一ノ瀬志希の実家に挨拶に行ったら囲い込まれた。

※pixivにも掲載

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「こういうことだよ。ひたすら理詰めで考えていくと、ある方程式において、ひとつを除くすべての可能性が消去されたとしたら、残ったただひとつの可能性が、たとえどれほど受け入れがたくてばかげたものに思えても――正しいにちがいない……」
 ――エラリー・クイーン



プロデュえもん

 

   1

 

 父娘の和解をきっかけに、在米中の一ノ瀬・父が岩手の実家に帰省することになった。志希のご両親との面会をいまだ済ませていなかった俺は、これを機として挨拶に伺うことにした。

 交通の便が立たない辺鄙な土地で、おまけに降雪のため行きは大変苦労したことが三泊四日を予定している滞在に不安の影をちらつかせたが、一ノ瀬邸は想像よりも立派な佇まいの建物であり、期間中食料の枯渇等の心配はいらないだろうと物質的な安心感からほっと一息ついた。

 実家の豪勢ぶりは、どうやら一ノ瀬・父が研究事業で大きな成果を挙げていることと、中学校で理科を教えている一ノ瀬・母が本職の傍らに携わっている作家業の成功に所以しているらしい。

「ママはクラシックなミステリー小説を書いてるんだって。あたしは読んだことないけど」とは志希の言。

 身内が書いているとはいえ、ミステリに興味は持てないらしい。

 半面、俺は大のミステリ好きである。志希の母がミステリ作家だということ、しかもミステリマニアなら知ってて当然であるほど有名な作家の名を聞かされたときには、本当に、目を剥くほど驚いたものだ。融通を効かせてもらい、本来は一泊の予定だったところをずうずうしくも三泊四日に変更し、一ノ瀬・母が参加しているというミステリ読書会――《緑家晩餐会》に顔を出すこととなった。

 ところが、それが惨劇の幕開けであったのだ。

 それは滞在の最終日となる四日目のできごとである――

 

 

   2

 

 話を一ノ瀬邸滞在の四日目に移す前に、それまでの三日間の簡単な概略を述べておこうと思う。

 

 一日目の始まりは池袋晶葉とのやり取りがまず思い浮かばれる。岩手への出発前、事務所在中のラボでのことだ。池袋晶葉は俺の一九〇人にも及ぶアイドルプロデュースの出発点となった最初のひとりで、最も付き合いの長いアイドルだった。彼女を一言で言い表すなら《天才技術屋》である。十四歳にして工学の道を極め、その技術はついに「どう見ても人間と見紛う、ほとんど人間と変わらぬ性能のロボット」を製造する域にまで達していた。現在は「人間を超えるロボット」の製造を目指している。そんな、最早偉大という賛辞すら生ぬるい彼女を訪ねたのは、故障した腕時計を直してもらったという――あまりにもちんけな理由からだった。

「よく来たな、助手よ! 約束の腕時計だ!」

「お、ちゃんと針が動いてるな。ありがとう」

「これくらい朝飯前さ。ついでに嘘発見機能をつけたから、何かの役に立てるといい」

「なんで勝手に機能増やすの?」

 嘘発見機能って……まあ晶葉の腕ならばその性能に疑いはないが。たしかにすごい機能だが、よく考えると日常生活での使いどころはない。せいぜい人をびっくりさせて遊ぶくらいが関の山だ。

 岩手へ向かったのはその後だった。一ノ瀬邸に到着したのは、空も昏い七時頃のこと。一ノ瀬家の面々とテーブルを囲って食事を摂ったが、長旅の疲れからそこで交わされた会話や料理の味はほとんど憶えていない。社会人として、娘さんを預かる立場として挨拶に参ったはずだったのだが、情けないことに食事と入浴を手早く済ませると俺はすぐに案内された部屋で寝んだ。

 

 二日目は志希と一ノ瀬邸を回った。

 一ノ瀬邸の構造を説明すると、単純な四角形の館といったところだろうか。中央から一本縦に線を引き、東側と西側とに分けたとき、俺と志希は東側の部屋に滞在している。

 そんな一ノ瀬邸は、増改築を繰り返した末「こんな家に住んでた覚えはないにゃあ」と元住人ですらこぼしてしまうほど、かつてとは見違えた造りとなっているらしい。

 ただ、東側を基に西へ向けて部屋を増やした格好のため、志希の部屋は以前と同じ間取りで存在しているらしい。志希にとってなじみ深いその部屋で、三泊四日を明かすつもりだと彼女は言っていた。

 二日目の夕食時に志希のご両親と交わした言葉はちゃんと憶えている。

 たしか志希のアイドル活動から転じて、俺の仕事の話に移った。一九〇人ものアイドルをひとりで抱えているという話をすると、ふたりは言葉を失くしてしまったようだった。そりゃそうだ。普通ならドン引きするであろう主張を、俺は平然と口にしたのだ。

 慌てて、

「もちろん、身体がいくつあっても足りないくらいの仕事量ですよ。でも、アイドルたちの中には自立した子や、小さな子たちを率先して引っ張ってくれる大人の女性もいます。彼女らの助力がなければ、絶対に成し遂げられないことですよ」

 と付け加えた。どうして俺はこんな弁解みたことをしなければならないのだろう……と思いながら。

 すると一ノ瀬・父が「娘はなにか君の役に立てているだろうか」と訊いた。

「むしろ誰よりも目をかけなくちゃならない子ですよ!」とはさすがに言えず、俺は得意げにうんうんと頷く志希を横目に、「もちろんですよ。いつも助けられてばかりです」と言うしかなかった。

 

 三日目だ。彼ら――《緑家晩餐会》の会員たちがやって来たのは。時刻は午後五時頃。一ノ瀬邸に、五人の男女が新たに訪問した。

 園田庵。

 小泉昨日子。

 我妻海月。

 望月究。

 函館正彦。

 俺はその中にひとり見知った男を見つけていた。

 函館正彦――彼は芸能界に強い影響力を持つ広告代理店の重役である。そしてこれは志希にも隠しているが、以前、函館は俺にアイドルとの枕の話を持ちかけてきたことがあった。それを俺が断って以来、少しばかり目の敵にされている。

 今回、彼が《緑家晩餐会》としてこの一ノ瀬邸にやって来たのはあまりにも不運な偶然だった。なにも起こらないことを祈りつつ――どうしようもなくまとわりつく不吉な予感を拭い去ることは叶わなかった。

 そして俺の祈りなどチリほどの意味も持たず、最初の事件が起きる。

 一ノ瀬邸にいる全員を一堂に会する夕食会での出来事だった。俺は細かなことの成り行きを知らないが、志希の振る舞いが函館の癇に障ったのかもしれない。突然立ち上がった函館が、志希を指してこんなふうに怒鳴った。

