そういうわけで、タキオンのトレーナーになったのだが。彼女が普通のトレーナーを求めているかと言えば、否だろう。かといって完全な職務放棄も多分文句を言われる。タキオンにではなく、会長か理事長に。解雇だけは避けなくてはならない。
そこで、俺は助っ人のトレーナー室に訪れていた。ノックすると返事が返ってきて、戸を開く。
「あれ、鶴城トレーナー?」
「すまないが、折り入って頼みがある。大至急、俺にトレーナーとしてのイロハを教えてほしい」
「あれ? あ、いえ、それは構いませんけど。今年一年は教官として経験を積むから、って」
「そのつもりだったんだが、のっぴきならない事情で担当ウマ娘ができた」
「え?」
「そいつの名前はアグネスタキオンという。一人でも勝手に走って行きそうだが、最低限の仕事はしないとな」
桐生院トレーナーは動かなくなった。一分ほど待つと解凍されて、金魚のように口をパクパクさせた。
「超光速の粒子の?」
「そう」
「そ、そんな人を担当するトレーナーに、そんな畏れ多いと言うか」
「全距離走れるハッピーミークだって大概だろう」
「でも」
「教えてください」
桐生院は折れた。そして一度遠慮がなくなってからは、凄まじかった。
ひたすらトレーナーとしての責務、素晴らしさ、そして何をするのかを語り続けるbotになっていた。質問すらできなかったが、一人でヒートアップして勝手に答えていったので問題はない。
そして夜になり、朝になった。
窓から差し込んだ光に照らされたところで、ようやく桐生院は我に返った。
「……朝、ですね」
「そうですね」
何か違う人とやり取りしていた気がしたが、多分寝惚けているのだろう。
「えっと、熱を入れ過ぎてしまいました。ごめんなさい」
「いや、頼んだのは俺の方だから。むしろこんな時間まで付き合わせて申し訳ない。ありがとう」
徹夜明けの頭を下げつつ退室した。何時間話していたんだろう。多分12時間以上だ。薬の副作用もあって、今にも倒れそうな気分だった。
吐き気を堪えつつトレーナー室へ向かった。勤務時間中に自室で寝るのは体裁が悪すぎる。せめてトレーナー室で寝よう。仕事に集中しすぎてついうっかり眠ってしまった風を装うんだ。
と、思っていたのだが。
「トレーナー君。何をしていたんだい? 崇高なる研究を放棄して」
タキオンが同時にトレーナー室に現れた。手には黄緑色に発光する液体入りの試験管。実験がしたいのだろう。
「悪いが、今は疲れてるんだ」
「そうかいそうかい。ちなみに何を?」
「トレーナーとしてのあれこれを聞いていた。さすがに知識不足が過ぎるからな」
「なんだそれ。はー……君に一般的なトレーナーとしての役割なんて求めていないというのに、まったく」
タキオンは試験管を白衣についているホルダーに差し込んだ。
「良いだろう。実験は後回しにする」
「ありがとう」
「何。良い夢を見られることを祈っているよ」
タキオンは笑顔を浮かべたまま退室した。
トレーナー室に置かれたソファーの上に横たわると、すぐに意識が呑まれていく感覚を覚えた。眠りに落ちる直前に再びドアが開いた気がしたが、多分気のせいだろうと思った。
目覚めると口の中から凄まじい味がした。微睡みを打ち破るには十分すぎるほどの刺激だった。
「何だ!?」
「無論、実験さ。おっと動かないでくれよ? 結果が狂ってしまうからねえ」
何をするという苦情と、実験なら仕方ないという感情がぶつかって、最終的に少し待つことになった。数分後、実験が完了したところで声を掛けた。
「タキオン」
「なんだい?」
「もうこういうことはするな」
「おいおい、君はトレーナーだろう? ウマ娘のサポートをするのが君の職務のはずだ」
「契約解除は実績を残せなかった場合だけじゃない」
「……ほう?」
「完全に付き合わないわけじゃないんだ、そこは安心していい。俺はトレーニングメニューを組むから、少し待っててくれ」
「トレーニングメニュー?」
タキオンは不思議そうな表情を浮かべた。
「君にできるのかい? 習ったとはいっても、一夜漬けみたいなものだろう。実際の学習としては非常に効率が悪く――」
「元々俺はランナーだぞ。それに本とかじゃなく、桐生院トレーナーに習ったんだ」
「桐生院……?」
「同期だよ。まあそれはどうでもいい」
彼女は本当に事の重大性がわかっているのだろうか。いや、わからないような奴じゃない。ただ研究最優先で、他のことに無頓着なだけだ。
今更言う必要もないくらい当たり前のことなのだが、念のために確認するような口ぶりで言った。
「重要なことを言うぞ。いずれにせよタキオンはデビューしないといけないわけだ」
「私はその必要性を感じていないが――わかったわかった、そう睨まないでくれよ。デビューくらいはする」
「それはよかった。まず、今は4月後半。その上で、デビュー登録は5月後半に――まあ、これは俺がやっておく。6月後半にメイクデビューだ」
「つまり、2か月で仕上げないといけないと言う訳だね。なんとも無謀な話じゃないか。来年のデビューにしないかい?」
「一応考えはした。クラシック級でのメイクデビューは可能っちゃあ可能だが……皐月もダービーも出られないし、菊花も出走条件を満たせるか怪しい。GⅠレースで経験を積み、強いウマ娘と競い合うことは成長に必要不可欠だ。違うか?」
タキオンは不満そうに眉を寄せたが、反論はなかった。
話がまとまったことに安堵していると、タキオンは不満げに腕を組んだ。
「しかしプランAの進捗状況は芳しくない。ジュニア級でのメイクデビューの代価として、最大限の実験への協力を求めよう」
「で、プランAは何だ?」
聞くだけ無駄だろうと思ったが、やはり彼女は黙って首を横に振るだけだった。
やけに頑なな様子を見て、彼女にも何か退けない理由があることを悟った。彼女も何だかんだ言ってまだ学生、秘め事の一つ二つはある、か。
「わかった、実験には協力しよう。ただ不意打ちはやめてくれよ」
「……良いだろう。もちろん録音させてもらったから、そのつもりで。あと君の要望は覚えておくが、クラシック路線の確約はできない。そこはよろしく頼むよ」
「構わない。まだ先のことだからな。それで、練習については――」
「私にも準備がある。本格的なトレーニング開始は明日からだ。構わないね?」
「俺もメニューを決めるからな。それでいい」
解散の流れだろうと思い、俺は立ち上がってデスクに歩こうとした。しかし、腕を掴まれたので振り返った。
「どうした? タキオン」
「実験に付き合ってもらうよ、トレーナー君。ひとまずラボまで来てくれたまえ」
「……午前中だけだぞ」
「まあいいだろう。では行こうか」
その後、約束は反故にされて夕食の時間帯まで拘束されるのだった。
ほどほどに設定にリアル競馬が混じったりアプリが混じったりアニメが混じったりします。許してください。私にはわからないんです。トウカイテイオー(1988年生)が中等部でアグネスタキオン(1998年生)が高等部だったりする世界なんだ……!