一人称の練習のつもりなので、読み難い、変なところがあったら教えてください!
トルコには眠らない男性がいるそうだ。
彼は30半ばのある日を境に不眠に悩まされるようになった。しかし、他の不眠症患者のように健康を害されるようなことは一切ない。
どんな医者が、どんな薬物治療を試みても、果てや催眠術まで用いても、一切不眠の状況は改善されなかった。その間、実に55年。
ある学者先生曰く、5分~10分ほどの超短期的な睡眠を無意識に、目を開けたまま繰り返すことで心身を回復させているのだとか。
どうやら、オレは生まれた時から彼と同じ体質だったらしい。
初めに気付いたのはオレが生まれた病院の看護婦さん。
無事出産を終えたお袋とおろおろしていることしか出来なかった親父に抱き上げられ、記念撮影やらを終えた後、保育器の中に入れられた。
しかし、どれだけあやしても、ぐずることはあっても眠らない赤ん坊など異常でしかないわけで。
その後、担当医と両親どころか、病院の院長先生まで巻き込んで上を下への大騒ぎ。
そのような症例など日本では確認されておらず、赤ん坊にとって睡眠は肉体や脳を成長させるための重要な要素。
眠らない赤子がどうなってしまうのかを正確に予想は出来ずとも、良い想像だけは出来ないのだから当然だ。
担当医も院長先生も同業者や専門家に片っ端から電話をかけて、両親はオレをあやしながら紹介された病院を転々として検査と診断の毎日。
解決の糸口を全く見つけられず、担当医も他の先生方も院長先生も一人、また一人と逆に不眠症やら鬱を発症する中、なーんも知らない分からないオレはきゃっきゃと笑っていたそうだ。我ながら、とんでもなく傍迷惑な赤ん坊である。
両親も始めの内はどうしてウチの子が、と嘆いていたようだが、特に問題なく成長していくオレを見て、あれこれウチの子大丈夫、大丈夫じゃない? と前向きさを発揮。
これが子の個性と受け入れ、多くの方々の心労を余所に伸び伸びと育てようと決心したところ、とある大学の教授からトルコの男性の話を聞かされたらしい。
最終的に、原因は不明であるが症例は似通っている上、現状では特に問題が見られないため退院。但し定期健診は必ず来るように、という運びに相成ったそうだ。
オレは能天気でさえある前向きな両親に見守られ、すくすくと成長していった。
眠らないことで手がかかっていたのは事実であったが、幸いなことに体格にも知能にも問題なく、気が付けば物心つく年齢。そうなれば周囲と自分の違いにも気付き始める。
両親はオレの体質について語って聞かせた。
体質はオレにとっても他人にとっても害のあるものではないが、本来であれば在り得ない他人との違い。
肌の色が違うだけで殺し合うだけの理由になる世界と人々の中で、オレが自立して生きていけるか不安だったのだ。
その話を聞いたオレは――――
「す、す、す、すげー! ボク、みんなよりもあさとひるとよるで、えと、えっと、とにかくいっぱいあそべてる!!!!」
「成程、そういう考え方もあるかぁ~……!」
「お母さんは勉強もして欲しいわぁ~」
両親からきっちり能天気なまでの前向きさを受け継いでいたので、全く深刻には受け取らなかった。
深刻になる必要など何処にもない。他人から気味悪がられるかもしれないが、事実を確認するために終始傍にいなければならず、複数人が交替で監視しなければならない。
そんな手間を取る人など学者先生ばかりで、眠らなければ生きていけない人達からすればオレの体質など与太以外の何物でもないだろう。
手元に残るのは健康な身体と人が一生の内に三分の一は費やさねばならない睡眠からの解放。
子供の頃は兎に角、全力で遊んでいた。
流石に両親が寝静まっている間に飛んだり跳ねたりは出来なかったし、体力はそう続かない。
