もうめっちゃ好き(唐突な語彙消失)
排出された“彼”はまず、棺に納められた。
それは決して遺体を埋葬する為の箱ではなく、除染と精査、身体機能の補完を用途としたハイテクノロジーの鉄塊だけど。でもやっぱり外観はやたらに豪勢な棺だった。夥しい数の電極と配管に繋がれた鋼鉄の処女さながらに。そして入っているのは生贄の乙女ではなく、一人の少年。
その装置は諸機能を思えば医療器具と呼べないこともない。だから決して時代錯誤な拷問器具などと同列に語るべきではないのだ。冗談でも、そんな不謹慎を口にするべきではない。誰あろう医療従事者たる自分は、猶更に。
けれど、それでも。
そこに納められた人は間違いなく、罪人だった。
拷問のない罰が、声なき呵責が、これからの彼には待っている。
目視検査用に嵌められた強化ガラス越しに少年の顔を見下ろす。昏睡状態は安定的で、そう時を置かず意識を取り戻すだろう。
だのに彼はまだ、目覚めない。
「……!」
その時、ポケットで携帯端末が震えた。
取り出し、着信の表示を確認しつつすぐに受話ボタンを押す。
「はい、こちら衛生科……はい、除染完了してます。バイタルも安定して……え、搬送準備ですか? はい……了解しました」
端末を切り、今一度検査室から棺を見下ろす。
心拍が一段、早まるのを感じた。血流は増した筈なのに指先が冷える。自分の身体が緊張しているのがわかる。
心が、乱れているのがわかる。
「……はぁ」
鼻から短く呼吸してそれを誤魔化した。
各スタッフに今し方の命令を再度通達する。鉄棺を開帳する為に。
彼の眠りを、安寧を今、壊すのだ。
現実感がまるでない。この14年間は。赤く染まる全て、記憶は血の赤と、兄とお義姉さん、産まれた赤ちゃん、死んでしまった父と友達、たくさんの人、人、人。助けても助けても、次の瞬間には塵屑のように死ぬ人、人、人、人。
救いようのない世界。
悪夢のような14年間。泥か脂のように遅滞する、けれど閃光、爆音のように一瞬で過ぎ去った時間。
衛生担当医務官、少尉。今自分は、そんな肩書で呼ばれてる。冗談みたいな話。
現実感なんて、ない。本当に。
今、艦内通路の密閉ドアを潜ろうとする自分。この生白い金属の隔壁の向こう側には、現実があるのだろうか。
私の現実。私の14年。私の────
電気的稼働音と圧縮空気の吐息であっさりと扉は開かれた。その、敷居一段向こうに。
私の。
それは私の。
検査ベッドに横たわる検体衣姿。ゆっくりと、慎重に、歩を進めて、その傍へ。
寝息も聞こえない穏やかな眠りの中に在る、彼。
「……碇、さん」
呼び掛けても、彼は応えない。当然に。
肉体と魂のサルベージは完璧に遂行された。彼は完然の、碇シンジ。技術者の太鼓判付の。
勿論、それを保証する為の各種検査は必要だし、データの数値が限りなく碇シンジという少年に近しいというだけなのだ。少年を再生した技術者も、その辺りの判断には慎重だった。
油性ペンを取り出して、眠る少年の足元に回る。若々しくまだまだ柔らかな足の裏の皮膚に、検体に通し番号を打つ。あるいは新生児を識別する為の、横着のような心地で。
BM-03。
彼に与えられた仮の個体名を書き記す。
「……」
事前検査はほぼ全て終えた。彼が横たわるベッドはそのままストレッチャーであり、拘束具でもある。
現実に、この目で見下ろした少年の体は想像のそれよりも遥かに細く、華奢で、電装品と剥き出しの金属で組まれたベッドがいっそ凶悪にも見えた。籠どころか、牢獄に繋がれた小鳥。
少年の有様はそれほどに儚かった。
寝顔を見る。見れば見るほど、幼気な顔立ちだった。
