勝者は生徒会室へ凱旋し、敗者たちは皆トレーナー室へ逃げ込んだ。敗北から逃げたわけではない。2位でもすごい、3位でもすごい、ジュニアをあそこまで育てるのはすごい、という無価値な称賛から逃げたのだ。
それらの的外れな賛辞を受けるたびに、敗北を意識しすぎてしまう。部屋は重苦しい沈黙で満ちていて、タキオンが先程のレースデータを前にしても視線一つ動かしていない。間違いなく重傷だった。
気分転換に温かい物でも用意しよう。常備してある紅茶を淹れて、カップを二人の前に置いた。
「……大丈夫か?」
「ああ、ありがとう。珍しく気が利くじゃないか」
タキオンはカップに口を付けてくれた。さすがに冷静と言うべきか、それとも中等部と高等部の差か、余裕があるようだ。テイオーは放心状態のまま固まってしまっていた。
こういう時、一人で黙らせておくと思考が悪い方へばかり傾いてしまう。
「ほら、テイオーも。砂糖はいるか?」
「……なんでだろうね」
「ん?」
「カイチョーが勝って嬉しいのに、素直に喜べなかったんだ」
「……そうか。なんでだと思う?」
「負けて悔しいだけじゃない。でも、勝ちたいとも思わない。あんなカイチョーに勝ったって、なんにも嬉しくないや」
彼女は覇気ともまた違った、どこか暗い迫力をまとっていた。テイオーがルドルフに冷ややかな扱いをしている。これにはタキオンも目を剥いた。彼女の表情は好奇心ではなく、驚きや憐憫で満ちていた。
今のテイオーは相当不安定だ。対応を間違えれば突発的な行動に出かねない。慎重に言葉を選んだ。
「何かあったのか?」
「うん。あのね、前に君たちと行ったでしょ。宝塚記念」
「ああ。その時にも同じ気持ちになった、ってことでいいのか」
テイオーは頷いた。宝塚と今日の決定的な違いは勝敗だが、それは関係ないらしい。
「宝塚記念、ボクすっごく感動したんだ。あんな状態で走り切ったカイチョーはすごいな、やっぱりカイチョーがイチバンだなって」
あの時のテイオーの憔悴した表情を見れば、彼女がどれだけルドルフのことを思っているかは想像がつく。
「でも、最後の直線で抜けなかった時……なんかね、今とおんなじ気持ちになった」
ルドルフの敗北が決した時だ。ますます理解に苦しむ俺と対照的に、タキオンは顎に手を当てていた。
「あ、もっと前にもあった。三冠だったかな、連覇だったかな? 記録が掛かってた時にね、その子が負けちゃったんだ。ボクはその時は何とも思わなかったけど、周りの人はみんなボクと同じような顔してた。ねえトレーナー、これって何かな。胸の辺りがすっごくイガイガしちゃってさ、このままじゃボク、カイチョーに会いに行けないよ」
難しい。ただ観客席に蔓延しただろう空気は、恐らく落胆、失望、そんなところか。
だが、今日のレースにそんな要素があっただろうか。
「確認だが、テイオーはルドルフに負けて悔しい。それは間違いないんだよな」
「うん。勝ちたいとも思ってるよ。カイチョーってばみんなの歓声を独り占めしちゃってさ。羨ましいなーって。あれ、全部ボクの物にしたいんだ」
敗北の落胆ではない。とすれば、いったい何だろうか?
返答に窮していると、タキオンが聞き慣れた調子で言った。
「なあテイオー君。私がほんのすこーしだけ思っていたことは現実かもしれないから、君の見解を聞かせてほしい」
「なに?」
「今日の会長は……少し手を抜いていたのではないかな?」
手を抜く? あり得ない。ルドルフはいつだってウマ娘に対して本気だ。そう思う俺に反して、テイオーはパッと目を輝かせた。
「それだよそれ! なんかさっきのレース、絶対カイチョーは適当にやってた!」
「やはりか。何かおかしいと思ったんだ」
「そう、なのか? 俺の目にはルドルフは本気に見えたが」
「わかってないなぁ」
呆れたような声に、むっとして尋ね返した。テイオーはやれやれと両手を上げる仕草をした。
「カイチョーはね、いつだって本気だし、全力なんだよ。もちろんコンディションとか、状況とかにもよるけど、併走だって全力でやってくれる。10割の力で走るって意味じゃないよ?」
「うん。そういう性格だな」
「でもね、今日のカイチョー変だった! いつも通りだったんだけど、なんか、レースのこと以外を考えてるみたいな」
「レース以外?」
「走りながらも少し上の空だった! あんなのカイチョーっぽくない! もしかして体調が悪いのかな!?」
「そういった兆候は見られなかったし、仮に少しでもあればモルモット君が止めたはずだ。つまり、手を抜いていたのだろうねぇ」
二人とも半信半疑な調子だが、タキオンはぽんと手を叩いて目を丸くして、くつくつと一人で笑い始めた。地獄から這い出てきた幽鬼のような声だった。
