山間の温泉旅館の地下室に、限られた人しか入ることができない秘密の部屋なんぞがあるのか。
疑問を口にすれば放り込まれるぞと脅されたので、殊勝な私は口を真一文字にして黙ったけど。
周囲のメンバーも「この宿やばいんじゃないかな」と不安を抱いた。
桜坂のお嬢様だけが、この宿は信用できる場所ですねとコメントしている。
園田、西木野の両家のお嬢様は不安げな表情をしていたけど。
黒澤のお嬢様が来訪をしたのなら、どんな反応を示すのか尋ねたい。
彼女はLINEで忙しいとしたけど、海未の考えるトレーニングが嫌だったから来なかったと予測。
ツバサや理亞ちゃんでさえ「あのトレーニングは嫌だ」と逃げ出したそう。
時間が出来たので電話をかけてみたら「まだ生きてたの?」と。
「あいにくだけどまだ全然死ぬ予定ないから」と――夕飯を食べてちょっとしてから、和気藹々とした中、二人の罵詈雑言が聞きたくなった。
この合宿も平穏な雰囲気のまま終わるのかなって、そう思いつつ――とんでもない勘違いだった。
「なるほど防音は完璧ですね」
交流を深めていた我々を、桜坂教官は唐突に呼び出した。
さすがに周囲の目があるので「これからトレーニングを始めます」とおとなしいものだったけれど。
周りに自分の知人以外がいなくなった瞬間。
「これからのトレーニングは苛烈を極めますよ! これを乗り越えられればステージもいくらでもできます!」
海未のトレーニングに慣れている面々は「ヒーコラ」言いながらも乗り越えることができた。
ただ合宿に参加している一年生組の疲労度はかなり大きく、まったりとしたのもそれが原因。
温泉にも入ってようやく、明日を迎えてもいいってトコで、鬼教官であらせられるしずく嬢が「これからトレーニングを始めます!」と。
これからあなた達には殺しあいを始めていただきます――なんて、口からポロリと出てきそうな重厚な雰囲気を携え。
「では……皆様にこの文章を読んでいただきます」
桜坂家使用人の「オフィーリア」さんがペラ紙を私も含め――海未にも、真姫にも配ってくる。
「え?」と言わんばかりに首をかしげる海未が内容に目を通し、呆れたような口調でこう言った。
「エロゲのテキストではありませんか」
地の文まで書かれていないけど、この文章を見る限り成人向けゲームの内容。
よもや自分で書いてきたというわけではあるまい。
もしそうなら思わぬ才能がある、我々が作っている成人向けゲームのライターとして採用しよう。
「そうです――ボイストレーニングの実践……つまり、大きな声を出すための最終段階に入ろうと言うのですよ!」
テンション高く宣言するしずくちゃん。
体を大きく揺らしながら「皆様はどんな声を出すのか楽しみで仕方がありません!」と悦に入っている。
大きな声を出すためにその声を出すことは決して悪いことじゃない――ただ、他にも上達方法はあるだけ、羞恥なんぞ伴わんで良い。
顔をしかめっつらにして「何かあったらアイアンクロー」の準備をしている海未に、真姫が「私もフォローするから安心して」と口にする。
「真姫、あなたの声は出来のいいASMRと変わらないんですから、ちょっとエロい感じで言わないでください」
「エロさがあふれ出ているから仕方がないのよ」
一歩間違えれば犯罪者として捕まってしまいそうな会話をしているけど、声の仕事に関する内容では、真姫は一枚も二枚も上手だから仕方がない。
※
「みんな、ささやき声は出せるかしら?」
しずくちゃんも生徒として取り組みたいということで、教官役は私と真姫に一任されることになった。
真姫だけでと思ったけど「アシスタントとして手伝ってちょうだい」と言われればホイホイと頷く。
「ささやき声ってウィスパーボイスのこと?」
「そうそう……ひそひそ話で使う程度の音量でこそこそ喋る……今私が喋った感じにね」