だから夜はゲームをしたり、本を読んだり、テレビを見たり。当時、確かにオレの世界は歓びと楽しみに満ちていた。
そうして、眠らないとある一夜に――――彼女に出会った。
そこで見たのは、深夜帯に流れていたレースの再放送。
随分と古い映像で画質は荒かったが彼女の走りは、子供心に焼き付くほどに鮮烈だった。
大地を踏み抜かんばかりの力強いスタート。逃げる対戦者達の背中を射抜く眼光。ゴール直前、狙い澄ましたかのように交わす姿。
何処を見ても付け入る隙が無い。なぜ勝利できたかよりも先に、なぜ敗北してしまったのかを語られた生きた伝説。
オレが見たウマ娘の名は『シンザン』。
日本史上初めて五冠の栄光を手中に収めた稀代の怪物。同時に戦後低迷気味だったレースを国民的スポーツエンターテインメントにまで押し上げた立役者。
活躍した時代から20年近くたった今も、彼女を最強のウマ娘と呼ぶ声は多い。実際、彼女の戦績を超える者は未だ現れていない。
そうして、オレはウマ娘のレースにのめり込んでいった。
引退したウマ娘の自叙伝を読み漁り、生中継されるレースを見て、両親にせがんで実際の競技場でウマ娘達へ向けられる歓声を間近で体験した。
本当に、心の底から楽しかった。彼女達の戦いを見る度に胸が熱くなり、勝利の笑顔にも敗北の涙にも胸を打たれた。
ただ、唯一の心残りがあるとするのなら――――シンザンのレースを生で見れなかったことだけ。
実に子供らしい我儘だ。生まれてきた時代が違う以上、彼女の走りは画面の向こう側でしか見られない。
それでも、どうしても見てみたかった。
だからか、オレは何時しかウマ娘をサポートするトレーナーを志していた。
シンザンは無理でも、彼女すら超える更なるスターをこの目で、それも間近で見れるかもしれないから。
「とーちゃん、かーちゃん! ボクね、トレーナーになりたい!」
「おお。母さん、俺達の息子がまた一つ大人になったぞぉ」
「あら~、じゃあお勉強も頑張らないとねぇ」
生まれて初めてできた夢を、両親は子供の夢を否定するのではなく、肯定して迎えてくれた。
しかし、トレーナーへの門は極めて狭い。
門戸を叩く事自体は容易い。トレーナーの専門学校もあり、或る程度の学力があれば誰でも入学は出来る。
その課程で優秀さを示せれば海外のように飛び級も卒業も認められている。
問題はその課程。最新のスポーツ工学から栄養学、整体や医学までも必要最低限のラインまで叩き込まれる様は拷問にも例えられ、卒業試験の合格率は司法試験並み。
トレーナー資格を入手後は、日本各地に点在するウマ娘の所属する学園に自ら試験と面接へ向かう。特に日本ウマ娘トレーニングセンター学園は天から二物も三物も与えられた天才が鎬を削り、潜り抜けられるのは更に一握り。
今やウマ娘のレースは国の経済をよく回すエンターテインメント。
其処で競い合うウマ娘達は文字通りのスターであると同時に、財産でもある。あらゆる面でサポートしなければならないトレーナーに要求される能力も当然高くなる。
来る日も来る日も勉強勉強勉強。
トレーナーになるために必要な能力と知識を詰め込む毎日。両親が心配するほど打ち込む日々。
夢を追うのは苦痛ではなかった。
誰が言ったか『夢は逃げない。逃げるのは何時も自分だ』という言葉は真を突いていると思う。
オレはお世辞にも頭の出来はよろしくなかった。決して天才や神童と呼べる類の子供ではなかった。
でも、オレは眠らなくて済む。体力にさえ気を付ければ、必要な知識を学ぶ時間は単純に計算しても人の1.5倍は確保できる。
幼い頃からそれだけの時間を直向きに学び続ければ、どれだけ平凡で凡夫でもそれなりにはなる。無事に最短距離でトレーナー養成専門学校に入学した後も、座学も実技も齧り付きで学び続けた。