「おいこのガキっ、ぶち殺すぞ!」

 彼が何故ここまで激怒するに至ったのかは伺い知れないが、あるいはそこまで大した理由はなかったのかもしれない。なにしろ彼は俺と志希の存在を認めると、その日はずっと苛々している様子だったからだ。それはほんの些細なきっかけで、いずれ爆発する恐れのある危険物だった。彼の不機嫌のせいで少しばかり居心地の悪かった食堂に、本当の沈黙が降りた。函館は続ける。

「憶えていろよ。お前にも、お前の事務所にも、二度と仕事が回ってこないと思え」

 後の展開を知るとシャレでは済まされないが、俺はこのとき、本気で函館に殺意を抱いた。俺と志希とで積み上げてきたものが、たったいまこいつのくだらない一存ですべて崩されかねないのだ。俺がすぐその場で手を下さなかったのは、あくまで衆人監視の目につくところだったからであり、俺と函館の一対一であったなら……どうなっていたかもわからない。

 そのように憤然と函館は去り、夕食会も七時半には終了した。

 その後、俺は志希に捕まり彼女の部屋に軟禁され、実験と称した悪戯に夜遅くまで付き合わされた。二十三時あたりに隣の部屋から聞こえるようになった大きないびきに笑ったり、滞在中に調合したという新薬の試験を(無理やり)おこなわされたり、両手両足を縛り上げられてなにをされるのかと思えばひたすら身体中をくすぐられたりと、まあ微笑ましい時間だったが、いまになって思えば、函館の剣幕に怯えた志希が、彼女なりの手段で俺をそばに留めておこうとしたのかもしれない。

 そんなふうに三日目は過ぎ、事件は四日目に発覚した。

 死体が見つかった。

 

 

   3

 

 前述の内容から容易に推測されるだろうが――一ノ瀬邸にて発見された死体は、もちろん函館正彦のものだった。

 彼は、客人それぞれにあてがわれていた自室にて殺害されていた。机の上に書きかけの原稿用紙があり、なにか物書きの途中だったらしい。胸に差し込まれたナイフが、その凶器だという。ナイフは、昨夜の二十二時頃、キッチンにいた一ノ瀬・母と家政婦から被害者の函館本人が借りたものであるようだ。夕食を途中で抜け出したせいで、小腹が空いたのだろう。リンゴとナイフを持って自室に戻ったという説明があった。

 室内の状況で変わっていることと言えば、完全に沈黙する函館の傍らで、函館の持ち物と思しき携帯電話からけたたましいアラーム音が鳴り響いていることだろうか。鳴り響くアラーム音を無視し、一ノ瀬・父が検死の真似事をおこなう――いや、もしかしたら職業的な知識があるのかもしれない。

「昨晩の二十一時半から二十三時頃、と言ったところだろうか」

 その範囲内なら、俺にも志希にもアリバイがある。ほかはどうだろう……ふと顔を上げると、いつの間にか部屋に入っていた志希が携帯電話を手にし、「二十二時半ね……」と呟いてアラームを止めた。

「あ、おい。勝手に現場をいじるんじゃないぞ」

「あ~、そうだったね。現場の状況は保存しなくちゃいけないんだっけか」

 志希は携帯電話をぽいっと投げたが、俺はなにも言わなかった。不毛だ。

 志希はもう現場から興味を失くしたようで、ひとりだけ自由時間であるかのような振る舞いで部屋を出ていった。

「やれやれ……」一ノ瀬・父が頭を振る。「すいません、娘を頼みます」

 俺は簡単に応じ、慌てて志希を追いかけた。

 廊下を足早に歩く志希の隣に並び、俺は言う。

「おいっ、ひとりで勝手に行動したら危ないだろ」

「ダイジョーブだよ。キミが追いかけてくれるもん」

「ま、まあ……」こっちが照れる。

「それに、あの部屋はもういいしさ」

「なにかわかったのか?」

「ちょっとね」

「これからどこへ行くんだ?」

「んー。戸締りの確認」

 それから志希と一ノ瀬邸を回り、出入りできそうな箇所はすべて施錠されているということが確認できた。

 

 しばらくして食堂に一ノ瀬邸の全員が集められた。

 まず一ノ瀬・母から積雪のため警察の到着が遅くなるとの報せがあり、その間、「それぞれの護身のため」という名目(本当のところは好奇心が理由だろう)から志希が探偵を務めたいと名乗り出た。もちろん俺を助手に指名して。

 このような非常事態にも探偵の二文字に興奮の色を隠せていないらしい《緑家晩餐会》の面々に呆れつつ、俺は志希の好奇心に付き合ってやることにした。

 探偵としての仕事は、まず関係者の証言を集めることだった。

 一ノ瀬・母と家政婦の証言により、函館正彦が最後に目撃されたのが二十二時前ということがわかったので、死亡推定時刻が二十二時~二十三時に絞られた。その一時間の中でそれぞれのアリバイを確認する。まず前提として、函館殺害には最低でも五分の時間を要するとの推定をおこない(函館の手元にあったナイフが凶器であることを考えれば函館に気づかれないよう部屋に入ったとは考えにくく、多少の応対や凶器を盗み取るための時間がどうしても発生するため)、二十二時からの一時間の中で五分以上の単独行動をしていた者が、アリバイが成立していないと看做された。

 それによると、被害者を除く一ノ瀬邸に滞在していた《緑家晩餐会》会員の四名は、めいめいが死亡推定時刻に自由行動を取っていたせいで、誰ひとりとしてアリバイがなかったとのことだ。

 逆に俺と、志希と、志希の両親には完璧なアリバイがあった。まず俺は志希に軟禁されていたので、お互いにアリバイを証明し合う仲だったし、一ノ瀬・父は自室に籠っていたが米国の友人とビデオ通話をしていたらしく、その裏付けが取れたので無罪(時差トリックを疑ったが、そんなものはなかった)。一ノ瀬・母はキッチンで家政婦に料理を習っていたらしいのでこれも無罪。

「外部犯の可能性はないかな?」

 と一ノ瀬・父が問うと、

「家中しっかり施錠されてたからありえないかなー。もちろん、滞在してる誰かが鍵を開けてなかに招き入れたーなんてことも考えられるけど、内部犯の可能性を排除したいって意味で訊いたんならどの道このなかの誰かが共犯者でないと成り立たないから、まずは内部犯が誰かってのを考えるべきだね」

 志希の言葉は、犯人はこのなかにいると言うのと同義だった。考えたくもない可能性を突きつけられ、食堂にどよめきが生じた。

 

