碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように   作:足洗

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息子が父親を超えた瞬間である(社交性的な意味で)


廿一

 茜色の中に黒く暗く、人形の穴が穿たれたかのようだった。夜空より濃い宇宙の暗黒の上に、星屑めいて光る蒼と銀の髪。

 赤い瞳、白く透き通るような肌、あるいは病的なほどに、無垢な少女。

 綾波レイ。もはや形を失い実存すら薄らいでしまった彼女、あの方舟の中にしかなかった筈の彼女の姿が今、目の前に立っていた。

 

「綾波……どうして」

「せやせや、すっかり待ちぼうけにさしてもうたな」

 

 白紙の無表情が僕を見下ろす。それがどうしてか、懐かしい。

 ふと甦る。鼻の奥の鉄錆の臭い。頬の痛み。校舎裏で仰向けになって空を見上げたあの日、無色透明な顔で僕を見下ろす彼女が。

 最初に出会った頃の彼女だ。無感動で、無関心な、心を育む前の彼女だ……何故か、そんな風に思えた。

 今一度彼女を呼ぼうとして、それは阻止された。文字通り目前に躍り出た細い背中に。

 

「碇さん下がって!」

 

 サクラさんに。

 彼女は、その手に────黒い鉄器を握っていた。それはひどく、異様な存在感を放っている。この空間という油絵用の画布に絵具ではなく墨を溢してしまったかのような違和感。場違い、とも言える。

 それはここにあってはならない。それがこの場に、サクラさんの手の中に存在することが、どうしようもなく厭わしい。忌まわしい。そして、なにより、恐ろしい。

 拳銃だった。

 

「サクラさん!?」

「お、おぉ!?」

「なんで、なんでここにおんねん! あんたみたいなもんが!」

 

 焼けつくような叫び。ここからでは覗えない筈の彼女の瞳に今、あの烈しい光が灯ったのがわかる。純粋な、純真な、怒り。

 サクラさんの華奢な手に握られたその形、リボルバー、と言えばいいのだろうか。銃火器に対してケンスケのような造詣を持たない自分には、それがどういった種別で、どんな特色と性能を備えたものであるのかなど当然ながら皆目わからない。

 しかしたった一つだけ、明白なのは。

 それが人を殺せる器械であるということ。それが目前の誰かを殺す為の道具であるということだ。

 目の前の、少女を殺す為に、サクラさんはそれを構えて差し向ける。

 その現実に皮膚が粟立った。

 気付いた時には、体が動いていた。

 立ち上がり、彼女の後ろから構えられた銃口を両手で包む。

 

「っ!? 碇さんっ!」

 

 離れようとする彼女に詰め寄る。彼女の持つ凶器に肉薄して、覆い被さり、その矛先を自身の鳩尾に抱え込んだ。

 硬い金属が胸骨の中心を抉る。衣類越しにもその冷えた感触が、暴力装置の非情が神経を通じて肉を、骨を凍てつかせる。

 背骨に響く恐怖。今触れている物体の秘めたる性能を身を以て感じ取った。過不足なく微塵の相違もない死を、これは製産できるのだと確信を得た。()()さえ、抱いて。

 

「ど、退いてください! はなっ、放して! 碇さん!!」

「ダメだ! 撃たないで、ください。綾波……あの子は」

「違います。あれは綾波レイなんかやない。言いましたやんか! アヤナミシリーズ。あれは仕組まれて、複製されたアヤナミレイの一人。碇さんの知ってる子は……あの子はヴンダーの、初号機の中です。碇さんかて見たでしょ!?」

「でも、あの子には撃たれなきゃいけない理由なんてない」

「あります! あれはネルフのエヴァパイロットです! 私達の敵なんです! 発見次第、殺さなあかんのです……!」

「何も、何もしてないのに……何の罪もないのに、殺されていいわけないよッ!!」

「碇さん……ワガママ言わんとってください!」

 

 死ぬのは一人。死ぬべきは一人。あの子ではない。罪を確定された者がここにいる。断罪されなければならない者はもう決まったのだ。判決文は既に読み上げられた。晴れて執行を待つ囚人がここにいる。僕はここにいるのに。

 こんな無法は許せない。有罪の徒が永らえ、無実の少女が死ぬなどと。あってはならない。

 進退は窮まった。

 身体のまさに中心へ突き刺さった弾丸はきっと貫通しない。背後の無垢な少女にその凶弾は届かない。

 あぁ。

 一瞬先、銃爪(ひきがね)一掻き分の未来に約束された死、碇シンジの終わりに、僕の、僕だけの終局に、僕は────卑しく安堵を噛んでいた。

 

