碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように   作:足洗

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ヴンダーって要はリヴァイアスじゃね?





 

 血の気が引いていく。ガラス一枚隔てた向こう側に立っている少女が、少女の視線があまりにも痛くて。

 心臓が跳ね回る。扉を潜って現れた彼女の笑顔が、笑顔に含有された色が途方もなく複雑で。

 恐いと思った。二人が。

 別に初めての感覚じゃない。他人を恐いとずっとずっと思い続けてきた。関りを、繋がりを、触れ合いを、恐れて嫌って……それでも乞い求めて。

 隔離室の空気は冷えている。そう感じるだけなのか。震えるような冷気、それを発している二人。

 僕はまた何かを間違えたのだろうか。

 

「あ、あれれ~、どうしたのかにゃ~。定期健診は終わった筈だよねサッちん」

「私は碇さんの管理担当医官です。健診以外にも身の回りのお世話やったらなんもかんもぜーんぶしてますから。いつでも訪ねます。なにか問題ありますか?」

「にゃ、にゃいんじゃにゃいかにゃ~」

「真希波大尉こそ、なにをされていらっしゃるんでしょか」

「いや、す、スキンシップ? みたいにゃ」

「碇さんに、馬乗りになって、患者衣捲り上げて、体中撫で回すんが、大尉のスキンシップですか」

 

 一言一句噛んで含めるようにサクラさんは言った。放たれる声音は平坦で冷淡で、こちらを見下ろす瞳には欠片も光を宿さずに。

 大津波の直前に凪いだ浜辺に立つ、そういう類の静謐。

 肌が泡立つような心地だった。

 不意に、

 

「……」

 

 そんなサクラさんの横合いを摺り抜けて、アスカが歩み寄ってくる。真っ直ぐ、淀みない足取りで。ミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んだまま。

 足が上がる。足が、天井を差す。そうして────処刑斧のようにそれは降ってきた。

 

「うわっ!?」

「にゃんとぉ!?」

 

 そんな奇声とは裏腹な俊敏さでマリはアスカが動くよりも前から既に動いていた。

 その場を跳び退く。退き様に僕をベッドの外へと押しやって。

 ベッドに、アスカの足が、踵が刺さった。シーツ、クッション、寝台の骨組み、それら全部を巻き込んで、ベッドがⅤの字にへし折れた。

 部品が散り散りになって床にばら撒かれ、金属フレームが打楽器のように鳴り響く。

 それら全てを蹴散らして、アスカは再び僕らを見下ろした。片目から注がれる烈火。肌を焦がす痛み。

 痛み。アスカに見られる。それがこんなにも痛いのは。後ろめたくて、遣り切れなくて、身の置き所すら見失う。

 不安。罪悪。罪悪。そして、湧き上がる怖気。

 罪を鳴らす。アスカはきっと今も僕を。

 憎んで────

 

「お、お姫~、いっくらなんでもそれ死んじゃう。私もワンコくんも真っ二つになっちゃう」

「ならないわよ。狙ったのはあんたの脛だから」

「痛い痛い痛い。Cry弁慶。マリちゃん泣いちゃう」

「両脛で勘弁してやるわ」

「Wow情状酌量の余地がねぇ」

 

 軽口の減らないマリにアスカがまた一歩、接近する。次はどんな蹴り脚が飛んでくるか。マリ目掛けて。

 僕ではなく。

 

「あ、アスカ!」

「……」

「け、喧嘩は、暴力はやめてよ!」

 

 尻餅をついたままのマリの前に躍り出てアスカを見上げる。蒼い鬼火めいた瞳を。

 片目が(すが)む。やはりそこには確かに、憎々しげな色があった。

 憎悪が、燃え盛っていた。

 途端に怯み、竦み上がろうとする体を、その場に縫い留める。蛇に睨まれた蛙とそれは同様だったけれど。

 逃げ足だけは踏み止まれた。

 

「ぼ、僕が……僕がマリさんの、その、悪ふざけを止めさせられなかったから。僕が悪いなら、謝るから……!」

「……また」

 

 歪む。その表情が、目が、尖る。

 憎悪、ではない。それは彼女らしい色。赤い赤い憤怒の顔だった。

 

「そうやって庇うわけ……他の女を………………私以外の女を」

「アスカ……?」

 

