碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように   作:足洗

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アスカのパンチ力は素なのかエヴァ呪縛込みなのか。





 

 特にこれといった細工や、利便性を優先した手法……つまり不正規なクラッキングを用いる必要もない。

 自身のIDに許諾された権限で艦内監視システムに堂々とアクセスし、目当てのお部屋を選び出す。

 そのまま映像出力をエンターした、のだが。

 

「むむむ? ちょっとちょっと鍵かけたの誰ぇ……副長権限? なるほどリッちゃんか。んにゃろー味な真似を」

「……」

「そっちがその気にゃらばこちらもそのように致して進ぜよう! こちょこちょこちょこちょっと」

「コネメガネ、うるさい」

「ごめ~ん、ほんっとあとちょっとだから待ってて。あとほんのちょっとでイけるから。あ、イく。あぁっイっちゃうイっちゃう! あだっ!?」

「やめいっちゅーに」

 

 ベッドから伸びてきたしなやかな脚が、不穏なことを喚きながらヒートアップするマリの背中をストンプする。

 そして、まるでそれがスイッチと言わんばかり。

 

「いぃ痛たたた。姫のキックってば愛強すぎぃ……」

「籠めたのは良識よ変態」

「やんっ、またそういうこと言って喜ばすんだもん。ともあれ御開帳~っと」

 

 『Access』の点滅と共に映像が出力される。リアルタイムを示す時刻と録画時間の表示は早々に流し見て、目当ての彼は部屋の中央、ベッドに行儀良く腰掛けていた。

 第二隔離室。仮称・碇シンジに与えられた牢屋という名の私室である。

 

「いたいたワンコくん。うん、思ったより元気そうだね」

「……」

「しっかし動かんねぇ。良くないよータブレットばっかり弄って~。ピコピコばっかりやってたら頭馬鹿になっちゃうんだから。ねーお姫~?」

「大きなお世話よ」

「ふふふ~、では何を熱心に見てるのかちょっち拝見」

 

 プライバシーもへったくれもない調子の良さで端末にプログラムを噛ませる。カメラを直接ズームするより、この部屋、延いては彼の端末からアクセスされたデータ領域の閲覧履歴を追う方が手っ取り早い。

 

「うーん思春期の男の子の部屋を覗いて引出しまで漁ってるかのようだ。この背徳感が堪らないぜぇ~」

「キモい」

 

 辛辣極まりない、極めて正論を背中に受けてなおマリは意気揚々と家捜し(ハック)を続けた。

 しかしそんな暴言とは裏腹な、ちらちらとした実に遠慮深げな視線が、先程からずっとマリの背中を突いて止まないのだ。なればどうして、今この手を止められようか。

 筋違いの使命感に背を押され、目当ての受発信ログを探り当てた。

 

「え……おぉう……これは、また……」

「……?」

 

 スクロール、スクロール。ページを捲りファイルを跨ぎリンクを飛んでも、出てくるものは同じだった。ある一つの情報、情景、情念。それらを種々数多の言葉と画と音で表現した一つの事象。

 ニアサードインパクトの景色。十人十色が味わった地獄の手記だ。

 ログを遡っても遡っても、検索と履歴にこびり付いているのは赤黒い軌跡ばかりで。

 それは今も、この瞬間にも続いている。

 

「……」

 

 何を考えてこんなことを……その予想はつく。それはもう仄暗く、陰鬱な理由が。

 彼の性格を思えば、こうなることはある意味、自然の流れとも言える。

 幾つかの道はあった。

 現実逃避。これが一番わかり易い。現実から目を背けて、永遠にあの狭い隔離室で自ら心身を外界と隔離する。待っているのは穏やかな死。とても静かに朽ちて逝けただろう。

 あるいは、あるかもわからない希望に縋った暴挙。なにせ例の“槍”がある。ゼーレ……ゲンドウくん辺りなら、そういったシナリオを用意していそうだ。

 そのどちらでもなく、これを選んだのは幸か不幸か。贖罪。自罰。心の自傷。

 逃避することも、偽りの希望を見出すことも出来なかった少年に能う唯一の行為。せめてもの正義。独り善がり、でもあるけど。

 今彼が味わえる一番の痛み。それがこの、罪の黙読なのだろう。

 

