勢いよく開けた艦長室の扉の向こうには、怪しい人影は存在しなかった。
「……やられた!」
自衛隊情報保全隊所属の一等海佐、藤井七海は舌打ちとともに部屋に置かれたノートパソコンに駆け寄った。
己がパソコンに触れているとき、不自然に聞こえた艦長の声。
開きっぱなしのノートパソコン。
これらから考えられることは一つだ。
藤井の追っているスパイ、通称X(エックス)が艦長室に侵入し、データを奪っていったということ。
みすみすデータを奪われてしまったのは失敗と言うほか無い。
しかし、ここに保存されているデータはすでにXが奪っていったものであり、再び奪う必要性には疑問を感じることも確かだ。
素早くパソコンを操作して、ウイルスなどが仕掛けられていないかチェックを始める。
「これは……っ!?」
ピコン、という可愛らしい音とともにポップアップが表示され、藤井はわずかに目を見開いた。
<トライヘルメスより通達:本PCの内部データは正常に消去されました。>
デフォルメされた髑髏のマークがカクカクと顎を揺らしている。
ポップアップも一見PCの標準的なそれを模しているが、吹き出しの形に変えられており髑髏のマークがしゃべっているような表現になっていた。
このシステム音も外部の何者かの手によって不正に入れられたデータだろう。
吹き出しの右下に出ている素っ気ないロゴは「Hashshashin」という無機質な文字だけだ。
Hashshashin――――すなわち、伝説の暗殺教団ハッシャーシーン。
その文字を認識し、藤井は思わず息をのんだ。
「そんな……『山の翁』が関わっているというの?」
国際社会においてその名を轟かせるかの暗殺者は、多くの別名を持っている。
アサシン、山の老人、ラシード・ウッディーン・スィナーン。
イスラム教ニザール派を元とした暗殺教団の伝説を暗喩したとき、ほとんどの場合が『山の翁』のことを指すと考えていいだろう。
自衛隊の軍事情報を入手して、いったい何を企んでいるというのか。
想像だにしていなかったことに、藤井は腹の底から不安と焦りが湧き上がってくるのを感じていた。
もし、この一連のスパイ騒ぎが山の翁の仕業だったとして、どういった影響が起こりうるだろうか。
軍事情報を使って海上自衛隊の将官を暗殺するのか。
またはその情報を取引に用いて他国へと流出させるのか。
もちろん、山の翁の名は有名であるが故に騙りも多い。
このチープなポップアップ一つで山の翁本人であると断定するのは早計だろう。
だが、これがもし本物の山の翁だった場合、藤井の一存で判断するには大きすぎる影響が起こりうることも確か。
「本部に連絡を入れないと……っ!」
逸る気持ちを抑え、藤井は駆けるようにして部屋を後にした。
ともかく立石艦長にこのことを伝え、早急に隊司令に連絡を取らねばならない。
もし自衛隊の追っているスパイXが山の翁だったのなら、下手な追撃は命取りとなりかねないからだ。
かの暗殺者は潜入の名手ではあるが、本業は「殺人」そのもの。
訓練された一個小隊を物音一つ立てずに処理するその手腕は、一部ではファンタジーとすら揶揄される。
廊下を駆ける藤井は、最後まで部屋に隠れ潜む二人の人間に気付くことは無かった。
*****
「シェリングフォード、少々あなたは迂闊すぎやしないだろうか?」
「う……悪かったよ」
暗い艦長室の中、グラスホッパーに抱きしめられた状態でコナンは気まずそうに顔をそらした。
事実は単純明快だ。
藤井一等海佐の正体を訝しんだコナンが、正体を明かすことにつながるだろうと考えて艦長室に忍び込み、データの盗難をもくろんだのだ。
データのコピーが間に合わず、タッチの差で艦長室からの脱出に失敗。
あわやというところでグラスホッパーに助けられたのであった。