十四歳。男性と呼ぶのも躊躇われる。表情が穏やかな所為だ。顔容は中性的で、睫毛も長くて、まるでほんの小さな男の子で。
子供。そんな風に言うのは、私の傲慢なのだろうか。肉体的には確かに自分の方が年上だけど。
無邪気な、何の苦しみ痛みも悲しみも知らなそうなその寝顔。それが、この人が。
────殺した
父だけではない。友人だけではない。たくさん殺した。多くを殺した。無数に殺した。
死を振り撒いた。あの凄絶をばら撒いた。
おもちゃ箱をぶちまけるみたいに、全部を滅茶苦茶にした。
こんな、こんな幼気な顔で眠る人が。
憎い
迷いなく、胸奥で湧き出るヘドロ。黒々と煮え立つ憎悪。
丘一面を埋める墓標。近所のあの子、仕事仲間だった彼、患者だった彼女、名前も分からない、誰か。屹立する。乱立する墓標。墓。死体。死骸。人の成れの果て。モノ。死。死。死。死。
あんたが殺したんや
大切だった誰も彼も、大切だった何もかも、大切だったあの毎日を、唐突に、身勝手に、終わらせた。
あんたの所為や
泣こうが喚こうがどうにもならない日々。明日生きていくことさえ容易じゃない。死は隣人。すぐ、薄紙一枚向こうの客。
理不尽だと思った。そんな慟哭も、目の前に押し迫る滅亡という現実が吹き払う。嘲笑いさえしない。ただ押されて流されて、なるようになった。
必要に駆られて医師になった兄に倣って医術を学んだ。そうすれば少しでも、ほんの僅かにでも、隣り合う死を遠ざけられると思ったから。焼石になんたらだったけど、それでもやらずにはいられなかった。何もせずにただ生きるなんて贅沢、もうとうの昔に消えてなくなったんだ。
ヴィレに入ったのは、たぶん泣き言を泣き言のまま眠らせていられなかったから。反骨心と呼べるほどに強くも熱くもない、ただ粘って纏わり付いてくるこの感情のやり場を、せめて反抗に費やして燃やしてしまいたかった。
世界の平和の為。そんな風に思ったことはない。
エヴァ殲滅、NERV打倒、そんなことにも正直、血道を上げるほどの興味はない。
今、その粘つく何かが、胸の奥に停滞していた何かが、溢れてくる。
「……あんたが、あんたが……あんたがぁっ……!」
ベッドに乗り上がる。患者衣の腹に馬乗りになって、両手を寝顔の間際に突き立てる。
そのあまりにも穏やかな顔が。
憎い、憎い……憎い!
掌がシーツを滑る。滑り、その首に、細く、薄い、首筋を這う。指が皮膚を巡り、握る。
指が埋まって、頸動脈の振れ、その奥に走る頸骨の気配。
絞める。握り合わせ、圧し潰すように。
簡単に終わる。簡単に殺せる。
こんな細首、自分の筋力でも十分に縊れる。扼殺できる。
そうしない理由があるだろうか。そうできない理由が、あるか。
上官の命令? 組織としての秩序? 人としての、何? 知らない。そんなの、この憎しみを止める理由になどならない。
「あんたの所為で……! あんたの!!」
殺せない理由なんて、無い────
「────お蔭で……」
震える掌に力を込める。力が入らない。
満身の力で首を絞める。手が動かない。
息を吸うと、喉でしゃがれる。しゃくり上げて、上手く呼吸できない。
滲む。その、寝顔が。
ぽたぽたと零れたものが彼の顔を汚す。
「あなたの、お蔭で……私、生きとります……姪っ子の顔、見れました……今も、こうして」
譫言だった。でも、それは事実だった。
この人がいなければ自分は14年前に死んでいただろう。この人がいなければ、今のこの世界すらなくなっていただろう。
知っている。この人が、どんな思いで戦っていたのか。
理不尽を押し付けられてきた。自分のことで兄にも殴られた。
