レース後何処へ行ったか、突き止めるのは容易い。実験をした後はまとめる、それが我々の生態なのだから。
いつぞやに連れていかれた空き教室のラボに向かい、ノックする。
「開いているよ」
予想済み、と言いたげな落ち着いた声だった。その瞬間、何かが繋がった気がした。
「入るぞ」
タキオンは座って紅茶を飲んでいた。促されるまま、彼女の対面の椅子に座る。
本題に入ろうかと思ったが、忘れてしまう前にもう一つの要件を話すことにした。
「なぜ、今になって選抜レースに出た?」
「実験だとも。本気の会長を間近に観察したかっただけだよ。それが何か?」
「いいや。それは本題じゃないはずだ」
「なぜ?」
「会長と走るのが目的なら、選抜レースである必要はないだろう?」
ならば選抜レースにしたのは、会長の側だ。会長には”選抜レースである”必要があったのだろう。だからこそ、あんな権力の濫用じみた行動に出た。タキオンを走る気にさせつつ、自分の願望も叶えてみせた。
「なぜ、会長は君とのレースを”選抜レース”にしたがったのか。教えてくれないか」
「……ふぅン。知的欲求に突き動かされる人間は好ましいが――それを伝えるのは今じゃあないな」
「なんだと?」
「君、他に聞きたいことは?」
是が非でも答えるつもりはないらしい。一旦後回しにしよう。
「ならもう一つ。いや、二つかな。あのレース、本気で走ったか?」
「もちろん。無駄に手を抜くほど無意味なことはない」
「……じゃあ”全力で”走ったか?」
タキオンは顔を顰めつつも、少し嬉しそうに笑ってみせた。
「クククッ。良く捉えきれたね? 君がここに来た時間からして、カメラで確認する時間はなかったはずだ」
「こっちは薬で強化してるからな」
「ほほう! 素晴らしい。やはり君の研究は私にとって必要不可欠だ!」
興奮した調子で彼女は捲し立てたが、糸が切れたようにふぅと息をついた。
「いかにも、全力は出していない。より正確な表現をすれば、一瞬だけだ」
「なぜだ?」
「時期じゃない。しかし意義のあることだったことは明言しておこう。私にはそうする他に選択肢がなかったのだよ」
……嘘はないな。研究上の都合か何だったかはわからないが、意図があってなら仕方ない。
もし無駄に速度を落としているのなら、信用できないところだった。しかし事情があるなら別だ。
ウマ娘の可能性の果て――つまり速さを追求するその志、確かな物と見て良いだろう。ならば目的は達成だ。何を考えているかわからない者と共に研究する趣味はないから、それを改めに来ただけだ。
帰りを伝えようとしたタイミングで、見計らったようにタキオンの方が口を開いた。
「さて、合格だ。モルモット君」
「合格?」
「あぁ。君は私のトレーナーになるだけの価値がある」
……ウマ娘の側がトレーナーを試していたらしい。まあ、そういうこともあるだろう。
ただ、担当と言われても困ってしまう。俺は全力を出さなかった理由が知りたかっただけなのだ。別に担当させてくれ、と申し出に来たわけではない。
「それはどうも。で、どうしたんだ」
「で? って……え?」
タキオンは明らかに狼狽したというか、驚いた表情を浮かべていた。しかしすぐに余裕たっぷりの表情に戻ったが、額に若干の汗が浮かんでいるのが見えてしまった。
「君。私をからかってるつもりかい? 君は何のためにこの部屋に来たのか。もう一度思い出してみるべきだ」
「何故全力で走らなかったのかを聞きに来ただけだが……」
彼女は何も言わなくなった。心なしか手が震えている。
「大丈夫か?」
「……君は」
声が震えていた。
俺は堪らず居住まいを正した。
「私をスカウトしに来たわけじゃ、ないのか……?」
違うと言うのは簡単だ。しかしあまりに不憫な彼女のことを思うと、時としてちょっとくらい事実を捻じ曲げたほうが良いんじゃないかと思った。その一方で、現実を突きつけるのが研究者として正しい態度なのではないかとも考えた。