隠れる場所のないここで、堂々と部屋の隅に体を屈めているだけでどうして海佐の目を欺けたのか、コナンは考えるのを諦めていた。
ヴェスパニアの一件から向こう、ファンタジー肯定派に傾いているコナンである。
どんなに納得いかないことでも、あるんだから仕方が無い。
なんとも腑に落ちない思いを抱えつつ、己を見つめるグラスホッパーと目を合わせる。
「しかし、イージス艦の情報など抜き取って何に使うのか問いたい。国防の情報程度なら主要8カ国分私が用意するのに」
「要らないからな!つかお前、そんなの用意できるのかよ」
「もちろん。どんな人間であっても暗殺できるということは、どのような情報であっても入手できるということと同義である。あなたの父君の現在位置も分かる」
「えっ、それ便利だな、今度担当さんに……じゃなくて!」
大きく頭を振ってコナンはグラスホッパーの腕の中から逃れた。
工藤新一としての己よりも10以上幼い少女だが、やはり抱きしめられているというのは落ち着かない。
心なしか無表情の中に名残惜しそうな気配を含んだグラスホッパーを極力無視し、コナンは廊下の様子をうかがった。
物音はしない。人の気配も無く、この部屋を後にするなら今がチャンスと言えるだろう。
スルリと部屋を出てしまえば、後は「道を間違えて迷子になった子供」という言い訳が立つ。
足音を立てないように二人で艦長室から離れて、コナンはほっと一息ついた。
グラスホッパーだけならまだしも、コナン自身は隠密行動に向いていないと自覚している。
どうも一つに集中すると周りが見えなくなってしまうタチだ。
取引を見るのに夢中になり後ろからバットで殴られた件は、コナンも深く反省していた。
「そういえば、さっきは甲板で聞き損ねたことがあるんだ」
「うん?」
誰も居ない、パイプと配線が複雑に張り巡らされたイージス艦の廊下。
低い機械の振動音と船が波をかき分ける音を遠くに聞きながら、コナンはグラスホッパーに問いかけた。
「ヴェスパニアで、俺は怪物を見た。幻覚でも錯覚でもない。間違いなくアレは化け物だった」
「そう」
「その化け物に襲われて、街の人たちの多くが犠牲になって、」
「そう」
「それが全部、『無かった』ことになった」
少女は沈黙した。
白磁の美貌は何の感慨もなくコナンの言葉をさらりと撫でただけだ。
コナンは、目の前の少女が事件の真相を握っていると確信していた。
事件の直前、エミリオの言葉を聞いて不自然に席を外したグラスホッパーは、その後しばらくの間姿を見せなかった。
エミリオ・バレッティは例の事件の渦中において生還した唯一の被害者だ。
ヴェスパニアの王都は悲惨な状況であったが、もっとも被害の大きかった国立コンサートホールにおいては殊更に異常な光景が広がっていたらしい。
狂死した観客が折り重なるように倒れるホール内で、ただ一人無傷の状態で気を失っていたエミリオ。
彼は唯一の証人として報道機関を含めた様々な組織の事情聴取を受けた。
もっとも、その実りは薄く、本人はほとんど何も覚えていないようではあったが。
そのエミリオの言葉で行動を起こしたのだ。
ルパンが言っていた「グラスホッパーは大事件に対処中」「化け物が来た」という言葉も気になる。
コナンの強い瞳に、グラスホッパーは静かな視線を返してきた。
「私は……迷っている」
「何をだよ」
「あなたに教えるか否かを。真実を打ち明けるか否かを。疑問に正しく答えるか否かを」
ただでさえ表情に乏しい少女だ。
そこに込められた複雑な感情を読み取ることは、コナンにはできなかった。
しかし、それでもこの質問が少女にとって大きな意味を持つであろうと言うことは見当が付いた。
それを承知で、コナンは言う。
