なんだか釈然としないままライブを見て、狐につままれた気分で帰り、隙だらけのままトレーナー室で座っていた。どうも勝利で熱狂できるタイプではない。というかテイオーの勝利なら喜べたが、タキオンでは喜べない。そもそも勝つことに意味がないからだ。だというのに皆が祝ってくれる。トレーナーたるもの担当ウマ娘の勝利を喜ばないといけない。でも釈然としない。
内心を隠す努力はしたが、結局チームメンバーにも気を使われてしまった。
「モルモット君? おーい、モルモットくーん? いつまでそうしているつもりだい?」
タキオンは皆で帰る時、『これは通過点に過ぎないからねぇ。この程度では喜べないな』なんて誤魔化していた。うまいことを言ったものだと思う。伊達にのらりくらりとデビューとスカウトを躱し続けていない。
突然、口の中に筆舌に尽くしがたい苦みを感じた。飛び上がって辺りを見回す余裕もないが、何をされたのかはわかる。咄嗟に近くのコップを奪い取って、喉の奥に精神的劇薬を流し込んだ。
「……タキオン、どうした?」
「どうしたも何も、君がどうした。本当にモルモットになったかと思ったぞ」
「ああ、いや。その……ん? タキオン、顔赤いぞ。風邪か? レース後だし、念には念を入れておきたい。痛みはないらしいが、俺の方でも確認していいか」
「はっ? 薬の作用は思考を鋭敏にするはずなんだが――」
「なら効果はあるだろ、顔色の変化に気づけた。ほら、足見せろよ。あと体温も測っておいてくれ」
タキオンはさらに顔を赤くした。赤くする要素があるだろうか。そりゃあ女子高生は成人男性に触られたくないだろうが、医療的必要性があるしだいたいもう何度も触っている。マッサージしたりアイシングしたりと、今更恥ずかしがることではないはずだ。
「……どうやら本当にモルモットになってしまったらしい。それで検査だったね、任せたよ」
やけに疲れた雰囲気を出しながら、彼女はソファの上にごろんと横たわった。それから脚を触っていくと、少し驚いた。レース後だというのに、熱を持っていない。研究かトレーニングかわからないが、着実に状態は良くなってきているようだ。その後10分くらい掛けて触診を行ったが、問題はなかった。
「これが研究の成果、か?」
「それもあるが、基本的には手抜きの成果だね」
「そんなにか?」
「自分で言うのもなんだが、他のウマ娘よりも脚を敵だと思った方が良い」
今回は脚に問題はないし、精神的にもある程度持ち直しているようだ。この分ならメイクデビューの時のような休息期間はなくても大丈夫だろう。頭の中で今後の予定が組みあがる感覚に、俺もトレーナーになったものだなぁと妙な気分だった。
「どうしたんだい? 今日は随分と自分の世界に入るじゃないか」
「あっさり勝ちすぎて、実感がないんだよ。色々なことに」
「クククッ、私がトレーニングをサボっていた理由がわかっただろう?」
珍しくも少し自慢気だった。研究成果ではなく実力を誇るのは珍しい。褒めろというアピールだろうか。
「タキオンは凄いな。明日の放課後までにはこの結果を踏まえてメニューを作っておくよ」
「じゃあ朝は休みで構わないね」
「レース後だしな。ところで、出たいレースはあるか?」
しばし考えた後、彼女は無言で横に首を振った。
「じゃあ俺の要望だ。GⅠを勝った以上、もはや出走条件については考えなくて良い」
「それで?」
「次走は……というか、今後はずっとトライアルを使わずにGⅠに直行していく。それは構わないな?」
「ああ。私もその方が良いねぇ。良質なデータは良質なレースにこそある物だ。で? 君の要望は?」
今の発言を鑑みると、考えていることは同じらしい。出るのはGⅠに限る。大阪杯なんかはシニア級からという規定があり、出られない。ぱっと考え付いたのは簡単な物だった。
「脚の調子が良かった場合、良くも悪くもない場合、悪い場合の3パターンを考えてる」
「ほう。では良い方から聞こうか」
「俗に言うクラシック路線だ。クラシック級のウマ娘と走れる機会って、シニアに上がってからだと少ないだろ。秋になったら実質シニアみたいなもんだし。それにダービーに並々ならぬ思い入れのあるウマ娘もいるから、やはりデータを観測しておきたい」
タキオンはふむふむと頷いている。つかみは良好か。
俺のトレーナーとしての傾向は、素人ということだ。つまり重賞偏重だし、GⅠくらいしか知らない。もちろんトレーナーとして最低限名前くらいはわかっているが、細かいデータや経験値は絶対的に不足している。
つまり有名レースに出したいってことだ。そこなら勝った時の凄さが俺でも少しは理解できる。少し気取った言い方だが、俺はまだ勝利の味を知らないのだ。よく味わう前に飲みこんでしまった。