タキオンは震えている。冗談だろ? とでも言いたげな余裕には、似つかわしくない汗が流れていた。
迷ったら理性に。それが研究者だ。きっと彼女だってわかってくれる。
子供に言い聞かせるように、穏やかに、それでいて事実とわかるよう力強く言った。
「違う。違うんだよ、タキオン。俺は、君をスカウトしに来たわけじゃないんだよ」
「……。そうか、ハッハッハ」
覇気がない。空虚な高笑いだった。
「ハッハッハッハッハッ……ハハハ。はぁ」
アグネスタキオンの調子が下がった。今にも死にそうだ。
「そうか。そんな奴なんだな、君は。会長、私を騙したんだな」
「会長? どうしたんだ?」
彼女は俯いたまま震えていた。目頭が若干輝いているように見えたのは勘違いだろうか。勘違いであってくれ。
「タキオン?」
「ククッ、クックック。ハーッハッハハハ! ハーッハッハ! この気持ちで走れば、さらなる可能性の扉を開けそうだよ!」
後半はドスの利いた声だった。陶酔したような威圧感の残る声で彼女は言った。
「君には責任を取ってもらおう」
「は、はあ」
「私はトレーナーを早急に見つけなくては退学せざるを得ない状況だ。その上実験に必要な道具が足りていない。この二つを一挙に解決する秘策がある」
「それは?」
「君をモルモット兼トレーナー兼助手にすることだ」
「……というかおい、退学?」
「そうだとも。実は今日の選抜レースに出ないと退学になるところだったらしい。会長に引っ張り出されてね」
「なんでそんな状況に」
「時間は有限なのだよ。今まで私を担当したいと言ってきたトレーナー諸君の提案には無駄が多く、それに付き合っては研究に支障が出る。しかし君ならば研究の重要性は理解できる。故に、干渉などしないだろう?」
そりゃそうだ。何せド素人だからな。
「そして……私を応援しただろう。あの時」
「ああ」
「その時、ほんの少しだけだが――なんだか加速した気がしたのさ。しかし一度だけでは確実とは言えない。さらなる検証が必要、というわけだ。さあトレーナー契約を結ぼうじゃないか」
「いやまあわからなくもないが」
「それとも君は、私が退学処分になっても良いと? あるいは、誰とも知れぬトレーナーと契約し、満足に研究もできない環境に私を追いやっても良いということかな?」
理論的に情に訴えられた。早口気味なのは恥ずかしいからか。
まあ、名義貸しだと思えば良いか。ウマ娘の速度の可能性、興味がないと言えば嘘になる。そのためには彼女の研究を続けさせること、支援することが必須。
「良いだろう。”ウマ娘の可能性の果て”、見てみたい気持ちは俺にもある。スピードを追い求めた者として、君には共感できるからな」
「クククッ、素晴らしい。では早速だが、この薬を飲んでみてくれ。なぁーに最終試験のようなものだ」
いつぞやに見た青白い液体だった。相変わらず光っている。
「……死にはしないよな?」
「安全ではあるとも。ちょっとばかり愉快なことにはなるかもしれないが」
「ウマ娘の可能性に繋がるんだよな?」
「もちろん。無意味な実験などする暇はない」
覚悟を決めて飲み干すべく、試験管を手に取った。一気に煽ると、喉が焼けるような刺激を感じた。ただ危険な感じではない。アルコール度数の高い酒と炭酸を同時に口に流し込んだような感覚だった。当然、不味い。むせそうになるのをどうにか堪え、飲み込んだ。
「……で、この薬の効果は?」
「気分は? 身体に変化は? ちょっと立ち上がって動いてみてくれたまえ」
言われた通りにするが、何も変化を感じない。
「何も。死ぬほど不味いだけだが」
「フム。そうかそうか……つまり、この実験は」
「おい」
「失敗ということだな! ハーッハッハ!」
かくして、アグネスタキオンのトレーナーをすることになった。