「い、碇さん……なんで……なんでぇ……!」

 

 滲む声がする。潤んだ瞳が僕を見ている。

 そうか。僕はまた、サクラさんを悲しませたのだ。

 不意に、横合いからぬっと手が伸びて。

 

「!」

「えっ」

 

 ケンスケの手が、拳銃を上から包む。指先はしっかりと銃の本体である回転式弾倉(シリンダー)を掴んでいた。

 驚き戸惑い疑問、様々に感情の入り乱れる目でサクラさんがケンスケを見る。

 ケンスケはゆっくりと、まるで言い聞かせるように首を左右した。

 

「どアホゥ!!」

「っ!」

 

 怒声が建屋を揺らした。現実に、木造の壁や窓ガラスは反響でびりびりと震えている。

 目を怒らせたトウジが、少女と僕らの間に立ち塞がった。

 

「ここを何処や思とんねん! よりによってここで、人の命助ける場所でそないなもん見せびらかすな!!」

「で、でも、お兄ちゃん!」

「でももストもない! 誰だろうがどんな事情やろうがわしは許さん!」

 

 表情で全身で感情を露わにする彼の姿はあの日のままだった。腹腔から叱責に声を荒げる様は、いつかの夕暮れ時に見た妹想いの兄の顔だった。そして、医師としての義憤を燃やすトウジが、僕にはなんだか遠くに見えて、なんだかとても眩しかった。

 サクラさんは俯き、唇を噛む。悔しさ、なんかではなく心から恥じ入るように。トウジの言葉は鈴原サクラという人の心の琴線を震わせたに違いない。

 彼女だって、立派な医師なんだ。

 グリップを握る手が緩み、そのままケンスケが拳銃を引き取る。

 

「すまなかった。俺のミスだ。あの子のことはクレーディト経由で報告を上げてたんだが……どうも行き違いになってたらしい。もっと早く行動すべきだった。いや、事前に連絡できていれば」

「い、いえ。相田先生の所為じゃ……」

「……碇も、変に驚かせて悪かった」

「ううん、僕はいいんだ。あの、サクラさん」

 

 おずおずと名前を呼ぶと、サクラさんも伏し目がちにこちらを見上げる。

 掛けるべき言葉を少しだけ迷って。

 

「ごめん。えっと、その……ありがとう」

 

 納得してくれて──()()()くれて。

 

「っ、なんでお礼なんて言うんですか……私碇さんに、じゅ、銃向けてもうたのに、お礼なんてされたら……アホ! 碇さんのアホ!」

「ご、ごめんなさい」

 

 サクラさんが怒鳴る。舌足らずな罵倒に打たれる。ある意味、先程の比ではない怒りがそこには篭っていたような気がする。

 そこから逃げるような心地で振り返る。

 やはり少女は変わりなく、静謐な目でじっとこちらを見詰めていた。

 

「ちょっと前にな、村の外で倒れとったんをケンスケが連れ帰って来たんや。軽い栄養失調状態やったもんで点滴打って念の為に診療所に寝かしといたが。検診で異常は出んかったさかい大丈夫やろうとは思う。どや、調子の方は」

「……」

 

 トウジの問いかけにも少女は答えない。きょとんとした目でトウジを見ている。単に応え方がわからないだけなのかもしれない。

 

「出歩けるんなら上々。今日で晴れて退院や。おめっとさん! ははは!」

「おめっと……?」

 

 小首を傾げる。そうしてまた、彼女はこちらを見た。

 向き合って、顔を合わせて、すぐには声がなかった。あたふたと内心に言葉を探して、まごつく唇を叱咤する。

 

「えっと……」

「……」

「はじめまして、でいいのかな。君は……」

「……綾波レイ」

 

 こちらの声色に誰何するような響きを感じ取ったのか、彼女は名乗った。懐かしくて、仄暖かな、“彼女”の名を。

 そしてやはり、無反応じゃない。まだ感情が希薄(うす)く、静かなだけだ。この子はただあの頃の綾波と同じなんだ。

 

「でも、違う」

「え?」

「綾波レイじゃない。あの人がそう言った」

 

 背後に流れた視線はサクラさんに注がれていた。

 サクラさんはばつが悪そうに目を伏せる。

 

「いいんだ」

 

 自然とこの口はそう溢していた。

 サクラさんの警戒心も、目の前の少女の無垢な無知も、責められることなんかじゃない。

 悪くない。

 誰も悪くない。

 僕ははっきりとただ一人の瞭然な咎人を知っている。だからこの場の誰もが無実であることを確信できる。

 自分でさえ驚くほどに迷いなく。

 