 関係者一同を解散させがらんどうとなった食堂で、志希が俺だけに言った。

「んー。どういう道筋で事件を解き明かせばいいかは大体わかってきたかな」

「本当か? 俺にはさっぱりだが」

「全員にアリバイがあるのなら、トリックを疑う余地があるね。その完璧に見えるアリバイの瑕疵を見つけて、突っついて崩していけばいい。逆に容疑者のほとんどにアリバイのないケースは、ロジックでもって容疑者のアリバイを証明するしかない。そして最後に残った人物が犯人ってわけ」

 なるほど、見事な逆転だった。この場合のケースは後者に位置する。それにしても彼女は本当にミステリを読まないのだろうか。

「この事件の面白いところはね、明らかな動機を持った人間にはアリバイがあって、逆に動機の薄弱な人間にはアリバイがないところだよ」

「動機か……たしかに、俺たちには誰の目にも明らかな殺害の動機がある」

 もちろん、昨日の件だ。あの件が動機となり得るのは怒鳴られた本人や志希のプロデューサーである俺、志希の身内である両親の四人だ。実際、俺は函館を本気で殺すほど憎んでいたわけだし。

「でもまあ、動機なんて外から推し量れるものじゃないだろ。誰が誰にどんな恨みを持っているかなんて、神様でもなきゃすべてを把握しっこないさ。特にあの男なら誰から恨みを買っていたとしても不思議はないと思うね」

「まーそだね。あたしたちのアリバイは完璧だし、結局は滞在客の四人から犯人を絞るしかない。身内を疑う必要がないのはありがたいことかなー」

「あ、でもさ。よく考えたらこのアリバイってたしかなのか? だって死亡推定時刻はあくまでも志希のお父さんが出したものだろ? 二十二時からってのはたしかな証言に基づいてるけど、二十三時までってのは独断による推定じゃないか。鵜呑みにしていいのかな」

「ダッドが犯人ってこと?」

「や、そうじゃないけどさ……狂言の可能性を指摘してるんじゃなく、誤りかもってことだよ」

「それは大丈夫。ダッドの見立ては信用していいよ。この推定が正しいことを前提に話を進めて」

 どうして志希がそう言い切れるのかはわからない。曖昧に誤魔化されたまま、信用だけで話が進んだ。きっと手の内をすべて明かすつもりはないのだろう。

「そんな疑いより、いまあたしたちのすべきことは、関係者の証言を個別に掘り下げることだよ。早速話を聞いて回らないとね」

 

 

   4

 

 などと言いつつ、志希が向かったのは自分の部屋だった。

「個別に証言を集めるんじゃなかったのか?」

 志希はにっこりと無視して、南側の壁に向かってしゃがれた声で喋りかけた。

「苦しい……痛い……誰が俺を殺したあ……」

「うわああ!」

 と壁の向こう側から悲鳴。

「誰!? ええ!? 殺さないで!」

「お前が殺したんだろう……」

「わたし殺してませんー! 殺すなら犯人でしょーー!」

「うん、そうだねー」と志希は素の口調に戻った。

「た、たすかったぁ……って、もしかして一ノ瀬志希さん?」

「そのとーり!」

「……なんなんだ、これ?」とは意味不明な茶番を見せられた俺の言葉。

「事情聴取」

 迷いなく決然と答えられると、返す言葉に窮するな……。

 声の感じや部屋の位置関係から、相手は園田庵だということがわかる。最初の事情聴取は園田庵が相手なのか。しかしどうして壁越しで話さなくちゃいけないのだろうか。

 壁を挟んでの事情聴取は続く。

「この壁ね、すごく薄いみたいなんだよねー」

「そうなの~。昨日もね、君らのイチャイチャがうるさくって大変だったんだぜ」

「イチャイチャだってさ」志希が笑う。「そっちのいびきもなかなかのものだったよ」

「えっ! うわ、恥ずかしいな~。わたしいびきかいてるの? 知らなかったわ……」

「うん、二十三時くらいからね、ぐおーぐおーって。でも惜しかったねー。二十二時からだったら、一応のアリバイが成り立ってたかもしれないのに」

「マジか。うわ」

「にゃはは。残念~。もう頑張って自分でアリバイを証明するしかないね。じゃあいびきをかく前の一時間は、一体なにをしてたのかな?」

 お、捜査っぽくなってきた。

「えー。べつにー。携帯見たり寝ようとしたり。途中でキッチンに水もらいに行ってー、あ、これは君のお母さんから聞けると思うけど。

 そういえばキッチンに向かうとき、函館さんの部屋のドアが閉まるとこ見たんだよね」

 最後のはかなり重要な証言だが、相手が容疑者のひとりであるということを踏まえると、参考にはできない。虚偽の可能性があるからだ。

「んー。アリバイ、確保ならずー」バラエティ番組のフレーズみたいな口調で言った。

「あちゃー」

「んでも、すごく参考になったよ。最後にひとつ」

「どうぞー」

「この家のなかで壁が薄いのって、ここだけらしいよ」

「えっ、そうなんだ」

「うん。元々この家ってもっと小さくて、客室のほとんどは増築されてできたものなの。そういった部屋は防音が効いてて、大声で叫んでも大丈夫らしいね。函館正彦の部屋のアラーム音に誰も気づかないくらいだもん。でも元からあった部屋はボロくてさー。そっちの部屋はたしか前は物置かなにかだったから、防音設備が整ってないんだと思うな。要はハズレを掴まされたんだねー」

「くっそー、新入りだからってひでーぜ! まあべつにいいんだけど……」

「うん、面白い話をありがとー」

 と志希は自室をあとにした。最後の最後まで対面することなく、園田庵の事情聴取は終了した。

「とても面白い話だったね」

「函館の部屋のドアが閉まるところを見たって話か?」

「それもだよ」

 含みのある言い方だったが、それ以上は教えてくれなかった。相変わらず手の内を明かすつもりはないらしい。

 

 

   5

 

