碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように   作:足洗

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ヒロイン相手にしてる時よりシンジくんが心動かしてる気がする。



廿

 

 

 夕暮れに黒々と、深緑の田畑が広がっている。

 リヤカーを押したり背負子を肩に担いだ作業着姿の老若が、疲れの見える足取りで畦道を歩いていく。

 耳馴れた蝉の鳴き声がしない。代わりに遠く、子供の笑い声が聞こえた。

 ジープの助手席から見える営みは、身に覚えのない懐かしさを胸奥に灯した。別に田舎暮らしに殊更親しみがあるわけでもない癖に。

 湧き起こるこの仄暖かなものを、もしかしたら望郷と呼ぶのかもしれない。

 ノスタルジーを気取る自分は心底滑稽だ。思わず鏡を指差して嗤いたくなるくらい。

 ここは決して僕の故郷になどならない。間違ってもそんな風には呼べない。呼んではならない。

 車窓を過った名前も知らない人々は、その誰も彼もは、きっと、間違いなく碇シンジの被害者なのだ。僕が加害した誰かなのだ。

 

「……」

「もー、家やなくてまず診療所来いぃて忙しないわぁ。荷物も下ろしたいのにー。碇さん、すんませんです。ホンマ気の利かへん兄で」

「いえ、僕は大丈夫ですから」

 

 身内らしい忌憚のない彼女の声色が少し新鮮だった。いや、家族同士の気安さ、この()()に、ひどく不馴れで縁が薄くて、なんだか落ち着かない。

 

「あっ、ちょっと停めますね」

「?」

 

 トタン屋根の小振りな家々が身を寄せ合うようにして立ち並ぶ通り。今し方過った小路に振り返りながらサクラさんは言った。

 ハザードランプを点けて車を停めると、彼女はドアを開けて外に出る。

 

「松方さーん! お久しぶりですー。わぁお腹おっきぃなっとるー!」

「サクラちゃん!? 久しぶりねぇ! いつ帰ってきたの?」

 

 青いカーディガン姿の女性だった。そしてゆったりとしたワンピースの腹は大きく膨らんでいる。

 

「予定日、そろそろや言うてましたもんね。おめでとうです!」

「あはは、まだ早いわよぅ。でもありがとう」

「えへへへ。あ、私また診療所の方でお手伝いしよう思てますんで、改めて診さしてもらいます。せやからこれからはなんっでも相談してください」

 

 その後二、三遣り取りをしてから、サクラさんは妊婦の女性と手を振り合い別れた。

 戻ってきた彼女が微笑みかけてくる。慈愛の篭った笑顔だった。

 

「臨月なんですよ松方さん。来月か、もっと早いかも。もうすぐ生まれるんですって」

「そ、そう、なんですか」

「はい!」

 

 晴れやかに、心からの喜びを現すサクラさんを僕は何故か直視できなかった。

 背中に感じる黒く重いものが、明るいものを嫌う。祝福という光るもの、綺麗なものに炙られる。熱く痛みを発する。

 何を言うのも憚られた。遠ざかる身重の背中に、祝いの言葉一つ送れない。

 僕にそんな権利はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 診療所は、列車の線路が()り集まるそのほぼ中央に建っていた。それが旧い駅舎を改装して用立てられたものであることがわかる。

 目的地が見えた時から、心臓の鼓動が早まるのを感じた。血が冷たくなるような、節々が強張るような、緊張。それに怖気。

 開放された両扉を潜り、元券売所だったのだろう窓口を横切る。

 血が血管を流れるじくじくとした音が耳から直接頭に響く。浅く、息が乱れる。

 薄暗い廊下の向こう、正面に大きな明り取りの窓があって擦りガラスから柔く茜色の陽が差し込んでいた。

 白い仕切り用カーテンの合間を整然と病床が並ぶ。その一角から一人、白衣の男性が顔を出した。

 短く刈られた髪、浅黒く日焼けした肌、背が伸びて、肩幅も増して、その人は少年ではなく大人の男性の体格をしていた。記憶の中の少年の姿と確かにあらゆる点で似通っているのに、精悍さを備えた顔立ちが、どうしても思い出の中の彼と食い違う。

