トレーナーさんは眠らない(ガチ)   作:HK416

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今回の話は、原作の騎手の方を逸話を参考に。
調べてみると、マジに天才で笑う。
脚質? 単なる目安だろ? 馬の能力? オレが何とかするわとか言いそう。

創作の中の天才も大概だけど、閣下然り、白い死神然り、和製ターミネーター然り、リアルチートはもっと頭おかしいよね。



『往古来今』

 

 

 

 

 

「ふぅ、どうだったかな?」

「やっぱり慣れてるな。筋肉を鍛える動きに無駄がないよ」

 

 

 おハナさんから課せられた本日分の水泳トレーニング。

 予定の半分ほどを泳ぎ切ると、定められた休憩の時間となっていた。

 

 水に濡れて顔に張り付く髪をかき上げながら、トレーナーさんを見上げて問い掛ける。

 ずぶ濡れのままスタート台に腰掛けた彼は真剣そのものの表情を浮かべながらも、感心した声色で応答した。

 

 そうしている間にも、自分の担当するポニーちゃん達に異変がないか気を張っている。

 

 責任感の強さは相変わらず。

 そして、彼の目から見てもトレーニングを十全に生かせている事実に心底からホッとした。

 おハナさんと彼の努力を無駄にせずに済みそうだったから。

 

 

「しかし、屈腱炎か。大変だったな」

「まあね。でも、おハナさんと君のお陰で何とかなったよ」

 

 

 見ている方が心を痛めてしまいそうなほどの悲痛に歪んだ顔。

 けれど、あっけらかんと事実だけを告げる。おハナさんと彼に出会っていなければ、私は様々な意味で終わっていた。

 

 屈腱炎は人間でいう所のアキレス腱炎。

 名称が違っているのはウマ娘の身体の作りや形状そのものは人と同じなんだけど、各部位の内部構造が違っていて名称が異なるかららしい。

 兎も角、この屈腱炎は繋靭帯炎と同じく、多くのウマ娘を引退に追い込んだ不治の病。

 

 これに発症したのは、トレーナーさんがおハナさんの下に来てからちょうど一年くらいが経った頃。

 おハナさんからトゥインクルシリーズへの出走を言い渡された直後、違和感を覚えた彼に検査を勧められて発覚した。

 

 軽度の段階で発覚したことだけが不幸中の幸いで。

 

 舞台女優の母さんのように、レースを通じて多くの感動を人々に届けられると思った矢先。

 ようやくゲートに入れたと思えば、その先にコースはなく奈落だけが口を広げて待っていた。

 

 どうしようもない現実に、努めて冷静であろうとした。

 きっと大丈夫、必ず治ると自分自身に言い聞かせ、余りの不運に何度枕を濡らしたか。

 

 そんな時に、私を支えてくれたのは他ならぬおハナさんとトレーナーさん。

 

 おハナさんは方々を駆け回って治療法を探して回り。

 彼は口下手で不器用なおハナさんに代わって、メンタルケアに努めてくれた。

 

 

「アメリカで新しい薬が開発されたらしいけど……」

「仮に効果抜群だったとしても日本(こっち)で承認されるまでどれくらいかかるか」

「ドーピング検査で引っかかる可能性があるのも怖い。こっちとあっちじゃ規制内容も検査方法も違う。一瞬で全てが台無しになりかねないわ」

「こっちからコンタクト取れませんかね。中央としても使えるならスターの引退を先延ばしに出来る。あっちとしても売り出したいし、被験者も欲しいはずだ。無下にはされないでしょ」

「ちょっと……」

「いや、使うかどうかの最終判断は別ですよ。あくまで探りを入れるのが目的。問題がなけりゃ使えばいいし、懸念が僅かにでも残るのなら使わなきゃいい」

「…………駄目なら駄目で当初のプラン通り、現状認可されてる薬を使って炎症を治しつつ、フォーム改善で脚への負担を減らす、ね。それでいきましょう。でも、私は他のメンバーもいるから動けないわよ?」