「……ん?」

 

 漁っていたログの中に毛色の異なるものを見付けた。

 録画データが一部コピーされている。無論こちらと違って正規の手順を踏んだものであり特筆して奇妙な点はない。

 それが、碇シンジの隔離室の監視映像である点を除けば。

 至極当然のこと検める。映像はほんの数十秒間。変わり映えする筈もない隔離室には、人影が二つ。碇シンジと、鈴原サクラ。管理担当医官なのだ。室内に彼女が居たところで何の不思議も────

 

「にゃんとぉ!?」

「っ!? びっ……いきなり大声出すんじゃないわよ!」

「えあ!? あっ、あははははは! ごみんごみん!」

 

 弾くようにタブを閉じてホーム画面に戻る。幸いにもアスカからは自身が死角となって映像は見えなかったようだ。

 決定的というか、致命的なものを目撃してしまった。それがアスカにとってなのか自分自身、サクラ、あるいは当の少年にとっての死期を表してのものかはわからない。

 スキャンダラスではあるが、医療行為と言えなくも、なく……たかがキスの一回二回で大袈裟とは思うが。

 お姫様は繊細なのだ。

 

「……ちょっちお出かけしてくんね」

「あっそ」

「ワンコくんのとこ」

「御勝手に」

 

 興味関心一切ありませんといった風情。終始携帯ゲーム機に視線を落としたまま、ぞんざいにシッシッと手を払われる。

 電源の落ちたゲーム機に一体何が映っているのやら。

 可愛い可愛いお姫様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かだった。室内に響くのはタブレットをタップする鈍く小さな音だけ。

 いや、それともう一つ。

 

「はぁ……はぁ……ふ、ぐっ……うぶっ……おぇ……」

 

 それを追うように重なる、ひどく濁って、水っぽくて、汚ならしい音色が。

 やましいことをしている訳じゃない。ただの自儘な慰めだったなら、何も考えずそんなことに耽る余裕があったなら、どんなにか幸運だったろう。そう思う。それが一番いい。軽蔑はされても、人として真っ当だ。それは間違いなく人の営みの内だから。

 人の、僕が奪い去った誰かの、当たり前。

 誰かの幸せ、誰かの平穏が一瞬にして、誰かの嘆き、涙、絶望、血に変わる。

 眼下にある。膝の上に乗せたこの10インチほどの小さな画の中に詰め込まれた生命の終わり。崩れる。死に絶える。その追憶。

 それを見ていた。ひたすら、食い入るように、噛み締めるように、見続けた。

 目の奥に赤がこびり付く。視神経にまで残留するかのような赤色の暴力。赤、赤、赤。

 それでも、目を離すことはできない。してはならない。自分自身にそう強迫するかのように。

 それは義務感なのか、使命感なのか、罪悪感なのか。それともその全部なのか。

 明確な言葉にすることは躊躇われた。そうした途端、それらは薄ら寒いただの言い訳に成り下がる気がしてならなかったから。

 贖罪、償い、受刑、自罰。

 嘘っぱちだ。まやかしだ。自己弁護。自己欺瞞。それこそ、これこそ、慰めじゃないか。

 

「ぐ、ぅ……うぅ、ふ、ぎ……う゛っ……ぉあ……げぁ……!」

 

 赦しはない。それを強請ることすら許されはしない。

 なら、どうして生きてるの?

 誰の赦しを得て、生きてるの?

 この罪悪の重みを、苦痛を、恥知らずに厚顔に全身全霊を使って泣き喚いている癖に。それでも生きてる。

 どうして? 贖いと、言うなら。償いたいと迂闊に思い願うなら。

 何故、死のうとしないの?

