「ああ、いらっしゃい、コナン君」
「安室さんも、ポアロの仕事お疲れ様!」
あの吹雪の夜から、一週間経過していた。
昼間の客がいない時間帯だ。ガランとした喫茶店ポアロの中には安室とコナンしかいない。
備え付けのおしゃれな時計がカチリと音を鳴らす。
コナンは慣れた足取りで高いカウンター席に飛び乗った。
「安室さんはあれから異常は無い?」
「幸いなことに、空中に虹色の文字を書いたり未知の言語をスラスラ読んだりはできなくなったよ」
「暗号として使うにはいいスキルじゃない」
「そりゃあ便利は便利かもしれないけど、あんなに頭が働かなくなるくらいなら今のままで十分さ」
「ほわほわ安室さんも癒し系だったよ」
「癒しは蘭さんあたりで満足するように」
いつも通りの気安いやり取り。
しかしお互い、本題が別にあることを分かっていた。
「……安室さんはさ」
「なんだい、コナン君」
「あそこであったこと、自分の見たこと、信じる?」
「……」
安室はモーニングの客から片づけた皿を洗っている。
皿が水を弾いてごうごうと音をたてている。
安室は何も答えない。
「蘭姉ちゃんはさ、ホテルのロビーで見張りを交代しながら寝たけど、結局何も起こらなかったって」
「……」
「怖くて寝れなかったけどずっと僕といっしょだったし、朝が来るとすぐに吹雪も止んだで下山できたからよかったって」
「……」
「あの焼死体事件の犯人はオーナーの亀山さんで、警察が調べると彼の自室からガスバーナーとガソリンが見つかったみたい。近くの森の中で何かを焼いた跡も見つかったから、ほぼ犯人は彼で間違いないって結論付けたらしいよ」
「……」
「亀山さんは山の中で自分も首をつって死んでたのを警察が見つけたよ。犯行を自白する遺書もあった。二人を焼き殺したのは、衝動的なものだって。……そもそも、被害者の宮口さんと竹城さんを含めたあの日の宿泊客の中に、衛宮士郎とアルトリア・セヴァリーなんて人はいないみたいだ」
コナンが目を覚ました時、そこはホテルのロビーに引かれた布団の中だった。
朝日が窓ガラスに反射し、冷えた空気がサッシの隙間から漏れてくる。
ロビーに荒らされた様子などまるで無かった。
ズタズタだったカーテンはきれいなまま窓の両端にまとめてある。
血痕の付着した絨毯は、元通り古びてはいるがよく手入れされた美しい状態を維持している。
ブルーシートには他の宿泊客が思い思いに寛ぎ、グループを作って雑談をしていた。
昨日のあのおぞましい事件が、ただの悪夢のだったとでも言うかように。
案の定、昨日のことを覚えている人は安室を除き誰ひとりとしていなかった。
皆口を揃えて、あんな事件があったから酷い夢を見たのだろうとコナンを心配した。
「……コナン君」
安室がコップをコナンの前に置いた。
中身はアイスコーヒー。ポアロ自慢のそれはコナンの大のお気に入りである。
「……衛宮士郎という人物を調べてみたんだ」
「っ!」
「戸籍はF県冬木市に見つかった。父親は衛宮切嗣。孤児であった彼は父親に養子として引き取られたたようだ」
「冬木で養子……冬木の大火災の被害者か!」
「間違いなくそうだろうね。引き取られた時期も一致していたし」
冬木の大火災。1994年に起こったそれは、戦後最悪の大火災であった。
500戸以上が全焼し、死者行方不明者は約2000人。街一つを地獄へと変えたその火災の原因は、未だに分かっていない。
コナンはストローをアイスコーヒーにさしてくるりと回した。
「衛宮切嗣の戸籍は偽造だった。かなり手が込んでいたけど、弄られた形跡がある。冬木市内での人間関係も全て火災後のものだ。火災の前は彼はどこにいたのか、何をしていたのか分かる人はいなかった」
「それは……」
「火災の直前、あの街では猟奇殺人が起こっていた。死体を切り裂いて血を抜き、その血で魔方陣ような落書きを現場に残す、悪趣味な事件がね」
「……」