 譫言のように不明瞭、霞を吐くような囁き声だった。

 けれどその、熱。感情の烈しさだけは、肌を炙られたかのようにはっきりと、厳然と感じられた。

 

「……アスカ」

「…………」

 

 掛けるべき言葉があるような気がする。だのにこの舌は、てんで役立たずで、臆病に固まったままだ。喉は、迷いと躊躇で塞がっている。

 それでも、それでも何か。

 

「どいてもらえますか式波少佐。邪魔です」

「あぁ?」

 

 冷厳と言ったのはサクラさんだ。

 アスカの狂犬じみた視線も意に介さず、手にした注射器を構えて一歩、近寄る。その行く先はやはり。

 

「ちょーっとちょっとちょっとサッちん!? その注射どうする気なのか先に教えてもらっても!?」

「ただの鎮静剤です。大尉に今必要な」

「なして!?」

「年下の男の子襲うくらい盛りがついてらっしゃるらしいんで、鎮めてさしあげよ思いましてん。さ、腕出してください」

「いやいやいやいやいやいや」

 

 確定事項を羅列する。業務連絡というか、それこそ看護師の医療行為然としてサクラさんは言った。

 

「ほんの出来心だから! あ、まだAまでだよ? B未遂。挿してないから!」

「ちくっとしますよー」

「あぁん躊躇ゼロ! 助けてお姫~!」

「自業自得」

「あぁん慈悲もない! こうなれば……」

 

 じりじりと間合を詰めるサクラさん。

 逃げるように床を後退るマリ。マリの、その後ろ手にそれが見えた。

 タブレット端末。さっきベッドから取り落としたもの。

 マリは指先で素早くそれを操作していた。そう、思えばそれこそ、アスカの踵落としから逃れた時からずっと、マリは床に座り込んだまま。

 

「三十六計 Run away but win!」

 

 一際強く画面がタップされたその瞬間。

 視界が暗転した。

 

「くっ」

「ちっ! コネメガネぇッ!」

「な!?」

「なぁーはっはっはっは! さらばだ明智くん達!」

 

 隔離室、そしてその外部の非常灯すら消えた暗闇の中から高らかな笑声が響く。

 刹那、硬直する自分の手が掴まれた。

 

「行くよ、ワンコくん」

「い、行くってぇええうわぁ!?」

 

 こちらの反問などお構いなしに、掴まれた腕を引き込まれる。

 開け放しの扉をなんとかぶつからず搔い潜るように出た。直後、後ろ襟を何かが風切り、背後で破砕音。見える筈のないアスカの一撃、そして苦虫を噛んだような凶相が見えた気がした。

 

 

 

 

『コネメガネぇっ!』

『ホンマ、大概にしてほしいわ……!』

 

 主モニターが暗転して暫時、明らかな破壊行為を彷彿とさせる騒音と呪詛のような呟きを二言残して、二人分の足音が遠ざかっていく。

 外部カメラに切り替わり、日中の明るさを取り戻したヴンダー艦橋の空気は嫌に暗い。硬く、重く、不味い。

 

「ど、どうしますか。警備部に要請とか……?」

 

 実に怖々と両手で差し上げるように発した多摩ヒデキの言を、艦長ミサトは切り捨てる。

 

「不要です。鈴原少尉には碇シンジの回収を指示、エヴァパイロット二名には下知を飛ばせ」

「は、はい……あー、ちなみになんて言えば」

「『部屋に戻れ、ガキ共(Go home bitches)』。復唱不要」

「…………了解」

 

 心底慄きながら新米オペレーターは指示通りの仕事を即座に済ませた。

 架橋の先端で一人、北上ミドリは不愉快げに鼻を鳴らす。コンソールに表示したウインドウには、今現在も繰り広げられている逃走劇の艦内監視カメラの映像が流れていた。

 

「……ペナルティ無し。こんなの立派な脱走じゃん」

「って言っても、艦内で行ける場所なんて数えるくらいでしょ」

「はぁ? だから?」

「や、だからって」

 

 剣呑に声を低めてミドリはヒデキを睨んだ。

 青年はまたしても竦み上がり、二の句を飲む。

 

「……囚人は囚人らしく大人しく牢屋に入ってろっての」

 