 今度も志希の隣室だった。さっきと違うのは部屋の位置、それから今度は容疑者と対面している点だ。

「どうも、探偵に上がりました」

「まあ、探偵さん。どうぞどうぞ」

 小泉昨日子はおっとりした声で出迎えた。どうにも歓迎しているふうである。彼女はベッドに腰をかけ、志希に椅子を勧めた。俺は志希の隣に立った。

 机の上に本が積み上げられている。鮎川哲也、小栗虫太郎、久生十蘭、エラリー・クイーン、ヴァン・ダイン、などなど。

 なるほど、彼女の人となりが伺い知れる。文香と引き合わせてみたいものだ。

「それで、なにをお聞きになりたいのでしょう」

 彼女は眼鏡に指を触れながら言った。

「んーそうだねー。じゃあ率直に、まずは二十二時からの一時間について訊いてみようかなー」

「こちらで小説を読んでいましたよ」

 と机の上から本を取って、口許を隠すように表紙を見せた。『LAヴァイス』。

「ふんふんなるほどねー。でもそれじゃあとても参考にならないから、ほかになにかない? 本を読む以外になにかしてたとか」

 すると歓迎ムードだった小泉昨日子が究に恥ずかしそうに口ごもった。

「その……ええと」

「え? あるの?」

「はい……でも……」

「話してくれないとわかんないよ?」

 小泉昨日子は俯いていたが、結局志希の圧力に押され、

「……はい……」と観念した。「私、趣味……と言いますか……ネットで雑談とかしたりするんですけど……」

「雑談って……配信でってこと?」

「はい……昨日は十分から四十分の三十分間、顔出しで配信をしてました……」

「ふーん。見せてもらっていい?」

「ええっ! だめっ、だめですよお」

「でもね、見せた方が自分自身のためなんだよ」

「うう……」

 そんな押し問答の末、小泉昨日子が折れた。配信のアーカイブを見せてもらう。再生速度を倍速に設定し、飛ばし飛ばしで閲覧していると、途中で歌声が響いた。雑談のほか歌唱も披露しているようだ。部屋が防音だから外には聞こえないと思ったのだろう。志希は気にせず飛ばしていたが、小泉昨日子が顔を手のひらで覆っていた。その耳はちょっとの傷で多量出血しそうなほど赤い。

 なるほど、二十二時十分からの三十分間、この部屋で配信をしていたと言うのはたしかなようだ。しかし配信時間以外の計三十分の空白は埋めきれず、アリバイの決め手とはならないだろう。

「うん、よおくわかったよ。ところで配信のなかでいちど二、三分くらい席を外してるみたいだけど、どこに?」

「図書室です。ちょうど紹介したい本が図書室にあったので……話の流れで取りに行くことに」

 配信ではたしかごついハードカバーのいかにも古そうな本を手にしていた。希少本かなにかを自慢したかったのかもしれない。配信をしていることからも窺えるが、存外見栄を張りたがる性格なのかも。

「図書室には誰かいた?」

「たしか……望月さんが」

「ふむふむ」

 と志希は証言を検討しているようだった。

「うん、ま、このくらいかなー」

 志希の独り言で張り詰めた空気が解け、小泉昨日子は肩の力を抜いた。それからおずおずといった調子で訊く。

「あの……私の疑いは……」

「残念ながら」

「そうですよね」

 あからさまに落胆する小泉昨日子。慰めるように志希が言う。

「でも前向きに考えてもいいかもしれないね。もし昨日子さんが犯人でないのなら」

 小泉昨日子は延々と続くトンネルのなかでようやく光を見つけたかのような目で志希を見た。

 

 

   6

 

 廊下に出て、次の部屋へ向かう。一ノ瀬邸の西側、志希の両親の部屋の真下だ。

 この部屋に滞在しているのは……

「うっす……どうぞ探偵サン」

 我妻海月だ。

 俺らを室内へ招き入れる我妻海月は、体調でも悪いのか、声に張りがないし脱力しているようなふらふらとした足取りだった。凄まじいまでの猫背で、背中に見えない重りでもあるみたいだ。

 志希は部屋に入ると前置きを挿まず単刀直入に訊いた。

「じゃ、昨日の二十二時から二十三時までの行動をどうぞ」

 うん?

 志希の様子がおかしい。いつもの余裕というか、遊びの部分とでも言うべき余分がいまは一切消え失せ、すべきことだけ淡々とこなしている感じがする。早口でまくしたてるし、口上は雑だしで、どこか急いでいるような印象だ。

「その時間なら……ほとんど図書室にいたよ……」

「図書室? もしかして望月究さんと一緒?」

「ハイ……でも途中で十五分くらい席を外していたから、アリバイはないんだよね……」

「ちなみにどこへ行ってたのか訊いても?」

「便所っす」

 厄介だ。外部を遮断してひとり閉じこもる場所は、検討の隙間があまりないんだよな。

「それって何時くらいのこと?」

「サア……」

 不器用な指で動かすパラパラアニメみたいにぎこちなく首をかしげる我妻海月。

「………あ、そういえば、トイレのドアの立て付けが悪かったな」

 無言になった志希に、俺は付け加えた。

「たしかに男子トイレは立て付けが悪くて、開閉時に大袈裟な物音を立てていたな」

「それと……急にトイレの電気が消えてびっくりしました……」

 小学生の感想か。

 まあ、おそらく自動消灯機能があるのだろう。センサーかなにかで動きを検知していて、じっとしていると不在と判断されて勝手に消灯するのではないか。

「ふうん。最後になるけど、望月究さんはずっと図書室にいた?」

「究なら、僕が見ている限りはずっと図書室にいたよ」

「どうもありがとう」

 最後にそれだけ言って、志希はそそくさと部屋を出た。

 そしてドアを閉めると、肺の空気をいちどに全部吐き出す勢いで息をついた。

「どうした、様子がおかしいぞ」

「あたしあの部屋ダメ! 臭いがムリー」

「そうか? べつに普通だったけどな」

 仮に我妻海月の生活臭があの部屋に染み込むのだとして、まだ滞在して二日目である。たしかにほかと比べても薄暗いというかじとっとした感じの部屋だったが、臭いならほかの客室と大差ないように思える……しかし志希の嗅覚は非常に鋭敏なので、かすかな臭いも捉えて好き嫌いの別をつけてしまうのだろう。

 道理で話を急いていたわけだ。なんとも言えない振る舞いだが、不快感を露骨に顔に出さなかっただけマシか。

「じゃ、次ね……」

 疲れたのか、そろそろ飽きの来そうな気だるげな一言で、最後の《緑家晩餐会》会員、望月究の部屋へ向かう。

 