 こちらを見止めた時、彼は目を見開き浅く吐息して笑みを浮かべた。ほんの一瞬で、沸き起こった複雑な感情に区切りをつけて、笑顔の下に仕舞った。

 そんな風に見えた。それは、僕の背中の黒いものがそう見せるからなのか。後ろめたさが、罪の悪寒が。

 動悸がする。呼吸が乱れる。背中にじっとりと汗が滲む。

 

「シンジ」

 

 肩が跳ねた。油切れのブリキ人形みたいに固く、ゆっくりと顎を持ち上げ眼球を動かす。

 白衣の彼を──トウジを見上げた。

 

「はぁ……久しぶりやのう」

「……」

「わかるか? わしやで。トウジや。老けたやろ、はははっいや話には聞いとったけどシンジは変わらんなぁ。いや、ちょっとやつれたか? なんやヴィレはしっかり飯も食わせてくれへんのんかいな!」

「んなわけないやろアホ! 三食しっかり出しとるわ! ただ碇さんは食細いから体重増えにくいだけやし。お兄ちゃんと違って繊細な人なんです~」

「久しぶりに帰ってきおった思たら開口一番アホとはなんやアホとは。くぅ~っ、シンジ見てみぃ、昔はあない可愛かったサクラも今じゃすっかりこないな生意気娘に育ってもうて、わしゃあもう悲しゅうて悲しゅうて……!」

「はぁぁあ!? なに言うねん! パチキかますでこら!?」

「おぉこわぁ。ははははっ!」

 

 戯れ合う二人の空元気が、自分を気遣ってのものなのだと理解できる。

 声が出せなかった。舌が麻痺したように、唇を震わせ口を開いて、何かを紡ごうとして、失敗する。喉に石が詰まっていた。ざらざらとした質感の武骨な石が、咽頭の肉を無遠慮に圧迫している。ミサトさんに相対した時と同じか、あるいはそれ以上の息苦しさで。

 掠れた呼吸音が静かな病室に響く。陸に上がった魚めいて無様なのは、自分だった。

 その時、背後で足音が立った。

 

「お! なんや大将、今日はお早いお越しやな」

「いいところで区切りがついたんだ。ジープが見えたからもしかしてと思ってこっちに寄ったけど正解だった」

 

 はっと振り返る。

 硬質なワークブーツの靴底がコンクリートを打つ。暗い色味の厚手のブルゾンとカーゴパンツは長く使い続けた(こな)れのようなものを感じられた。

 落ち着いた、穏やかな面差しをしている。だからそのフレームレスの眼鏡と茶色の癖毛には余計強く懐かしさを覚えてしまう。

 変わった。トウジと同じように、成長し成熟し、老いて。

 変わらない。その眼差しだけはあの頃のままだ。トウジも、そして今目の前に立ったケンスケも。

 

「久しぶりだな、碇。サクラちゃんも、おかえり」

「はい! ただいまです。相田先生」

「どや? 眼鏡はそのまんまやしわしよりよっぽど分かり易いやろ。ケンスケやで」

「おいおい、俺の印象は眼鏡だけか」

「せや! それが眼鏡を掛けるもんの宿命っちゅうもんや」

「いいのかな~? そんなこと言って。今日はせっかく秘蔵のあれを放出してやろうと思ってたのに」

「ホンマか!? いやはや相田センセ、本日もお勤めご苦労さんです。つきましては拙宅で再会を祝して一席設けますんで。な? ええやろ?」

「ふーむ、まったく。そういうことならしょうがないか」

「さっすが大将や!」

「いいですねぇ! 私も御相伴さしてもろてええですか?」

「もちろん」

「それはええけどやなお前、ちっとは遠慮せぇよ。貴重な酒をこの女、水みたいにかぱかぱいきおる」

「サクラちゃんは第三村きっての大笊だからな」

「ちょっ、碇さんに変なこと吹き込まんといてください! もう!」

 

 牧歌的で、飾り気のない風景。三人の形作る平穏という世界を、一歩外側から眺めている。立ち入ることはおろか、触れることさえ総身に躊躇が走る。

 この日常を手に入れるまでに、この人達は一体どれほどの、どんな犠牲を強いられたのか。幾つの地獄を踏破したのか。それを想像しようとして、怖気と嘔気が全身を震撼させた。それはこの脳髄の矮小な想像力を容易に絶する。

