生活してるんですか!?」
「うん?」
ほらやっぱり。
智天使の癖にケルビムさんは訳の分からない事ばっかり言いやがるのだ。
「土曜日は安息日でしょう!働いたらいけないんです!」
「それは宗教によりにけりでしょ……僕はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないから関係無いね」
「は?何言ってるんですか!今の家主は私なのですから私が絶対でしょう!」
「ごめん何言ってるか分からない」
「私がルールです!」
「簡潔にしろって話でもないよ!」
僕は特段これと言って信仰している宗教があるワケではない。
初詣の為に神社に赴き、法事を京都のお寺で行い、クリスマスにケーキを食べるごく一般的な日本人だ。
そして安息日に働かないのは宗教的行事として理解しているがそれは掃除を妨げてゲームをやっていい理由にはならないし、この家の家主は間違いなく僕だ。
慣れた事とは言え、無茶苦茶が過ぎる。
……しかしひょっとして、可愛ければ何をしても良いとか考えているのだろうか。
「ケルビムさん──」
「やっと分かってくれましたか!さぁ────」
益々天使らしくないが──それならば家庭に於けるヒエラルキーと言うモノを彼女に教えてやらねばならないようだ。
「ちょっと失礼」
「へ?」
人間大の毛玉そのものなケルビムさんを下から掬い上げるようにして抱えあげ、その勢いのまま卓袱台の上に投げ捨てる。
そう──ケルビムさんは軽い。
かつて神学者達の間で議論されたように天使は実体を持つのか持たないのかハッキリしないらしく、
よってやろうとは思わないがその気になれば片手で掴んで持ち上げる事すら可能であり、一切の抵抗は無意味である。
「ちょっ……ちょっと、何するんですか!?私天使ですよ!?」
「天使は普通掃除の邪魔なんてしませんよ」
「なっ、あっ────!?」
卓袱台の上で転がったまま口を開けて呆けているケルビムさんを放置して、掃除機をかける。
全く以て──だらしない。
先にも述べた通り、ケルビムさんに料理をさせる訳にはいかない。
なので昼食も僕が作る事になっているが──これが困り者だ。
ケルビムさんは兎に角不摂生なのである。
毎日のように深夜まで夜更かしをし、隙あらばお菓子を貪る健康の敵そのものだ。
そろそろ堕天とかしてしまうんじゃないかと正直心配している。
「────」
「────」
流石にこれは良くない。
幾ら体調が可笑しくならないとは言っても、到底放置しておけるような状態ではない。
最早見ているだけでこっちが体調を崩してしまうレベルだ。
なので、それなりに健康バランスの良いメニューを考案しているのだが────
「食べなさい」
「ヤです」
「食べなさい!」
「ヤです!ピーマンなんて食べられません!」
研究に研究を重ねたピーマンの肉詰めは、僅か一口で敗れ去った。
そしてお決まりの文句と共に突き付けられたのは、ケルビムさんがあまりにもお子様な舌をお持ちであると言う頭を抱えたくなるような事実である。
「ケルビムさん天使でしょ!?野菜くらい食べてくれよ!?」
「嫌ですー!苦いの無理だっていつも言ってるじゃないですかー!」
「子供か!」
「子供です!赤子の姿にもなる事もありますから!」
「えぇ……そうなんだ……」
もう酷い。
ルネサンス期とかに描かれた天使像もあながち間違いではない事があっさり証明されたが、それはそれとして酷すぎる。
どうして天使なのに好き嫌いがあるんだ。
と言うか命への感謝はどうしたんだ。
つい数時間前に見せた敬虔な姿は何処に行ってしまったんだ。
神の使いが──否、精霊と同一視される程の存在が本当にそれで良いのか。
「食べてくれ」
「ヤです」
「頼む……」
「……や、ヤです」
泣き落としは通用しそうにないが、兎にも角にも作ってしまった以上肉詰めは食べて貰わねばならない。
両親からの仕送りとアルバイトによって家計はそこまで悪くないものの、これまでの2倍以上に膨れ上がった食費から考えれば折角作った料理を捨てるなど勿体無いにも程があるのだ。
そこから導かれる判断は一瞬で──結論は、決まった。
「ちょっ……!?な、何をするつもりです!?」
「分かるだろ……?食べて貰うんだよ」
「冗談でしょう!?」
菜箸で持ち上げた肉詰めをズイと押し出せば、ケルビムさんはその可愛らしい顔を恐怖に引き攣らせたが、努めて心を平静に保つ。
そうだ、惑わされるな理人。
今日と言う今日こそ彼女にピーマンを克服してもらわねば此方が困るのだ。