汎用決戦兵器? 人造人間? そんな訳のわからないものに押し込められて、訳のわからない侵略生物と戦わされて。
勝っても負けても、彼は傷付いた。大人は責任を負わなかった。子供のままであることを許しもしない。
彼は、ただ、その時その時を懸命に、耐え続けてきたのに。
こんな幼気な子が。十四歳の少年が。
自分を不幸にしながら、それでも、戦ってきた人が。
今、また、こんなところに戻ってきた。帰ってきて、くれた。
「こうして、会えました、ね……」
私達の恩人。兄の友達で、私にとっては少し遠くに在る人。たぶん、私の憧れ。
兄によく彼の話をねだった。兄もよく彼のことを話して聞かせてくれた。
とんでもない兵器でとんでもない怪獣と戦っている。その癖、それにとても苦しんで、耐え抜いているのだと兄は痛ましげに言うのだ。
どんな人なのだろう。その疑問はとても自然に私の中に芽吹いた。
過去のデータを調べて、その影を追った。
第三の少年。碇シンジという人間。特級の機密に当るそれらを調べるのは容易なことではなかったけれど、兄やケンスケさんという生き証人があり、そして時間だけはたっぷりと目の前には横たわっていた。
少しずつ、断片的に寄り集まっていく人物情報のピース。そこから見えてくるパズルの絵は、英雄像には程遠かった。
少年の苦闘。苦悩。苦痛。苦心。痛々しい生き方。
憧れは、憐れみに変わった。
不幸になるばかりの生き様に、同情した。
憎しみと同じくらい、労しかった。憎いと思うほど、慈しみたいと想った。
「碇さん……」
会いたくなどなかった。
「会えて、嬉しいです」
涙が出るくらいに。
零れる滴が顔を濡らし、顎を伝い、首にまで垂れる。
首筋には、赤々と扼殺の未遂痕が残っている。痛ましい傷の兆し。内出血までには至らなかったが、指の紋が写し取られたように歴然として。
それは、その痕こそ、私の激情だった。
患部を冷やし、必要なら抗炎症系の薬剤を塗布すればいい。そうすれば跡形も残らず、こんな傷擬きは消える。消えてなくなる。
私はそれをしなかった。
「…………」
何故そうしなかったのか。そして何故、そうしたのか。
ただ魅入られたように、私は傷跡に唇を這わせる。労しかったから、この人があまりにも痛ましかったから。
私が彼を傷付けずに触れられる場所は、この粘膜質だけだから。
それとも、私は。
「……は、ぁっ……」
痺れるような陶酔も、滲み出すような熱も気付かぬふりをして、そっとベッドから降りる。
サイドテーブルには簡易の医療キット、計測装置の他に、もう一つ。小振りなアタッシュケースが置かれていた。
表面には非接触型静脈認証センサが内蔵され、そこには担当医官である自分のそれが登録されている。
翳せばあっさりと、ケースはその口を開けた。
その中心に鎮座する、
世界、人類存続の保険。一人の少年の命を担保にして。
この人の命を縛る。
DSSチョーカーを手に、彼の枕元へ跪く。横顔に微笑んで、そっと首を持ち上げた。気道確保の要領である。
赤く、赤く、自己主張するその、痕に被せ、這わせ。
かちり、そんな軽々しい音で彼のしなやかな首に爆弾が巻き付く。もう二度と、彼の意思では外せない。
外させない。
でもこれは幸運の象徴だ。きっと、いや間違いなく。
だって、これで、ようやく。
「もう、これで、エヴァには乗れませんね?」
私は吐息する。心からの安堵を込めて。
私は
…………でももし、それでもなお、この少年が、まだエヴァに囚われ、縛られているというなら。
首筋を撫でる。そっと、優しく、慈しみ尊び、愛おしむように。
その首に刻んだ赤。激情。誓いを果たす。
「碇さん……」