完全に見失った。人混みさえ抜けてしまえばウマ娘の速度に敵うはずないと言えば、その通りだ。
というか、このカメラもどき何十キロあるんだ。下手しなくても人間より重いぞ。
行きそうな場所は……まさかタキオンがメッセージを寄越すなんて社会的行為を行えるわけがない……とすると。
ウイニングライブの準備を尻目に、関係者以外立ち入り禁止の場所に忍び込むことにした。テイオーのことだから会長の所にいるだろう。幸いにして時間が時間だからか記者は少なく、警備員に身分証を提示したところ通してくれた。ついでに聞いたところ、ポニーテールのウマ娘と白衣を着たウマ娘が連れ立って入っていったらしい。
さすがにどこに会長の控室があるのかはわからないので、散策しているとタキオンを見かけた。
彼女は一瞬目を見開いたが、さっと唇に人差し指を当てた。きっと中に会長とテイオーがいるのだろう。タキオンを手招いて少し離れると、彼女はふぅと息をついた。
「テイオー君は会長に預けてある。まあ大丈夫だろう」
「助かった。それにしても驚いたな」
「何がだね、モルモット君。なんだその目は」
「いや。タキオンが他人のためにあそこまで必死になるのが意外で」
タキオンは面食らったように表情を凍らせたが、クククッと喉を鳴らす様に笑った。
「何。君の思っている物とは違うさ。テイオー君も私の実験に欠かせない存在だからに過ぎないよ」
「俺の思っている物?」
「……あー、それより、先程のレースは実に有益だった……ある意味、普通のレースよりもね。私の研究は飛躍的に発展するだろう。テイオー君の前では言わないがね」
あの足をかばいながらのレースが有益になる。その言葉に、俺は嫌な感覚を覚えた。
本当は薄々気づいていたのかもしれないが、ここで確信に変わった。
「どんな風に?」
「おや。今日はえらく好奇心旺盛じゃないか。普段ならば諦めているところだ」
「あんなものを見てしまったら、担当ウマ娘の健康に気を遣うのは当然だろう」
「……はぁ。さすがに同業者は誤魔化せない、か」
「負荷の少ない基礎トレに拘る、足を取られやすく力のいる不良バ場の方を見たがる、極めつけは”怪我をした状態で走った時の方が役立つ”だ。さすがに気づく。まだあるぞ」
「ここまで来たんだ。聞かせてみたまえ」
「タキオンが我慢できるわけがないんだ」
胡乱気な表情を浮かべる彼女に、俺は苦笑いで返した。
「アグネスタキオンというウマ娘が、トゥインクルシリーズという最高の実験場を黙って指咥えて待てると思うか?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべ、すぐにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「走れるなら絶対に出てるはずなんだよ。我慢できるわけないじゃないか。そうだろ?」
「……ククッ、大声で笑えないのが口惜しい」
息を入れると、何でもないことのように彼女は言った。
「私の脚は少々問題があってね。”速すぎる”んだ。その負荷に耐えられない」
「贅沢な悩みだな」
しかし羨ましいとは思わない。以前の俺ならば妬ましいと思ったかもしれないが、俺にも情がある。タキオンがいかに苦しいか、似た経験のある以上容易に想像がついてしまった。
速度を出せないのはもどかしいことだ。
「俺の研究成果がタキオンの役にも立つことを、願っている」
「……そういえば、君の方はどうだった? 有益なデータだったかい?」
「ああ。今なら全速力のタキオンにも勝てるかもな」
「ふっ。ならば私の代わりに、私の全速力を見せてくれたまえ。なんせ私だって知らないからな、ハッハッハ」
この先、タキオンは全力を強いられることもあるだろう。草レースや選抜レースならばともかく、本気の舞台で手を抜けるほど悪人ではない。それは他のウマ娘への侮辱になるからだ。
ウマ娘の可能性、最高速度の向こう側へ。それを強く望み、すぐにでも達成しうるポテンシャルを持ちながら、達成すれば脚が砕けて夢が叶わなくなる。トゥインクルシリーズ出走を我慢し続けられたのは当然だ。彼女は生まれた時からずっと、己の夢を我慢し続けてきたのだから。
「よく我慢したな。色々と」
「私とて無意味に我慢はできないさ。ただ、一瞬だけ辿り着いても無意味だ。繰り返さなくては意味がない」
「その心は?」
「何度も検証してこそ研究者だろう?」
「……違いない」
お互いに声もなく笑った。足回りの弱いタキオン、そもそもすべて弱い俺。
そして怪我を負ったシンボリルドルフ。言葉は不要だった。
「何かする気はあるか?」
「元々この数日でプランBに大きな変更が出たところだ。もう一人増えたところで今更計画の変更は免れ得ず、大した差ではない。プランAにも活かせる」
「良い医者がつくことは間違いないが」