「いや、待っ、待って下さい!早まらないで!」
「早まってなんかないさ……ケルビムさんが肉詰めを食べてくれるにはどうしたらいいかなって考えた結果だよ……」
「えっ、ひっ、や、止め──」
ふわふわの毛玉がキュッと収縮し、まるで怯えるようにぷるぷると震えている。
ケルビムさん自身も空色の瞳いっぱいに涙を浮かべ、血の気の引いた顔をぶんぶんと横に振っている。
正直な所罪悪感がヤバい。
例え露出しているのが顔だけだとしても、美少女を泣かせて愉悦に浸るような趣味を僕は持っていないのだ。
「……許してくれ」
「そんな────」
だが。
だとしても、此処で退く訳にはいかない。
家計が、健康が、偏食改善が賭かっているのだ。
例え嫌われようと罵倒されようと、ピーマンの肉詰めを彼女に食べさせる義務が僕にはある。
「────や」
故に。
「やだ……!」
箸を彼女の口に近付けて。
「やだよぅ……!」
食べさせようとして──────
10分後。
「いじわるです……鬼畜です……外道です……!」
「分かった食べる、食べるよ。食べるから機嫌直して……」
結局ダメでした。
正直な話、アルバイトが好きかと言われればそんな事は無い。
労働の対価として少しずつ増えていく通帳の残高を眺めるのは全然悪くないが、それはそれとして面倒なモノは面倒なのだ。
出来る事なら一生自宅でゴロゴロしたまま勝手に金が入ってくる生活をしたい。
しかしそんな妄想も虚しく時刻は既に午後4時を回り、いよいよあの忌々しいファミレスに赴かねばならぬ時が迫っている。
仕方無い。
そう、仕方無いのだ。
例えどれだけ面倒でも、僕が人間である限りより良い暮らしを手にする為には労働と言う苦難を乗り越える必要がある。
だが────
「行かないで下さい」
「いや、無理だって。ケルビムさんも分かるでしょ?」
「分かりません。私は天使なので」
「天使って言えば何でも通ると思ってない?」
「思ってません」
ぐずった天使さんが背中に貼り付いてくるせいで、上手く立ち上がる事が出来ない。
ご丁寧に普段は毛玉の内側に収納している小さな手で服を掴んでいるらしく、玄関で靴を履こうとした姿勢のまま静止を余儀無くされている。
ひっついたり我が儘を言ったりと普段からそれなりに「そういう」傾向は見られるが、何故か土曜日は段違いの抵抗をしてくるのだ。
「どうしても?」
「どうしてもです」
「……何で?」
「何でもですっ」
どうにか言葉で引き剥がそうとするも、やはりケルビムさんは頑固であった。
美少女(外見だけ)にひっつかれて悪い気はしないのだが、そこまでして僕を休ませようとする理由が「安息日だから」なのか、イマイチピンと来ない。
何と言うか、それ以外の──もっと重要な理由があるような気がする。
それ位に彼女は真剣なのだ。
こうして引き留めようとしているのも、ある種の懇願や泣き落としと言った
「何でアルバイトなんか行く必要があるんですか。たまには休んだっていいじゃないですか」
「いや、それは……」
「ね?今日は休みましょう?1日くらいきっと罰は当たりませんよ」
ケルビムさんが耳元に口を寄せて、ひそひそと囁く。
僕は振り向けない。
ただ結んだ靴紐をじっと見下ろして、天使である筈の彼女から繰り出された悪魔の誘惑をひたすらに堪える。
──そうだ、負けてはならないのだ。
確かにアルバイトは面倒臭いし、行かなくて済むなら一生行かない。
楽して生きたいし、何ならもう何年かすれば直面する就職の事も1ミリだって考えたくない。
だけど──堕落には限度がある。
だから「バイトに行く」程度の些細な問題だったとしても、現代社会に生きる1人の人間として行かなければいけないのだ。
「……ごめん」
「そんな……!」
大袈裟な位くしゃくしゃに表情を歪めたケルビムさんを見るのは何度目だろうか。
毎週同じやり取りを繰り返して、その度に彼女を泣かせて──僕は人間としては真っ当かもしれないけれど、男としては最低だ。
ケルビムさんに性があるのかは分からないが、外見上は女の子である彼女を泣かせるなんてクソ野郎にも程がある。
「……夕食は、好きなもの作ってあげるから」
「────」
それでも、誘惑を断ち切って。
「行ってきま──────」
扉に手を伸ばして────
「絶対に、ダメです」
「────!?」
ケルビムさんの小さくすべすべな手ではない、もっとゴツゴツした指を持った何者かに頭を掴まれる。
振り向きたくて、振り向くべきで、それでも振り向けない。