「会長はいつだってウマ娘のことを考えている。クククッ、ハァーッハッハッハ! 私など眼中にない、ということらしい」
ぎょっとした俺たちだったが、彼女の言葉が引っ掛かった。”ウマ娘のことを考えていて、タキオンは眼中にない”。第三者が現れるとは考え難い。つまり、テイオーのためを思っていたということになる。
……なるほど、そういうことか。タキオンが怒るのも頷ける。
ルドルフは便乗してきた段階で、今回のレースをどう走るか決めていたのだろう。彼女は本気で走った。”本気で手を抜いた状態で”勝利した。手抜きだって全力だから、気迫はある。それを俺は見誤ったのだ。
親密な間柄でなければ見抜けないはずだ。テイオーはルドルフの手抜きに気づいてはいるが、なぜ手を抜かれたのかはわからないらしい。一方タキオンはほんのわずかな違和感だったが、テイオーのおかげで疑念が芽吹き、ついに彼女の意図に気づいたというわけだ。
さて、これをテイオーに伝えるか。一瞬ちらっとテイオーを見ながら尋ねた。
「タキオンはどう思う?」
「放っておくのが良いだろう。感情的に計画をぶち壊してやりたい気はあるが、私はそこまで冷酷にはなれないようだ」
なるほど。つまり、これ以上手伝う気もないらしい。彼女は目をそらし、ゆっくりと紅茶を楽しみ始めた。
うんうん唸っているテイオーに、そっと語り掛けた。
「なあ、テイオー。手を抜かれて悔しいよな」
「うん」
「気に入らないよな」
「うん」
「今日の問題点って、簡単なんだ。テイオーが手抜きのルドルフに負けるくらい弱かった。それだけが問題なんだよ」
テイオーは眉間にしわを寄せた。彼女が口を開く前に、先制して言葉を投げた。
「観客の視線を独り占めにしたい。その望みに、もう一人だけ加えよう」
「もう一人?」
「シンボリルドルフの視線を独り占めするんだ。会長を負かしてやれ。そうすれば、彼女の視線はテイオーに釘付けになる。会長が負けたままでいると思うか?」
花が咲いたような笑顔が浮かび、安堵するや否や再びテイオーの表情が陰った。
「でもボク、あの状態のカイチョーにも負けちゃったんだよ」
「大丈夫、できないことなんてないんだ」
「でも、カイチョーは絶対で」
「ウマ娘と人間の壁だって絶対だろう。俺の併走、忘れられちまったのか?」
テイオーは目を丸くした。涙こそ零していないが、少し目が潤んでいた。
タキオンが足を組みながら、ティーカップ片手に微笑んだ。
「テイオー君も実験に付き合ってくれると嬉しいんだがねえ。打倒シンボリルドルフ会長の」
ああ、まったく。この展開まで予想していたのなら、シンボリルドルフは化物だ。
「テイオー。俺とトレーナー契約を結ばないか。余裕ぶった会長を叩き起こしてやろう」
テイオーの返事はなく、代わりに目を合わせてきた。
「寝ぼけたままで勝てる相手じゃない、そう見せつける。そのために会長を負かすんだ。テイオー、君自身の走りでだ」
「おや、トレーナー君? 私は良いのかね、何もしなくて」
「何もしなくたってスイッチ入ってるだろ。もし手抜きが真実なら、歯がゆさを覚えないはずがない」
会長に全力を出させたら、どれだけのスピードが出せるのか? なぜ自分の脚ではそこに到達できないのか? 自分が追い求める物を有しながら、それを無為にされているわけだ。ルドルフの狙いにも気づいているのだろうが、それでも業腹なのは事実だろう。
タキオンは面白くなさそうに鼻を鳴らした。肯定に違いなかった。
そもそもの話、俺たちはテイオーを担当するかしないかで揉めていたはずだ。それが気づけば打倒シンボリルドルフに変わっている。元凶は誰か?
タキオンを眼中に入れなかったのも、テイオーに手抜きを見せつけたのも、そしてタキオンが負ければ俺がこう思うことも全部、ルドルフの掌の上というわけか。
だが今更引き返しはしない。
「テイオー。どうする」
「……よし! 君を無敵のテイオー様のトレーナーに任じてあげよう! 打倒カイチョーだー!」
「おう、その意気だ」
「それじゃあボク、センセンフコクに行ってくるね!」
テイオーが歯を見せて快活に笑い、豪快に飛び出して行った。
あとに残されたのは呆気にとられた俺たちと開け放たれたドアだけだ。何とも言えない雰囲気の中、タキオンが咳払いをした。
「さて、モルモット君。研究を再開しようか」
新たな目標が生まれたこの日から、俺たちの時間はだんだんと加速し始めるのだった。
この話に限らず当作品には賛否両論あると思いますので、賛の方も否の方も諸人挙って二次書いてください。よろしくお願いします。