「何、案ずることはないよトレーナー君。会長はウマ娘に甘い。大義名分を得た今、実験への協力要請は容易い」
「……じゃ、そういうことで」
「その前に診察をさせて貰わないといけないな。博士号が飾りでないところ、見せてくれたまえよ」
「医師免許は持ってないけどな」
スポーツ関連ならば並の医者よりは詳しいはずだ。そして怪しい研究に関しては、俺とタキオンに敵う者はいないだろう。腹を決めたところでちょうど扉が開き、中からは松葉杖をついた会長が現れた。
「おや……君も来ていたのか」
「お疲れ様です会長。テイオーは、というか担当トレーナーはどこに?」
「テイオーは中だ。泣き疲れてしまったようでね。トレーナーには無理を言って離れて貰った。ああ、アグネスタキオン。よくテイオーを軽挙妄動に走らせず、ここまで連れて来てくれた。礼を言う」
「実験百本で手を打とうじゃないか。私の貸しは高くつく」
「フッ……そうだな、それでいい。当面暇になる」
「入院するのか?」
「いや、そこまでではない。しかし捲土重来を期すにしても、万全の状態まで戻すには時間が掛かりそうだ」
会長には思いのほか余裕があるように見えた。それが不思議で、つい尋ねてしまう。
「でも、なんで走ったんだ。あんな無茶を」
「君もテイオーやトレーナーのようなことを言うのだな。一言でいうのなら、皇帝の矜持というものだ。笑うかな」
「……いや。笑えないさ。良いレースだった」
「参考になるレースだったねえ。パドックを見た時はダメかと思ったが、思いのほか役立てられる」
「そうか。なら良かった」
心底安堵した表情を浮かべる姿には、やはり皇帝はこの人でなくてはと思わせる何かがあった。
言い訳をするかのように、ぼそりと呟いた。
「今回の宝塚記念。盛り上がりに欠けるというのでね、是非出てほしいと頼まれた」
「それで、こんな無茶を」
「ああ。決して共に走ったウマ娘を愚弄するつもりはないが、私が直前で出走を取り消せばいくらか寂しい物になっていただろう。それは避けねばならなかった」
「だからって怪我するのまでは誰も望んでいなかったのでは?」
「上手く誤魔化せているはずだ。いや、違うな。”誤魔化した”。嘘も方便だよ。私の信条には反するが、若干の体調不良程度で落ち着くだろう」
「……権力の上手い使い方だ。さすがは会長、感心すら覚えるねえ」
「それに、もう一つ理由はあるんだ。恥ずかしい物でね。本人には結局言えずじまいだったが」
「本人?」
「テイオーの前だ。意地を張りたかったんだよ」
照れ笑いを浮かべながら、僅かに誇らしげな表情だった。
なんだそれは。呆れながらも納得してしまう。良いな、と思ってしまう。タキオンも疲れた表情を浮かべていたが、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
「ま、学園に戻ったらせいぜい実験に付き合いたまえ。テイオー君は任せてしまって構わないね?」
「ああ。ただ、学園に帰った後もテイオーとは仲良くしてやってほしい。これは私個人の願いだ」
「言われずとも既にプランBに組み込んであるさ。心配は無用だ」
「そうか、ならば安心だ」
会長が歩き出そうとしてバランスを崩しかけ、すかさずタキオンが支えに入った。
「すまない、アグネスタキオン」
「モルモット君。君には研究データを持ち帰るという崇高な使命がある」
「わかったわかった、車に積んでおく。給油したり色々やっとくから、適宜連絡してくれ」
「良いのか? 鶴城トレーナー」
「部屋から遠ざかりたいんだろ。寝た子は起こしたくないもんな」
「君にはお見通しだな。すまないがトレーナー君、少し借りる」
「はい。じゃ、俺はこれで。もう終わってるかもしれませんけど、ウイニングライブも見てきますよ。会長の分まで」
「そうか。うむ、ありがとう。惜しみない賛辞を、勝者に」
俺は二人を置いて、ライブ会場へ赴いた。慣れない声援を飛ばして車に戻り、タキオンを乗せて走り始めたころには夜になっていた。
激動の二日間だった。しかし、これで終わったわけではない。むしろ始まったばかりとも言えるし、始まってすらいないと言える。助手席に座るタキオンに、独り言のように話しかけた。
「来週のメイクデビュー、とりあえず無事に勝つぞ」
「さすがにそれだけでガタが来るほど弱いわけじゃないさ。あんなものを見た後では不安になるのもわかるがね」
「ならいい。無理だけはするな。俺は素人だからな、クラシック三冠の重みもわからんくらいだ」
「ま、研究成果次第で決めるさ」
それきり会話は途切れ、低い駆動音だけが響く。
復路は、随分と静かだった。
タキオンは一見いかれてるようですが根が滅茶苦茶まともだと思います。解釈違いを起こした方は素直にブラウザの戻るボタンをクリックしてください。