夜桜の花見を楽しむバレンタイン反省会の3人の一幕。
「乾杯」
ゆるやかな弧を描くカウンターテーブルでお猪口が三つ、ひかえめな音を重ねた。暗夜にひたる地上二階のテラス席。わずかなランタンで足許を照らすのみだが、目の高さに広がる花の雲がライトアップに煌々として、饗された料理と器の色に損なわれるところはない。
夜風が淡色の雲を吹きくずして淡色のいろどりをテーブルに添えた。また一つ吹いては小さいハート型の花弁を夜空の雲へと運んでいく。ほのかな湯気とともに日本酒を紅い唇におさめて、和久井留美はその行方を切れ長の目で追う。彼女の髪の色に似た深い色の夜空でも風は雲をほろほろとくずし、十三夜の月をおぼろに飾っている。
「あら」
「風流ね」
飲み干したお猪口にひとひら舞ってきた可憐な花びらに、三船美優が声のトーンを高くする。微笑みながら服部瞳子が徳利の熱燗でそれを泳がせた。
「ふふ、桜の精が挨拶に来てくれたみたいですね」
はや上気しかけている頬で美優がいうと、左右の二人が喉で笑って応じた。春の夜風は見下ろす庭の桜のほうから、急ぐように香るように、さまざまに吹いてくる。指先の小さい盃でハート型の小舟がくるくると回る。
「瞳子さんにも来たわよ、ご挨拶」
酒香のくゆる盃にまた一枚、そう告げた留美のところにもキザクラが一枚、小舟になってたゆたう。大虎であれば一飲みにもしただろうが、アイドルたる三人には来客にすべき対応というものがあった。握手である。三様の爪の先にいずれの桜の精も飛びついて、浸っていた酒のすぐに乾くや、花の雲から躍り出た仲間とともに空の雲へと吹かれていった。
「桜って」
少し寂しくなったお猪口を鼻先に持ち上げ、瞳子がつぶやいた。
「不思議とあんまり香りがしないわね」
「そういえば」
おなじようにして留美も、視線を美優に向ける。
「桜のアロマオイルだとかお香はたしか、あったわよね」
「ありますよ」
桜の残り香なき日本酒はとうに冷めて、美優の唇に染み入る。
「桜の特徴的な香り成分はクマリンというんですけど、花が咲いているうちはべつな物質になっていて香らないんですよ。花より葉っぱのほうがクマリンをたくさん持っていて、桜のアロマはそちらから抽出するのが多いそうです」
桜の花からその香りを感じたければ桜湯を飲むことになるだろう。ただ日常で接する機会の薄いものであれば、桜の香りといって引き合わされるものは、桜餅をくるむオオシマザクラの葉の塩漬けである。
「さすが美優さん、詳しいわね」
「クマリンねえ……」
留美のついた息は飲み干されたお猪口を滑って一回転すると、淡色の花びらとともに夜闇に溶けていく。
「イヌリンていうのもあったわよね」
「食物繊維ね。水溶性? 不溶性? どっちだったかしら」
「ブタリンもあるらしくて」
「あっ、なにがいいたのかなんかわかっちゃった……」
浮かべる表情に困る瞳子の横で、三杯目を舐めていた美優は背を丸め、肩を大きく震わせていた。留美はそれをちらりと見た。ピンクゴールドに照らされた皿からマリネされた桜鯛を口へ運び、飲みこむ。酔いの回りはじめた美優の笑いがおさまらぬことを察すると、留美は自分の本題をさっさと言葉にする。美優が落ち着こうとして、下手に飲み物を口にする前に。
「ネコリンはないっていうのよ」
瞳子はどう返事したものかとあいまいな笑みを返す。小さい盃をひっくり返して美優はテーブルに伏せた。食器まで震わせて笑う彼女に注ぐ二対の視線に、特定の感情はない。
「イヌもブタもクマもあるっていうのに」
「る、留美さん、美優さんが危ないから」
珍しく笑い上戸になっている美優への追い打ちを止めた瞳子の両手のすぐ先で、大口を開けて笑っていた当の美優がすっと背筋を伸ばした。顔にすでに笑みはなく、口はきゅっと結ばれている。まさかもう吐きそうになった? 二人が気色ばむ。美優は静かに留美の肩へ手を伸ばし、しっかりと掴んだ。具合が悪いわけではないらしいことが、指先の温度で留美には感じられた。
「そう、ネコリンはないんですよ留美さん。だって」
だって? 怪訝と心配の視線が無表情の美優を前後から刺す。
「凛ちゃんは犬派だから……!」
いうや留美の肩を支えに、美優はまた体を折り曲げて大笑いする。
「どうする? これ」
「ひとまず水と……お料理で」
視線をそう交わしあって、たっぷりの水を美優に差し出す。強く震える肩を揺すって顔を起こさせると、こんどは涙を滂沱のごとく流している。ぎょっとした拍子に瞳子のグラスから水が踊った。
「なんで泣くの」
「だって、だって留美さんかわいそう……。ネコリンだけないなんて……。ね、ネコリン……くふっ、フフフッ」
「どっちの上戸かはっきりしてちょうだい」
「どっちの上戸もちょっとストップしてほしいかしら……。はい、美優さん、お水」
グラスを片手で鷲掴みに受け取ると、美優は一息に飲み干した。落ち着きをとりもどしたようすでテーブルに向かい、フォークを取る。
「そうそう、急かすのもなんだけど、まだ前菜よ。どんどん食べましょ」
お腹をすかせたまま食べ物よりも酒を流しこめば、たとえビールやチューハイでもすぐ酔ってしまう。逆が酔い醒ましにはなりえないが、酒を口にさせないためにはいい。