扉を掴んだまま、万力のような力で押さえ付けられ──
「ごめんなさい」
「ぁ────」
謝罪の言葉が呟かれると同時に、バチバチと弾けた脳細胞が僕の意識を暗闇の中に突き落とした。
「……今週も、こうなってしまいましたか」
くたりと力を失った青年を抱えて少女──「ケルビムさん」は寂寥の籠った溜め息を吐いた。
そんな彼女をくるむ一対の翼の隙間から突き出されているのは、そのあどけなさにそぐわない巨大な
これは「神の手」である。
即ち、全知全能の手。
エゼキエル書によればケルビムは自身の巨大な翼の下から神の手が見えるとされているが、これは事実だったのだ。
そしてこの手は力を行使したい相手に触れてさえいれば、文字通り如何なる行為をも可能にする能力を秘めている。
「……大丈夫。理人さんは
「ケルビムさん」は、この能力を青年の記憶を書き換える事に用いていた。
それも1回や2回ではなく、青年を引き留める事に失敗する度に何回も。
それだけではない。
青年は気付いていないが、そもそも
「ケルビムさん」は実体が曖昧な性質を活かして、青年に加護を与えてすぐアルバイト先に「彼女として」シフトを変更してもらったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
声音を震わせて、意識を失った青年に懺悔する。
そう、それは青年を欺く天使にあるまじき行為だ。
養ってもらっている者としての裏切りだ。
到底許しがたい暴虐だ。
だが────そうしなければならない、理由があった。
「でも、こうしないと理人さんが
青年は、毎週土曜日のみ命に関わるレベルで
扉を開ければ子供の投げた小石がぶつかり、一歩歩けば包丁すら持ち出す隣人夫婦の喧嘩に巻き込まれ、道路に出れば車が突っ込んでくる。
ここまで来れば呪いと言っても何ら差し支え無い、恐るべき体質だった。
昨年まで──つまり青年が片田舎でのんびりと高校に通っていた頃は、周囲が田んぼの自宅に休日は引きこもっていたので当人すら気付いていなかったが今年はそうもいかない。
「全く、何が大学生ですか……土曜日はあれだけ危険なのに……!」
何しろ大学生だ。
幼少期より長らく青年を見守ってきた守護天使にして
自身の体質に気付かぬまま都内の大学に進学した彼は、あまりにもあっさりと土曜日に活動してしまったのだ。
「昔からマイペースで、私がいないと何にも出来なくて……」
最早四の五の言っていられない、青年の自由を妨げる権利は無いが如何なる手段を用いても守らねばならないと決意した「ケルビムさん」は──彼の家に転がり込んだ。
アルバイトが億劫になってしまえば外に出る理由は無いのだから、とことんまでだらけて青年を堕落させようと言う心積もりである。
残念な事にこの計略は2ヶ月連続で失敗しているが、決して彼女は諦めない。
「ダメですよ……ええ、私から離れてはいけません……」
年不相応にあどけない寝顔を晒す青年の髪を撫で付けながら、天使は嗤う。
それは執着だ。
相澤理人と言う青年への、守護天使の領域を越えた執着にして、単なる好意より一歩先の些かどろどろした執着である。
「ケルビムさん」は、彼の家族以外如何なる者をもこの部屋に通すつもりはない。
「私が、貴方を守りますから────」
そんな事をしてしまえば「ほのぼの」が崩れてしまう。
2人だけで完結している、面白可笑しい日常を奪われてしまう。
で、あれば────
「────ずっと、ずっと」
「ケルビムさん」は、愛する者に寄り添う為に幾らでもだらしない天使を演じ続けるだろう。
それは、それとして。
「……たまには、私が色々やってあげますよぅ」
だらしなくしているせいで家事やら何やらを押し付けている事を申し訳なく思ってはいるのだ。
彼には止められているが、料理の1つや2つも作ってみせよう。
先ずは────
「カレーって、どうやって作るんでしたっけ……?」
パソコンを開く所から、始めねばなるまい。
◯ケルビムさん
アダムとイヴが追放された後、神がエデンの園の東に配置した天使とされるが、そもそもからしてケルビムとはヘブライ語においてケルブの複数系らしい。
なのでこれを極めて都合良く解釈した結果、ケルビムはエデンの東側にめっちゃ大量に配置されたと言う暴論を導き出した。
「ケルビムさん」もその中の1人であるが、人間世界で最近流行りの人件費削減によって人類監視の任を解かれている。
要するに何かあるまでは暇人。
なので主人公の守護天使やってる。