ただ、それでも足りないと常々感じていた。
中央のトレーナーはそれぞれの持ち味がある。徹底して故障の危険性を排して勝利を目指す管理能力だったり、ウマ娘と打ち解け合い人バ一体を目指すコミュニケーション能力だったり、と色々だ。
特に代々トレーナーを輩出している天才の名門なんてものもある。人並み以上の努力などトレーナーになる上でやっていて当然。其処に、どうしてもプラスアルファが必要になる。なら、オレにしか持ちえない利点と特性は何だろう、と悩む時がやってきた。
「……あれ?」
神様はクソ野郎だ。
誰に対しても平等に不平等、悲劇も喜劇も一緒くたに見て笑っていやがるに違いない――――だから、それを自覚した時は、憧れ続けたシンザンから与えられた贈り物だと思う事にした。
一日の合間に設けた休憩時間。
専門学校の寮で何気なくつけたテレビのレース中継を見た時に、はたと気付いた。
オレはどうやら対象のウマ娘について知れば知るほど、頭の中で展開を映像として予測できるらしい。
恐らくはシンザンのレースを見続けるだけで飽き足らず、既に引退してしまった彼女と現役のウマ娘と想像の上で競わせていたからだと思う。
当時は子供の遊びの範疇。
けれど、脳の機能とは使えば使うほどに研ぎ澄まされていく。
特に、その成長が尤も顕著なのはニューロンや神経が発達し切っていない幼年期。一流と呼ばれる者の誰もが幼い頃から鍛え続けている事実に行き当たるのはそのためだ。
結果としてオレが得たのは、その日の調子だけではなく骨の太さや筋肉の付き方、蓄積された疲労までも透けて見えるほどの観察眼と、それで得た情報を基にした展開予測。
的中率はどれだけウマ娘の情報を入手したか、どれだけ対象を直視したかで変動するが、これは途方もない武器になると確信した。
レースの展開を正確に予測できるのなら、自らの担当する娘に的確な指示や作戦を提示してやれる。そうでなくとも対象の状態を正確に把握できるなら担当の伸ばすべき部分が明らかになり、故障の可能性も低減出来るだろう。
そうやって一歩、また一歩と夢に近づいていった。
専門学校の卒業試験は難なく合格。
トレセン学園の試験も危なげなく通過。面接も観察眼と想像力を武器に自己アピール。
結果、オレは狭い門を何とか潜り抜けることに成功した。
そして、オレはようやく夢のスタート地点、トレセン学園の校門前に立っている。
「い、行きたくねー……」
だが、オレは校門の前で二の足を踏んでいた。
普通ならば意気揚々と足を踏み入れ、華々しいスタートを切るのだろうが、そうもいかない事情があった。
今のオレにとっては確かにスタート地点なのではあるが、
酷い矛盾もあったものだが、何も不思議な事はない。最近流行りの転生だの、一昔前に流行った逆行というわけではない。
オレはただ単純にトレセン学園に入ってからの記憶を失っただけ。所謂、記憶喪失という奴なのだ。
原因は事故による頭部への外傷。
担当していた
幸いだったのは、担当の娘にも子供にも運転手にも怪我はなかった事か。
尤も、オレがそれを知ったのはトレセン学園お抱えの弁護士が全てを片付けた後だったが。
その間、オレは運び込まれた病院で麻酔を投与されていたにも関わらず手術中に意識不明から覚醒して執刀医の腰を抜けさせたり、自分の体質を説明して更に仰天されたりしていた。ホント、ガキの頃から変わらない傍迷惑加減だ。
まあ、それは兎も角。
怪我自体はそれほどではなく、受け答えもしっかりしていたため、担当医の先生も検査の上で重度ではないと判断。オレと一緒に安堵の吐息を吐いたのだが、この時点で既に齟齬があった。
オレは記憶を失っていたためトレセン学園へ向かう途中の事故と思い込んでいた。だから誰一人として、オレ自身ですら外傷性健忘を患っているなどとは想像すらしていなかった。