「オレが行きゃいいだけでしょ。ちょっとした旅行みたいなもんだ。時期も時期だし、ケンタッキーダービーもついでに拝んできますよ」

「全く。こういう時に余裕があって、物怖じしない行動力は頼もしい限りね。諸々の手続きはこっちで何とかする。頼んだわよ」

 

 

 そんな会話があったと知ったのは、全てが終わった後の話。

 

 結局、トレーナーさんは単身アメリカに飛んだものの、新薬は日本の規制では引っ掛かる類のもので徒労に終わる。

 随分と落胆したそうだけど、二人ともおくびにも出さず既存の投薬治療とフォーム改善に切り替えていった。

 

 因みにケンタッキーダービーは見れなかったそうだ。

 彼が責任を投げ出して遊んでくるはずもない。

 

 おハナさんとトレーナーさんが最も危惧していたのは時間と再発。

 投薬治療はその時点で効果を上げていたものの、如何せん完治まで半年から1年などザラに掛かる。

 

 シリーズへの出走は当然取り止めとなっていたけれど、出走意思のない者を在籍させておくほど学園は寛容じゃない。

 その時点で私は入学からそれなりに経っていて、リギルに入ってからも身体作りに時間を掛けたから残されていた時間は二年ほど。

 

 更に、屈腱炎は何度となく再発する病。

 明確な原因は解明されていないけど、腱への継続的なダメージと生み出される熱が屈腱のコラーゲンを変性させてしまうからでは、とされている。

 フォームを改善して負担そのものを減らせたとして、どれだけ効果を上げるのか。再発の可能性は何時まで経ってもなくならない。

 

 半ば諦めの境地にあった私はただボンヤリとその事実を受け入れていた。

 夢破れようとしている悔しさも、理不尽な現実に対する怒りさえもない。

 

 もう無駄だ、とトレーナーの誰もがそう言った。

 無駄な努力だ、と私自身ですらそう思った。

 

 けれど、二人だけは違っていた。

 いっそ諦めてくれたならなんて。

 死力を尽くしてくれている人に対して余りにも身勝手な思いを抱きさえした。

 

 一番大きかったのは疑問だった。

 一体何を信じ、本質的に自分とは無関係な私の苦難に立ち向かっているのか。

 

 

 ある日の夕暮れ。

 コース横のベンチでリギルの仲間達がトレーニングしている様子を眺めながら。

 ずっと抱いていた疑問を付き添ってくれていた彼に向って口にした。

 

 

「そうだな。おハナさんは優しいからじゃないか。知ってる? あの人さ、リギルの選抜試験で落とした子のことも一人残らず覚えてるんだぜ?」

「……そうなのかい?」

「ああ。それでさ、落とした娘が別のトレーナーのところでレースに勝ったりしても嬉しそうに笑うし、引退するって聞くと残念そうにしてる。情の深い人だよ。自分にも他人にも厳しくして、線引きしなきゃやっていけないんだろうなぁ」

 

 

 彼の語る事実に、私は目を丸くしていたと思うけれど、腑には落ちた。

 

 おハナさんは誰もが認めるトレーナーの頂点。

 本能的に勝利や速さを求めるウマ娘は彼女の指導を求めている。

 その全てを受け入れるなど到底できない。彼の言うように線引きは必要だろう。

 

 でも、おハナさんは自分を求めてきた相手を簡単に忘れられるほど薄情ではない。

 情が深くなければ、受け入れられなかった娘のその後に安堵や悲しみを抱けず、屈腱炎になった出走前のウマ娘なんてとうの昔に見捨てていただろうから。

 

 

「じゃあ、君は……?」

「んー……理由は色々あって一つじゃないんだろうが、一番はアレだ。まだフジの口から諦めるって聞いてない」

「それ、は……」

「ならオレが先に諦めるのは違うよな、ってだけ」

 

 

 其処に期待もなければ信頼もない。

 私の復活を思い描いているわけでも、奇跡を望んでいるわけでもなかった。

 

 単に、私がまだ諦めを口にしていなかったから。

 たったそれだけの理由で、彼は寸暇も惜しんでサブトレーナーとして支えてくれていた。

 

 ならば解放しようと素直に思った。

 