「教えてくれ。ヴェスパニアの悲劇の、真相を」
「…………」
そっと、少女はコナンの手を取った。
絹の如きなめらかな肌が熱を伝える。
包み込むように握らされた堅い感触に、コナンは視線を落とす。
それは、白く小さな二枚貝のペンダントだった。
淡く光を反射するピンクパールの表面はつるりとしてなめらかだ。
小指の爪ほどの大きさのささやかなそれは、静謐な金のチェーンに留められて形を保っている。
美しいのに、どこか不安をかき立てる。可愛らしいのに、不穏な未来を暗示する。
そして、その全てを抱え込んでなお温かな守護の意思をコナンは感じたような気がした。
「あなたに持っていて欲しい。どこでも、どんなときでも、片時も肌身離さず」
「これは……?」
グラスホッパーはコナンの質問に答えないまま、どこか儚さを含んだ笑みを零した。
憂いを含んだ笑みは、ただでさえ細くか弱そうな少女の雰囲気を脆く崩れそうな気配へと変えている。
実際はこの世の誰よりも強いというのに、コナンはグラスホッパーがただの少女であると錯覚しそうな己に気がついた。
手の中でペンダントが冷たい感触を伝える。
「一ヶ月後、私のセーフティーハウスに来て欲しい。そこで、全てを伝えよう」
コナンは、ただ静かに頷いて手を離した。
*****
「あっちゃあ……失敗したな、まさか海に落ちるとは!」
「っ!?」
男――自衛官たちにXと呼称されるそのスパイは、突如として背後からかかった声に驚愕して身構えた。
なんの気負いもなく近づいてくるその声の主は、20代から30代ほどだろうか。
無精ひげを生やした中肉中背の男。
気さくな印象を受ける親しみやすい顔立ちだ。
どこにでも居るただの男のように見え、その実意外と筋肉が付いていることを足運びからXは察した。
「……運の悪い、まさか目撃者が居たとはな。面倒な」
「おお、スマンな。蘭ちゃん、だっけ?さっきの子の知り合いでね。そう付き合いがあるわけじゃないが、心配して追ってきてみれば、だ。これも何かの縁かねぇ」
「ハッ、縁ついでにそのまま後を追ってもらうこととしよう。恨むなら自分の不運を恨め」
先ほどの戦いで落としたナイフを拾い上げ、Xは嘲笑した。
あの毛利蘭という女の強さはXにとっても随分と予想外だったが、予想外が2度連続することは無い。
この男の重心の取り方は武術を嗜んだモノではないし、構えもまったくなっちゃいない。
適当に始末して予定通り脱出すれば任務完了だ。
知り合いが海に落とされたというのに、男の口調は実に軽く、まったく気にとめていないような明るさがある。
僅かに感じた不気味さを否定せず、Xは男を処理しようと油断なく足を踏み込んだ。
強い踏み込みで間合いを詰める。
距離は2メートルも無い。
ナイフが男を捕らえる、刹那の時。
男が嗤った。
「ガッ、ギ、ァ、!?」
「なんだ、喧嘩は初めてか?」
頭を襲った酷い衝撃に、Xは一瞬理解が遅れた。
斜めになった視界と割れるような側頭部の痛み。
ヌルリとした温かな血液がほおを伝っている感触。
白熱する両目をなんとか動かし、距離をとろうと足に指令を送るも思うように動かない。
数瞬の後、やっと己が甲板の手すりに頭を打ち付けたことをXは把握した。
「き、さま……」
「ブランクがあるから不安だったが、やっぱ俺も捨てたモンじゃないよなぁ。うん。どう考えてもグラスが強すぎただけだな。よかったー」
「グァッ!、ぐ、カハッ」
あくまで軽い言葉に乗せて、男が強烈な膝蹴りをXに叩き込んだ。
予備動作も何もない、無拍子でいて驚くほど威力のある蹴りが、Xを甲板に突き出た排気口へと打ち付けた。
背中をしたたかに打ち、肺から強制的に空気が漏れる。
そして体勢を立て直せないままに足を払われ、無様に床に崩れ落ちた。
「ガッ!?」
