艦長室の空気は重い。
この狭い空間を占めているものは鉛のような無念であった。女は肩身を震わせ、握り固めた拳を軋せた。
デスクに開かれたノート端末には、今も映像が流れ続けている。現在時刻と進行する録画時間、なによりそこに映し出された三名の姿が、そこに広がる光景が今まさに起きているということを如実に表している。
葛城ミサトはおもむろにバイザーを剥ぎ取る。黙して壁に背を預けていた赤木リツコの胸倉を掴み上げ、その眼で対する女を睨みつけた。
「リツコッ! あんた……!!」
「間違った判断を下したとは思ってないわ」
「だからって!」
「貴女には、もう無理よ」
「私が……私がやる。私が、やらなくてはいけないことなの。私は十四年前にそこから逃げた……あの時、本当は私が、私があの子をっ……」
「貴女にシンジ君は殺せない」
「ッ!」
予断を一切排したリツコの見解は反論の余地すら絶無。
ミサトの声は喉奥でひしゃげ、行き場を失くした。怒りが、体内を焼く。その炎の名は自己嫌悪という。
指先から力が抜け、よろめくように一歩後退る。
デスクに体重を預けたミサトをリツコは乱れた襟元も直さず静かに見下ろした。
「……余計な手間、取らせたわね」
「スターターを複製することは元より視野の内だった……すべき仕事をこなしただけよ、私は」
「ええ、いつも……いつもそうだった。そしてまたあんたの仕事の完璧さに助けられた」
「あら、じゃあ感謝の一つもしてくれる?」
「そうね。死ぬ間際だったら考えてもいいわ」
「ふふ……ならそう遠くはなさそうね」
皮肉にすらならない。
女達は仄暗く笑みを交わした。
数分にも満たない映像の中で演じられた復讐劇の未達は、艦内に悲喜交々の波紋を呼びヴンダー延いてはヴィレの組織力に大きな影響を与え……といった事態へは、幸か不幸か至らず。
それから暫く後、僅かな異論を差し挟まれることすらなくあっさり終結を迎えたのだった。
その結末を甚だ意外だ──と、当のクルー達自身が冗談交じりに
さらに、あの映像の拡散後、離艦希望者の数が減少したことも、艦長、副長他、各セクションで統率の地位にある者に少なくない驚きをもたらした。
ヴィレは正規の軍組織ではない。構成員の多くは軍属の経験すらない民間技術者だ。義勇兵といえば聞こえも良ろしい、危急存亡により選択の余地なく追い立てられ集められた民兵集団。それがヴィレの実態。
少年の姿が人々の義侠心を打った、などと馬鹿げた妄言はまともな羞恥心を備えていれば口にするのも、されるのも憚ろう。大義を謳う者などいない。彼ら彼女らの根底にある願いは、どうしたところで怨敵への逆襲、それただ一つなのだから。
しかし、事実としてヴィレは健在だった。北上ミドリに倣い
「俺らだって、そこまで暇じゃないっすからね」
「ふはっ、違いねぇ。このじゃじゃ馬エンジンのご機嫌伺いで毎日忙しいったら」
「私の仕事は操舵でネルフに殴り込むことですから」
秀でた人格者はいない。全ての罪を赦せる聖人など存在しない。理由も理屈も理性も心を上回ることはできない。憎悪は胸に、喪失と絶望の記憶は今なお赤々とこびり付き離れない。けれど。
────けれど戦わねばならない。殺す為に? 守る為に? 否、生き残る為に。
「人類の黄昏に行き会って人が成長したのか、それともこれが人を人たらしめる資質なのか。議論の余地はありそうだけど」
その発露が消極的かつ消去法的に選択されたものであっても、
「ふぅむ、先生かユイさんに意見を仰ぎたいところ。いや言わずもがな、なのかにゃー? あの人らに言わせりゃ」
これは、ただそれだけの話。
ちなみに、徒な、けだし悪戯な愉快犯的情報漏洩を犯した真希波・マリ・イラストリアスには懲罰として向こう一年、新たな紙媒体の書籍の入手および閲覧禁止令が下されたそうな。
「わっつはぷんっ!?」
小型輸送艇の船室、そこにぽつんと空いた丸い覗き窓から巨大な鯨の腹を見上げる。
つい先程まで自分が収められていた胃袋の持ち主。ヴンダーと呼ばれる飛行艦、早気付けば僕らは外に吐き出されていた。
「ほえ~、外から見るん久しぶりやわ~。やっぱ大っきぃわヴンちゃん」
傍らで同じように空を仰いで、サクラさんが感嘆の声を上げた。
エヴァ初号機を主機、心臓にして動く巨大戦艦。実際に乗り、内部で少なくない時間生活して、こうしてその全貌を目の当たりにしてもやはり一向に、実感は湧かなかった。あの中に今も初号機が……綾波がいるということも。