この話をタキオンに伝えると、意外にも食いつきが良かった。
「なるほどなるほど。確かに、”勝利”の要素は研究対象外だったよ。私としたことが重要なものを見落としていた。あの時”敗北”が重要な要素になったのだから、勝利もまたあって当然。ありがとう、モルモット君」
「そういう意図ではなかったんだがな、まあいいか」
「それで? 他には何かあるかね?」
「テイオーが次に挑むだろ、だから勉強しておきたいんだよ」
タキオンは急に機嫌が悪くなった。次にばつが悪そうな表情を浮かべ、最後には澄まして何事もなかったかのように取り繕った。
「他には?」
「……単純なことなんだがな。タキオンはある程度距離があった方が、結果的にスピードを出せるタイプだと思うんだ。それだけだよ」
タキオンは目を丸くしたが、やがて大声で笑い始めた。
「よくわかっているじゃあないか。ちなみに本調子でない場合は?」
「皐月賞に出る。状況次第でNHKマイルに出て、ダービーには出ない。回復すれば安田記念か宝塚記念、秋は状況によるとしか言えないが、菊花賞は出ないだろうな」
「なるほど、距離を短くして負担を軽減しようというわけか。でも良いのかい? 自分で言うのもどうかと思うが、私に1600メートルは忙しすぎるぞ?」
要するに”勝てないかもしれないぞ?”というわけだ。ならば俺はこう返そう。
「それがどうした。テイオーやブルボンならともかく、タキオンにとっては副産物だろ。ならたかだかGⅠ勝利に大した意味はないってわけだ。ただまあ、それだとルドルフに勝てないだろうな」
タキオンはますます笑みを深めた。いつもは不気味で怪しいが、今回に限っては純真無垢と断言しても良い笑顔だった。
「うーん、良いねぇ。ちなみに今日の勝利で君の懐には少なくとも数百万のボーナスが……」
「何を言う。どうせ祝勝会の食費で半分は消える運命だろうが」
「……否定できない自分が恐ろしい。ウマ娘の身体とは本当に神秘だねぇ! それで? 最悪の場合は?」
「レースなんか出ない! トレーニングもしない! トレーニングメニューには勉強と書いておいて、実験と研究だけやってればいい。それでも俺の給料は出るし、今日の勝利であと2年は食っていける。その時は俺も楽しく研究させてもらうさ」
「ハーッハッハ! ではその暁には君を助手に任じてあげよう!」
調子よく故障した時の話をできるのは、強いというべきか後ろ向きと言うべきか。無理して欲しくはないので、好調を保たせるべく言葉を投げた。
「俺の一押しはクラシックロードだ。そこだけは覚えておいてくれ」
「ほほう? 場合ごとの対応ではなく、希望ときたか。理由は?」
「今まで名だたるウマ娘たちが走ってきた道だ。御利益ってわけじゃないけど、なんか速く走れそうだろ?」
アホみたいな理由だが、タキオンは意外と真面目に考えてくれたらしい。顎に手を当てて唸った後、何かに気づいたように声を上げた。
「君、声援を送っただろう? あの人を舐め腐ったような」
「あったな」
「あれを聞いた瞬間に、上手く力を抜けたのさ。いやぁ元々1バ身差で止めるつもりだったのだがね、失敗して2バ身になってしまった。車はいきなり止まれないなんて言うが、ウマ娘も止まれないからねぇ。うっかり3バ身差まで広がりそうになったところだったよ」
惰性で出る速度でも全力疾走でも、程度の差はあれど脚部への負担が掛かる。余裕のレースの裏にはそんなことがあったのか。
応援の力。妙にオカルトじみているし往々にして精神論にもなりやすいが、共感はできる。俺自身もそうだったからだ。あの赤茶けたトラックの上でまばらな声援を受けた時、心の中にはウマ娘への劣等感以外の物があった。
「経験でしかないから、あれなんだが」
「いいからいいから」
「他人の声による実力の増大は実在する。あと確実なことが1個だけある。気分が良いってことだ」
「ほほう。実にしょうもないが、一理はある」
しょうもない……。
しかし間違ったことは言ってないはずだ。関係ない人からの声援でも効果はあるし、親しい人間からの声援には精神的な高揚が期待できる。
「私は有象無象の観客やらファンとやらに興味はないが、声援の力。これは私の目標に活かせるかい? モルモット君」
「そりゃもう、気分が良いに越したことはないだろ」
「では次もよろしく頼むよ、モルモット君! 次の実験場は皐月賞、そして日本ダービーだ! 未知なるデータが待っている!」
……ああ、歓声が多いレース、注目度の高いレースに出たい、つまりクラシックということか。俺としては願ったりかなったりだ。賞金も高いしスピードが出しやすい。
タキオンを寮に返したあと、パソコンを起動し今日のレース映像を流し始めた。