針が布地を通って、引き抜いた糸が衣擦れを起こす、音とも呼べない音がする。
聞こえてくるのはほんのそれくらい。隔離室はひどく静かだった。ほとんど密閉されているこの箱の中からでは、臓器のように犇めく機械装置の鳴動すら遠く隔たれている。
それでも時折、耳を擽るのは。
左膝の上にもたれる少女の微かな息遣い。傍らで上下する胸。その奥底で、鼓動。
己の顎先から頬をなぞり上げ、注ぎ込まれる彼女の視線。感触さえ伴う光。青い光。
アスカが僕を観察する。
けれどそれは罪人を見張る看守というより、子供が草花を眺めているような素朴さで。
「エヴァに、乗ってたの?」
「あんたに作戦内容を知る権利はないけど、聞きたいなら教えたげるわ」
「ん、ごめん。ならいいよ」
「そ。まあ、そうね。完勝だったとだけ言っとく。独り言よ」
「そっか」
もたげた心配は筋違いで、口が裂けても────とは言えないけれど。事も無げな曰く独り言に、否応なく安堵を覚えた。
あぁ無事で────
穏やかだった。溜息が出てしまうほどに、穏やかな時間。
分不相応だ。こんなもの享受する資格はない。それも、よりにもよってアスカに……そうわかっているのに。
卑しく安らぎを噛み締める自分がここにいる。
「……ふ」
不意に、蝋燭の灯を吹き消すような吐息。それはどうやら笑い声だった。
アスカは僕を見ながら笑った。明らかな嘲りと僅かな呆れ、もう一滴、憐れみを添えて。
「まるで叱られた後の犬ね。今のあんたの顔」
「……そうかな」
「そうよ」
小馬鹿にしたその言い様を受けても、苛立ちや憤りはない。ただ嫌気が差す。この期に及んでまだ、自分は他者の憐れみを乞うことに腐心しているのではあるまいか、と。
惨めに振る舞えば誰かが優しくしてくれる。構ってくれる。声を、言葉を、心を向けてくれる。
そんな浅ましい願望が必死になって表情筋をそう形作ったのか。
「そうやってまた百面相。くふっ、ふふふ」
「っ!」
「背けるな」
羞恥で逸らせた顔を、顎を掴んでまた下へ向けられる。見上げる少女の瞳に晒される。
「見せろ」
「っ……!」
冷ややかな声だった。今度こそは受刑者を咎める看守の冷厳さ。
でも、瞳は。
この目に注がれる光は、火傷を幻覚するほどに熱い。遠からず眼球がぐずぐずに煮崩れてしまいそうなほど。
特に、どうしてか、黒い眼帯に覆われている見える筈のない左目が……ある筈のないその目が。
刺すどころの話ではない。視線は針と糸を備え、ぐちゃぐちゃに雁字搦めに巻き付き纏わり僕を固く縫い止める。
妄想だった。それも
自分が潰した、みすみす喪わせたも同然のそれをして、何を考えているのか。
動悸がする。口の乾きと喉奥を塞ぐ嘔気。
震えそうになる唇を一噛みで押さえ付ける。
自分は今、さぞ奇妙な顔をしていただろう。けれど、アスカは。
歯を剥いて、口の端を引き上げて、
「そんなに怖い? これ」
こつこつ、赤い指先が眼帯の表面を爪弾く。
「怖くなんて、ないよ」
「嘘」
「う、嘘なんかじゃ」
「あぁ別にびくつかれるのが不愉快ってんじゃないわよ」
「?」
ころころと少女は上機嫌に笑う。
アスカが笑う。笑ってくれている。
「あんたには関係ないって、散々言ってやってるのに」
だのに積み上がるのは不安ばかりだった。
眼下に横たわる少女に見下ろされるという矛盾。
心弱いからだ。後ろめたいからだ。罪悪感で全身の皮膚という皮膚を掻き毟り剥ぎ取ってしまいたい。そんな夢想に逃げ込むくらいに、惰弱。劣弱だから。
正視できない。少女の笑顔。その左目。左目が。アスカの綺麗だった青い目が、もう、もう。
「ダメ」
「だって」
「目を逸らすな」
「僕が」