……それはまだいい。最終的には気付けたから。
健忘とて不治の病ではなく、何かの切っ掛けで唐突に記憶が戻ることもあると聞く。
悲観するほどのことではない。トレーナーとしての経験を失うのは痛いが、ゼロからの再スタートと思えばいい、と何時も通りのオレならば前向きに考えただろう。
最悪だったのは、最悪のタイミングで、最悪の一言と共に周囲が気付いてしまったこと。
その瞬間は病院の面会時間ギリギリにやってきた。
入ってきたのは年若い小柄な少女と毅然とした表情と態度を持つウマ娘。
「うわっ、秋川理事長、どうして……」
「無論ッ! 優秀なトレーナーの見舞い以外に何があろうか!」
「はぁ……いや、優秀って、まだ学園に入ってもいないんですが……」
「…………?」
「苦慮ッ! 可笑しなことを言うものではない!」
「可笑しいって言われましても……あの、ところで、
「…………っ?!」
「ぐ、愚行ッ!! 何を言うのかね!?」
オレは生まれて初めて、人が膝から崩れ落ちる瞬間を見た。
年不相応の毅然とした表情が一瞬で崩れ去り、年相応の、いやもっとずっと幼い泣き顔を見てしまった。
どうやらその子は、オレがトレセン学園に入って初めて正式に担当したウマ娘だったらしい。
せめて健忘だと分かっていたのなら。そうでなくとも、せめて自覚して混乱していたのなら、或いは結果も違っていたかもしれない。
誰も悪くない。余りにも間と運が悪過ぎた。だからこそオレはオレ自身を責める他なく、あの子は悲しみに暮れるしかなかった。
やっぱり神様はクソ野郎だ。
その上、クソ野郎はクソみたいな置き土産までしていきやがった。
その後の検査で、オレは逆行性ばかりではなく前向性の健忘まで発症していることが判明。
逆行性は三つある記憶のプロセスの内、想起が出来なくなる症状。ある地点から遡って記憶が引き出せなくなる。
前向性は三つある記憶のプロセスの内、記銘が出来なくなる症状。新しい物事を覚えることができなくなってしまう。
幸いなことに、オレの前向性健忘は一日の内、特定の時間帯――午前8時から午後5時の間の全てを忘れてしまうだけで済む。
酷い場合はものの数秒で覚えたことを忘れてしまうこともあれば、もっと酷ければ自分の名前以外に何も思い出せなくなった挙句に眠ってしまうと一日の記憶がリセットされてしまう、なんて症例もあるのだとか。
それに比べれば、忘れてしまう時間帯の内に何があったのか、何を覚えたのかメモを取り、それ以外の時間帯でメモを見ながら覚え直せる分だけ、一人で日常生活を送れる分だけまだマシだ。
――――ただ、オレの夢は、『シンザン』を超えるウマ娘をこの目で見たい、という願いは現時点では叶わない。
トゥインクルシリーズ、更なる上位リーグにもナイターレースはない。
オレが記憶を保持できる時間帯に開催されるレースはローカルシリーズの一部のみ。
仮にローカルシリーズにシンザンレベルのスターが生まれたとしても、結局は中央に招かれてトゥインクルシリーズに参加する流れになる。
例え、その目でシンザン越えの光景を目の当たりにしたとしても、今のままでは覚えていられない。興奮も歓喜も、存在しなかったかのように消え去っていく。それでは何の意味もない。
夢には確かに近づいていたんだ。なのにこの様。願いは叶えてくれるが、願い以上の代償を支払わなければならない猿の手のような話だ。
だから、オレは一つの決断を下した。
今日、オレは夢を叶えるために夢から逃げ出す。
幸い、オレの夢は健忘が治るだけでも叶う可能性がある。
オレがトレーナーになったのはシンザンを超えるウマ娘を作り出すことではない。あくまでもシンザンを超えるウマ娘を一目見るため。
