エンディング
作業机の前で、金塚博はだらーんとしていた。
12月31日を以て、金塚は束の間の仕事納めを掴み取っていた。
漫画の原稿も編集に送り届けたし、この間にもアイデアは湧いてくるし、それらをすかさずメモにまとめて――金塚はへらりと笑ってしまう。自分はやっぱり、ギャグ漫画家なんだなあと。
実家兼作業室で、金塚はうんと背筋を伸ばす。
週刊連載とは常に常に本気を強いられるものだから、気の抜き方を忘れてしまいがちだ。
そんなふうに生きてきたからこそ、デビューして数年も食っていけているのかも。
まあ健康的なメシを食って、最低七時間は寝るけどね。「あの人」の笑顔を曇らせるのは死刑モノだし。
時計を見る。時刻は午後九時。
椅子の背もたれに身を預け、あえて両手をだらりとぶら下げる。漫画脳はいったんお休みにしておいて、あの人のことばかりをぼんやりと考え始めた。
――あの人は、今も忙しくやっているんだろうか。
生徒会長としての任を全うしてから、あの人はめきめきと出世街道を突き進んでいった。
先ずは有名大学に通い、次に日本戦車道連盟に就いては「戦車道のおもしろさたのしさ」という実話系ドキュメントPVを作成した。厳しさだけでなく、笑い話や恋バナが差し込まれたPVは学生の間であっというまに広がっていき、みごと戦車道の普及率を増加せしめてみせた。あの人の実績がまたしても積み重なった瞬間である。
こうして唸るほどある戦歴を用いて、あの人は水戸市の市長に選ばれた。持ち前の愛嬌と聡明さを活かして人と人のつながりを作っていき、遂には有名歌手等が集うライブ会場までもを建ててしまった。おかげで水戸市は定期的に人が集うホットスポットと化し、観光地としての側面も注目され始めたとか。
そんなあの人は、遂に国会議員にまで当選してしまった。曰く「笑顔が絶えない国会議員」とのことだが、その内面では容赦のない計算高さが常に稼働しているのだろう。
ほんとう、すごい人だ。
互いに多忙であるから、一年のうちに会える日なんてほとんどない。けれど毎日連絡しあってはいるし、祝い事があればすかさず駆けつけたり駆けつけられたりするから、あの人との関係はすこしも冷えてはいない。
あの人が道を登っていくたびに、金塚は喜びを見出している。
――がんばれ。
なんだかしんみりとしてしまったし、風呂にでも入ろうか。そう思い、金塚はのっそりと立ち上がり、
家のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろう。
父と母はお出かけ中だから、自分が出るしかない。
作業室のドアを開け、足音を立てながら階段を下りて、ドアノブを握りしめては「あの人だったらいいなあ」と思いつつノブを捻って、
「やーや! 元気してたかねー! いとしの杏様が来てやったぞー!」
角谷杏のハツラツな声が、玄関じゅうに反響した。
すっかり雪に振られたようで、頭と厚着の上に雪がふわりと乗っかっている。
「やあやあ、よくきたね。雪にも降られたようで、お疲れさん」
「やー、今年はよう降るし寒いしでまいっちゃいますよー」
学生の頃から少しも変わらない笑顔を振りまかれて、金塚はふっと微笑み返す。なんだか、体の力が抜けていった。
杏は、ロングヘアについた雪をぱたぱたと払い始める。
「さ、上がって上がって。こたつは用意してあるから」
「おおーいいねえー。では、おじゃまします」
杏が靴を脱いで、ぱたぱたとリビングへ歩んでいく。金塚の家にもすっかり慣れたもので、その動作には遠慮がない。
――まあ、それはお互い様なんだけれどね。
金塚のほうも、何度か杏の豪邸に招待されたことがある。その際に和服を着込んだ父と母――父は政治家らしい――とご対面して、金塚はたまらず生真面目な真顔を晒してしまったのだが、
――あなたが金塚先生ですか? 母さんと一緒に笑わせてもらっています! センスがほんとほんと……あ、サインもらっていいですか?
