翌日。
俺とタキオンが徹夜で洗い出した昨日の分析レポートを脇に、三人でトレーナー室に集まっていた。事務的にテイオーからトレーナー契約書へのサインをもらい、さあ始動といったところで躓いた。
「ところで君、一つ残念なお知らせがある」
「なんだいきなり。どうした?」
俺が事務用の席に、タキオンとテイオーが向かい合ってパイプ椅子に座っている。残念というが、ぱっと見では何も変化がない。おまけにタキオンはもったいぶって何も言わない。
「言い辛いことか?」
「あっ、もしかしてボクお邪魔だった? 二人だけの話がしたいなら――」
「そうではない。むしろテイオー君にいて貰わないと困るし、私たちは既に同志だろう」
「タキオン……!」
二人に絆を感じる。まあ元々知り合いだったのだから、当然といえば当然だが。
タキオンは散々渋った後、はぁと溜息をついた。
「テイオー君も脚に爆弾を抱えている」
「……爆弾だと?」
「ボクの脚、爆発するの?」
キョトンとしたテイオーと反対に、俺は心当たりがあった。タキオンがテイオーに何かと構う理由が理解できた。冷や汗が背中を伝う。
タキオンは説明を続けた。余命宣告を行う医師のような調子だった。
「自覚はないかもしれないが、テイオー君の脚はいずれ折れる。運が良ければ疲労骨折、悪ければ開放骨折だ。レース中に起きれば死の危険も伴う」
「え……?」
「なぜ今まで黙っていたんだ?」
「定期的な実験は診察も兼ねていて、問題がなかったからだよ。けどさすがにトレーニングをしてデビューしようって言うなら事情も変わってくる」
「え? え? えっ……そんな」
「今になって言った理由はわかったが、回答になってないぞ」
「……デビュー前の中学生の夢を無為に打ち砕く必要があるかね?」
ぐうの音も出ない正論だった。
タキオンは皮肉気に笑っていた。そうか、自分の夢が打ち砕かれたから、遠慮したのか。
真っ青な顔をしたテイオーに、タキオンは穏やかに告げた。
「まあ安心したまえ。走れないわけじゃあない」
「そうなの?」
「少なくとも私よりは頑丈だし、インターバルを設ければそうそう故障はしない。私の実験に協力してくれれば、いずれは常識的な範囲内での連続出走だって可能になる」
あ、悪い癖が始まった。止めようと思ったがテイオーが目を輝かせていて、できなかった。
「インターバルって、どれくらい?」
「1回出走して全力疾走したとすれば、3ヵ月はおくべきだ」
「……それじゃあ三冠できないじゃん! やだやだー!」
皐月賞と日本ダービーの間隔は長くても1ヵ月半ほどだ。菊花賞はともかく、片方を諦めないとその先の競争人生を諦めることになりかねない。リスクは回避するべきだが……。
「テイオーの脚はどれくらい悪いんだ? 俺たちの研究は活かせる類か?」
「私の研究よりもモルモット君の研究の方が役立つだろう。私は筋肉の問題だが、テイオー君は骨の問題だからねぇ」
骨か。確かに俺の方が詳しいかもしれない。何か役立つデータがないか探そうとしたところで、タキオンが動きを制した。
「まず現段階でも施せる対策がある」
「教えて!」
「テイオーステップをやめたまえ。少なくとも練習では使用禁止。あんなのを使うのはGⅠだけ、それも君の場合は三冠レースだけに限るべきだ」
「でも、それじゃ無敗が……」
みるみるうちに耳が垂れていくのは不謹慎ながら面白かった。ただ、テイオーならば脚を温存したまま無敗を貫くことは可能だと信じていた。幸い、実例は昨日見たばかりだ。
「昨日の会長を思い出せ」
ハッとした表情を浮かべたテイオーは、落ち込んでいたのが嘘のように元気を取り戻した。
「よぉーし! ボクもカイチョーみたいになるぞー!」
「それすら達成可能な実力が備わっていれば、三冠も叶うだろうねえ」
「違うよタキオーン。ボクが欲しいのは、む、は、い、の、三冠だよ!」
「わかったわかった……ああ、一応見せておこうか」
タキオンはそう言いつつ、小型の端末に昨日の映像を映し出した。ズームしてテイオーの足元を映し出す。
「抉り取られた芝生、爆発的な加速は素晴らしい。しかし凄まじい力に君の脚は耐えられないのだよ。長所が諸刃の剣になっているわけだ。私と同じだね」
「同じ?」
「私は全力で走ると身体が空中分解して死んでしまうのさ」
どこかで聞き覚えがある上にひどい表現だったが、これ以上ないほど適切な表現だった。時速70km以上で生身の人間が転倒した場合、分解といって差し支えないことになるだろう。
テイオーの顔は青ざめていた。生々しい光景を想像してしまったのだろう。
「だから私は8割の力で勝てる自信のあるレースしか出ない予定さ。他にも長距離となると走行時間が長くなり、負荷は増大するから出ない。春の天皇賞なんて論外だね」
かといって、タキオンにスプリンターとしての適性はない。本気でやればスプリンターの速度でも走れるかもしれないが、多分1回で脚が砕けるだろう。ところで、8割の力で勝つとは初めて聞いたのだが。抗議すると、昨日決めたと彼女は言った。
「GⅠクラスとなれば手を抜けないのはわかっていたが、昨日の会長を見て考えを改めたよ。圧倒的な実力差があれば余裕のままの勝利は可能さ」
「……すごい自信だな。いや、タキオンらしいよ。その方が」
「なんだか侮辱された気分だ、実験三本を所望する。だいたい昨日の敗北は君にも責任があるんだぞ」
「はあ。責任とは?」
「君、私を応援しなかっただろう! おかげで実験ができなかったじゃないか!」
「なんの?」
「声援による能力向上の可能性を確かめたかったのに!」
妙に理論的なようで感情的な可能性だ。彼女は時々、こういう風な方向に走る。俺にはよくわからない。
「そういうわけだから、これを飲みたまえ。テイオー君も」
「……えー」
「大丈夫、危険ではない」
タキオン薬は製造過程まで含めて謎と神秘に満ちている。唯一わかっているのは大抵ロクでもない結果を招き、怒るに怒れない絶妙に迷惑なラインをついてくることだ。ただ今回は我慢してもらおう。
「走る以外のテイオーの実力とか、色々とデータが欲しいんだ。トレーニング計画を作るために」
「ふむ、一理あるね」
「さっそく行こっか!」
少し焦った様子のテイオーと共にジムへ向かう。
なぜかタキオンもついてきたので、結局その日はテイオーのデータ取りに費やした。