生まれてくるまでの間に治療に専念し、この厄介な症状を根治させればいい。後は果報を寝て待つだけだ。
トレーナーを続けようと思えば出来る。
昼間の出来事を詳細に記録しておき、夜の内にもう一度覚えればいいだけだ。眠らないオレの夜は人よりも遥かに長い。
オレはオレ自身のアドバンテージを、ディスアドバンテージを取り戻すためのリソースとして使えば何とかなる。だが、それならオレでなくともいい。
恐らくオレがこれまでやってこれたのは、何をするにも人よりも1.5倍の時間を取れたから。後は埋もれていくだけ。そんな奴がトレーナーなど続けていてはいい迷惑だ。
そして何よりも、人におんぶに抱っこで夢を叶えようとした俺が、多くの夢を背負って走る彼女達の脚まで引っ張る訳にはいかないだろう。
「腹、括るかぁ……さて、最後のワンチャンス。行ってみますか」
既に用意してあった退職届をスーツの内ポケットに収めて、門を踏み越える。
健忘の治療法は確立されていないが、逆行性健忘に関して言えば失われた当時の写真や日記、人や場所を訪れて記憶を引き出す取っ掛かりに触れ合う機会を増やすことが有効であるとされている。
何年か過ごしたらしい学園に入れば、何かを思い出すかもしれない。それがトレーナーとしての経験であったのなら、或いはまだ芽はある。
我ながら未練がましく惨めったらしい悪足掻きに、今から挑戦するとしよう。
「しっかし、信じらんないよなぁ……」
門を踏み入れた瞬間、頭を掠めた記憶――――ではなく
オレの担当していたウマ娘。
オレが悲しませ、涙を流させてしまった少女の名を思い出す。
彼女の名はシンボリルドルフ。
無敗のまま皐月賞、東京優駿、菊花賞を制した三冠ウマ娘。
これらクラシック三冠だけに留まらず、その先までも見据えている“皇帝”。
ベテランには程遠く、中堅と呼ぶには経験の足りないトレーナーが担当したとは思えない余りにも華々しい相手と成果。
彼女と共に歩んだ道程、共に分かち合った歓びを忘れ果てたオレには、何の冗談だと問いたくなるほど過ぎたウマ娘だった。
―――――
――――
―――
――
―
「ダメだな、こりゃ」
退職届を提出するために願い出た理事長との面談まで後30分。
最後の足掻きのために三時間近く早く学園入りしたオレであったが、成果はまるでなかった。
学園の彼方此方にデカデカと建てられた現在地を示す点と学園の地図が張り付けられた看板頼りに彷徨ってみたが、記憶に引っ掛かるものもなければ、
学生達は座学の授業中故に顔を合わせることはなかったが、警備員のおっちゃんや購買や食堂のおばちゃんには気軽に声を掛けられた。
元々人見知りをする性格でもない。顔見知りはそれなりにいるだろうと予想はしていた。
だが、相手が覚えているのにオレは忘れてしまっている事実を目の当たりにする度、覚える必要のない罪悪感でどうにかなってしまいそうになる。
相手にはきちんと己の置かれた状況を説明し、頭を下げて謝意と学園を去る旨を伝えた。
理事長はオレの身に起きた出来事を触れ回らなかったのだろう。誰も彼もが驚き、惜しみながらも別れと記憶の回復を願う言葉をくれた。いい人達だ。
日に何度か話すのが関の山の相手にこの調子じゃ、担当以外のウマ娘とも懇意だったかもしれない。
座学の時間帯を選んでよかった。下手に顔見知りと鉢合わせずに済む。もう二度と、年頃の娘にあんな顔はさせたくはない。
「――――――…………」
最後に辿り着いたのは、学園内に設けられた競技場。
ターフコースもあれば、ダートコースもある。日本最大のウマ娘訓練施設だけあって競技場は驚くほど広い。
此処も、やはりピンと来ない。
初めて見る景色、初めて嗅ぐ臭い、初めて触れる風の感触。