 十四年ぶりの再会に実感など伴わなかった。

 齢を経た級友の姿にただ戸惑う。ただ、自分がその年月を惰眠に費やしたという事実を知る。

 その年月の重みを、思い知る。

 それでも。

 

「…………」

「シンジ? どないした、気持ち悪いんか?」

「碇?」

 

 心配そうな面持ちで二人がこちらを覗き込む。

 心配なんてされる筋合いじゃない。そんな権利はない。資格はない。

 だから“これ”も駄目なのだ。“これ”を思うことがどれほど罪深い行為なのか、自分は理解している筈だ。赤い地獄を目に焼き付けて、自戒を、自罰を、自縛を。

 思ってはいけない。喜びも悲しみも浮かべてはならない。そうする権利を奪い去った者が、自己にそれを許すなど許されない。それは最も醜悪な欺瞞であり、独善だから。

 ……でも。

 トウジを見た。ケンスケを見た。

 確かに、今、この瞬間、生きた彼らを見て、認めて、実感して。この胸に、湧いてくるものは。

 思うな。思うな。思うな。思うな。

 

「っ……ぁ……」

「……うん、ええんやでシンジ。なんや言いたいことあるんなら言うてくれ。なんも遠慮することない」

「ゆっくりでいい。無理するな、碇」

 

 優しさの篭った声が言葉が、暖かな刃が脳髄を貫く。頭蓋骨の中でありえない流血の感触を覚えた。熱い血潮が満ちていく。

 それは脳を流れ落ちて、頭蓋骨から溢れ出して、眼窩を満たし、瞼から零れた。

 涙。自己正当化の叫び、肉体が恥知らずに己が無実を訴え、自分自身の罪業から必死になって目を覆う為の汚らわしい液体が、後から後から。

 止まらない。拭っても、押さえ付けても、擦り上げても、滂沱する。それは止め処なく流れ続ける。

 しゃくり上げる喉が何かを絞り出そうとする。強張る舌が、頬肉が、口腔が言葉を紡ごうとする。その予感に歯噛みした。

 いけない。駄目だ。こんなもの。

 涙が眼球を曇らせる。熱病に浮かされ、思考力は一秒毎に低下の一途をゆく。

 忘れるな。罪を知れ。思い出せ。僕が産み落とした赤い地獄。赤い命の溜め池に浮かぶ子供の頭。ガラス瓶に浮かぶ赤子の手。死。死。死。死。

 (おまえ)が振り撒いたものの犠牲者が今目の前にいる。

 だから。

 

「ッッ! ふ、ぐっ、ぅ、が、はっ、はぁっ、ぁ、は、あぁぁああぁ……!!」

 

 その場に膝から(くずお)れた。

 傍らでトウジが寄り添う。ケンスケが跪き、肩に手を置く。

 暖かだった。人の体温、血肉の存在、魂の実在、生きているという証。

 生きていた。生きていたんだ。

 

「ちがう……ごめん……ちがうんだ……こんな、ごめん、これ、こ、これ……は……ぼくに、こんな……こんなっ……!」

 

 言い訳を並び立てていた。この涙に対してなのか、この思いに対してなのか、この場に今も生き永らえる自分自身に対してなのか。わからなかった。

 何もわからず無恥な僕は、また一つ恥知らずにそれを口にする。

 

「よが、っだ……いぎで……いぎ、て……ッッ!」

 

 声にならない汚らしい呻き声を吐き続ける。

 背中を擦る大きな手はトウジの。肩をしっかりと掴んで揺する手はケンスケの。

 触れ合うことを恐れ続けた自分が、触れ合うことでようやく、他者の存在を実感した。二人の、二つの生命の存在に、心底から安堵した。

 よかった。

 繰り返す。罪深い喜びを噛み締めて、僕は何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつん、白いカーテンの先から硬い音色。靴音とはまた毛色の異なるもの、プラスチック、あるいは特殊な樹脂を思わせる。

 不思議と耳馴染みがあった。

 いつかどこかで聞いた。その感触さえ覚えていた。

 そうだ。これは、プラグスーツを着た時の。

 滲む視界の先に立つ黒い人影。夕日の赤光(しゃっこう)に長々と、彼女の影法師が横たわる。

 

「碇くん」

「……綾、波……?」

 

 黒いプラグスーツに身を包んだ少女。アヤナミレイがそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 


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