トレセン学園の冬休みは長い。帰省する生徒が多いからだ。つまり、退院早々必死になってメニューを作る必要性は皆無、正月三が日を無駄にした。初詣にでも行けばよかった……と思ったが、よく考えたら神社なんて地獄だろう。人混みもそうだし、階段を上りたくない。結局、研究に戻ることにした。
脚を治す研究を始めても、終わるころには完治しているだろう。だからそもそも壊れないように強化する研究をすることにした。それに、文字通りの怪我の功名だが「速すぎて脚がぶっ壊れた」データは、タキオン、テイオー、フジなどの脚に爆弾を抱えた人にとって値千金のはずだ。特に、データを寄越せと喚く高校生の幼児に心当たりがある。
かくして研究漬けの日々を送っていたのだが――その平穏はいきなり破られた。ウマ娘が訪ねてきたのである。トレーナーがウマ娘寮に入ることは禁止だが、その逆は許可されている。そうでなければスズカが荷物を取ることだって不可能だった。問題はインターホンが鳴らされて、俺が出る前に鍵が開いたことだった。
「あの……すみません……」
スズカだった。栗毛で緑色の耳飾りをしたスズカだった。走るの大好きで天然のスズカだ。余計に意味がわからなかった。なんで入れる? 鍵は掛けていたし、実際『カチャン』という鍵が外れる音が今しがた響いた。当たり前だが、あの時預けた鍵は返してもらっている。
彼女は黙ってこちらを見つめていた。何を考えているのか、エメラルドのような瞳からは読み取れない。ウマ娘相手に、片足を怪我した俺では敵うはずもない。強盗に接するように注意深く、慎重に言葉を掛けた。
「……要件は?」
「いえ、その。特には、ないのですが」
彼女は困ったように俯いてしまった。困るのは俺だ。
何から言えば良いものか迷いながらも、とりあえず順当な問いを投げた。
「どうやって入った? 鍵壊れてたか?」
「え? いえ。合鍵を……」
「すまんが記憶にない。俺が渡したか? それとも入院した時のか?」
「あ、はい。トレーナーさんが入院した時、合鍵を作っておけばいつでも会えるし、トレーナーさんの手を煩わせることもないと思ったんです。玄関まで出るのは大変だと思いますし」
そりゃ大変だが、だいぶ斜め上の解決法だ。
「その、ご迷惑でしたか?」
迷惑というか、困惑している。
スズカは盗みを働くような子ではない。彼女が合鍵を持っていて起こる不都合は俺のプライバシーが消し飛ぶだけだ。スズカの耳が完全にへたっている。勝手に合鍵を作ったことは後で注意するとして、まずは理由を確かめる方が先か。
「まあ、とりあえず座ってくれ」
「トレーナーさんの方こそ座っていてください。飲み物を用意しますから」
「悪いな。キッチンはそっちにあるから、適当に使って良いよ」
ありがたい提案だった。いちいち杖を使って立ち上がるのは手間だ。
数分後、マグカップ片手に机を挟んで向かい合って座っていた。そしてマグカップで乾杯した。コーヒーの苦みが染み渡る。苦いのは味だけだろうか、それとも現実だろうか?
なんでスズカはこんなに落ち着いているのだろうか。俺はそれなりに緊張しているのに。一向に話す気配がないので、諦めてこちらから触れることにした。
「で、何の用だ?」
「本当に理由はないんですけど、強いて言うなら……笑わないでくださいね?」
「ああ、善処はする」
「……スペちゃん、あっ、同室の子なんですけど」
「うん。知ってるよ。スズカが話してくれたからね」
「実家に帰っちゃってて、部屋で1人なんです」
「そうなんだ」
スズカは困ったように薄く微笑んだ。何かまずいことでも言っただろうか。ただの相槌を打ったはずなんだが。
「以上です」
ん? 何か聞き漏らしたかな?