ちなみにその声は随分と遠くまで聞こえていた――ひそひそところではないけれど「そんな感じでしゃべる」ってのは、ここにいたメンバーがみんな理解してくれたと思う。
「ではまずはお手本を見せます……この通りにやってっていうのはあなた達には無理だから、目標にしてくださいな」
「プロの技術を真似をするのはいいけど、最初から自分はできると思わないこと」なんて、真姫が真面目な表情を作って言う。
これくらい誰でも出来るんじゃないですか、みたいなコトを言おうとしていたかすみちゃんや「恥ずかしいけど大丈夫な感じもする」と言っていたランジュちゃんに釘をさす。
そして彼女から発せられたひそひそ声にも似たウィスパーボイスでの喘ぎ声は、色っぽさとか体に来る感じを携えつつも、とてもひそひそ声とは言えない音量であった。
これがもしも部屋の外に漏れて聞かれていたら、殴られるだけではすまないんだろうなぁと考えるけど。
「ああ、ウィスパーに声が乗らないように気をつけてね」
「通常の声にならないようにってことですね」
「その通りよ、普通に喋るのとは違うからね」
わからないメンバーは首を傾げながらも、真姫の言われた通りにひそひそ声で、書かれているエッチな喘ぎ声を読んでいく。
もちろん私も海未も読まなければいけない――こんなことなら参加を辞退すれば良かった、と園田のお嬢様は早くも嘆き節。
「じゃあ次はひそひそ声に声を乗せる……つまりひそひそ声と通常の声を際無く切り替える」
今、真姫はつまりをヒソヒソ声で真姫は、ひそひそ声を自らが普段発している声で読んで見せた。
ウィスパーボイスで喋っている最中に通常の声に戻すのは、簡単にやっているように見えるけど実はすごく難しい技術なのだ。
声を出すっていうのは息に声を乗せる感覚が重要。
そのためにウィスパーボイスから通常の声に切り替えるトレーニングをしている。
「あ、でもね、この文を読む必要はないわ」
ひとまず置かれるペラ紙――そこから真姫は「これから犬になりきってください」
四つん這いにでもさせられるのかと思いきや、そんなことをする必要はないからと真面目な口調で言われてしまった。
例のごとく真姫がお手本を示してくれたけど、簡単そうにやってのける――私も及川さんが簡単そうにやっているから、もしかしたら誰にでもできるんじゃないかなって思ったんだけど。
……考えてみればよく分かるんだけどウィスパーボイスで吠える犬っていうのは根本的にありえない。
福山雅治が犬になったら、そんな感じで吠えるのかもしれないけど。
「あ、かすみちゃん、璃奈ちゃんできてない、犬そのものができてない」
「ワンワンって鳴く犬のこと?」
「できるだけ大きな声で犬みたいに鳴いてみて……こんなふうにね」
文字にすると「アオォォォォン!!」みたいな感じになる。
犬が遠くに向かって叫ぶようないななきが部屋中に響き渡った。
正直な話、おなかの中に犬でも飼ってるんじゃないかっていうくらいの強い声量だった。
聞いていたメンバーは思わず拍手をしてしまい、こんなことはたいしたことではないからと真姫に窘められてしまった。
「犬の鳴き声なんて誰でもできると思ったけど難しい」
「このアタシに簡単にできないことがあるなんて」
「わだすはそんなんばかりだとよ、でも、ランジュちゃんは凄いけど普通の女の子だよ、だってわだすと友達になってくれてるもの」
「自分はすごいと思っていたけど、世の中には特別すごい人ばっかりいるものだから自分の身の程がよく知れた」
栞子ちゃん、ランジュちゃん、ミアちゃんが犬の鳴きマネを必死に練習している――が、1年生組で一番最初にコツを掴んだの璃奈ちゃんだった。
キャンキャン吠えているような犬の姿が見える――正直パフォーマンスについてはスクールアイドルの中ならまだしも、ソロライブでは厳しいと思っていた。
後は彼女なりの個性を身につけることができれば、ソロライブを行い、お客様の高評価につながるのも夢ではない。