 おハナさんはもう化粧では隠し切れないほど目の下に隈を作っている。

 眠る必要のない彼でさえ、プライベートを削り過ぎて日に日に窶れていっている。

 何よりも、私自身が苦痛と不安しかない道程を終わりにしてしまいたかった。

 

 

 ――――けれども、頭に思い浮かんだ諦めの言葉だけは、最後まで形にならなかった。

 

 

「もう、辛いんだ……歩くのも、やっとで、毎日毎日、不安なんだよ」

「…………」

「もし治っても、遅れを取り戻せるのか、再発するんじゃないかって……もう、此処に居るだけでも、辛いよ……」

 

 

 弱音は吐けても、諦めの言葉など口に出来る筈もない。

 トゥインクルシリーズで多くの人々に感動を届ける。

 それだけが私の夢で、他の生き方など考えたことすらなかったから。

 

 でも、吐露した心の内もまた、紛れもない本心で。

 

 

「最低限、お前のことはお前が決めろ」

「…………」

 

 

 突き放すような冷たい言葉に、思わず涙が零れた。

 

 一度決壊すれば止めどなく。

 嗚咽と共に漏れた感情に終わりなど易々とは訪れない。

 

 だけど、彼の言葉は何処までも正しかった。

 それが私の人生で、私自身に対する責任でもあったから。

 

 

「でも、まだお前の人生が終わるわけじゃない。お先真っ暗ってだけだ。誰でも同じさ」

「…………っ」

「今こうしている間も、地面に這い蹲って手探りで必死になって道を探している」

「う、ぐっ……ぅっ……」

「それをみっともないと――――希望もないのに、ってお前は笑うか?」

 

 

 涙の滲む視界で捉えたのは、彼の顔。

 笑みが消えた顔は強面と呼べるものではあったけれど、例えようもなく優しくて、また涙が零れた。

 

 無理はしなくてもいい。

 諦めるのもまた一つの道と手段で、決して恥ずべきものではない。

 夢に挑むだけで掴めはせずとも、其処に意義がなかったわけではない。

 少なからず、お前は挑んだ。その結果として夢破れただけのこと。

 

 これはたったそれだけの有り触れた話と言いながら。

 それだけでもいいんだ、と温かな肯定で満ちていた。

 

 

「…………笑わ、ないよ。他の誰かが笑っても、私だけは笑っちゃいけない」

 

 

 笑えるわけがなかった。

 それは諦めきれない私の姿で、私のために自身を削っているおハナさんと彼の姿そのものだったから。

 

 

「う、ぐ……ん……うん、決めたよ。みっともなくても、希望がなくても、絶望しか待っていなくても、私は一歩でも前に進む」

「そうか。なら、オレも死力(ベスト)を尽くすよ」

 

 

 ここは違う。これは違う。

 これはまだ結末ではないと思う。

 

 呆れた話、結局のところ私の心にあったのはそれだけで。

 どうしようもない終わりが見えるまでは、決して納得できず、諦めきれなかったから。

 

 だから誓った。

 私自身が納得するまで、足掻き続ける。

 その果てに、私の胸に去来した諦めすら超える感動を、おハナさんと彼に伝えようと。

 

 

 ――――其処からは治療とリハビリの日々。

 

 

 同期に置いて行かれる歯痒さはあった。

 迫る退学勧告(タイムリミット)への焦りはあった。

 

 それでも耐えられたのは――――

 

 

「あの、流石に教室まで付いて来なくてもいいんじゃないかなぁ?」

「えっ。でもフジが心配だし。死力(ベスト)を尽くすって言った。言ったじゃん」

「そんな獲物を盗られた狼みたいな顔しないでよ。と言うよりも、凄いな。どうしてそんな強面で愛嬌出せるのさ? それにおハナさんまで……」

「私はサブトレーナーの査定も兼ねて仕事ぶりを確認に来ているだけなのだが???」

「無理がある。無理があるよぉ、おハナさん」

 

 

 二人の献身があったからだろう。

 もう何か献身じゃなくて過保護というレベル。

 助けて貰っている私からしてドン引きだった。周りはもっとドン引きしていただろうね。

 