 

「……それが一番、楽だから……」

 

 …………

 

「だから、できない……」

 

 タップして、検索する。手探って押し戴いて、感触を、匂いを、味を香りを、色を感じる。惨劇の、災禍の、災厄の日のそれ。

 僕が始めた地獄を、僕は見詰め続ける。

 嫌なことから目を逸らし続けてきた。逃げてもよかったのだと、誰かが言ってくれた気がする。逃げた先には、今よりももっと辛く苦しいことが待っているかもしれないけど。逃げることを選ぶのは自由だ。

 でも、今の自分は。

 逃げもせず、かといって進みもしない今、この僕は。

 どうして、ここに居ようと思ったんだろう。どうしてこんなことを始めたんだっけ。

 何かを、そう思い出して、何か。

 赤い景色、赤い浜辺、赤い。

 

 ────今更

 

 誰か。

 

 その時、扉が開いた。唐突に。

 

「ハロー」

「え?」

 

 滑らかにスライドした戸口には、女の子が一人立ってこちらに手を振っている。

 赤縁の眼鏡。にこやかで、いかにも人懐っこい雰囲気の見知らぬ人……いや、何処かで。

 

「あー! その顔は私のこと忘れてるね? ひっどーい」

「ご、ごめんなさい……」

 

 唇を尖らせぶうぶうと口ずさむ。

 怒った風を装いながら、彼女はベッドに飛び込んだ。スプリングが軋み、座っている自分ごと寝台が波立つ。

 呆気に取られて固まる自分の背中から、彼女はまるで這い上るようにして抱き着いた。

 

「うわぁ!?」

「にへへ~、どうよ」

「ど、どうって……?」

「このカ・ン・ショ・ク。思い出さない?」

 

 言って、さらに体が密着する。その段になってようやく物分かりの悪いこの脳と体は気が付いた。

 背中に押し当てられる、その柔らかなものを。

 

「ふわっ!? ちょ、ちょっと、あの」

「ん~? なーにー? どうかしたの~?」

「あ、あた、当たって……」

「んふふふふ、当たる? 何が当たってるの~? ちゃんと言ってくれないとお姉さんわかんにゃいな~」

 

 カーキのホットパンツに迷彩模様のカジュアルなキャミソール。無防備だった。そしておそらく、彼女は下着を身に着けていない。輪を掛けた無防備だった。

 家で寛ぐミサトさんを思い出す。あの人は不精で、だらしない印象が強くて、気の置けない人だった。それが萎縮の抜けない自分に対する気遣いなんだってわかってはいたけど。

 ……不意の懐かしさで我に返る。

 彼女が自分を揶揄っていることは、彼女の人を食った笑みを見た時から知れていたこと。

 

「は、放してください!」

「思い出してくれるまでやーだよー」

「えぇ!? えっと、えぇーっとぉ……うーん……あっ、パ、パラシュート! 屋上の! 降ってきた人!」

「捻り出した感すごいけどまあ、許して進ぜよう」

 

 ゆるゆると少女の体温が遠ざかる。半ば止まっていた呼吸が再稼働して、酸素のお預けを食っていた全身に血を巡らせようと心臓が躍起になって鼓動を打つ。

 にしし、擽られるような笑い声がした。

 

「うぶうぶだにゃ~。君、前にも増して可愛くなったんじゃにゃぁい?」

「っ、い、いきなりでビックリしただけです」

「いきなりじゃなかったら平気なの?」

「…………」

「ぷっ、ふふあははは!」

 

 少女はけらけらと笑い、ころんとベッドに倒れ込んだ。心底愉快そうな様がなんとも恨めしい。

 こちらのむっとした気配を察したらしい彼女は、起き上がってまた笑みを深める。

 真希波・マリ・イラストリアス。14年越しに彼女はそう名乗った。

 

「いやいやよかった。ちゃんと人らしさは残ってるね」

「……?」

「あんまり深いところに沈んでたらどうしようかと思ったよ」

「どういう、意味ですか……」

「それ」

 

 人差し指が示す。ベッドの上に投げ出されたタブレット端末。画面には──慌てて拾い上げ、電源を落とした。

 ただただ、後ろめたくて。

 

「むふふ、思春期男子っぽい慌て様……なのに色っぽくないにゃー」

「……」

「そんなの眺めてどうすんの。画像見るだけでも辛いんでしょ」

「…………」

 

 どうすることもできない。償いの方法なんて、ない。

 どこまでいっても自己満足の独善だ。価値はない。意味は、ない。

 

「自分が嫌いなんだ。一方的に傷め付ける方法と大義名分を見付けて、それで自罰?」

「……罰にもならないよ、きっと。でもこうしなくちゃ。こうしないと。でないと、息をするのも辛いんだ」

「……重症だね」

 