 少年を見た。その幼気な顔を。

 華奢で薄くていかにも弱そうで、今など同じエヴァパイロットだった女から逃げ惑っている。情けない。まるで人畜無害な、こんな少年が。

 

「人殺し……!」

 

 呪わしくて憎らしくて仕方ない。

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、マリの姿は消えていた。走り走る内に逸れてしまったようだ。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……体力、落ちてるな……」

 

 ここまで大した距離を踏んだ訳でもないのに体は驚くほど重い。疲労感が全身を包んでいる。心臓はいつ止むとも知れない早鐘を打ち続けた。

 轟轟と機械音がそこかしこで鳴り響く廊下。剥き出しのフレーム、配管、電装。

 昔、ネルフ本部にもこんな場所はたくさんあった。あまりに広すぎてよく迷子になったのを覚えてる。

 

「……」

 

 こんなことでまた、過去を懐かしむ。

 未練、それとも後悔? どうにもならないもの。自分が台無しにしたものを引き摺り続けている。

 滑稽だった。

 情けなくて、嫌になるくらいに。

 一向に鎮まらない呼吸を無視して進む。戻るべきところももうわからない。進むしかない。

 耳を打つ金属の足音。頭蓋を響く硬質な(かね)

 また、逃げてる。嫌なことから。辛いことから。

 罪から。

 廊下が途切れ、不意に仄暗かった視界に陽が差した。

 

「っ」

 

 暗闇に慣れた目にそれはあまりにも眩しくて、まるで眼球そのものが白く染まるようで。

 ほんの数秒、視力を失った。

 それでもすぐに世界は立ち戻る。人の迷いや躊躇なんてお構いなしに。

 そこに、広がる。

 

「────ぁ」

 

 赤い街並。赤いビル群。赤い赤い廃墟の交雑。

 赤ワインで煮崩れた肉の欠片みたいに、人の名残が砕けながら敷き詰められた大地。見渡せば、文明は確固として形を維持していた。ただそこに人がいない。ただ、命だけがない。

 生きとし生ける何もかもを拒絶する赤。L結界に包まれた死の空間。

 何もないというその一点でのみ、清い場所。浄化された世界。

 赤い罪はそこで待ち受けていた。きちんと、逃がさず僕を、歓待していた。

 

「ぁ……あ……っ……」

 

 小さな明り取り。外部観測の為の丸い覗き窓。小さく分厚い強化ガラスの向こう側に、現実があった。

 これこそが現実だった。タブレットに映し出すただの記録とは訳が違う。桁違いの生々しさで。圧倒的なリアルが肉眼を侵した。

 眼球は赤で染まる。さっきの眩暈とは比べ物にならない嘔気、怖気、恐怖、恐怖、恐怖!

 違う。これが本当の恐怖だ。どんな想像もどんな映像も音声も言葉すら敵わない。僕の犯した罪そのものが今、このガラス一枚向こうにある。

 責め苛む。僕を。僕の所業の末路をまざまざと顕して。

 

「ッッ!! ッ! ッ!!」

 

 骨が鉛に変わったかのように、肉が砂袋に挿げ替えられたかのように、体が軋む。今にも崩れ去る。今に。

 震え、震えが、瘧めいて皮膚を泡立てる。歯の根が合わない。焦点が霞む。気が遠退く。正気を、保てない。保ちたくない。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ見たくない見たくない見たくない見たくないごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい僕が僕の僕の。

 願いたい。ただ一つ。求める。請い、欲する。それを得る為のあらゆることをやりたい。それがもし、与えられるならどんなことでもしてしまえる。

 許し。許しを、ください。お願いだから。

 許して────その懇願を、どうして。

 どうして、口に出来る。僕が。

 奥歯を噛み潰して、全身全霊でそれを飲み下す。たった一つの望み。たった一つの逃避。安楽。自分だけの救い。

 そんなもの、もうない。

 

「ああ……これが、僕の……」

 

 罰。ようやく巡り逢えた。

 眼下に広がる赤い世界こそが、碇シンジへの罰だった。

 

「は、はは……」

 