「はいはーい、抵抗はしないように。俺は魔術なんて使えないから、抵抗されると物理的に動けなくするしかないんだよなぁ」
起き上がろうとしたところを、男は容赦なく顔面を踏みつけることで妨害した。
手すりを固定していたボルトに頭を押さえつけられ、後頭部を鋭い痛みが襲う。
型も何もないヤクザのような喧嘩殺法。
だが紛れもない裏社会の人間だったのだと、Xは痛みとともに理解する。
素人めいた立ち振る舞いは偽装でしかなかった。
いや、それすらも戦いの技法であったのだろう。
男がXの片足を踏み砕いた。逃走や反撃を防止するためだ。
優秀なスパイとして痛みには耐性を付けていたが、足を折られては逃げることすらままならない。
依然として笑顔のままの男が、Xの髪の毛を右手でつかみあげた。
「じゃあ率直に本題から」
「……っ」
「公安の情報を流してる調整役(フィクサー)はどいつだ?」
Xを覗き込む男の瞳に温度はない。
深海を思わせる冷徹な意思がそこには宿っている。
調整役(フィクサー)とは、裏社会における権力の悪用者である。
資金力、人脈、立場。
そういった表の力にものを言わせ、裏社会に都合のいいように表の組織を動かすのだ。
例えば暴力団と裏でつながる地方政治家、例えば麻薬カルテルと契約を交わした悪徳弁護士。
そして、Xは男の言う「公安につながる調整役(フィクサー)」を知っている。
「……言うと思うのか?」
「いいや。拷問されて情報を吐くようじゃ工作員として下の下だ。そんな三流は怖くて使えたモンじゃない」
「ならば俺の答えも分かっているだろう。『ノー』だ」
「だよなぁ……やっぱこうなるのかー」
男は困り顔でガリガリと頭をかいた。
コミカルな動きと容赦のない暴力が寒気を覚えるギャップを生んでいる。
ズボンのポケットからぞんざいに取り出した緑色の立方体を太陽にかざし、大きなため息を吐いた。
「グラスの礼装を借りといてよかったわ。クリスティーヌ・クリスティーヌ、だっけ?そんなようなやつの限定再現の対人礼装ねぇ。よく分からんが、情報を吐かせられるならそれでよし、か。何から何までおんぶに抱っこ、なんてプライドぼろぼろだけどな」
「何、を……?」
立方体をXの前に差し出し、男は嗤っている。
半透明な立方体の奥に僅かに見える……あれはパイプオルガンだろうか?
事態を理解できないまま、やはり色のない瞳がXを写し続けている。
「じゃあな、きっちり吐いてくれよ」
そうして、意識は閉ざされた。
*****
「ああ、コナン君かい?なにか進展でも……なるほど、災難だったね」
「組織のメンバー?いや、グラスホッパーと行動を共にする幹部なんて聞いたことないけど……そうだね、基本的に彼女は単独行動だ。グループで任務をこなすことはないはずだよ」
「っ、本当かい!?……うん、可能性はある。その線で調べてみよう。その男の名前は?」
「――――みどりかわ、ゆい……?」
TIPS
・ハスター
名状しがたきもの。
普段はおうし座のアルデバラン近くにある暗い恒星でまったりしている面倒臭がり屋の神様。ちょっと皮肉っぽい。かっこつけた言い方をすると「デカダンス、ニヒリズム、怠惰といったモノと結びついている神」。
本編において突然呼びつけられた上にアザトースとガチバトルさせられて大変困惑している。来いって言ったのお前らやろが…。
ちなみにハスターの信徒は他と比べて特別頭がおかしいらしく、人間のカルト教団でも地球にやってきたミ=ゴ(外科手術に長けた菌類種族)をとっ捕まえて拷問したりしている。
今回もグラ子によってハスターの地球襲来が阻止されてしまったため、カルト教団は血眼になって原因を探っている。ハスター召喚を主導したニャルラトホテプも満足の発狂具合とのこと。