 望月究は《緑家晩餐会》随一の巨漢であるそうだ。初対面時につい見上げてしまう高身長に、生活習慣の如実に現れた肥満体。どこへ言っても目立ちそうな大男だった。

 右足を悪くしているようで、移動には常に時間をかけていた。

「実は究さん以外の容疑者の事情聴取はすでに済ませてて、究さんが最後になるんだけど」

 と志希は切り出した。

「容疑者ね」望月究の含み笑い。

「ま、究さんの事情は大方我妻海月さんの方から聞けたし、ぶっちゃけ確認作業がメインになるんだけど。

 被害者の死亡推定時刻にはずっと図書室にいたんだよね?」

「そうですね。でも、我妻くんがお手洗いに行っていたので、その間のアリバイはありませんが……」

「ちなみに我妻海月さんが図書室に戻ってきたのは何時頃?」

「……三十五分じゃないかなあ」

「そういえば、途中で小泉昨日子さんが図書室に来ませんでした?」

「ああ、来ましたね。本を一冊持って行きましたが」

「我妻海月さんが不在のあいだ、ずっと図書室にいたんだよね?」

 志希が念を押す。

「はい。ずっと図書室にいました。証明する手立てはありませんけど」

「最後に、なにか変わったこととか気づいたこととかはないかな」

「んー……。ごめんなさい。お役に立てなさそうです」

「ううん、参考になったよ。ありがとね~」

 そもそも訊くことがあまりなく、望月究の事情聴取はあっけなく終わった。

 

 

   7

 

「とりあえず、容疑者以外からも聞けることは聞いておこうか」

 そうして志希はまず一ノ瀬・父のもとへ出向くが、残念ながら参考になりそうな情報はまったくと言っていいほど持っていなかった。ついで、一ノ瀬・母と家政婦の田中メタモルフォーゼから話を聞く。すると、面白い情報が手に入った。一ノ瀬・母は料理が不得手なため、時折キッチンに立って家政婦に料理作法の教えを乞うていたらしい。が、以前から小火を起こしたり料理を酷く焦がしてキッチンを煙たくしたりしていたため、指導を受けるときは換気のために常時ドアを開放していると言う。そのおかげか、ドアの前を行き来する人物を都度目撃しており、それによって《緑家晩餐会》会員のいくつかの証言を裏付けすることができた。また、「料理で最も重要なのは時間」という教えから時計をよく気にしていたため、時間の方もはっきりしていた。

 以下は裏付けの取れた証言のみで構成された、《緑家晩餐会》会員たちの行動表である。

 

・二十二時、キッチンに函館正彦が来訪。

・二十二時十分、キッチンに園田庵が来訪。

・二十二時十五分、キッチンの前を西から我妻海月が通過。

 ※直後、男子トイレ開閉の音。

・二十二時二十五分、キッチンの前を東から小泉昨日子が通過。

 ※その一分後、キッチンの前を西から小泉昨日子が通過。

・二十二時三十五分、男子トイレ開閉の音。

 ※直後、キッチンの前を東から我妻海月が通過。

 

 まあ、こんなところだろうか。

 それぞれにアリバイの成立していない箇所を挙げると、

 

・園田庵、二十二時十分以外一切アリバイなし。

・小泉昨日子、二十二時~の十分間のアリバイなし。

 また、二十二時四十分~の二十分間のアリバイなし。

・我妻海月、二十二時十五分~二十分間のアリバイなし。

・望月究、二十二時十五分~十分間のアリバイなし。

 また、二十二時二十五分~十分間のアリバイなし。

 

 望月究には小泉昨日子の目撃証言があるので、同じ二十分間でも我妻海月のそれとは意味合いが異なる。

 犯人以外のアリバイを成立させるプランで志希は捜査をしているはずだが……現状、全員にアリバイのないままだ。

 しかしなんとなくではあるが、志希の顔は順調にことが運んで機嫌のいい子供みたいだった。

 その後志希はトイレの自動消灯の件について訊ね、三分不在だと消灯するとの証言を得た。

 キッチンをあとにすると、志希はわざわざ図書室の前から函館正彦の部屋へ、キッチンの方を通らずあえて遠回りする道のりで向かった。その足取りはなぜか重く、普通に歩けば一分もかからないというところを三、四分はかけていた。

 それから再度小泉昨日子を訪ね、図書室へ向かったときにトイレの電気は点いていたのを見ただろうかと訊いた。

 点いていたとの証言を得ると、志希は満足気に頷いて、

「うん、もう解けちゃった。早速だけど、みんな呼んじゃおっか」

 いまの情報でなにがわかったというのだろうか……。

 

 事件の関係者を食堂に集めているあいだ、俺なりに証言の数々を検討してみたが、志希が一体なにを考えているのかはさっぱりわからなかった。

 とりあえずそれぞれの証言を頭のなかで箇条書きにし、その信用度を評価してみる。評価の条件は、複数の人物間で証言が一致しているものや現時点で完全なアリバイのある人物の証言が「〇」。現時点でアリバイがない人間の証言で、かつ、ひとりの人物からしか得られなかった証言が「×」である。

 

 園田庵

 ・函館正彦の部屋のドアが閉じられるところを目撃した:×

 小泉昨日子

 ・図書室へ向かう最中、トイレの電気が点いていた:×

 ・図書室に望月究がいた:〇

 我妻海月

 ・図書室にいないあいだ、ずっとトイレに篭っていた:×

 ・トイレの立て付けが悪かった:〇

 ・トイレの電気が消えた:×

 望月究

 ・ずっと図書室にいた:×

 

 ……だめだ、これだけじゃあなにもわからない。

 志希には一体なにが見えているのだろう?

 

 

   8

 

 食堂に集められた面々に、志希が高らかと宣言した。

「事件の謎は解けたから、もうみんなに教えちゃうね」

 まず容疑者四人の昨夜の行動を簡単に説明する。それから、四人全員にアリバイがないことを再度強調して、こう続けた。

「でも、考えを凝らしていけば実はそれぞれにアリバイがあるのがわかる。まず時刻をもう少し絞っちゃおうか。いまのところ死亡推定時刻は二十二時から二十三時ってことになってるけど、この時間はもっともっと縮めることができる」

 これを見て――と志希が見せたのは、函館正彦の携帯電話である。

「あたしたちが函館正彦の死体を確認していたとき、このケータイからアラーム音が鳴っていたのを憶えている?」

 周囲の顔を見回して反応を確認する志希。全員が憶えているというふうに頷いてみせ、それに志希は満足げだ。

「オッケー! そう、このアラームを止めたのはあたしなんだけど、そのときわかったのは、アラーム音は二十二時半に鳴るように設定されていたってこと。つまりこのアラームは昨夜の二十二時半からずっと鳴りっぱなしだったわけ。これがなにを意味しているのか、わかる?」

 下手なことは言えない空気のなかで、人々の口は重かった。あるいは全員察しが悪かったのかもしれない。

「じゃあ小泉さん。設定しておいたアラームが鳴ってたら、どうする?」

「え……私なら止めますけど」

「そうか!」と一ノ瀬・父が声を上げた。

 俺も遅れて理解する。

「気づいた? 普通アラーム音が鳴ったときって止めるものでしょ? でもこのアラームは止められることなく昨日から鳴りっぱなしだった……なぜか。それはもう、このアラームを止める人間がこの世にいなかったから。つまり函館正彦の死は二十二時半以前のことって理屈が成り立つわけ」

