天才とあなたは呼ばれている。
農業に発展をもたらしたあなた。その技術を応用すれば、きっといつか他の野菜達も非常に美味しくなる事間違いなしだ。
天才という言葉は、大抵の場合埋もれた努力を否定する言葉だ。努力の痕跡なんて見えない。ぽっと出の革新に、人々は天才と名付けるのだ。
無理もない。常に見ている訳ではない。天才と呼ばれる人は、呼ばれるまではただの人に過ぎない。功績を挙げてきた訳でもなく、活躍していた訳でもなく、ある日突然何もないところから非常識が生まれるから天才なのだ。
さて、天才がどうやって生まれるかは話したが、天才がこれからどうなっていくのか。
答えは非常に簡単である。孤独と嫉妬のブレンドだ。
両方合わさって襲いかかるストレスに、あなたは悩まされていた。
──……地道に直すしかないか。
畑が、荒らされたのだ。
育て途中のニンジンは穿り返され、折られ、見るも無残な形になっていた。
非常に悲しい光景だ。手塩にかけて育ててきたニンジンがこうなるとは。明らかに野生動物の仕業ではない。意思を、いや悪意を持った人間の仕業だ。
幸い幾らかは残っているが、総量は随分と減ってしまった。
父は激怒し、警察署へとすっ飛んで行ったが、あなたには怒る気力すらなかった。
只々虚しさだけが、心を支配していた。
どうしてこうなってしまったのか。理由なんて幾らでも思いついた。
素晴らしいニンジンを開発した。そしてそれを卸し始めた。となれば、買い手側にも優先順位がついた。
簡単に言えば他の農家のニンジンが売れなくなったのである。
勿論、農家にも生活がある。今まで売れていた物が、新参者に席を奪われて売れなくなっては非常に困る。
だが、相手は稀代の天才。どう足掻いても技術で勝てる気がしない。そうして、他の農家はニンジンに注目したのだろう。
家を空けている隙の犯行だった。対応出来なかった、そして対策すらしていなかったあなたは、自分に嫌気が差す。
今日も昼に持っていく筈だったトレセン学園には、昼には持って行けないと言うと、温かい言葉を貰った。涙が出そうになる。
人の温かみに改めて触れたあなたは、夕食までには間に合う様に配達すると伝え、急いで箱詰めを始めた。
ー
急いでトレセン学園に着いたあなたは、トラックの荷台の軽さに俯くが、気持ちを切り替えて笑顔で運び始めた。
いつもより少ない量だったが、食堂のおばちゃん達は喜んでくれていた。これが欲しかったのだと。これで皆の笑顔が見れると。
溢れそうな涙を抑えつつ、感謝の気持ちを伝えたあなたは、食堂を後にし、少しばかりトレセン学園で休憩して行くことにした。
父からの連絡には、犯人は見つかったので安心しろと。電話越しの父は未だに怒り心頭だった。
自販機で買ったブラックコーヒーを飲みながら、あなたは携帯をしまった。コーヒー独特の苦味が鼻腔を支配し、今日あった事をまじまじと想起させた。
なんだか、自分のやってきたことは正しかったのだろうか。
そう思っていると、コツコツと地面を鳴らすローファーの音が聞こえた。
伏せていた目を上げてみると、そこにいたのは黒い鹿毛、右目を髪で隠したライスシャワーだった。
「お兄様?」
──ライス。トレーニングは終わったの?
「うん……午後は授業だったから」
儚げな瞳を揺らして、ライスは側に寄ってきた。
心配そうな表情を見て、自分が陰気臭い顔をしていたかと反省をする。ウマ娘に心配をかけてはならない。精神状況も彼女たちのコンディションに関係してくる。自分程度で精神が揺らぐとは思わないが、それでも笑顔に越した事ない。
「ねぇ、お兄様。聞いても良い?」
──? どうしたの?