新天地にやってきたのと全く変わらない感覚。但し、期待感はまるでなく不安感ばかりが募っていく。
情報としては何年か此処で過ごしたらしいが、実感がまるでない。いっその事、理事長が新人に質の悪い悪戯を仕掛けたと言われた方がまだ信じられるくらいだ。
「…………ん」
ターフコースの外周柵に両腕を乗せ、何も考えずに身体を預ける。
違和感。倦怠感。無力感。
何とも言えない胸中に少し疲れ、休憩のつもりでコースを眺めていたのだが、一人の生徒が走っていた。
トレセン学園は文武両道が旨であるが、同時に自由な校風でもある。成績優秀者であれば、ある程度は座学を欠席して練習に打ち込むことも許される。
走るフォームは美しいの一言。長い栗毛が印象に残るウマ娘だ。
単なる練習の一環だが、そこそこスピードが乗っている。
オレが見てから既に1000mは越える距離を走っているが、自身にとって7、8割ほどの速度を保ち続けているように見えた。
其処から更にぐんと伸びる。恐らくはそれが彼女の全力。
しかも全力を維持しておける距離も時間もまた長い。既に500mを越えているにも関わらず、まだまだ衰えを見せない。
こりゃ逸材だ。レースの最初から最後まで先頭を走る稀代の逃げウマになれるだろう。
考えてもみなかった才気を目の当たりにし、思わず頭の中から何度となくシンザンの映像を引っ張り出す。
すると、実際に走る名前も知らない彼女の後ろに、出揃っている情報からフィジカル面での条件は全く同一――――彼女と同じだけの距離を同じ出力割合で走った状態のシンザンの幻影が現れる。
逃げる彼女、追うシンザン。
面白い。トレセン学園に入学してからどの程度の時間が経っているのかは知らないが、あのシンザンが徐々にしか距離を詰められない。
しかし、オレが勝手に始めた遊びのレースは、コースの第四コーナーに差し掛かった瞬間に明暗を分けた。
ほんの一瞬。一瞬だけであるが、先に走る彼女の身体がよれる。表情を見る限り、当人も気づいていない。
その瞬間を見逃すシンザンではない。僅かな加速の伸びの悪さを捕らえ、残る脚全てを注ぎ込んでラストスパートをかける。
コーナーを抜ける頃には既に両者の差は一バ身。
最後の直線で激しく競り合う二人。だが、いち早くトップスピードに乗ったシンザンがどんどん差を詰めていく。
全力で逃げる彼女! 容赦なく詰めるシンザン! しかしその差は僅か!
並ぶか! 並ぶか! 並んだぁ!! シンザン、見事に差し切ってゴールイン! 素晴らしい以外の言葉が見つかりません! 着差以上の実力を見せつけてくれました!
結果はシンザンのクビ差で勝ち。
オレもかなりのシンザン贔屓だが、こうした遊びで能力上の贔屓をしたことはない。
遊びだからこそ真剣に、武器と認識したからこそ本気で磨いた。まあ、脳内実況はお遊びだが。
ただ、一つ擁護するのならば彼女のような逃げを得意とするウマ娘はシンザンにとっては尤も得意とする相手だった、というだけ。潜在能力で劣っているわけではないだろう。
逃げウマの背中を見る形で先行し、測ったようにゴール前で交わすレース運びがシンザンの勝ち筋。
レコードを一度も出してはいないが、レースに勝つために必要な力を必要な時に必要な分だけ出し、相手の弱点を差す。
本当のレースだったとしても、あの僅かな加速の伸びの悪さをシンザンが見逃す筈もない。
その上、オレの想像上のシンザンは多くのレースを勝ち抜いた姿。まだまだ発展途上の相手と比べる事自体が間違っている。
彼女の事情は知らないが、トゥインクルシリーズ中は不可能であっても更なる上位リーグにまで進出したのなら、シンザンを超えるかもしれない。
それほどの潜在能力と伸び代を感じられるが、いずれにせよオレには関係ない話だろう。
「はっ……はっ……はぁ……ふぅ…………?」