 朝、松葉杖を突きながら寮を出ると二人が待ち構えているなんて当たり前。

 二人だけではなくリギルのメンバーまで加わって大名行列染みたことになるのが週に何度か、なんてことも。

 昼になればカフェから私の食事を持ってきて、教室を占領してリギルメンバーで一緒に食べるわ。

 

 拷問部屋出身のトレーナーは全員頭のネジが外れている。

 

 と、トレセン学園では実しやかに囁かれていたけれど、噂に違わぬやりたい放題ぶり。

 もうブレーキの壊れたダンプカーと言った有り様。

 四角四面、真面目一徹のおハナさんなんてキャラ崩壊も甚だしい事態に。

 

 そのお陰、と言ってはなんだけれど、私は落ち込んでいる暇さえなかった。

 それでいて二人とも私だけに構うことなくリギルの面々に過不足なく接していた。

 それぞれの仕事をキッチリ熟していた上で、プライベートまで確保していたのだから凄まじい。

 

 でも、私が一番有り難いと感じたのは夜眠る前。

 

 

「こんな時間にごめん。少しいいかな?」

『おー、どした?』

 

 

 寮の門限も消灯時間も過ぎた頃。

 

 目が覚めてまた足の痛みが増していないか。

 完治したとしても再発を繰り返すんじゃないか。

 タイムリミットに間に合わず、全ての努力が無駄になるんじゃないか。

 

 夜の闇と静寂にそんな不安を煽られた時には電話をかけた。

 

 私は燻る不安を素直に吐露できるような性格じゃない。

 だから会話の内容は決まって他愛のないものだったけど、彼は嫌な声一つ出さずに付き合ってくれた。

 

 そればかりか――――

 

 

「な、何をしているんだい、君は?!」

「心配だから来ちゃったー」

 

 

 私の声色から内面を感じ取ると寮にまでやってきて。

 中には入らず窓の外から話すだけだったけど。

 本当に部屋が一階で、なおかつ当時は相部屋の相手がいなくて良かったと思う。

 もし二階や三階だったなら“トレーナーは寮への立ち入りを禁ずる”というルールを守るために、梯子までかけていたに違いない。

 

 そうやって励まされ、助けられながら。

 

 毎日、毎日。 

 来る日も、来る日も。

 歩くような速度で。

 少しでも構わないから、と一歩ずつ前へと進んだ。

 

 唯一、不満があったとするのなら一つだけ。

 

 ……その、ポニーちゃん達から黄色い悲鳴を向けられる私と言えども、当然だけど女であって。

 心折れた矢先に、仲の良いと思っていた男の人に其処まで優しくされれば…………まあ、その、そういう訳さ。

 

 しかし、私にとって彼は特別になっていたけれど、彼にとって私は特別でも何でもない。

 どのような献身にも苦痛は必ず伴うと理解した上で、やらなければならないと判断すれば寸毫の迷いもなく実行に移す。

 

 私は、そんな彼だからこそ――――

 

 

「やったわよ!」

「どうしたのさ、おハナさん。そんなに慌てて?」

「『スプラウト記念』の出走枠をもぎ取ってきた! それもフジの!」

「うおぉ、マジかよ。おハナさんスゲー……」

 

 

 治療を始めてから三ヶ月後。

 屈腱炎は殊の外早く一応の完治を迎え、再発を抑えるべく彼の考え抜いたフォームの改善に勤しむ最中。

 

 おハナさんの持ってきた話に揃って度胆を抜かれた。

 

 スプラウト記念。

 東京レース場で行われるエキシビション。

 ジュニア級までのウマ娘の中でも、特に期待の高い者だけが出走権を得る公式記録には残らないレース。

 それでも伝説に名を遺したウマ娘の多くは、此処で頭角を現すと言う。

 

 未デビューの私が出走枠を獲得するなんて異例を通り越して偉業。

 理事長に掛け合ったのか、はたまた二人で主催者に頭でも下げたのか。

 兎も角、おハナさんが立場を悪くしてまでもぎ取ってきたであろうのは、例えようもないチャンス。

 

 此処で勝てば、私の意思と価値を明確な形で学園と中央に示すことが出来る。

 年単位で退学勧告(タイムリミット)の先延ばしが可能。

 かつ屈腱炎再発の様子を見ながらシリーズ出走へのタイミングを計れる。

 