 たしかに、志希の言うとおりだった。どんな事情があるにせよ、アラームが鳴っていて止めないということはない。しかし、アラームを止められないということはあり得る。この場合、函館正彦の死が原因であると考えるのがもっとも蓋然性が高い。

 そしてその事実は、函館正彦の死亡推定時刻を三十分も削ることになる。志希の想定する真相とやらに、大きく肉薄した気がした……。俺に見えていなくて志希に見えていたものは、これだったのだ。

「でもさあ、それって結局なんも状況変わってなくないかな?」俺が感心している横で、園田庵が言った。「函館さんが死んだのが三十分頃ってわかったとしても、それで消去される犯行可能時刻は、小泉さんの二十二時四十分からの二十分間だけでしょ? それでも二十二時からの十分間のアリバイはないし、結局小泉さんのアリバイは成立してない」

「そのとおり。函館正彦の死亡推定時刻が三十分間に縮んだところで、アリバイの成立する人は誰もいない。そして現状、アリバイを成立させられそうな人間もいない……だからあたしはこう考えた。アリバイが成立してなくても、そもそも犯行をおこない得ないような人物がいるんじゃないかって」

 それは動機の面で函館を殺す理由がない人物という意味だろうか? だがそれぞれがどんな動機を隠し持っているのかなんて把握しきれないというのが結論だったはずだが。

 以上と同様のことを望月究が告げると、

「早とちりしないの~。これから説明するから。ねー庵さん」

「えっ! わたし!? さっき反論したからって目の敵にして冤罪とかかけないでよね~」

「しないしない。むしろ助けてあげようかなって。あのね、庵さんの部屋ってあたしの部屋のとなりなんだけど、あそこってもともとはなんの部屋なんだっけ?」

 一ノ瀬・母が取り次ぐ。「たしか……物置よ」

「そ。もともと物置だったのが使われなくなって、年々増えていく《緑家晩餐会》のお客さんのために客室として簡単に改装したのが庵さんの部屋なんだけど、だからかあの部屋とあたしの部屋の壁って、ほかより断然薄くて声がよく通っちゃうんだよね~」

 それは、俺も実際に耳にしているのでたしかだ。

 しかしそのことが犯行をし得ない理由とどう絡んでくるのだろう。

「そして庵さんは《緑家晩餐会》の新人で、この家に泊まるのは初めてなんだって? 以上を踏まえて庵さんが犯人と仮定したとき、庵さんがなにを考えるだろうか推測できないかな?

 つまりね、庵さんはこう考えると思うんだ。《一ノ瀬家の客室は壁が薄く、なかの声が外に筒抜けである》って。じゃーじゃーもっと質問。そんな認識のなかで――争いや諍いの声が周りに筒抜けになるかもしれないという認識のなかで、はたして庵さんは殺人というあまりにもリスキーな行為をし得るでしょーか? 仮に庵さんが函館正彦の殺人を計画していたとして、いまここでおこなうのはベストと言えるでしょーか?」

 言えないっ! と俺は挙手をして叫びだしたかった。

《アリバイが成立しなくても、函館正彦を殺す可能性がない》とはこういうことだったのだ。そしてそれは、なるほど、あまりにも納得できる推理である。俺は気持ちよく膝を打った。

「まーそういう理由から、あたしは庵さんを容疑者候補のなかから外してもいいと思った。ところで庵さんが容疑者から外れるとなると、もう庵さんには偽証の必要がなくなるよね。もう一度訊いておきたいんだけど、キッチンへ向かうときに函館正彦の部屋のドアが閉じられるのを見たっていうのは、ほんと?」

「ほんとだよ~」と容疑者候補から外された園田庵はわかりやすく上機嫌だった。

「決まりだね。庵さんがキッチンに着いたのは二十二時十分。その直前にドアの閉まるのが目撃されたわけだから、その時刻も二十二時十分ってことになる。ドアを閉めたのが函館正彦であれ犯人であれ、それが《入室》を指し示しているのであれば、犯行があったのはそのあとであるってのは明白。つまり函館正彦の死亡推定時刻はさらに縮んで二十二時十分から二十二時三十分の二十分間ってことになるね。

 あれっ。てことは、昨日子さんのアリバイが成立しちゃうね。その時間昨日子さんは雑談配信をしていたんだから。つまり、昨日子さんも容疑者から外していいことになる」

 晴れて容疑者の汚名を返上した小泉昨日子は、「ありがとうございます! ありがとうございます……」と礼を繰り返し述べた。

 その横で、

「きみが……犯人だったのか……究」

「なにを。犯人はそっちだろ」

 と小さな諍いが始まっていた。

 我妻海月と望月究だ。

 そうだった。容疑者は残りふたり……ともなれば、自分が犯人でないと知っている容疑者にとって犯人は明らかになる。

「道理でトイレが馬鹿みたいに長いわけだよ。長い長いクソを巻いてるのだと思えば、その間殺人に出向いていたんだからな」

「僕のお腹が弱いことは、望月だって知ってるだろ。そっちこそ僕の帰りが遅いのをいいことに、そのでかい腹を揺らしてご苦労にも函館のところへ向かっていたんじゃないか?」

 争いがよりくだらない方向へ発展しそうなところで、志希があいだに入った。

「待ーった。これから全部説明してあげるからさ、言い争いはやめなよ。犯人じゃないのなら、黙ってればその証明はされるんだから」

 ふたりは渋々と言った調子で大人しくなった。

「そっかぁ。容疑者が残りふたりとなれば、こうなるのは当たり前だよね。ううん、順序って難しいな。探偵としては初心者だからね、あたし。

 ……じゃあふたりが待ちきれないだろうし、続きを話しちゃうよ。

 海月さんのアリバイについて、だね。二十二時十五から二十二三十五分までのあいだ、海月さんのアリバイは残念ながら成立していない。本人はお手洗いに行っていたのだと弁解していたけれど、もちろんそれを証明する手立てはない。一緒に入るわけにもいかないもんね」

「そりゃそうだ」と、園田庵。

「そりゃそうだけども、必ずとも姿を見なくてもいいのなら、間接的に証明する方法はある。そう、たしか男子トイレは立て付けが悪いと聞くね。開閉するとき、音がキッチンまで響いたんだっけ?」