やっべ、目が合った。
一瞬、病室で見たシンボリルドルフの表情をフラッシュバックし、どっと汗が噴き出す。
しかし、彼女は怪訝な表情をするだけで、オレを知らない御様子。
相手にバレないよう安堵の吐息を漏らす。今は顔見知りと会うよりも、顔も名も知らない相手の方がずっと気が楽だ。
「あの、何か……?」
「いやー、まー何と言うか……ナイスラン、面白いくらいの大逃げだったな」
「は、はぁ……」
見ず知らずの男に見られていた疑問からか、彼女は声をかけてきた。
その際に、チラリとオレの胸元に視線を落とす。其処に付けられたトレーナーバッジを見たのだろう。
これがなければ不審者を目撃したと得意の逃げの走りで警備員のところまで一直線だったろう。
取り敢えず不審者感を消そうと笑みを浮かべて、彼女の走りを称えてみた。
しかし、返ってきたのは気のない返事。
そらそうだ。自分の走りをボーっと眺めていただけにしか見えなかった男に称えられたところで嬉しくはないだろうし、そもそも一人で訓練をしていただけなのに何が大逃げなのか分かりゃしない。
こりゃオレが逃げた方がいい。言いたいことだけ言って、さっさと理事長の所に行こう。
「第四コーナーのところでよれてたみたいだけど、足大丈夫?」
「えっ? ……よれて、ましたか? 私は、分かりませんでしたけど……」
やっぱり気付いてないか。
単純に体力が切れていたようには見えないし、痛みも感じていないようだ。となると……。
これ言っていいのかなぁ? あんまり変なことは言いたくないし、ウマ娘とトレーナーの間に割って入って搔き乱すのもなぁ。かと言って捨て置くのも……うーん、しゃーない。
「もうトレーナーいるだろ? 相談してみた方がいいんじゃねぇかなぁ。癖だったら直した方が速くなるし、怪我でもしたら大変だし」
「………………」
オレがトレーナーと口にした瞬間、彼女の顔が一気に曇る。
紅潮していた頬がすっと冷めるや否や、耳まで外側に垂れた。
ウマ娘の感情が一番出やすいのは耳だ。表情は大して変わっていないのに、その動きで感情が分かる時すらある。
尤も、耳に目を向けるまでもなく彼女の表情は余りにも暗い。
え、なにこの反応。
トレーナーとそんなに仲悪いの? デビューしてるか直前だろうに大丈夫か、この娘。
方針か、指導か、性格も含めた相性か。
いずれにせよ相当な不満、と言うよりも不安があるのは見て取れる。
そんな相手を選んでしまった彼女が悪い、と言ってしまえばそれまでの話。
けれども、それほど気が強そうにも見えず、口が達者そうでもない彼女にだけ責任を求めるのは聊か酷か。
トレーナー側が無理に押し切って、彼女が返答に窮している間にあれよあれよと、なんて可能性もゼロじゃない。
だから要らん世話を焼いてしまった。
「なんかよく分かんないけど、上手くいってないみたいだなぁ」
「そんな、こと……ただ、私が……」
「そうは見えんけど。ま、いいや。これから理事長と面談があるからさ、話しとくよ」
「えっ……? いえ、でも……」
「ああ、心配しなくていいよ。担当変えてやれとか大それた話じゃなくてさ。もうちょっと気にかけてやってくれとか、話し合ってみたら、とかそういうレベル。それならそんなに角も立たないでしょ」
「それ、は……」
彼女の表情に浮かんだのは困惑だ。
初対面の人間にトレーナーとの関係に首を突っ込まれた挙句、庇うような真似をされれば誰だってそうなる。オレだってそうなる。
でもまあ、そんなに不思議でもないんじゃなかろうか。
彼女は社会経験なんてないに等しい学生。オレも似たようなもんだが多少は大人。
こっちだって余裕があるわけじゃないが、大人が子供を助けるのは当然の責任と義務だろう。