「綾波は綾波だ」

「……そう」

「うん」

 

 頬が強張り、歪む。

 小さく呟く少女の所在無さげなその姿に精一杯の笑顔を作ろうと努力してみたけれど、上手く出来た自信はなかった。

 笑うって、こんなに難しかったのか。

 

 

 

 

 

 

 所用を済ませてくると言うケンスケと診療所で別れ、サクラさんの運転するジープに四人で乗り合う。といって、徒歩数分の場所に建っている家に、車で向かえば一分も要さない。

 木造平屋の一軒家。扉の横にスズハラとマスキング塗装された表札が提げられている。

 他人の家の匂い。少し、苦手な空気。

 

「ただいま」

 

 土間を抜けて、居間へ。卓袱台には男性が一人座っていた。黒より白の目立つ髪を短く刈って、丸い眼鏡を掛け、壮年を送り老年に差し掛かった年恰好の。

 

「こちら、洞木の親父さんや」

「……こんばんは」

「あっ、こ、こんばんは……え、でも、洞木って」

「くふふ、せやで~。まあまあ、それについてはまた後でのお楽しみっちゅうやっちゃ」

「ぷっ、なんやの勿体つけてから」

「ええやろサプライズや、サプライズ」

 

 呆れたように笑うサクラさんに、トウジはいかにも大袈裟にお道化た。

 

「お義父さん! ご無沙汰してます」

「おお、サクラちゃんか。お勤めご苦労だったね」

「いえ……道半ばで帰ってきてしもて。またお世話になりますね」

「なんの。自分の家に帰って咎められることなんてないとも」

「んで、こっちの二人が昼間連絡した子ぉらです」

 

 背中に添えられた手がそっと体を押し出す。

 紹介を受けたからといって、何か気の利いたことを言える訳じゃない。

 こちらを見上げる目に怯みを覚えながら、それでもなんとか口を動かす。

 

「ぃ、碇シンジです。今日から、お世話になります……」

「あぁ、そうか。君が……」

 

 腰を折って、頭を下げる。お辞儀というより前屈みたいだ。

 畳の目に視線を落として、頭上に曖昧な応えを聞く。言葉を探しあぐね、喉奥に出かかったものを淀ませ、含む声。

 それが当然だと理解している癖に、それでも体は、心は震えた。

 この人も、きっと()()なのだ────

 

「…………」

「あぁいや……そ、そうだ。預かるのは一人だと聞いてたが、そっちのお嬢さんはどちらさんだい?」

 

 返答に窮したのは何も自分だけではなかった。洞木さんはまるで逃げるように少女の方へ視線を泳がせる。

 居間に入ってから、“アヤナミ”は会話にも空気にも交ざることなく静かに佇立していた。

 

「あー事情がややこしゅうて説明が難で。わしの同級生のー、そう! そっくりさんです」

「そらそうやけど……もっと言い方ないん?」

「しゃーないやろ、そっくりさんはそっくりさんや。相変わらず細かいとこに喧しいやっちゃな」

「あんたが大雑把やっちゅうとんねん!」

「へへぇ、そらえろうすんませんなぁ」

「ッ~~!」

「おぉ! 怒った! 般若がお怒りや!」

「誰が般若やねん!?」

 

 サクラさんの控えめなボディブローがトウジの脇腹を打つ。

 ひどく幼稚な応酬を、けれど洞木さんは懐かしそうに眺めていた。

 家族が帰ってきたからだ。それも遥か遠く、戦地から。

 僕の所為で、サクラさんはあの戦闘艦から降りることを余儀なくされた。でも、今こうして“故郷”に、家に帰って来られた。

 ……頭を振る。都合の良い自己解釈を払う。

 何も思うべきじゃない。況してや、それを幸いだなんて、どうして考えられる。どうしてそんな風に受け取っていいだなんて勘違いができる。

 その場に正座して、もう一度頭を下げた。

 

「どうぞよろしくお願いします」

「ん、ああ」

「ほら、アヤナミも」

「どうして?」

 

 立ったままのアヤナミが、また小首を傾げて不思議そうに僕を見下ろす。

 少し考える。

 

「……大事なことだと、思うから」

「大事なこと……命令?」

「ち、違うよ。命令なんかじゃなくて……知る為に、必要なこと」

 

 相手を知る為に、そして相手に自分を知ってもらう為に。

 僕がずっと忌避し続けてきた当たり前。

 とても些細で、ずっとずっとずっと心底怖かった。今も怖い。この、歩み寄るという行為。

 怖くて、痛くて、辛い。()()()そうする。怖くて痛くて辛いなら、それは今の僕がすべきことなんだ。

 

