碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように   作:足洗

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病み描写を書きたいのにまたラブシーンに筆が滑ってしまったんだすまねぇ、すまねぇ。




 ごく当たり前の始末だと思う。

 彼女は、サクラさんは医療従事者で、僕の、碇シンジの健康管理が仕事なのだから。外見に顕れない体調不良ならいざ知らず、いやたとえそうであっても、些細な異変を見逃す筈がない。

 その意味でサクラさんはとても優秀な医師だった。常に人員不足に喘いでいるというこの(ヴンダー)で、それでも若い身空で少尉──尉官の階級を与えられているのは、間違いなくその能力を評価されたからに他ならない。

 ばれない理由がなかった。

 一抹でも、隠し果せるかもしれないなんて期待すること自体甘かった。

 部屋に入るまでは、強化ガラス越しにも見えていたその笑顔が、僕を見止めた瞬間に。

 

「おはようございます、碇さ────」

 

 消える。

 ふ、と灯りを落としたような、無明。朗らかで柔らかだったサクラさんの顔に新月の夜めいた暗がりが霞のように立ち込めていく。

 闇。

 それはきっと、色の混淆の極点。様々な彩を持った感情が、千差万別のそれらが全部ない交ぜになって出来る。純一の対極、漆黒の対義。

 凄絶な色。感情の氾濫する目を、けれど僕は。

 ひどく、懐かしいと思った。その目を知っている。昔、どこかで。

 記憶を辿って忘我したほんの一瞬、サクラさんは僕の手を飛び付くように奪っていた。

 僕をベッドに座らせて、彼女は既にして部屋に備え付けの医療キットからピンセットと消毒用コットンを取り出し、掌の傷口を拭い、洗う。

 

「っ」

「痛いですか? 我慢してくださいね」

 

 ものの一分と掛からず、気付けば左手には丁寧に包帯が巻かれていた。

 

「すみません……」

「何がですか? 碇さんが怪我しておられるんやったら私が治療するのん当たり前です。謝る必要ないですよ……それとも」

 

 白く帯に巻かれた手を、サクラさんは両手で包み込む。

 

「自分で、傷付けたこと……謝ってくれるんですか?」

「……」

 

 自分で、自分の手で、作った傷。自慰と同義の痛み。

 そんなものの為に彼女の手を煩わせた。サクラさんに、こんな、こんなにも悲しそうな顔をさせた。

 ────そうか。彼女は、悲しんでいたんだ。

 遅すぎる理解が胸から腹の底に落ちていく。

 複雑に移ろう顔容の色。そこには確かに深く、痛ましげな影が差していた。こんな自分を彼女は心から労り、憐れんでいる。自分のこの不実な行いに対する至極当然の憤りにさえ、気遣わしげな、安堵の吐息が交じる。

 

「……ごめんなさい。本当にごめん。僕は……」

「ううん……謝らんといてください。謝らなあかんのは私の方です。私が……私の、所為やから……私のっ」

 

 重ね合わせた手に、落ちる滴。サクラさんは泣いていた。

 

「私が……碇さんを追い詰めたんですね……こんなこと、させるくらいに……!」

「ち、違います! 僕はただ! ただ……忘れたくなかったんです。自分がしたことの大きさとか……罪悪感とか……一生覚えておかなくちゃいけないのに。でもふとした時、あっさり消えてしまいそうで……僕は弱くて、狡いから、都合の悪い現実からすぐに逃げ出そうとするから……」

 

 意味のわからない言い訳を並べている。

 自分のやったことの愚かさを、サクラさんの涙が思い知らせてくれる。

 

()()()を付けようと……」

 

 頭のおかしなことを口にしたという自覚はあった。けれどそれ以外に説明の仕様がなかった。

 それが到底、サクラさんを安心させられるものではないことも、わかる。恥知らずな後悔が胸に蟠った。

 

「しるし……?」

「ご、ごめん。変なこと言って……もうしない。しません、から」

 

 不明瞭に謝罪を繰り返して、俯く。

 手を強く、握られた。それは徐々に、徐々により強く。サクラさんの指が掌に沈む。食い込んでいく。

 傷口がややも捩れて痛みを発した。

 

「サクラさん?」

「なら、この歯形もしるしですか?」

 

 サクラさんは掌の側面に指を這わせて、そこに空いた溝をなぞる。点々と細い穴が形の良い半円を描いて、掌の表と裏の両面に刻まれている。

 歯形。誰が見ても、それが人間の噛み痕であることは明らかだ。

 アスカの……。

 

「そ、そうです。僕の」

「違いますよね」

「え?」

「だってこれ、碇さんの歯形とちゃうもん」

 

 迷いなく彼女は言った。一瞬とて疑うことすらなく。

 確信して。

 驚きに声も出ず、呆とする僕にサクラさんは微笑んだ。

 

「ふふ、そらわかりますよぉ。初号機からサルベージされた碇さんをどうやって本人確認した思います? 指紋とか掌紋とか虹彩とか、あと血液型やったり体の細かい傷痕を碇さんのデータと全部照合するんです。DNA検査は確度はすごいですけどクローニングがザラな現代やと体の同一性の証明にしかなりませんから。歯の治療痕見るんが、一番信頼ある方法なんです。昔ながらの、いうんですか? ふふふ」

