サスペンションが軋む。一瞬、シートから尻が離れるような浮遊感。うっかり隆起したアスファルトを減速が間に合わず勢い乗り越えてしまった。
「……ふぅ、危ない危ない」
冷やりと背筋を汗が伝い、酸素マスクに溜息が篭る。
舗装された道路とはいえ、メンテナンスを行う者が絶えて久しい。文明社会というやつは雑多で膨大で広範な癖に、殊更にデリケートときてる。
たかが十四年。それでも風化して崩れるには十分だった。
家屋の残骸、ビルの折れ残り、錆びた鉄塔がジャングルジムのようにひしゃげてこっちにお辞儀している。そして全ては赤く、煮染めたかのように赤く、赤く、赤い。ヘッドライトに照らされた暗闇から浮かび上がるものは赤。赤のみ。
市街と住宅地の狭間で見る光景はどこも概ねそのような有り様。いや、地上に
見上げれば、夜空の只中で鉄塔が回転している。30メートル近い金属の骨組みが、ゆっくりと、自転する惑星の様相で。実際、重力を無視しているのだ。地球の引力の影響から如何にしてか離れて、赤い光に軸だか座標だかを固定されてしまった物体が、他にも数多。其処彼処に溢れている。
L結界と呼ばれるこの赤い汚染空間において、正常な物理法則なるものは通用しない。
捻じれ、狂っていた。あるいは清浄で、澄み渡っていた。原罪を背負い、穢れ切った人間にとってここはあまりにも。
この分厚い防護服がなければ人は人としての形状を保てず、
「……」
村の近縁の地形の測量や環境変化の調査、その帰路。
老朽化の激しい路面を注意深く噛むようにジムニーを走らせる。数センチのハンドル操作ミスが文字通りの命取りなのだ。
相補性L結界浄化無効阻止装置、俗に封印柱と呼ばれる黒い円柱によって守護された領域だけが今、人類に許された生存圏だった。そこから一歩外に踏み出せば、人間を拒む赤い世界が延々と地球上のほぼ全域に広がっている。
アクシデント一つで、簡単に融けて崩れて終わる場所。ここがそんな禁域であること、それを決して忘れてはならない。
それが今の世界の現実。
そんな世界に、あいつは戻ってきた。
この赤いばかりの大地に、鮮やかな群青の星空から。衛星軌道に幽閉されたエヴァ初号機と共に、十四年ぶりの帰還を果たした筈だ。
先のUS作戦、失敗の報は届いていない。あくまで民間協力者に過ぎない自分に作戦の成否やその詳細が逐一明かされる訳もないが、それでもヴィレ直下の支援組織クレーディトを通してその大まかな動き程度は知ることができる。式波から便りが無いのは……いつものことだが。つまるところ元気には違いない。
式波に変調が無いなら、彼はきっと地球に戻ってきている。
この、ひどく歪んでしまった世界に。
「はぁ、クソ……」
友達が帰ってきた。それを心から喜んでやれない。その不実に歯噛みする。
彼が無事であることを願う心持ちに偽りはない。会いたいと思う。会っていろんな話をしたいし、聞いてやりたいと思う。けれど。
けれど同時に、どうしようもなく思う。思ってしまう。
碇シンジは、帰って来るべきではなかったのではないか、と。この世界の有り様を知り、まざまざと目の当たりにした時、彼の心はどうなってしまうのか。
何も知らず、あの夜空の向こうでこの星を見下ろしていた方が、あるいはずっと、彼にとって。
「……なんてな」
馬鹿らしい。自分の弱気で愚昧な世迷言を鼻で笑う。
トウジに聞かれた日には『アホぬかせ』なんて怒鳴られそうだ。
十四年間忙殺されてきた。ただ一つ、生きるというその行為だけに。第三村を興し、人々の生活基盤が出来上がってようやく思索に耽るなんて余裕が生まれた。
悪いことなら幾らでも湧いてくる。しかしそこには何の生産性もない。脳のカロリーの無駄というやつだ。
彼がもし村を訪れたら暖かく出迎える。秘蔵のどぶろくで、トウジと親父さんも交えて飲んだくれてもいい。トウジとあの委員長の馴れ初め話を、本人達を前に開陳してやってもいい。さてはてどんな顔をするかな。
こんな世界で、それでも友達と再会できた。それを目一杯祝えばいい。
────現実も悪いことばかりじゃないんだぜ、碇
まだ見ぬ友人に会えたなら、何を言ってやれるだろうか。そんなことに思考のリソースが偏った所為だろう。
一瞬、ヘッドライトに過った影に反応が遅れた。
「!?」
ハンドルを切る。右前方へ躱す。
路面にタイヤを削られ、後輪が滑る感触をシート越しに味わう。縁石を乗り上げながらしかし、幸いにも回避した先は空き地だった。錆より赤い地面にタイヤ痕を盛大に刻み制動する。
即座車を飛び出すような真似を堪え、助手席のバッグに手を突っ込む。探るまでもなく掴み出した黒光りのグリップ──H&K製自動拳銃を手に、ゆっくりとドアを開け、外へ。
封印柱の効果が少なからず及んでいるとはいえ、近辺のL結界密度は人類の許容限界を優に超えている。だが、先のあれは確かに……人影だった。それも防護服を纏ったような大柄なシルエットではなく、人の頭と手足の形を認められるほどの軽装。
人の形をした“人でないモノ”である可能性を考慮しなければならない。有り難くもないことに、今の御時世そういったモノが在り得るのだ。
よしんば人であったとして、こんな時刻、こんな禁域を出歩くような人種がまともである保証はない。
そうして自分の思考に苦笑する。
(人の敵は人、か……)
そんな事実には慣れ切り、飽き切っている。うんざりするほど。この十四年で、十分過ぎるほど。