「知ってもらうんだ、僕と、アヤナミのこと」

「……そう」

 

 ぽつりと呟いて、アヤナミは僕の隣に同じように正座した。

 そうしてくたり、と頭を下げる。

 

「願います」

「ち、ちょっとはしょりすぎかな……」

「?」

「ふ」

 

 惚けた遣り取りに呆れたのか、可笑しかったのか、洞木さんは少し笑った。

 

「そう畏まらんでくれ。私など、半ば隠居の無駄飯食らいだ……こっちこそよろしく頼むよ、シンジくん」

「っ! は、はい」

 

 卓上に下げられた白髪を見て、慌てて頭を下げ直す。

 お辞儀をし合うだけの束の間が、なんだか可笑しくて、くすぐったい。

 

「なんやなんや堅苦しい。自分の家や思てリラーックスしたらええねんで。ほれ、こういう具合に」

「碇さんは行儀とか礼節とかちゃんとされとるんです。も~ええ歳こいてはしゃぎなや恥ずかしい」

「これは泰然自若いうんじゃ」

「今でこそこんな感じだがね。昔トウジくんが娘と婚約したことを報告に来た時なんかガチガチだったぞ。今のシンジくんの比じゃないくらいだ」

「ちょっ、親父さんそら言いっこなしですわ!」

「ふはははは」

 

 豪快な笑い声が居間に響く中、ふと引き戸の開かれる音が聞こえた。ただいま、という声と共に。

 控えめな足音、程なく襖が開き、そこに女性が立っていた。

 

「おぉ、おかえり。待っとったで」

「遅くなってごめんなさい」

 

 化粧気の薄い和かな面差し。記憶野を刺激したのは、その印象的なそばかすだった。髪を一つ結びに纏めて年相応の落ち着きが見える。そして以前よりもずっと、嫋やかな佇まいをしていた。

 柔らかな気配、それはきっと腕に抱いた小さな存在を包み込む為の。

 洞木ヒカリ……いや、鈴原ヒカリその人だった。

 

「委員長……!」

「ふふ、懐かしい。その呼び方。久しぶりね、碇くん」

「うん、久しぶり。あの……その子は、もしかして」

 

 満面に驚きを映している自覚はあった。

 実際、トウジはしたり顔でそんな僕を笑っている。

 

「わしらの娘、ツバメや」

 

 つぶらな瞳に自分の顔が映って見える。それくらい澄んで、綺麗な目。赤ん坊らしいふくよかな頬、袖から覗く手もむちむちとしている。

 血色の良い顔はとても表情豊かだ。不思議そうにこちらを見詰めていたかと思えば、むずがって目も鼻も口も皺くちゃにする。

 頻りに開いたり閉じたりする手のひら。宙を掻いていたそれが、す、と伸びてきた黒い指先を握った。スーツに包まれたアヤナミの指だった。

 アヤナミは大きな目をさらに大きく見開いて、赤ん坊に見入っていた。

 

「ぉ」

 

 反射的に発し掛けた言葉を、寸でのところで飲み込んだ。不意の驚きが招いた迂闊さを呪う。自制、自制、自制。

 この口が、その言葉を吐く呪わしさを思って────

 

「いいの、碇くん」

「え」

「言葉にして聞かせて。そうしてくれたらとっても嬉しい。私もこの人も、ツバメも」

 

 優しい笑みだけがあった。委員長もトウジも、アヤナミにあやされるツバメも、笑っていた。

 息が詰まる。振り絞っても勇気など出て来やしない。躊躇が舌に貼り付いて、突発性失声症を引き起こそうとする。

 だからこれは、勇気でも強さでもない。ただ零れ落ちてしまっただけだ。

 溢れ出すように、ただ一言。

 

「……おめでとう」

「ありがとう」

 

 身の程知らずの吐いた言祝ぎを。

 この人達はどうして、こんなにも喜んでくれるのだろう。

 

「どうして泣いてるの?」

「っ、な、泣いてなんかないよ」

「でも」

 

 なお言い募ろうとするアヤナミから顔を背けて、腕で覆い隠す。

 羞恥心と罪悪感で胸の中はぐちゃぐちゃだった。きっと、それと同じくらい僕の顔はぐちゃぐちゃになってる。

 無垢な視線が痛い。

 労しげに背中を擦る手が、痛い。

 この家も、この人達も、どうして────どうしてこんなに優しいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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