そんなわけで、杏の両親とは良好の関係を築けているのだった。
□
金塚と杏が向き合う形でこたつに居座り、台の上に置いてあった干し芋へ手を出し始める。一旦家に戻ってからここに来たのだろう、杏は白いセーターを着込んでいた。
「――いやあーここは落ち着きますなあー」
「いつでも来てもいいんだからな」
ときおり、杏はこうやって家に来てくれることがある。忙しいはずなのに、こうして自分のことを意識してくれている事実がとても喜ばしい。
だからこそ、金塚は言う。
「俺はいつだって、杏を歓迎する」
金塚なりの思いやりを耳にした杏は、「そっかあ」と口元を緩ませた。
「博も、いつでも家に来ていいんだからね?」
「ああ、そうだなあ。ぜひとも行きたいんだが、忙しくてなー」
「そだねえ。週刊連載だからねえ」
「そーそー」
杏も漫画を描くことのむつかしさを知っているから、決して金塚に無理強いしたりはしない。むしろ毎日のように、『応援してるね』と励まされるくらいだ。
「まあ、でも」
「うん」
「博が頑張っているから、人気漫画家になれているんだよね」
「まあ、ね」
そして杏は、「私はさ」と前置きして、
「漫画雑誌の目次に博の名前が載っているたびにさ、『ああ、すごいなあ』って安心できちゃうんだよ。だから、会えない事を気にする必要なんてない」
杏は、にっこりと笑いかけていた。
そんな杏を真正面から目にして、博はたまらず言葉を見失う。
「ありがとう」
「いえいえ」
杏の想いは、それだけで十分に伝わった。
それからしばらくは、互いに干し芋を食べるだけの時間が続く。十二月の夜はとても静かなもので、時計の針が動く音しか聞こえてこない。時刻は九時半。
何も語らずとも、杏とはこうして触れ合えている。
けれど博は、杏と話がしたくてたまらない。笑われたり、冗談をぶつけあったりしたい気分だった。
だから、無粋ながら――
「そういえばさ」
「ん?」
「当選、おめでとう」
「ああ、うん。おかげ様で政治家になれました」
「やー、本当に政治家になっちまうんだもんなあ。すげえよなあ杏は」
「うわはは、やる時はやりますよわたしゃあ」
「えー? いつだってなんだかんだで全力全開なくせに」
「いえいえまさかそんな」
「恋人だから知ってるんですー」
金塚と杏が、恥ずかしそうに笑いあう。
「まあ、なんだ。俺の漫画で杏の心を癒せているのなら、俺はそれでいい。ギャグ漫画家として、恋人として、十分すぎるよ」
「……うん」
杏が、静かにうなずいて
「博の漫画を読むとさ、やっぱり笑っちゃうんだよね。それで気分転換にもなるし、博も幸せにやっているんだなあって実感できる」
博も、頷き返す。
「ここまでやっていけたのは、博のお陰だよ」
「そうか。それは、よかった」
それからしばらく、金塚と杏は見つめあう。
漫画も政治も大事だけれど、年末ぐらいはどこにでもいる恋人同士になりたいから。
――そうして、何分の時が過ぎただろう。博の口から、ふと、
「杏はやっぱり、かわいいなあ」
「お? でへへー、でしょお?」
「ほんと、学生の頃から少しも変わってない。ほんと変わってねえわ」
「そうかー、そっかー……」
「こうやって気安く話したりできるのが、本当にもう、好きだよ」
うまく言葉にできないけれど、本心は言えたと思う。
杏は顔を赤くして、音を立てずに干し芋を口にしはじめる。金塚も、干し芋に手をつける。
干し芋を味わい、互いに目を合わせるだけの時間が過ぎていく。
そんな時間が、延々と思えてきた頃、
「ねえ、博」
「ん?」
「とりあえず私は、政治家になるっていう目標は達成できた。博も、ギャグ漫画家として大成できた。そうでしょ?」
「ああ、まあね」
金塚の返事に対し、杏は満足そうな笑顔があふれて、
「そのお祝いとして、結婚なんておひとつどうですかな?」
ああ――
「いいね」
「でしょ?」
俺と杏は、合意のサインとばかりに親指を立てる。そしてこたつから身を乗り出し、腕を伸ばして杏を引き寄せ、何度目かのキスを交わしあう。
杏が、俺の頭に手を回してくれる。
ほんとうに、ほんとうに、俺たちはあの頃となにも変わっていない。
それがたまらなく、愛おしかった。
□
それからしばらくして、俺と杏の結婚式が執り行われた。
沢山の友人に囲まれる中、牧師役として選ばれたのは、杏の親友である武部沙織さんだったことをここに書いておく。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
特に詰まることなく、文章を読み進められましたか?
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少し詰まった
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読みづらかった