「もっとよ、もっと」
「僕がっ」
「もっと痛がれ。私がばらされた時と同じくらいに」
「ひぎっ……ぃ、う゛……!」
喉で悲鳴が反響する。食い縛った歯列の隙間から漏れ、それは唾液混じりの異音に変わる。
唾液の飛沫が、粘る涎の糸がアスカの頬を汚す。
咄嗟に謝罪の言葉を探して、塞がれた口から何も吐き出せないことに気付く。
顎を掴んでいた手が、いつの間にか口唇を覆っていた。頬骨を掌握し、頬の肉を親指と残り四指で押し潰し、眉間に指の腹を滑らせ、目の下、鼻の下、唇の際、口の端をなぞり、弄る。顔面の造形、輪郭、凹凸から各パーツのスケール、材質まで、全てを指と手で検めるように。
この顔の形作るものをつぶさに、余さず、触診されている……いや、違う。違うのか。そう。
────味わってるんだ。
指先を舌に代えて、アスカは僕の表情に映える感情を食べていた。
「『許さなくていい』あんたが言ったことよ。だから“私”はあんたがどんなに苦しんでも、痛がっても、泣いても叫んでも許してあげない。
「…………」
不断の宣言。その言葉通りの、永劫不動の誓い。
驚くべきことだろうか? 否。当然のことだった。単純な確認行為なのだ。これは。彼女はただ、彼女が持つ正しい権利を、義務者に対して履行しているに過ぎない。
罪に罰を。過ちに報復を。痛みには、痛みで。
僕が彼女に強いた喪失を、彼女は僕の苦痛で埋め合わせる。
正しい。アスカは、昔からずっと正しい。
赤黒い過ちで世界を汚濁させ混濁させた僕は、整然とした正しさに餓鬼の如く飢えていた。突如、天から降ってきた桃を押し戴くかのように。
僕の肯きを掌に感じたのだろう。笑みを口端に刻んだままアスカが瞠目する。
「へ、へぇ……じゃあ」
腹筋運動だけでアスカは仰臥から起き上がった。
そのままの勢い、素早さで、僕の手から裁縫針を奪い取った。その右手に糸を通した針。左手では僕の右手を掴み。
アスカの右手に針が掲げられ、赤い糸が宙に踊る。そうして尾を引きながら。
掴まれた右手がアスカの左手に包まれる。指が絡み、まるで恋人同士がするように。プラグスーツ越しに体温を感じた。熱い。熱い。烈日の出会いを思い出させる。
「これでも?」
握り込んだ針をアスカは叩き付けた。まず自分の左手に。
そして、畳針で畳を射貫くのとほとんど同じ所作で、僕の右手を貫いた。あろうことか、自分の左手ごとだ。
「ぎっ……がぁっ……!?」
「これも言ったわよねぇ!? 何度でもつけてやるって! さあ!」
「っ!?」
掌の中心近く。人差し指と中指の骨の隙間を正確に狙い打たれている。裁縫針なんて所詮数センチ程度。けれどその短く些末な筈の針は、しっかりと二人分の皮膚と肉を貫通してみせた。
「傷なんて、どうせ薄れて消えるし。なにかと小五月蠅い医者もいることだし。お誂え、針に糸までついてる────このまま縫い付けちゃおっか」
そう、おどけて笑う。お世辞にも正気の沙汰ではないことを、ひどく優しい声で、息を呑むほど可憐な顔で。ママゴトの最中に新しい思い付きを披露する子供のようなあどけなさ。
彼女は今、間違いなく十四歳の少女だった。
その幼気な少女が針で掌を突く……過言でなく猟奇的だ。
何故、とは問わない。問う資格がないし、尋ねるようなことでもなかった。
自分はこうされて当然だから、彼女はこうして当然だから。
でも。
それでも少し、この愚鈍な脳味噌をフル回転させどうにかして目の前の赤い少女を慮ってみる。
思い返す限り、彼女に格別な嗜虐趣味なんてなかったと思う。言動は常々乱暴で、傍若無人に振る舞ってみせても、自信家ではなく自負で、自分の能力を誇る。矜持に懸けた生き方。