「…………」

「嘘言うたってダメですよ、碇さん」

 

 不意に、サクラさんの手が伸びてくる。それは顔に、唇に触れた。紅を差すような所作で、指の腹が唇の粘膜を滑る。

 

「んっ」

「ああ、ちょっと乾いてますね。今度はリップ持ってきます」

 

 幾度か指が口の端から端を往復する。優しい指使い、繊細で、丹念な。

 その指が、唇を割って滑り込む。口内へ。

 

「んぶっ!?」

「……」

 

 指は歯列を撫で、歯茎を這い、奥へ。

 閉じ損ねた顎、その上下の隙間をこじ開けながら、奥へ。

 びりびりと痺れるような、疼痛。身を捩りたくなる擽ったさ。口の中を他人に触られる、侵略される未知の感覚────快感。

 

「んんっ!? ぐっぷ、んっ、ふぶ、ぅ!?」

「碇さん、歯並び綺麗ですね。歯茎も張りがあって、つるつるしてます」

「んおっ! ん、ひ、ぎゅ……!!」

「でもほら、これ。犬歯がちょっと丸いんです。前歯も控えめ。手の歯形とぜんぜん違う。ぜんぜん違うんです。ねぇ、碇さん」

 

 歯の一本一本の形状を検めるように、丁寧に丁寧に丁寧に、指が口中で蠢く。這い回る。

 唾液がだらだらと溢れて、口の端から、サクラさんの指の間から、顎に、首筋に、掌に、手首に、垂れて流れる。普通ならあり得ない刺激が唾液腺を突きまわし、涎はやたらに粘ついていた。

 ぐぷぐぷと泡立つ。ひどく水っぽくて、下品な音がした。

 かっと、血が上る。羞恥に、戸惑いに、混乱に。

 赤々と染まったであろう僕の顔を見て、サクラさんは微笑んだ。瞳が潤み、まるで、そう、恍惚として。

 何か、ひどく堪らなくなる。まったくもって抵抗の意思表示などではない。反射的に、彼女の指を噛んでいた。

 

「っ」

「!」

 

 一瞬、サクラさんは目を閉じた。驚きか、痛みか。

 慌てたのはむしろ僕の方だった。噛み合わせた歯を開く。にちりと、肉と皮の弾力の歯応えがした。

 サクラさんは────また、笑っていた。頬を朱に染めて、優しげに。あるいはまるで。

 

「もっと」

「……」

「噛んでもええんですよ? 痕が残るくらい、強く。血が出るくらいに深く……式波少佐がやらはったみたいに」

「っ!?」

 

 喜ばしげな顔で、そんな表情とは裏腹な低く、昏く澄んだ声で。

 ゆっくりと押し倒される。ベッドに仰向けになり、サクラさんはその上に馬乗りになった。

 ほんの少し前にアスカが僕にそうしたように。

 行為全てなぞるかのように。

 違うのは、この口の中の指。細いサクラさんの指が、僕の舌を撫でる。愛おしむような、柔い指使いで。

 

「しるし、なんです」

「ん、んっ、ぶ、ふっ……んぇ、あっ……?」

「これはしるし。あの人が碇さんに刻んだ所有権の宣言です。私にはわかります。そういう想いが、透けてますから……何様やねん。何を、今更……どいつもこいつも……碇さんが目ぇ覚ました時、なんもしてあげへんかった癖に、向き合うの怖がって近寄りもせぇへんかった癖に……」

 

 譫言めいた呟きの数々、そこには紛れもない怒り、怨嗟が木霊した。

 彼女がどうしてこんなにも憤るのか、僕には理解できなかった。その矛先が自分でないことが、ただただ不可解で。

 戸惑うばかりの自分の様子を見て、サクラさんは寂しげに笑った。そうして、そっと指を引き抜かれる。

 他人の熱が口内から消える。久しぶりに訪れた自由は、けれど何故か無性に寒々しくて、奇妙な寂しさを覚えた。やっぱり僕はどこかおかしいのだろうか。おかしく、なってしまったのだろうか。

 異常なことをされたのだ。非常識で、無体なことを。

 だのに、怒りは湧いてこなかった。僕を見下ろすサクラさんの、その弱弱しい微笑が、ただ労しい。

 サクラさんの指は僕の涎ですっかりと濡れていた。その、汚れ切った指を彼女は、舌を這わせて、舐める。

 

「っ!」

 

 また心臓が跳ねて、血流に乗って熱と羞恥が全身を焼く。

 顔を背けても、指をしゃぶる水音が耳を濡らす。

 

「碇さん」

「………………」

「もう、自分を傷付けないでください。傷と痛みで証立てなくても、碇さんはずっと苦しんどるやないですか。ずっと……ずっと……もし、それでも、耐えられへんのやったら」

 

 頬に両手が添えられる。背けていた顔を引き戻され、彼女を眼前にする。

 サクラさんの笑顔。優しい色を滲ませた……それこそ慈愛、そんなものを錯覚するほど暖かな色が。

 