埒もない感慨に区切りをつけ、頭部のフラッシュライトを点灯させる。視界は良好。銃を構え、片側二車線の道路の反対車線にライトと視線を向ける。
歩道には複数台の自動販売機が設置され、赤い雑草や苔がそれらを取り巻くようだった。
そのすぐ傍に、それは横たわっていた。
シルエットばかりでなく、それは黒いカラーリングの。
「! プラグスーツ」
すっかり見慣れたものだった。
式波は私服に無頓着、というより必要性だの感心だのを失ったのか、家では専ら襤褸切れのようなシャツかパーカーを素肌に羽織るだけだ。その際、乱暴に脱ぎ捨てられた彼女のプラグスーツをよく片付けたりしたものだが。
黒いプラグスーツ姿。そして照らし出したその顔を見て、思わず銃口を下げた。
青みを帯びた白い髪。病的に白い肌。2年A組の窓際の席に座り、彼女はいつも物憂げな表情で外を眺めていた。その姿を頻りに気にする少年を、トウジと一緒に茶化したりした。
困惑と同じほどに溢れ出す懐かしさ。その名は、ごく自然と口からこぼれ落ちていた。
「綾波……?」
十四年前から何一つとして変わらない。それは級友の少女の姿をした、誰かだった。
BM-03用隔離室、四角い金属製の骨で組まれたガラスの箱の中。
消灯した室内は、非常灯の朧な光が照らすばかりで仄暗い。先達て戦時特務少佐の暴挙から新調されたベッド、その脇に据え置かれたパイプ椅子に腰掛けて、少女はじっとそれを見ていた。
ベッドで寝息を立てる少年を見ていた。
碇シンジを鈴原サクラは見詰めていた。
目覚めてより少年は慢性的不眠症だ。入眠困難であることは勿論、睡眠剤を投与しなければ彼は延々と縫製作業に従事するか、あるいは端末でニアサーの記録を貪り続ける。身体が物理的機能不全を起こすまで、おそらくは永遠と。
薬剤によって齎された眠りは、けれど安寧とは言えない。寝入ったかと思えば、頻りに少年の顔は苦悶を浮かべ、喉奥からは掠れた呻きが漏れる。毎夜毎夜、少年は魘されながらに眠る。焼かれるように、溺れるように。おそらくは記憶が、彼が自ら脳に刻み込んだあらゆるものが、彼をその夢の中で呵責している。
夢の中にさえ彼の安息はなかった。
脂汗を垂らし、浅く息せき切らす少年の喘鳴。
額や首筋の汗をタオルで清拭し、時にはその手を握って、私は少年を見守る。
少年を見ている。
彼を見詰める。
一晩中、ずっと。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。
「っ……ぅ、あ……はっ、ぁ……」
「……」
苦しみ、悶え、震え、歯を食い縛り、時には涙すら流して。
揺れ動く瞼の裏に、きっと少年は地獄を見ている。己が犯した罪を見ている。
その様が、その姿が、私は、私には。
「あぁ……碇さん……」
愛おしくて、愛おしくて堪らない。
罪を知り、罪を思って苦しむ貴方がいじらしいんです。労しいです。でも、どうしようもなく、その姿を見る度に、苦悶の声を聞く度に。
この胸は救われます。この胸に熱い熱いものが溢れてくる。
喜悦だった。それは仄暗い、どろりとしたコールタールのような、穢らわしい感情だった。それは明らかに、憎悪の充足だった。憎い者の苦しみを祝う、最低最悪の業だった。
愛欲だった。自分の罪科を疑わず、逃げもせず、拒みもせず、針を呑むかのように辛苦し痛む少年が、ただただ愛おしかった。一度この胸に掻き抱いたなら永遠に離さない、放せない、そんな確信すら過るほどの。
「碇さん……碇さん……私、私は、最低な女です……醜い人間なんです……」
少年の頬に震える手を添えて、少年の意識が無いのをいいことに私は無責任な懺悔を口にする。繰り返す。
脳内をリフレインするのは、あの赤い少女の言葉。
────別の“欲”で、あいつに触れようとしてるなら
彼女には見透かされていた。自分の心の奥底で煮詰まるこの感情、欲望を。
憎悪と同じほど、愛惜が募った。悪夢のような記憶を思い起こすほど、昔日の憧れは強くその烈しさは止め処なかった。
少年が苦しむ姿に愛憎が満たされていた。少年が苦しめば苦しむほど、心は悦楽で満ち満ちていった。
「私、私て、こんな、こんな醜悪やったんですね……」
自覚などとうの昔からあった。けれどそれを言い当てられて、それを断じて許さないと宣言されて、ようやくその罪深さを思い知った。
「…………」
そうして今、少年を前に私は途方に暮れる。
罪を知って欲しかった。それがどんなに、他にどうしようもない、やむを得ない事情の末の、犠牲だったのだとしても。
もう不幸になって欲しくなかった。貴方は優しい人だから、追い込まれるだけ耐えてしまう。壊れるまで我慢して、結局全てを失ってしまう。
幸せにしたいと、思った。本当に、心から。
────同じほどに、苦しむ貴方が愛おしかった。
「ッ! ッ! ッッ!」
頭を抱えて、両手で頭蓋骨を押し潰す。その程度で砕ける訳もない。その内側に据わる悪性の脳味噌を握り潰せる筈もない。
私は、私がわからなくなった。何がしたいのか。彼を、どうしたいのか。
わからない。
「碇、さん……」
苦痛の眠りの中に在る少年、その手を今一度握る。
少年は強く、強くこの手を握り返してくれた。それがたとえ、溺れる最中に掴んだ藁と同じ意味であったとして。
私の心はひどく、満たされた。
私はまた一つ、自分が嫌いになった。