式波・アスカ・ラングレーとはそういう少女。そういう気高い人だった。少なくとも、僕の記憶の中で。
そして目の前の人は、間違いなくアスカだ。
長く、そしてきっと途方もないくらい濃密な戦いの日々を乗り越えて磨かれた精悍さの中に、その奥底に、あの日、あの出会いの時に見た烈日のような有り様がある。
変わらず、ここにある。
変わらない彼女は言った。許さないと。
殺してやるでも、居なくなれでもよかった。言葉を交わす必要だってない。この隔離室に飼い殺して、勝手に衰弱死するのを放って置くことだってできた。
彼女は僕を許さない。その痛みと苦しみで贖うと言った。剣のように研ぎ澄まされた
僕に、その価値を認めてくれたんだ。
それは、僕にとってどうしようもなく、泣きたくなるくらいの────慈悲だ。
その慈悲にどうして報いずにいられる。拒絶など思考の隅にも上らない。他者を怖れて拒み続けたこんな僕が、心の壁を自ら踏み越えてでも縋り付いたものがそこにある。
この手の中に。
僕はそっと、アスカの手を握り返した。針の痛みが血の雫と一緒に溢れて、流れる。
「っ! ぁ……ぁ……!」
アスカは一瞬、か細い悲鳴のようなものを漏らして、破顔した。笑っていた。獰猛に、肉食獣めいて
その笑みは、けれどどうしてか、まるで泣いているみたいで。
泣きじゃくる寸前の子供みたいで。
それがひどく胸を衝いた。
針が手錠で、糸は鎖。そう嘯くにはあまりに儚いけど、これが彼女の望む罰ならそれでいい。それで正しい。
ようやく一つ“正しい”ができる。
────扉がスライドした。空圧の抜ける音、そして金属が擦れ合う雑音。
開き切らない扉を無理矢理に押し退けて、その人は室内へ駆け込んで来た。
白衣代わりの白いワンピース姿。彼女は、サクラさんは手にした容器を振るい、その中身を目の前の僕らへぶち撒けた。
赤い液体が視界を染めた。
肩で息をして、狭い室内に満ちる消毒液の匂いを頻りに吸い込んだ。
ベッドシーツ、そこに腰掛けた二人、特にその間で繋がれた手と手、赤いイソジンがより無惨に何もかもを彩っている。
「サクラさんっ……」
少年はこちらと、こちらの暴挙に心底驚いて、次いで何かを口にしようとして失敗した。
片や、傍らの女。式波・アスカ・ラングレーは依然として、薬品に塗れながら笑みを絶やさない。むしろより一層深め、歪めて、私を見ていた。
勝ち誇ったように──そう見えるのは、私の妄想だろうか。内燃する感情が陽炎を作り、現実を歪んで見せて。
違う。
違う。
違う。
断じて、妄想なんかじゃない。
「ハッ、案外遅かったわね」
「式波少佐、碇さんから離れてください」
「補給・回収作業に衛生科まで駆り出されて、日課の覗き見する時間も無かったって訳だ」
「離れて!」
赤い少女が部屋の四隅を順々に視線でなぞる。
監視カメラの位置を彼女が把握していたところで何も驚くに値しない。医務官は対象者を看護するのが仕事だ。かの少年を看て護るのが私の使命だ。
だから、これは。これは当然の、当たり前のこと、で。
すっくと、アスカがベッドから腰を上げて私に詰め寄った。後退ろうとしたところを、襟首を掴まれて無理矢理引き寄せられる。
そうして、耳元にその唇を寄せて。
「知ってんのよ、あんたがこいつをオカズにしてること……」
「────」
気付くと平手で少女の頬を打っていた。
彼女は避けなかった。避けられたのに、わざとそうしなかった。きっとそうだ。
だって、打たれた方の口角を引き上げて、この女は心底愉しげに笑っている。
「ぷっ……なんだ、図星なんじゃない」
「アスカぁ……!!」
青い片目を睨み上げ、私はポケットの中で“グリップ”を握った。