「桜鯛っていってたかしら? 留美さんはさっき食べてたわね、どうだったの?」
「おいしかったわよ、ほんのり甘くて、酸味も少し……。ソースのほろ苦さが私は好き」
留美は添えられたアスパラガスを、瞳子は主役の桜鯛をそれぞれ口に運んだ。目を閉じて口のなかの味と香りを鼻腔まで循環させる。
「白身の甘みがすごくわかるわね。ねえ、美優さん」
「うーん、にがい……にがいです、たしかに……」
「苦いっていうほど苦くはないと思うわよ、これマーマレードのソースよね?」
「そうね、ほろ苦いというか……」
「しゃくしゃくしてうすいしにがいです……」
二組の怪訝な視線が美優の両頬を刺す。むせた美優の口からなにか白っぽいものが飛び出して、かざした手につく。その手をテーブルに開かせてみると、桜の花びらが一つ。一部濃い色になっているのは、美優が噛んだためだろう。
「あえ?」
ぽかんと開けた美優の口から、無事な花びらが二つ三つと舞い出てきた。留美が顎を掴んで口を開けさせると、美優の口のなかはほとんど桜色になっていた。
「どうやってこんなに集めたのよ!?」
「み、美優さんはちょっと桜の精に好かれすぎたみたいね!? はい、すすいですすいで」
二杯目のグラスの水は、お約束というべきだろうか、何十枚の桜の花びらをともなって美優の腹の底へ流れていった。呆れる留美の鼻先に、酔っぱらいの笑みの美優がフォークを持ち上げる。いつの間に集めたのか、大量の桜の花びらが器用に串刺しになっている。
「ちょっとなにこれ!」
「さ、桜だい! ぷっははははは」
かってに噴き出す美優の笑声に乗って、穴の空いた花びらがきりきりと回りながら夜闇に落ちていった。
「本当にいるのかしら桜の精。美優さんをお望み?」
「さくらのきのようぶんにされちゃうんですか~?」
「ギャグをあんまり真面目に取らないほうがいいわよ? それに、桜だってふつうの栄養で事足りてるはずよ」
「でもお、さくらのきのしたにはしたいがうまってるんでしょう~?」
「……それは梶井基次郎の創作」
溜息と交換に留美は美優の頭を胸の下に抱え、無理やり口を開けさせる。そこへ瞳子が桜鯛とアスパラガスをまとめて放りこみ、ついでに金色をして見える柑橘ソースを落とした。
「そんな不気味なものを裏に幻視しないといけないくらい桜がきれいだっていうお話よ」
「よくわからないけどおいしいですぅ~」
「輝かしいものの裏には汚いものがあってほしい。そうでないと見ている者の気持ちのバランスが取れない。……そんなお話だったわね。人気のアイドルが枕営業してるとか、成功者はなにか卑怯な手を使っ……」
地雷を踏んだ気がするわ。瞳子はごまかしきれなかった言葉尻に心のなかで苦った。
「なるほど……そうね。地道な努力の成果じゃ追いつけなくても、卑怯な手のおかげならいつか自分もそうやって、なんて思えば楽しいのかもしれないわね」
自分を囚えた留美の腕と指に力がこもるのを美優は感じたが、しかし、アルコールによって危機感は麻痺しきっていた。この晩においておそらく唯一の、アルコールの良い働きだった。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている……。出典もわからないまますっかり人口に膾炙したのも、そうやってバランスを取りたがるひとが多かったおかげかしら」
「ま、まあまあ留美さん。いま食べさせるものはないから、美優さんを離してあげて」
「うーん、
「ちょっと美優さん、前菜で寝ないで……。というより、まだ飲みこんでないのに寝ないで」
上体を起こして飲みこませ、また水を勧める。
「手のかかること」
「……よかった」
海藻のように揺らめく美優越しに瞳子があらためて乾杯の盃をかかげた。留美も手酌でそれに応える。
「昔のこと、いつまでも引きずってられないわよ」
「ええ、本当に。……私はまだ昔の悔しさ、埋めきれてないみたいだから、ちょっと眩しいわ」
「会社づとめをしてたころの私は死んだ。いまの私は、それこそ、その死体を抱いて咲く桜でしょう」
何杯目かの酒を、瞳子も手酌でお猪口に満たす。はらりと一つ舞って浮かんだ淡い色のハートを、くいと飲み下した。
「昔の自分を栄養にして、美しく咲けばそれでいいんじゃないかしら」
「そうっちゃね。遅咲きでんなんでん、咲かそうっちゆうてくれたひとーおったらね、消化に悪くてもこなしてかんばね!」
「ええ、焦らずゆっくり……ん?」
ぬる燗になった徳利の温度を手のひらに楽しんでいた留美は、耳を打った方言に視線をさまよわせた。揺れる美優の向こうで、瞳子の目が据わっている。すでに自身の徳利はテーブルに転がし、美優のまで飲み干さん勢いだ。
やばい。そんなシンプルな単語が脳裏にひらめくあたり、留美にも酔いが回りはじめているのだが、親友二人の酒癖がそれを急速に醒ましていく。瞳子は前菜を食べてからだったとはいえわずかなもので、三合か四合弱か、日本酒を流しこめば結果はおなじである。留美はあわててウェイターをつかまえた。
「ごめんなさい、次の料理を早く……。それとお水をたくさんと、しばらく、お酒の注文を無視してください」
(了)
※pixivにも同じものを投稿してあります。