「では次に犬の鳴き声をウィスパーにして……そして鳴いてる途中に普通の声に戻すの」
こんな感じにねと、最初のうちは空気の漏れる音しか聞こえないのに、一瞬で犬の鳴き声に変貌する。
本当に簡単にやっているように見えるんだけど、簡単にはできない技術なのはご承知の通りだと思う。
息を吐いている途中で突然喋り出すような感じなので苦しさは理解してもらえると思う。
「……なかなか難しいですね」
「……しず子は簡単にやってのけると思ってたよ」
「私もその想定でした……声の出し方は自信があったんです」
つまり彼女が身につけていた技術が、今教えられている基準とは違うということ。
どちらが正しいというわけではないけれども、どちらも正しい可能性があるので、技術を身につけて取捨選択できるようにするってことは生きていくうえで重要なことだから。
一つの事しか出来なくって、それが出来なくなってしまった時不安に陥らないように、人間は様々な技術を出来た方がいい。
現在だけで判断していないで、未来の自分のためにもいろんなことは絶対にできた方がいい。
……犬の鳴き声からそんな話になるとは、人生っていうのは本当によくわからない。
「わだす、思いついたんだけど……」
ここで栞子ちゃんが挙手をして、教官役の真姫が指をさす。
おずおずと口を開いた彼女は、一同に衝撃を走らせるとんでもない発言をした。
そんなことはないよ――意見を聞いた時にみんなからその後が返ってくると思った。
「犬の発声で声が出るようになるなら、もっと犬になりきってみたらどうかな」
「それいい!!」
このお嬢様の反応は予想通りだった――真姫が言ったことができてないっていうのは彼女の中で大きなダメージがある。
そこで変な事口走ってしまうことはある、人間焦るとトンデモ発言をしてしまうものだから。
「早速犬になってみせます!!」
「……?」
彼女自身がそれを望むように。
まるで罰を自分自身に与えるかのように、彼女の瞳はかすみちゃんしか見ていなかった。
「様子がおかしい」
「……」
止めようとしたけど「しおりこ」ちゃんが手で制すのがわかった。ランジュちゃんもミアちゃんも、彼女が入れ替わったことに気がつき、しずくちゃんを止めようとするのをやめる。
いったい何が起こっているのかと言わんばかりの海未に「今は静かにしておくべき」と真姫がたしなめるように言い。
彼女も諦めたように首を振った「わけがわかりません」
その反応は私もしたい――だけども、もしかしたらだけど――別の世界にいるっていう、とんでもない性根の桜坂しずくが彼女に乗り移っているとしたら。
「わ……たしは……謝らなくちゃいけない……止めないで、この世界のしずく……う……」
「やっぱり」
しずくちゃんの心の中で別世界の桜坂しずくが、何かを伝えようとしている――でも何故必死になって抗っているのか。
彼女に敵意はまるで感じられない「しおりこ」ちゃんもそうだけれど、 基本的に素直ないい子だ――素直故に悪意に簡単に染まってしまうだけで。
一度間違えてしまったら二度とやり直すことができないと考えてしまっているだけで。
「友達を……扱いやすいコマみたいに例えたこと……どの世界でも……どこの場所でも……謝りたいの。どうか止め……クソッタレがぁ!!!!」
同一人物の発言には思えなかった。
えらく殊勝な調子で謝意を伝えようとしている別世界のしずくに、女の子が口にするのは、はしたない単語で抵抗してみせる。
「謝りたいだぁ! だったら自分がいる世界で謝ってみせろ!!!」
「……それはできません」
「どうして……?」
しずくちゃんの反応が自然に思われた。
でも、彼女の心の叫びに「意味がない」と言わんばかりに「しおりこ」ちゃんは首を振り、意を決するように目を見開き
「それはカ……」
ぐにゃり。