今日トレーナーを辞めるにしても、大人であることは辞められない。ほら、何も不思議じゃない。
「じゃ、練習頑張ってよ。大逃げ、期待してっから」
「……あっ、待ってっ!」
「理事長との面談があるんで待ちませーん。じゃあねー」
名前は教えなかったが、理事長からの話となれば、彼女のトレーナーも無下には扱えまい。
仮に誰から聞いた、となっても理事長がトレーナーにオレの名前を出せばいいだけ。
不満があるのなら記憶がないのに引き継ぎ作業をやっているであろうオレのところに来る。
彼女に害はない……と思うが、万が一もあるから理事長に気に掛けて貰うとしよう。オレが入るよりも上役が絡んだ方が何かと事はスムーズに進む。
あ、いっけね、こっちも名前聞くの忘れてた。
…………まあいいか。あれだけ才能があれば、特徴を伝えるだけで理事長も思い至るだろ。
そんな呑気なことを考えながら、足早にコースから離れていく。
彼女は柵に阻まれて、後を追ってこれない。その気になれば飛び越えられる程度の脚力と跳躍力はウマ娘は持っているが、大事な足を壊しかねない。やりはしないだろう。
オレはこの時、知る由もなかった。
この気軽な行動が、とんでもない事態を引き起こすことになるなどと……!
―――――
――――
―――
――
―
去っていく背中を追いかけることも出来ず、私――サイレンススズカはコースの中で立ち尽くしていた。
お父さん以外とは余り話したことのない私でも、口を開くのに戸惑いを忘れてしまうくらいに優しい雰囲気。
多分年齢よりもずっと幼くて屈託のない笑みは、男らしい顔立ちなのに不思議な愛嬌があった。
私を褒める言葉も、心配する言葉も、気を遣う言葉も。
耳にしただけで全て本心から発せられたと分かる。もしくは信じたくなるような人だった。
だからこそ、心の底から動揺した。
今日はそれなりに調子が良かっただけで、デビュー戦ももう近いと言うのにタイムは振るわず、練習試合ですら順位は落ちる一方。
昔から走るのが好きだった。走るのが楽しかった。
でも、今は楽しくない。苦痛ですらある。
走れば走るほど両脚は枷を嵌められたように重くなって、力がまるで入らないから。身体には何の異常もない筈なのに。
勝ち負けにそれほど拘ったことはないと思っていたけど、今は心底から勝ちたい。
大なり小なり、ウマ娘にはそうした勝利への欲求があると思う。
名声やお金のためじゃない。理由なんてきっとない。私達は
けれど――――けれど、どうしても上手くいかない。上手く出来ない。
私を見出してくれたトレーナーの言っていることは正しい。
友人であるエアグルーヴにも確認した。私よりもずっと賢くて、立派な彼女は肯定していた。
トレーナーと上手く行っていないわけではないと思う。
ただ、私が一方的に委縮してしまっているだけ。だって、トレーナーが正しいはずなのに、結果が伴わないのなら悪いのは他でもない私。
勝つために指示された走り方を実践してから、もう随分と
私の一番好きな、誰にも渡したくない、前に誰一人としていない先頭の白く輝くような景色を。
「…………いいなぁ」
自分自身への情けなさ。
そして、大逃げに期待している、と私の求めているものを見透かしているかのようなことを言ったあのトレーナーさんが担当している娘が羨ましくて。
零れ落ちそうになる涙を堪えるために空を見上げる。
私の心境など全く考慮してくれない空は、何処までも、何処までも、蒼く澄み渡っていた。
――――それが私とあの人の出会い。
底抜けに明るくて。
怖いくらいに真剣で。
どんな辛苦も飲み込んで。
見ている方が心配になってしまうほど、自分よりも他人を優先してしまう疑う余地のない善人で。
私の大好きな光景と同じくらい……ううん、それよりももっともっと輝かしい道の、始まりだった。