 処置なし。最初から決まりきっていた不治の病。

 この世には償えない罪がある。その証明が、僕だった。

 

「……頑固なところは親譲りか」

「え?」

「拘りのある生き方って私は好きだよ? 私には馴染みの薄い感覚だし。憧れ、みたいなものも覚えてる。でもこれはねー、あんまりにも非生産的」

「あっ」

 

 いつの間にか、タブレットがマリの手にあった。意識の隙を衝く早業、まるで手品師のような鮮やかさ。

 馬鹿みたいに感心を湧かせる自分に頭を振る。

 

「か、返して!」

「そうはいかんざき、ってね!」

 

 伸ばした手が空を掴む。

 高く掲げられた矩形の薄板を見上げた。

 こんなものに、自分は何故執着などするのだろう。中に詰め込まれているのは見るだに恐ろしい現実という罪。触れれば刺さる針。痛むばかりの刃。

 どうして。

 再三の自問。答えなどないと知って、それでも問う愚かしさ。

 

「いじけるのを止めた。で? 今度は禅問答? ほらまた、楽しくないことやってる。どうして? 君は願いを叶えたでしょう。シン化した初号機で可愛いあの娘とタンデム決めて。それが今はこの狭い部屋で一人後悔真っ逆さま?」

「違う……」

「えー違うのかにゃー?」

「後悔なんかじゃない……後悔なんて、もうできない。僕は……僕はっ」

 

 湧き出る。感情が、熱湯めいた血潮となって心臓から血管を伝播する。

 衝き動かす。それは決して、善いものではなかった。肉と骨を焼いて焦がして、皮膚を爛れさせる。憎しみ、それに近いもの。

 遠ざかる端末を追って、手を伸ばし体を伸び上がらせる。自分でさえ思いも寄らない勢いで。

 そこから逃れようと仰け反った少女が、バランスを崩した。落ちる。寝台の外へ。

 

「うわっとと!?」

 

 向こう側へ……手の届かない場所へ。

 あの時の、あのコアの底。

 

「あ……!」

 

 ベッドから落ちる、その寸前に少女の手を掴まえた。

 文字通り、全身で引き戻す。

 また勢い余って、彼女諸共ベッドに倒れ込んだ。

 腹の上に圧し掛かられて、ふと既視感。ああ、そういえば以前にもこんなことがあった。

 目の前に、赤いハーフリムの眼鏡。そして、その奥の蒼い目。

 枝垂れた茶髪が首筋に触れて、少し擽ったい。

 

「ふふふ、そんなに必死になって助けてくれなくてもいいのに」

「……」

「でも、ありがと」

 

 綻んだその顔を、直視できない。

 ほんの細やかなお礼の言葉一つが、今はこんなにも重い。

 

「……逃げたくないから」

「?」

「もう、逃げたくないんだ。逃げたって何も良いことはなかった。逃げずにやったことは最悪の結果に繋がった。何もしない方がいい……そう思う。今も……でも、選んだことだから」

 

 口から溢れ出るそれはまるっきり言い訳か泣き言だ。自問に対する答えなんて、何もない。禅問答。答えなんて初めから存在しない問い。

 悟りからは最も遠い。諦めに近いけど、もう少しだけ乾いていて、冷淡な。

 

「僕が選んだ。あの時、確かに、エヴァに乗るって。エヴァに乗って綾波を助けたい……そう願って選んだのは僕だから」

 

 責任。

 それを負うことからずっと逃げ続けてきた。

 助けられなかった、殺してあげる覚悟もなかった。駄々を捏ねて、責任から逃げた。今も駄々を捏ねて、現実の辛さに泣き喚いてる。アスカが怒るのも当然だった。

 戦うことで誰かが犠牲になる。全部を守るなんて無理だ。大切な妹に怪我をさせた。僕に対する正当な怒り。トウジに殴られた。理不尽だと思った。でも、それが責任だった。

 僕の願い。僕の決断。エヴァに乗ることを選んだ。

 たくさんの人が死んだ。僕が引いた銃爪が、世界を赤く(ころ)した。負い切れない。重過ぎる。潰れて死んでしまいそうになる。

 でも、それが責任。

 それが選ぶということなんだ。

 

「……めそめそぐずってるかと思ったら」

 