 元には戻らない。起きたことは覆らない。世界は、やり直せない。

 仮にそんな都合の良い手段が存在したとしても、きっと僕には扱えないだろう。

 許されない。そんなことは断じて。誰あろうこの世界が許しはしない。

 奪った者に出来ることはただ、罪の重さに潰れること。犯した罪は決して帳消しには出来ない。しては、ならない。

 今ある現実を否定する。それは最低最悪の……逃げだから。

 僕はもう逃げられない。逃げたくない。そう願ったから。

 願った、その結果、何も救えなかった。それどころか何もかも殺した。赤く塗り潰した。

 たった一人さえ、助けられずに。

 綾波。

 

「ごめん……ごめん、綾波……」

 

 罪を塗り重ねた。君を代償にして、僕が為したことは、よりにもよって“これ”だけだ。

 こんな地獄が、綾波の代わりなんだ。

 

「僕は結局、何もしてあげられなかったんだ……」

 

 罰に次いで知ったのは、その絶望。

 

「何も」

 

 自分の行為の無為を思い知る。無力を味わう。体と心で味わい尽くして、残るのは胸に穿たれる空虚。

 

「何も……!」

 

 骨の髄に埋まる罪の意識さえ、肉体を支える力にならなかった。

 崩れる。膝が折れて、冷たい金属の地肌に座り込んだ。

 轟轟と鳴り響く。それは巨大な機械と、巨大な有機素材の内臓の鼓動。脈動。

 まるで生き物の中にいるようだった。

 大きな命に、包まれているような。

 

『──』

 

 轟轟、轟轟。鳴り響く。

 その中に。

 

「………………え」

 

 微かに。

 

『──碇くん』

「────」

 

 呼ぶ声が、した。

 自分のことを呼ぶ誰かが。

 その時、そっと、肩に触れる。

 触れている。その柔らかなもの。誰かの手。知っている感触。懐かしい、その温度。

 暖かな、小さな、彼女の手。

 幻覚だ。妄想だ。錯覚。現実逃避の、なにか。きっとそうだ。そうに違いない。現に以前、綾波ではないアヤナミがここを襲ったばかりじゃないか。

 これだって、そうだ。そうだと、思わないと。何かの間違い、勘違いだって思い込まないと。

 もし、もしまた裏切られたら。この期待を、希望を取り去られたら今度こそ、僕は。

 僕は。

 

「…………」

 

 震える手で、ゆっくりと、注意深く慎重に、ゆっくりと肩に触れる。

 左肩に乗るものに、自分のそれを重ねた。

 

「っ!」

 

 不思議な手触りだった。朧気で、儚い。形もはっきりしない、まるで空気だ。

 でも、ある。

 細くて華奢で、少し冷たい。指、綺麗に切り揃えられた爪。

 そこにある。

 そして……そこに巻かれた幾つもの絆創膏。

 

「……綾波?」

『……』

「綾波……そこに、いるの……?」

 

 答えはなかった。静寂が背中に掛かる。

 でも、この無言を覚えてる。沈黙の中に、確かにある。

 応えはあった。確かに、綾波の声が聞こえた。

 

「はっ、ぁ、あぁ……!」

 

 それが一体どのような現象で、どんな理屈で起きていることなのか見当もつかない。今でさえ、これは自分にとって都合のいい幻なんじゃないのかと思う。

 それでも、どうしようもなく。

 

「ふ、っ、ぐ、ぅ……う、ぁ……あぁっ……!」

 

 涙が溢れてくる。ダメなのに。こんなもの許されないのに。

 止まってくれない。

 そうして、ふ、と。綾波の手が消える。背中に掛かる優しい静寂も。

 けれど、それを悲しいとは思わなかった。

 綾波はここにいる。ちゃんと今もここにいる。

 

「ずっと……そこにいたんだね……」

 

 今、鳴り響くこの音は。これは命の音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ、こりゃまた随分とオカルティックだにゃ~」

「……」

「今……そこに……」

 

 廊下の向こうで頽れた少年と、その背中に寄り添う白い朧な影を見た。

 マリは喜色と好奇心を隠そうともせず笑う。

 アスカは声もなく、溜息を吐く。呆れと嘲りと、その懐かしさを吐き捨てるように。

 サクラは驚愕を隠せなかった。奇跡に近しい非現実に言葉が無かった。言葉は無かったが。

 

「……なんやのん、今更……!」

 

 湧き上がる焦熱を、ただ胸奥に抱き締めた。

 

 

 

 

 

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