「他にもいろいろあったよ。ホテル爆破テロ、連続児童誘拐事件、海辺の集団幻覚、自衛隊機のスクランブル発進。ニュースになっていないはずがない事件がぽろぽろと出てきた」
「……僕はそんな事件ニュースで聞いたことないよ」
「君はそのころ生まれてなかったしね。仕方ないさ。それで、そこまで調べたところで上司に声をかけられてね」
「……なんて?」
「これ以上の捜査は認められない。これは私より上からの命令である、ってね」
二人は沈黙した。
時計の音が静寂なカフェの空気を揺らしている。
アイスコーヒーに入れられてた氷が小さく音を立てた。
氷はじわりと溶け、コーヒーの上に薄い水の層をつくっていく。
コナンはポケットから正方形の黒いケースを取り出した。
滑るような高級なつくりのそれは、工藤優作に言って入手してもらった一点物のジュエリーケースである。
開くと紫のなめらかなクッションが目に映る。宝石を傷つけないように細心の注意を払って作られた柔らかな布地が使われている。
そして、その中央にはさまれるように鎮座する、紅いビッグジュエル。
「証拠のない推理は妄想と変わらない。――けど、唯一で確かな証拠が、ここにはある」
10億は下らない世界最高峰のルビー。
美しいラウンド・ブリリアント・カット。インクルージョンは少ない。色は濃く豊かな真紅色で、カットは正統かつ美しい職人の技が見える。
そして、あらゆる外敵から持ち主の精神を守る、そんな神秘が宿っている。
「コナン君は、どうしたいんだい?」
安室が静かに問うた。
洗い終わった食器を水切り台の上に並べる音がカチャカチャと響いている。
「……きっとさ、僕たちとあの人たちは、領分が違うんだと思う」
「領分?」
「生物学者がシェイクスピアの解釈を研究する必要はないし、外科医が幼稚園の運営方法を学ぶ必要はない。それと同じで、探偵が神様や悪魔に喧嘩を売る必要なんてないんだ」
「でも、君には異論がありそうな顔をしているね」
コナンは目を伏せた。
様々な思いが去来して、上手く言語化できない。
自分が頭を突っ込んだところで何も出来ない。
神話の怪物に対してできることなんて、逃げ惑うか諦めて身を捧げることくらいだ。
時すら凍りつく虹色の狂気の中、コナンは自分の無力を知った。
頭脳と理論でどうすることも出来ない悪意が、この世界には存在する。
人の営みを超えたところに現代法・現代科学は手が届かない。しかし自然現象と呼ぶには邪悪に過ぎる。
探偵は人の理の中で謎を追うもの。
悪魔の非道を裁くのは神の仕事だ。
探偵の仕事ではない。
それでも。
「それでも、僕達は知ってしまった」
超常の力を、化け物の実在を、神の存在を。
彼らを。
「きっとさ、また巻き込まれるよ」
「どうしてそう思うんだい?」
「安室さんの方が分かってるでしょ」
それは予感を超えた確信だ。
それを知ってしまった時、何かがアチラと繋がった。
己を無礼にも覗き込んだ不届き者を、じっと見つめ返すように。
「今度から、犯人が魔法で密室に侵入した可能性も考慮に入れないとね」
「目撃者を操って嘘の証言をさせたり?」
「目に見えない化け物をけしかけた線もあるね」
「それ、証明のしようがないじゃないか」
暗い空気を吹き飛ばすように笑いあった。
知ってしまったからには、これから先をこれまでと同じように歩むことはできない。
でも、それは当たり前のことだ。
人は様々な困難に直面し、それを乗り越えて生きていく。
ならばこれも、当たり前にある困難の一つでしかない。
困難を超えるため明日をより良く生きるため、自分のできる努力をするだけだ。
自分たちには、それだけの知性(チカラ)がある。
アイスコーヒーが外気との差で水滴を垂らす。
暖房の効いた喫茶店内は暖かい。
2人は誰もいない喫茶店の中でひっそりと笑い合う。
忍び寄る神秘と魔法に、不屈の誓いを交わしながら。
end.