僕は、彼女を置いていく。そう感傷に浸っていい筋合いなのかももうよくわからない。彼女を助ける為の行動が結果として災禍を呼び、地獄のような世界を生んだ。勿論、彼女に一切の過失はないし、彼女を救い出したことが間違いだなんて絶対に思わない。
過失、僕の過ちに、彼女を巻き添えにしてしまった。結果論だけど、つまりはそういうことだ。
初号機と僕と綾波。あの時、コアに融け合ったものの中で、僕だけが外界に吐き出された。おめおめと、のこのこと。
人の形を取り戻して、人の世界に再び生きることを許された。
だから僕は、やはり彼女を置いていくんだ。
無責任に勝手に助けて、無責任に置き去りにして行く。
「碇さん……?」
「ぁ、はい。なんですか」
心配そうな顔が覗き込んでくる。注意深く、まるで目の奥まで
「じぃっと艦の方見とるから、どないしたんかなーて」
「い、いえ、なんでもないです。ただ、その……この先また、乗る機会はあるのかなって」
「……なぁんか後ろ髪引かれとるみたいな言い方ですね」
「そ、そうかな」
「はい」
一言ごとに声色が詰問染みていく。気に障ることを言ったのか、そんな態度を取ったのか。生憎どちらにも心当たりはなかった。
やや理不尽を覚えながら、上手い言い訳を脳髄に求めて、ふと。
「あの、サクラさん」
「残念ですけど、もう一度この艦に乗せてくださいは無しですよ」
「い、いやそうじゃなくて」
サクラさんは今や患者を叱る医師の貌。たじろぐような愛想笑いで実際身を退きながら、脳裏には別の記憶を思い起こしていた。
無責任、無責任な謝罪。
結局、謝罪を投げ付けてそれきり、僕は未だあの人と会話も、満足な言葉を送ってすらいない。
もう会うこともない……リツコさんがそう言うなら本当にもうこれで、下手をすれば今生の、別れなのだ。
────葛城を守ってくれ
「…………」
いつかの、晴れた青空の下で嗅いだ土の匂いを思い出す。不意に交わした約束を。
何もできなかった。僕にしかできない、あの人は無念を呑んでそう言ってくれたのに。
「電話を、させてもらえませんか」
艦長室。執務用のデスクの上で端末が鳴動する。
手に取り画面を検めて、微かに訝しむ。
「守秘回線……?」
業務・特務の連絡は専ら有線の据え置き通信機が用いられる。流石に現代の無線通信網をして脆弱とは言うまいが、物理的作用を除いて破断しない有線通信への信頼度は未だ厚い。となれば、こんな個人用の無線端末に寄越される連絡は、十中八九
ただの電話が鳴ったのは随分久しぶりだった。
送信者の登録者番号は、鈴原サクラ少尉のそれ。今頃はこの足の下、あるいは地上に降着済みやもしれない彼女が今になってなにを。
「葛城です」
『作戦行動中に失礼します。さ、碇さん』
『は、はい……』
送話口から僅かに聞こえた声で、心臓が四半段動きを早めた。
一吸い、鼻から気息を胸に溜め、それを鎮める。
『も、もしもし』
「……なにか。要件があるなら手短になさい」
声を冷やし、言葉は硬く、感情を殺し、冷酷を気取る。
心底必死な自分を背後からもう一人の自分が指差し、嘲笑う。
『ミサトさん。あの……っ……』
「……」
言葉を探し、迷う少年のほんの静かな息遣いが、鎮めた心臓を強かに叩く。
こんなにも自分という女は脆かったのか。呆れと侮蔑、そこに純粋な驚きが並び立つ。
この少年の所為だ。碇シンジを前にすれば、葛城ミサトはこんなにも容易に瓦解する。
十数年掛けて繕ってきた不格好な冷徹の仮面は、もうそこら中罅だらけだ。
躊躇い、躊躇い、躊躇い。沈黙の中で少年の喉はその声ならぬ感情を詰まらせる。言葉一つ、迂闊に紡ぐことさえも罪。彼はもはやそう信じて疑わない。
自分自身の罪を疑わない。
それが、それがこんなにも、痛い。
『ぃ…………いってらっしゃい、ミサトさん』
「────」
痛みを堪えて、罪悪の針を呑んで、少年はそっと壊れ物を差し出すようにして言った。
それは私の言葉だった。それはいつも、私が口にしていた言葉だった。恥知らずに子供の背を押して兵器の搭乗口へ突き落す為の。戦場へ押しやる為の。死地へと誘う為の。
己の無力を呪う
そして。
その帰りを
「────いってきます」
声は震えていないだろうか。上擦って、掠れてどもってやしないだろうか。
いずれも自信はなかった。
端末を切って、椅子に深く腰掛け背もたれに上体を預ける。顎を上げ、天井を仰ぐ。
そうしなければ溢れてしまう。また、無責任と無恥の象徴が流れ落ちてしまいそうだったから。
「ふぅ……年かな……ふっ、ふふ、ふ……」
罅割れの冷徹の仮面、その隙間から一滴、頬を伝う。