 一ノ瀬・母と家政婦に問うと、

「ええ。我妻さんがトイレにいたという時間の、ちょうど初めと終わり頃に」

 途中でトイレを抜けたとすると、そこでまたドアを開閉する音が鳴ったはずである。つまり最初から最後まで我妻海月はトイレにいたということになる。

「それで、十五分から三十五分までのあいだはトイレにこもりっぱなしだったと証明できる――というわけですか?」望月究が言った。「バカバカしいですよ。音が聞こえたからって……実際に出入りしたところを見たのでないなら、なんの証明にもならない。たとえば、ドアの開け閉めだけして、入ることはせずそのまま被害者の部屋へ向かったかもしれない」

「もちろん。でもね、昨日子さんの証言によると、二十二時二十五分に男子トイレの電気は点いてたんだって。だよね?」

 小泉昨日子が頷く。

「だからなんですか? トイレのドアを開けたときに電気を点けて、それから函館を殺しに行ったんでしょう?」

 望月究の言い方は、すでに我妻海月が犯人だと断定していた。

「ううん。トイレの電気は人がいないと三分で自動消灯されちゃうんだよ。もしも海月さんがそういうちんけなトリックを用いていたとなると、小泉さんの証言と食い違っちゃうね。つまりそういうトリックの可能性はなし。海月さんは、アリバイのない時間はたしかにトイレにこもっていた。だから海月さんは容疑者から除外」

 望月究は絶句した。志希の示したロジックは、つまり望月究が犯人であると糾弾しているのと同義であるからだ。

 食堂の視線が望月究に集まる。彼はなにか弁解しようと口を動かすが、声にはなっていない。

「ほら、僕の言うとおりだったんだ。僕が犯人でない以上、彼が犯人である以外ありえないもの……」

 我妻海月が勝ち誇ったように言うと、志希が首を振った。

「だーかーらー。早とちりしないって何度も言ってるでしょ。あたしの話はまだ終わってないよ」

 どういうことだ?

 望月究が犯人という、それ以外の結論がいまの話から導き出せるだろうか?

「究さんはほかの誰とも違ってキッチンの前を通過するのを見られていない。彼ほど大きくて、しかもゆっくりぎこちなく歩いているような人間が廊下を通過するところをママも家政婦さんも見ていないなんて、ほかの人物の目撃情報の精度を踏まえるとおかしいと思わない?」

「南側から遠回りしたんでしょ……」

「さっき実験してみたんだけど……」あののろまな歩き方は実験だったのか。「……究さんくらいの歩行速度で遠回りすると、往復に五、六分以上はかかることがわかったんだよね。実際の殺人にかかるであろう時間も合わせて考えると、十分をオーバーしちゃうね」

「望月さんのアリバイがないのって、二十分間でしょ? 間に合うんじゃない?」

「ところが、二十二時二十五分に昨日子さんが図書室にいる究さんを見ている。正確には十分間と十分間なんだよ。その計算で言うと……望月さんでは犯人である要件を満たせていないことになる」

「つまり……?」

「究さんは犯人じゃないということになるね」

「……は?」

 と誰かが言った。もしかしたら俺だったのかもしれない。

「馬鹿な!」と我妻海月が叫ぶ。

「つまりこういうことかい? ……犯人はこの家の者じゃない……外部犯だと……」

「だからさあ、この家は施錠されてて、内部に共犯がいない限り外部犯はありえないんだって。共犯が必要な目的は? それはアリバイを作ることでしょ? でも四人のアリバイはあたしが証明するまでガタガタじゃんか。つまり四人のうちに共犯がいるのはありえない。じゃあアリバイのあったあたしたち? でもママはともかく、ほかは滞在予定の人物に函館正彦がいることなんて知らないんだから、計画の立てようがない。肝心のママは、家政婦さんがつきっきりでずっとキッチンにいたから、開錠のタイミングがない。外部犯はありえないんだよ」

 ……じゃあ。

「犯人はいないってことなのか?」

 まさか。

 そんなわけない。

 ありえない。

 否定されることを望み、そしてそうなるだろうと踏んでの発言は、しかしあっさりと首肯される。

「そうだよ。犯人はいない」

 非現実的な結論に誰もが頭を抱えた。実際に殺人事件は起こっているのだ。犯人がいない? そんな決着の仕方、ありえない。

「みんながなんでそんなに驚いているのか、あたしにはよくわからないなあ。固定観念に囚われすぎじゃない?」と志希は、ギフテッドは、言う。「あのね、ある要素と要素の関係において論理が矛盾するとき、少なくともどちらかの一方が偽であることはあまりにも明白なんだよ。《函館正彦の死は殺人である》。だけど《犯人はいない》。オーケー。このふたつは矛盾しているね。てことはじゃーどっちかが間違いなんだよ。

 後者は、たったいま真であることが証明された――つまり疑うべきは前者。

 函館正彦の死は、殺人じゃなかったんだ」

 下されたのは、そんな宣告。

 全員の認識を根底からひっくり返す、だけどあまりにも呆気ないどんでん返し。

 それが志希の考える真相なのだ。

 彼らは――そして俺は、それを真実として受け入れるしかないのだ。

 

 

   9

 

 函館正彦の死は殺人ではなく自殺なのだと結論付けられた。

 彼は、キッチンで借りたナイフを自分の胸に突き立てて自殺したのだと言う。

「ま、彼にはいろいろと立場があるだろうからね。それがどんな事情かは知らないしどうでもいいけど、彼のなかで自殺という最期は不味かったんじゃないの?」

 動機については心底どうでもよさそうにそう語った。

 なぜこのタイミングで自殺したのかについて訊ねると、「自殺に至る道程って、死のう、死のうと普段から考えて計画するものじゃなく、きっとふとした瞬間に《いま自殺するしかない》って思い付きに縛られる状態なんじゃないかな」と片づけた。

 自殺や、それをごまかそうとした動機など推し量れるものじゃないのだ。殺人の動機と同じように。

 

 

 

 事件はとりあえず解決され、一同はそれぞれの部屋に解散した。

 警察の到着もまもなくというころ、俺は志希に呼び出される。

「ちょっと話があるから、食堂に行かない?」

「話ってなんだよ」

「それは後で」

 不思議に思いながらも、俺は志希についていく。

「で、話ってなんだ?」

 再びがらんどうとなった食堂で、俺は志希に訊ねた。なぜか志希はもったいつけて黙っている。すると、食堂のドアが開かれ、一ノ瀬・父と一ノ瀬・母が入って来た。内密の話だと思っていたが、両親が見えたことで志希に慌てる様子はない。