 マリは笑った。けれど、さっきまでの飄々とした雰囲気はそこになくて。

 呆れたように、痛ましげに……優しげに。

 微笑する。微笑が僕を包む。それが無性に暖かで、戸惑う。

 

「律儀というか、真面目というか。変に一途なとこだけはそっくり。かーなり下向きだけど。ふふふふふ」

「?」

 

 謎めいた笑みが、そのまま近付いてくる。

 鼻先が首筋に埋まり、マリは深く、それは深く息を吸い込んだ。臭いを嗅がれていた。

 

「っ、ちょ」

「……ん、はぁぁあ、ホント、いい匂い。14年経っても変わんないね。んん? むしろ初号機の中に居たから余計に醸成されてたり? ん、ふ」

「あっ、ぁ……!?」

 

 生暖かなものが首を這う。滑る。

 舌だ。彼女は首筋を舐り上げたのだ。

 

「な、なんっ、なにして……!?」

「君がさ。なんだか健気で、憐れで……あんまり可愛いから」

 

 熱い吐息が頬を撫でる。

 反射的に顔を背けたのとほぼ同時に、口の端に。

 少女の唇が吸い付いた。

 

「あんっ、もぉ~、なんで逃げるの」

「っ!? っ!?」

「んちゅ、んー、ちょっと苦くて、酸っぱい味……ふふっ、そっか。今朝も吐いたんだね」

「ッッ~!」

 

 舌なめずりして、そんなことを呟く。

 かっと全身に火が入った。羞恥心で焼け死にそうになる。

 

「ちょっと下品だったかな? ごめんごめん。気にしない気にしない。私は気にしないからさ」

「そ、そういう問題じゃ……!」

 

 抗議の文句が途切れる。患者衣の下から這入り込んだ手、その冷たさに息が止まった。

 滑らかな感触の指の腹、それが腹を、胸を、脇、肋骨をなぞる。経験にない感覚だった。電流のような刺激に、身悶えする。

 

「ひっ、ぃ、や」

「ふふ、すご~い。肌すべすべだね。女の子みたい」

「んぁ……!?」

「感じてる声も……可愛いよ」

 

 完全に組み敷かれていた。体格にそれほど差はない筈なのに、筋力で劣るからか、それともそういった体術に掛けられているのか。

 

「なんで……こんな、ぁ……」

「さっき言ったこと以上の理由はないよ。いっぱい慰めたげる。ワンコくん」

 

 マリは艶然と笑って、額にキスをした。軽やかで、やはりどこまでも優しげな。労しげな口付けだった。

 脳がぐずぐずと煮えて溶けて、思考能力を失っていく。現状理解の限界値(キャパシティ)を超えていた。

 わからない。わからない。わからない。

 この人の優しさも。サクラさんの献身も。

 そして、アスカになんて謝ろう────不意に、他人事のようにその少女を思い描いた。

 

 轟。

 

 その音を一字で表すならきっとそんな象形(かたち)だった。

 破壊的な衝撃。部屋全体を震撼させる揺れ……打撃。

 音の発生源に、その痕跡はあった。それを為した誰かもまた、そこに立っていた。

 一枚ガラスの壁に白く、蜘蛛の巣状の罅が走っている。その中心に突き立つ拳、赤いレザーグローブを纏った拳が。

 片目が僕らを見下ろしていた。いや、その黒い眼帯の下からすら熱線のような眼光が今にも溢れてしまうような気がする。

 そんな烈しさ。そんな危うさ。

 

「Oops……」

「あ、ぁ、アスカ」

 

 その時、扉がスライドして開く。しかし、アスカの姿は壁の向こう。

 扉を開いて現れたのは、ベレー帽の彼女。白衣のワンピースが眩いほどの、彼女。

 

「こんにちは、碇さん! それに────真希波大尉」

 

 明朗快活、白衣の天使と呼んでも差し支えない。それほどの献身でこの身を労わってくれるサクラさん。その手には今……注射器が握られていた。どうしてそんなものを。投薬が必要な病状の人間などここにはいないのに。

 まるで今すぐ、この場で、使う用があると言わんばかり。カバーは外されアンプルも装填済み何時なりと刺突もとい注入可能です、そんな様子で。

 笑顔。

 笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

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