ウマ娘に力では敵わない。
本気で求められもしたら、逃れる術はない。
けれども、一向にタキオンは私を襲わない。
私は、何か大きな勘違いをしてしまったのだろうか。
ある日、突然タキオンに押し倒された。
ウマ娘と人間では身体能力がまるで違う。私は為す術も無く、組み伏せられた。
恐らく、タキオンがこれからやろうとしている事はトレーナーとの一線を超える事だ。ならば、タキオンを守るためにも逃げなくてはいけない。
逃げなくてはいけない。いけないのに……。
タキオンの瞳、その美しい瞳から私は逃げられなかった。いや、逃げようという意識が失せた。
ああ、君を守れなかった。タキオン……。
……まて、何かおかしい。
なぜそんな風に困惑した、いや懐疑的な表情なのだろうか。その白く、少し荒れた指に挟まれた試験管。中の青い液体は神秘的な輝きだ。
「ほう?」
それと似たような疑問形が私にも渦巻いた。
「すまないね。実験に付き合って貰おうと考えたのだが、姿勢を崩して君を倒してしまった。怪我は無いかい? そうか、それなら良かった」
何事も無くて良かった。そう、捉えるべきか。
「さて。これはどういう事だろうかね?」
「……な……何かあったのか?」
「心拍数の上昇、呼吸の乱れ、開いた汗腺、頬の紅潮。君に起きている身体的現象だよ」
「いや、それは……」
「君はまだ薬を飲んでいない、見ただけだ。つまり視覚的要因、或いは接触的要因によって君の体には所謂興奮状態になった。なぜだろうか? 君はなぜ、興奮しているのだろうか?」
その怪しくも煌めく瞳が暖かく微笑んでいる。
長い袖の奥から、腕がしなやかに伸ばされた。
「立てるかい? 是非とも説明してくれたまえ」
私は洗いざらい全てを話した。タキオンに私の愚かな一面をさらけ出す事に喜びを感じていた。
全てを聞き、タキオンは私に冷たい視線を向けた。氷の刃で私を刺し殺すような視線だ。
「なるほど。そういう理由だったのか」
私は断罪の言葉をひたすらに待った。時の歩みは遅く、瞬き1つすら永遠に思えた。
タキオンが顎を手のひらに置いた。じっと考え込むかのように、何かを探るように。
「ふふ……ふふふふふ……あっはっはっ……!」
タキオンの大笑いは、私を混乱させるに充分な劇薬となる。しかし、断罪ではないらしい。
「た、タキオン?」
「いやいや失敬。自分で考えてみても面白くて」
「何が……面白かったんだ?」
「だって、君は私に襲われると錯覚したんだろう? それなのにどうして恐怖ではなく、興奮の反応が出たんだい? それはつまり……つまり……」
タキオンが突然こちらに背を向けた。その細い肩が小刻みに震えている。私がそっと手を伸ばして触れると、そこは火傷しそうなほどに熱くなっていた。よく見れば顔も赤い。耳の動きもいつもと違う。これは怒り? いやそれとも違う。
「どうしたんだい? タキオン?」
強引に振り向かせたその顔は、私が知っているや言葉を使っても表現できなかった。
そして私は、途端にそれが愛おしくなった。
「……今日はもう疲れた……私は睡眠を取るよ」
そう言って袖を振るタキオンの腕を、私は掴んで離さない。触れた瞬間、尻尾は逆立ち耳がピンと張り詰めた。不思議と心臓の鼓動も聞こえた。
「もしかして、タキオンも興奮してるのか?」
「ふ……何を言っているんだい? 互いに疲れているんだよ。さ、さあ離してくれ。休息の時間だ」
「私の目を見て話してほしいな」
タキオンの美しい瞳は、今にも弾け飛びそうな程に震えている。涙すら浮かんでいた。
「トレーナー君、君は狂っているよ……」
「それこそ、お互い様じゃないか」
タキオンに是非とも聞きたい事がある。
私の瞳はどんな色をしているのだろうか。