チームの間に妙な意識のズレを感じながらも、それを修正できないまま数か月が過ぎた。この数か月、僅かに管理派に寄せたトレーニングを行っていた。それでもトレーニングメニューに則り行っているだけの、非常に緩いやり方だった。
しかし2月14日のスズカの調子は、決して良いとは言えなかった。風邪や体調不良ではなく、何か思い悩んでいるらしい。原因も薄々わかってはいたが、どうにもできない類の物だった。だから2人きりの控室で黙ってスズカを眺めていた。
ふと目が合い、やけに重い口を動かした。
「スズカ、大丈夫か?」
「最初に前に出て、走って、でもスタミナのことも考えて――」
「そうだ。本当に好き放題走ると、終盤間違いなく息切れする。最初から最後までラストスパートなんて不可能だ」
理論上はそうなっている。子供でもわかる簡単な話だが、スズカには難しい話だった。
どこで息を入れれば良いかで悩む。そもそも休むという思考がないので、忘れないように覚えておくだけで精一杯。
かといって、作戦なしというのは無謀が過ぎる。
普通、ウマ娘は作戦を立てる。脚質、距離、面子、バ場、展開。あげればきりのない状況に合わせ、どう走るか算段を立てる。
もちろん作戦内容は千差万別だが、本当に作戦のないウマ娘なんて余程のアホかド素人に違いない。
「うーん……」
しかしスズカに作戦はない。スタイルは大逃げとすらいえない何か、最初から最後まで元気よく走るだけ。気持ちよく走ること以外考えていない。勝利とか勝負に興味が薄く、勝負勘もない。こんな状況で、いったい俺はどうするのが正解だったのだろう?
「トレーナーさん、私……いえ、やっぱり。ごめんなさい」
「いや、こちらこそ何かすまん」
どんな意味の謝罪だろう。悪いことなんてしてないのに。だとすればこの気持ちはどう説明すれば良いのか。
物憂げな彼女を見ていると、生暖かい罪悪感が背筋から上って来るようだった。今からでも何も考えずに走れというべきだろうか。しかし、一度試してからでも良いのではないか。
ノックの音に押し出され、スズカが跳ねた。
「あのっ、トレーナーさん」
その先を言う必要はない。彼女を手で制し、唾を飲みこんだ。代わりに吐き出したのは無責任だった。
「好きに走れ。選手は君だ」
一瞬だけ嬉しそうな笑顔が浮かんだ。次に物憂げな表情を浮かべ、いつも以上に消え入りそうな声で言った。
「……はい。行ってきます」
「ただ、どんな場合でも約束だ。無理だけはするな」
いってらっしゃい、がこんなに空虚だとは思わなかった。
わからない。サイレンススズカというウマ娘の才能は、いったいどれほどの物だろう。レースには勝てる、そこまではわかる。その先――その輝きは、GⅠにも届くのだろうか。
バレンタインステークスは芝1800メートル、東京レース場左回りのレースだ。
近場の開催だけあって、チームは全員応援に来ていた。今は和気藹々とタキオンの謎装置を組み立てている。
俺が顔を出すと、レース場の喧騒に負けないくらいの声でテイオーが言った。
「遅いよトレーナー! ねね、スズカどうだった!?」
「あまり良くないかもしれん。ただ体調が悪いわけではなさそうだ」
「そっか……」
テイオーは明らかに落ち込んでいる。俺の表情からも何かを掴んだに違いない。しかしテイオーは俺を責めはせず、黙ったまま芝を眺め始めた。
微妙な雰囲気を打ち消すように、無遠慮な声が響いた。
「まったく、君たちはいったい何をしているんだね。テイオー君には頼んでおいた物があるだろう。終わったのかね?」
「え? あ、うん。終わったけど?」
「ありがとう。さあモルモット君、さっさと観察の準備に入り給え。頭痛でデータが手に入るのだから良いじゃあないか」
「……わかった」
「分析完了。マスターのメンタルの異常を検知。大丈夫ですか、マスター」
そりゃそうだ。何を言うべきか迷っていると、フジがブルボンの肩に手を置いた。
「誰だってそうだよ。だから大丈夫さ、ポニーちゃん」
「ポニーとは何でしょうか。データの提供を求めます」
「あー、えっとねー、あはは」
フジが回答に窮しながらポニーとやらの説明をしている。確かに、実際ポニーが何かと言われると俺も説明できない。ただ何となく理解した。俺は気を使われているようだ。
手を叩く音が聞こえ、ようやく気持ちを切り替えた。
「はーやーくー」
「わかった。機材の準備だよな。悪いが皆も手伝ってくれ」
「了解」
「ブルボンはパドック映像を確認して。あと、今度から機械に触る系の頼みは聞かなくていいから」
「オーダー変更を受理」
チームを設立したメリットとして、広い関係者席が使えるようになった。おかげで以前より多くの測定機械を持ち込めているし、チェックも緩いからレース妨害以外はやりたい放題だ。おかげで訳の分からない上に嵩張るしそこまで有益なデータが取れるわけでもない物に席を占領されていた。
もちろん、この状況を黙っているテイオーではない。
「ねータキオン、これ本当にいるの?」
「3分の1はいらないな」
「えぇー? じゃー2の方だけ持ってきてよぉ。なんでこんなに持ってくるんだよぉー」
「何が必要かを確かめるために今日持ってきたのさ。まぁそう怒らないでくれよ」
テイオーは頬を膨らませたが、それ以上は何も言わなかった。黙々と準備を進めていくうちに、少しだけ気分が晴れた気がした。
『さあ、いよいよ本日のメインレースが近づいて参りました。本日のメインはバレンタインステークス。12人の出走ウマ娘中、現在の1番人気は12番サイレンススズカ。少し顔色が悪いようにも見えますがどうでしょう?』