「私を見てください、碇さん。だって私は────あなたが傷付けた最初の女です。あなたの最初の罪は、私です」

「………………」

 

 心臓が止まる。その、今更の、当然の、罪の所在を聞いただけで。

 僕への断罪を告げている。刃。彼女の慈愛の刃先が、胸の奥を抉る。

 

「私を見てください。私も、あなたを許さずに、あなただけを見てます。あなたが罪を忘れないようにずっと、ずっと見てます」

 

 柔らかな手付きで頬を撫でて、まるで赤ん坊を寝付かせるように彼女は囁く。

 許さずの誓い。とても愛おしげに僕を糺す。正しい義憤で人を罰する女神。昔、歴史の資料で読んだことがある。そう、あれはたしか……ネメシスという。

 まるで女神のような微笑を浮かべて、サクラさんは罰を下した。

 

「だから私を見てください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦長室などと。

 部屋の間取も造りも、一般クルーに宛がわれた私室と然したる違いもないこの空間をそのように呼ばわるのは如何にも大仰だ。

 空中艦隊旗艦の長たるこの身が今、腰を据える椅子に権威を顕すものはない。良く言えば極限まで機能性を追求された、悪く言えば飾り気も可愛げの欠片もない簡素で、貧相なオフィスチェア。

 権威? 馬鹿な。傲慢に何が誇れる。こんな自分が、人の上に在るなどと。

 自分はただの集団統率装置。それ以上でも以下でもない。

 

「…………」

 

 肩書きではなく、我が身の分相応の椅子(ポスト)に座り、各セクションから上がってきた報告書、分析結果、戦術・戦略立案等々に目を通す。懸案事項は山とある。私事などというゆとりを忘れて全てを責務に費やしてきたつもりだが、それでも人間種に与えられた時間は少なく、儚い。

 気が付けば14年経っていた。いつしか年月を数えることを止めて、過ぎ去っていく、消え去っていく何もかも、誰も彼も、見ないふりをし続けてきた。

 それを逃避と謗られて、どうして否やと嘯けよう。

 全ては、ネルフを、ゼーレを、その計画を挫く為に。人類存続、生命守護の為に。

 大それていた。しかしやらねば、ならなかった。

 それらを為し遂げる為に、心を殺し、機械のように在り続けてきた。人が人らしく人として享受する多くを擲ち、排して…………馬鹿馬鹿しい。全ては自己満足。己の罪の精算に過ぎない。

 罪悪への償い。購いだ。

 人類を代表して公の大義を謳うが如き厚顔無恥を称し振る舞えるほど、自分の精神は強靭ではなかった。

 現人類の、世界の、この有り様は。生命死滅のドミノ、その最初の札を倒したのは────()()()()のは。

 

「………………」

 

 何万回繰り返したかもわからないこの思考、確認行為、罪状の列挙、刻印、忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな、断じて。

 私が、背負うべきものだった。

 間違っても彼に、あの子に押し付けることなどあってはならなかった。それなのに。

 

「………………」

 

 端末に表示されているのは、他の報告文書とはやや毛色の異なるもの。日誌、と表する方が適当かもしれない。

 『BM‐03医務管理記録』

 そこには治療記録(カルテ)とは別に、担当医官の素朴な所見が記されていた。日々の情景、その時々、彼の──碇シンジの様子を筆者の主観的所感に基づいて、詳細に、克明に。

 “食の細さが気懸かり”、“眠りは浅く床に入っている時間も短い”、“身体の数値的健全化より、メンタル面の健康に要注力”、“食事量に改善の傾向”、“ストレス性の腸炎か、腹痛、下痢、微熱”、“自覚した体調不良を隠そうとする!”、“拒食、嘔気、経過観察の必要有り”、“主計科より縫製・修繕作業を請け負う。体調管理を最優先に、作業量の調整を”、“軽作業はメンタルケアに効果を認む”、“一日当たりの嘔吐回数は減少傾向”、“当初に比べて口数が増している”、“会話への積極性……今日は彼から話し掛けてくれました”、“表情に明るさが……少しだけ、笑顔を見せてくれました”

 

 “碇さん、頑張ってます”

 

「………………っ」

 

 だのに今、この瞬間にも。

 重く背骨を潰されるように、苦しみ悶え、責め苛まれ、あまつさえその責め苦を甘受している。少年は罪を食んで、罰で自らの腑を焼いていた。

 

 ────“自傷行為の形跡有り”

 

「っ! く、ぅ……ぁ……あ……あぁっ……!」

 

 そこには少年の日々が描かれていた。少年の苦悩、少年の苦悶の表情が目に浮かぶ。

 同時に脳裏に過る。忘れ得ぬ彼との日常が、あの、帰らずの安息が。

 それが今や。今、私が彼に強いているものは。

 自身の胸倉を掴む。その奥で安穏と鼓動を刻む肉の内燃機関、それを抉り出す思いで。

 

「シンジくん……シンジくんっ……!」

 

 

 

 

 

 

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