 このタイミング……。

「もしかして、お二人も志希に呼び出されたんですか?」

 ふたりは頷いた。

「ああ、君のことでね」

「どういうわけだ?」

 俺は志希に説明を求めた。だんまりを決めていた志希はようやく口を開いた。

「キミとあたしの仲をね、ダッドとママ公認のものにしておこうと思って」

「なにを……。いまさら公認もなにも、そのために挨拶に来たんだろ」

「違うよ。そういう話じゃない」

 と志希は人差し指で俺の口を閉ざさせた。

「キミがあくまでも《アイドルとプロデューサー》の関係を守ろうとしてるのはわかってる。悲しくなるくらいにね」

 志希がなにを言わんとしているのかがわかった。

 だがそれは、俺には応えてあげられない願いだ。

「まさか……志希……。いや、それはだめだ」

 俺は頭を振る。

「ううん……もう言っちゃってもいいよね。全部ぜんぶ、ぶちまけちゃっていいよね。ずっと、押さえつけてきたんだもん。

 ねえ、キミ――」

「志希……っ!」

 俺は志希の言葉を遮るが、構わず彼女は言った。

 

 

「――キミが犯人なんでしょ?」

 

 

「…………は?」

 言葉を失う俺に構わず、志希は続けた。

「動機はもちろん、昨日の夕食での函館正彦の発言だよね」

「いや、いやいや、ちょっと待て」

「あるいは、そのずっと前からきっかけとなる出来事はあったのかもしれない」

「聞けよ、俺には昨日の夜……」

「でも直接の原因は、やっぱり昨日の出来事。キミは、あたしや事務所のアイドルたちを守るために彼を殺したんだよね」

「だから、俺には昨日の夜にアリバイがあるって言ってるだろ!」

 俺は怒鳴りつけて、志希の言葉を遮った。

「おかしいだろ。俺は函館の死亡推定時刻、ずっとアリバイがあった。それを証明しているのはほかでもない志希だろ? 俺にどうやって函館が殺せるっていうんだよ」

「アリバイなんて関係ないんだよ」

「……え?」

「キミはさ、ひとりで一九〇人のアイドルをプロデュースしているよね」

「その話、事件と何の関係が――」

「でもさ、現実的に考えてひとりで一九〇人のアイドルをプロデュースするなんて、不可能だよ。キミは身体がいくつあっても足りないって言ったけど、本当、身体がいくつあっても足りない仕事量だ……」

「だから、その話が事件とどう関係――」

「《ある要素と要素の関係において論理が矛盾するとき、少なくともどちらかの一方が偽である》――そう言ったよね?」

「…………」

「キミは《ひとりで》《一九〇人のアイドルをプロデュース》している。でもその要素と要素は絶対に噛み合わない――矛盾、というよりもはや破綻しているもん。じゃあ、言うまでもなくどっちかが偽なんだよ。でも一九〇人のアイドルは実在するし、みんなキミのプロデュースを受けている。つまり――」

 ……そうか。

 ……志希は本当に……

「キミという人間はひとりじゃない。

 数人、いや、十数人? とにかくキミは、キミというストックをいくつも持っているんだね」

「どうして……」

 どうして、わかった?

「池袋晶葉」と端的に言う志希だったが、俺にはその一言があまりにも重く響いた。

 ……全部、全部知られているのだ……。

「晶葉ちゃんは、たしかロボットを作っていたよね? そして、その技術はほとんど人間と変わらないロボットを作り上げるところまで来ているらしい。キミの最初にプロデュースしたアイドルが彼女であることと、その後キミがたったひとりで一九〇人のアイドルをプロデュースしていくこととを結びつけると……ひとりで膨大な仕事をこなすキミが、ロボットに仕事を肩代わりさせているという推測は容易に成り立つはず」

 すべて、その通りだった。

 俺は、日に日に増えていく仕事量のあまりの膨大さに忙殺され……あるとき、晶葉に俺のコピーロボット製造を依頼したのだ。

 アイドルが増えていくのに比例し、ロボットもひとり、ふたり――と数を増やしていった。

 そうして、アイドルが一九〇人に達した現在、俺の数は十五人となっていた。

「だから、キミにアリバイなんて関係なかった。キミはただ一、二分部屋を出て玄関の鍵を開けるだけで、完全犯罪を成立させることができたんだ。あとはもうひとりのキミが全部やってくれるからね。当然だけど、こんな犯行、キミにしかできない。それがキミを犯人だと指摘する理屈だけど……反論はある?」

「いや、ないよ……」

 昨日、俺はトイレに行くと嘘をついて志希の部屋を出ると、玄関の鍵を開け、外にいた俺のコピーを邸内へ迎え入れた。そして志希の部屋に戻って、志希の遊びに付き合った。その間、コピーロボットの手によってすべてのことは為された。

 それはコピーがおこなったことだが、同時にどうしようもなく俺がおこなったことなのだ。

 俺は、志希を、アイドルたちを導く存在でありながら、殺人に手を染めた。到底許されることではない。志希は、俺を罰するつもりでここに呼び出したのだろう。

「すまなかった……。俺のせいで、志希も、事務所も大きな迷惑を被るだろう……本当に、本当に……すまなかった……」

 すると、一ノ瀬・父が俺の名を呼んで肩に手を置いた。

「君が娘のためにしてくれたことはわかる。俺は君を咎めようとは思わないし、このことを公にしようとは思わない」

「初めて娘が我が家に連れてきた殿方ですもの。やすやすと警察に明け渡すなんてできませんよ」

 言ってることは一見慈悲深いが、異常だ。

 一ノ瀬・父と一ノ瀬・母の言葉に呆気にとられていると志希が言う。

「さ、もういいでしょ。出てって」

 彼女は邪魔者を追い出すように手で追い払い、両親が食堂を後にするのを認めると、端正に整った顔を俺の鼻先すれすれまで近寄せた。

「もしもさ、あたしがキミにこの気持ちを伝えたとしても、いつものキミなら《アイドルとプロデューサーだから》って、そう言うんだろうね。でもね、いまならキミも、あたしの言うことを断れないでしょ」

「志希……」

「ねえプロデューサー、このまま一生あたしのものになってよ」

 ……ああ、俺に逃げ場はないのだ。

 志希は、警察に突き出されたくなければ自分のものになれと言っているのだ。あるいは、俺にはもうその道以外にありえないと突きつけているのかもしれない。

 俺はそのとき、ある曲の一節を思い出していた。ああ、ああ、すべて歌詞のとおりだ。

「さて、邪魔者はいなくなって、ここにはあたしとキミのふたりきりだね」

 志希の瞳にはもう俺しか映ってなかった。ありったけの欲望がそこで渦巻いている。

 俺の唇を割って志希の舌が入り込んだ。俺は志希を受け入れる。彼女が俺の胸にしなだれかかり、押し倒される。志希のなすがままにされながら、俺は思う。

 あるいは志希に一生を捧げ、彼女のためだけに生きるのも悪くないのかもしれない……。悪くは……。



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