「え、本当に? 終わり? そんだけ?」
「はい」
「それを素直に聞くとさ、部屋で1人なのが嫌だから来たって言ってるように聞こえるんだけど」
「はい」
「……それ、相槌だよな? まさか肯定ってことでいいの?」
彼女は頷いた。
どうしよう。赤ちゃんか何かか? 彼女は極度の寂しがり屋なのかもしれない。いやでも、それで男の部屋に来ようってのはおかしい。普通同じ寮の、それでなくてもウマ娘の別の子の部屋に――あ、まさか友達がいないんじゃ。スズカならあり得る。確かめるように尋ねた。
「他の子の部屋にはいかないのか?」
「フクキタルは神社1000か所お参りするまで帰ってこないそうです。エアグルーヴは何か忙しそうですし」
良かった、友達はいるようだ。
話に上らなかったテイオーは恐らく会長を追いかけまわしているし、フジキセキは寮長の仕事で忙しいはず。確かに暇なのは俺だけか。
「……今後は黙って他人の鍵を複製しないように」
「はい。えっと、この鍵は――」
「いいよ持ってて。確かに、毎回玄関まで迎えに行くのもしんどいからな」
「ありがとうございます」
「で、1人が嫌らしいけど。何かしてほしいこととかはあるのか?」
「いえ、特には。そこにいてくだされば」
スズカは虚空を見つめていた。何を考えているのか、非常にぼーっとしていた。ぼんやりという単語を埋め込まれたみたいだった。もう少し有意義なことをさせた方が、トレーナーとしても人としても正しいのではなかろうか。
何か遊べる物は――あ、そうだ。
「トランプがあの引き出しに入ってる。どうせだし俺の暇つぶしに付き合ってくれ」
「それなら……神経衰弱とか、どうでしょう?」
「やろうか」
スズカはそれなりに強かった。が、俺も弱いわけではない。昼時まで10回やったのだが、スズカは闘争心が長続きしないらしい。まずスズカが勝ち、油断したところで俺が勝つ。次は燃え上がったスズカが勝つ。これを繰り返し、最後だけスズカが2連勝した。
「ふふ……ありがとうございました。お昼、どうしましょうか」
「ああ。ただ外出るのが面倒だから、俺は適当に出前でも頼むよ。スズカはどうする? 食べるならついでに奢ろう」
「良いんですか?」
「ああ。今の俺は景気が良いからな」
「ありがとうございます、トレーナーさん」
食器を片付けるのも面倒だし、ピザにした。俺の分と、スズカにはにんじんピザだ。繁盛しているようで、届くまでは1時間ほどかかる。また暇になってしまった。
「……ポーカーでもやろうか」
「ぜひ」
スズカはぼんやりした表情から変わらないから強敵かと思ったのだが、こういうゲームは向いていないようだ。何かあれば表情に結構出るし、それ以上に耳と尻尾がものすごい勢いで動く。数戦で切り上げて、また神経衰弱だけやっていた。そしていよいよ……。
「飽きたな」
「そう、ですね?」
困ったように微笑んだまま、生地に、ソースに、トッピングにありとあらゆる部分にニンジンが使われた狂気の産物をスズカが食べている。話したいこともないし、どうしたものかな。
「トレーナーさん。無理して話さなくて大丈夫ですよ」
「……わかった。ちなみに、メニューはこなしたか? というか、スズカは走るのが好きなんだろ。コース使用許可なら出すけど」
「あ、いえ……少しは間隔をあけて走ろうかな、と。実は元旦からずっと走っていたので」
気遣わしげな視線だった。なるほど、俺の怪我が効いたらしい。スズカに許可は出していないが、まあ書類を提出する物でもないからな。口裏を合わせてしまえば良いだけか。
話さなくても良いとは言われたが、流石に暇だろう。何かないかと考え、妙案を思いついた。
「ちょっと、こっちに来てくれないか?」
閉じていたノートPCを開きつつ、スズカを呼び寄せトレーニングメニューを見せた。
「どう思う? まず、自分のを確認して欲しい」
「そうですね……」
スズカはマウスを取って真剣に読んでいくが、途中から少し顔を顰めた。5分ほどして全部読み終えると、一つ息をついた。
「何でも言ってくれ」
「走りの練習が少ないのと……休みが多すぎませんか?」
「もっと走りたいか。普通のウマ娘はそうなのかもな。わかった、調整しよう」
ベースがタキオンだから生まれてしまった認識の齟齬だろう。
スズカもブルボンも、健康上の不安はない。であれば、可能な限り厳しくトレーニングをした方が良いのだろう。そうすれば勝ちやすくなるし、速く走れる。
「ちょっと時間を貰うぞ」
「はい。その間に、他のも読んでしまいますね」
このチームには他にはない強みがある。俺とタキオンの技術だ。何か活かせないだろうか?
しばらくアイデアを出そうと頭を捻っていると、妙案が思いついた。俺には難しいが、タキオンなら可能かもしれない。
それから日が暮れるまで、スズカとトレーニングやレースについて話し合うのだった。
スズカメインの話が続いているのは、スズカの誕生日が5月1日だからです。