「無理して……笑ってる?」
──無理してないよ。
見抜かれた。あなたは思った以上に高い洞察力に舌を巻く。誰にもバレなかった笑顔の仮面。慕ってくるウマ娘達にもバレたことはなかったのに。
ライスにそう言われ、困った様な表情を浮かべるあなた。このまま嘘を貫き通して──
「嘘。お兄様、ライスに話してくれる?」
木に寄りかかっていたあなたの右側にくっ付くライス。
いつもと違う彼女の雰囲気に押される。彼女の目は本気だ。
コーヒー缶を片手に、あなたはぽつりぽつりと話し始めた。
ニンジン畑が荒らされた事。
それを見て犯人に怒りすら浮かばなかった事。
そして、自分が彼らの幸せを奪ってしまったかもしれない事。
──きっと犯人にも養わなければならない人がいたんだ。赤子かもしれない。育ち盛りの子供かもしれない。或いは病気を抱えた人がいたかもしれない。
「…………」
──僕はそんな人の未来を奪ったんだ。もしかしたら途方に暮れているかもしれない。
「……それで、お兄様はどう思ったの?」
──僕は、作るべきじゃなかったのかもしれない。誰かの幸せを奪うぐらいだったら──
「そんな事ない」
苦しい気持ちが溢れ出て止まらない。
それを止めたのはあなたの隣にいるライスだった。
力強く紡いだ言葉が、あなたの心を優しく包む。
「……実はライスもね。お兄様と似た様な経験をしたんだ」
──ライスも?
「うんっ……菊花賞でブルボンさんの無敗の三冠を阻止した時、みんなからライスは祝福されなかったんだ。レースに勝って、笑顔で喜ばれるって思ってたのに」
ぽつりぽつりと語り始めたライスの表情は苦しそうだった。その頃を想起させているのか、若干の憎しみを混じらせながら、それでもライスはあなたの為に語っている。
「もう辞めようと思った。走りたくないって思った。あんなに頑張ったのに、酷いことも言われて悲しかった。ライスを誰も認めてはくれなかった」
──ライス……
涙が頬を伝って落ちた。持っていたコーヒー缶にあって、涙は溜まることなく弾けていく。
「でもね、そんな時にブルボンさんに言われたの。“あなたはヒーローだ”って。目標であり、希望を与えてくれたって」
──ヒーロー……?
「うん、とても嬉しかった。もう一度だけでも頑張ろうって。どんなに言われても、ライスはヒールじゃない。ヒーローなんだって」
ライスはどこか覚悟を決めた様な表情を浮かべたが、あなたは見ていない。いや、もう目の前が霞んで見えなかった。
「だからね。お兄様に誰も言ってくれないのなら、ライスが言うね」
涙は止まらなかった。
「お兄様はライスのヒーローだよ」
首をこてんと倒して、あなたの肩に寄せるライス。
「お兄様がいたから、あの時も頑張ろうって思えたんだよ」
涙は止まらない。
「だからね。お兄様、泣かないで」
──ライスも泣いてるよ……!
「ううん、いいの。これはお兄様の為の涙だから」
夕焼けに照らされて、彼女の涙が茜色に光った。
左手を胸の前でキュッと握り締めながら、ライスは笑みを浮かべてあなたに言う。
「ライスがどんな時も側にいてあげるから」
「泣かないで。お兄様」
ー
笑顔のお兄様が好き。
どんな時も笑ってくれて、勝ったって言ったら人一倍喜んでくれた。
苦しい時だって、きっとお兄様は笑ってくれるから。それだけでもう一踏ん張りできた。
みんなはお兄様のニンジンばかり評価するけれど、ライスはずっとあなたを見ていたよ。
ライスは悪い子だけれど、お兄様の側にいる時だけは良い子になれた気がしたよ。
だからね、お兄様。そんな悲しそうな顔しないで。
ライスはお兄様の笑顔が好きだよ。
どんな事があっても、ライスは側にいるから。
だって、お兄様はライスのヒーローだから。