『トレーナーの許可がある以上問題はないのでしょうが、ちょっと不安が残りますね。無理をしすぎなければ良いのですが』
本来、無理をするレースではない。強豪ウマ娘は不在の中で、一番マシな戦績なのがスズカだ。それが1番人気に繋がったのだろう。トレーニングの様子からしても、実力を発揮できればスズカにとっては鎧袖一触となる。
不安なのは精神状態だ。ウマ娘も人間と同様、精神的な問題への耐性は人によって大きく違う。レースとあらば即切り替えられるウマ娘もいるし、そもそも傷つかないウマ娘もいる。引き摺ってしまうウマ娘だって、当然いるわけだ。
『ゲートに入って……おぉっとサイレンススズカ、少し気乗りしない様子です。係員の誘導を受けて……態勢整いました』
とにかく無事で。それだけを祈った。
『スタートです! 大きな出遅れはありません』
枠入りは拒んだとはいえ、スズカは元々ゲート嫌いではない。出だしでしくじることはなかった。
『大外から一気に12番サイレンススズカが前に出ます。これはどうでしょう』
『掛かってはいないようですね。逃げは彼女の脚質にあっているのでしょうか?』
『その後ろは……いや、サイレンススズカこれは逃げじゃない! 大逃げ! 12番サイレンススズカ大逃げです!』
ここまでは作戦通りだ。どうせ自滅するから脚を溜める。そう思わせればこちらの勝ちだ。勝手に諦めてくれても良い。
俺が今まで教えてきた作戦は、一言で言うと”逃げて差す”だ。スピードとスタミナ、才能のゴリ押しと言い換えても過言ではない。ただし現状のスズカでは”逃げる”までしか考えられない。差す余力を残した逃げができないのだ。
そして現状のスズカの逃げは、差す余力なんて考えちゃいない走りだった。
「そうか。やっぱり、そっちを選んだか」
「スズカを信じよう、トレーナー」
「……そうだな。俺が1番に信じないといけないもんな。悪い、フジ」
「まだ1年目でしょ、そう思えるだけマシさ」
先輩風を吹かせているんだか、励ましているのやら。
”逃げて差す”のは簡単にできることじゃない。実現のため、最初は10割、あとは全部8~9割の力で走るように指示を出した。差しの逆と言っても良いかもしれない。
『800を通過して先頭は依然サイレンススズカ。これはとんでもないペースだ! 果たしてこのペースはどうでしょうか!』
『掛かっているようには見えませんが、良いペースなのでしょうか? 終盤に脚を使えるかが勝負所ですね』
その通り。今まで通りのスズカだと、終盤には力尽きている。きっと今回のレースでも、このままだと急激に失速する。逃げて差すためには、途中で息を入れる他に道はない。
しかしタイミングを誤ればリードを全部失うリスクがある。俺はそれを選べなかった。彼女は選んだか、何も考えていない。そのどちらを選ぶのか――結果が見えたのは、1000メートルを超えた辺りだった。
「見たまえ、モルモット君」
差し出された計器には、明らかなスズカのペースダウンが表示されていた。再び顔を上げると、追いつかれる様子はまったくなかった。彼女と他のウマ娘の間では、あまりにも速度が違い過ぎた。
「……俺は才能を信じ切れなかったみたいだな」
「そのようだねぇ。ま、これはスズカ君の勝負勘が良かったのもあるだろう。君の懸念は間違いではないからねぇ」
スズカが4コーナーを曲がっていった。呼吸に乱れはない。
『サイレンススズカ先頭! 残り400! 逃げきるのかしかしこのペースで持つのか!? 他のウマ娘も一気に上がって来る! 2番猛烈な追い上げ! 1番5番も突っ込んで来るぞ! 坂だ! ここが勝負所残り200!』
一瞬だけ、彼女と目が合った。実際はそんなことはないのかもしれないが、俺は何かを理解した。彼女は物凄い速度で走りながら――
「ごめんなさい」
と、言っていた。存在しない謝罪は俺の脳裏に深く突き刺さり、ついに俺は心の底から過ちを認めた。
彼女にトレーナーなど必要ないのだ。
『サイレンススズカ落ちない! ペースが落ちない! 2番手争い――の前にサイレンススズカ楽勝でゴール! 2番手は4バ身離れて……』
聞く必要はないだろう。
4バ身差の勝利は、圧勝と言っても過言ではないはずだ。それでもターフの上で手を振るスズカは、勝者の顔をしていなかった。社交辞令的な笑みしかない。少なくとも気持ちよく走った後の顔じゃない。
チームでも形だけ喜んではいる物の、少し空回りしている。
不完全燃焼。本来のスズカなら大差で勝てたはずだ。6バ身ロスしたと思えば、喜べるはずもない。
謝らないといけない気がした。何も悪事を働いていないが、強いて言えば無能なことが罪なのだろう。ここはそんな世界なのだ。
「悪かった」
誰かに言ったわけじゃなく、ほんのわずかに呟いただけだ。聞かれるとは思っていなかった。ただ偶然耳に入ったのだろう。テイオーは無言で寄ってきて、いつになく真剣な表情をしていた。
「元気出してよ、トレーナー」
「別に。気にするなよ」
「そう? ボクもあんな風に勝っちゃうからさ、今のうちに慣れて貰わなきゃ困るんだよねー」
ニシシ、と笑うテイオーには覇気すら感じた。
誰もがスズカのような才能を持っているわけじゃない。だがこのチームに才能のないウマ娘はいない。その重みと異常性を、この上ないほどに理解させられるレースだった。
個人的事情と内容に納得がいかず筆が進まない二重苦で、しばらく離れていました。
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