 

「スプラウト記念とフジは任せる」

「えーーーーーーーーー!? オレ、まだサブトレですよ?!」

「他は半年か一年で独り立ちするのが通例。二年近くもサブトレーナーしてるのは貴方くらいでしょうに」

「それはー……その、そうなんですけど……」

「チーム間での模擬レースでも、私に代わって手綱を握らせたでしょう。其処でも結果は出している」

「いや、でもほら、フジも不安がるし!」

「私は不安も不満もないよ」

「あれェっ!?」

「能力的に可能と判断したまで。必ず勝つように」

 

 

 困惑するトレーナーさんを余所に、おハナさんは涼しい表情で去っていった。

 これまでの献身とは打って変わって、激励の言葉すらない様は冷淡に見えたけど、実態は違う。

 私と彼の勝ちを確信していたからこそ、それ以上何も言わなかっただけ。

 

 本当に不安も不満もなくて、寧ろ安堵すらあった。

 

 “もし仮に、おハナさんの実力と実績を超えるトレーナーが現れるとするのなら、彼だろう”

 

 それがリギルの共通認識で、十分すぎる実力を私達に示していたから。

 

 おハナさんからの指示に一度は拒否感を示したものの、彼がそれで手を抜くはずもない。

 早々に気持ちを切り替え、出走相手の情報を収集し始めた。

 

 

「スプラウト記念、追込で行こう」

「また随分と思い切ったね。選んだ根拠を教えて貰えるかな?」

 

 

 そして一週間後に出した結論がそれ。

 思い切ったと言ったのは、私の脚質は先行だったからだ。

 

 他チームとの模擬レースでもあったが、彼はそうした選択も少なくない。

 時々、思い出したかのようにセオリーを無視した指示を出すことがあった。

 

 ヒシアマゾンのように差しや追込を得意とするウマ娘に、大逃げを打たせる。

 逆にマルゼンさんのように逃げを得意とするウマ娘に、追込を仕掛けさせる。

 

 それなのに不思議なまでに勝ててしまう。

 傍目から見れば慣れない新人が指示をミスし、学園最強のリギルの面々が強引に勝ちをもぎ取ったようにしか見えなかっただろう。

 

 けれど、その指示を受けた私達の見解はまるで違っていた。

 

 例えば追込と一口に言っても、種類はある。

 ロングスパートを仕掛け、無尽蔵とも言えるスタミナで押し潰す追込も居れば。

 爆発的とも言える瞬発力で、直線に入ってから一息に仕掛ける追込もいる。

 

 そうして細分化して何が得意なのか、何が有利なのかを明確に把握した上で、脚質に合っていないように見えて、その実、全てが嚙み合った指示を出していた、と思う。

 

 如何せん、私達も体験しながらも言葉にするのは難しかった。

 ただ一つ言えたのは ウマ娘の素養を見抜く目も。予言染みた展開予測も彼を語る上では単なる前提に過ぎない。

 言葉で表現できない何かが、彼には確かにあった。

 

 そして何よりも――――

 

 

「なんつーのかなぁ。アイツの指示で動くと初めの内は訳が分からないけど、走ってる最中に何考えてたのか分かるんだよなぁ。そうだ、ありゃあ――――」

「ピターって展開を言い当てるのもあるけど、判断を迫られた時に彼ならこうするって迷わず選択できるのよね。まるで――――」

 

 

 “彼を背中に乗せて走っているようだった”

 

 これはヒシアマとマルゼンさんの弁だけど、私達の誰もが口を揃えてそう言った。

 

 レースの最中、彼が何を考えているのか、判断を迫られた時にどうするかが分かるのは、私達に対する説明の巧さがあったからだろう。

 

 細かく説明することもあれば、敢えてボカして説明することもある。

 けれど、来るべき時が来れば点と点が一瞬で繋がり、明確な紋様と化して彼と思考が一致する。

 

 正に人バ一体の境地。

 その瞬間が堪らなく心地よく、普段とは異なる走り方をさせられても、文句の一つも覚えない。

 

 だからその時の私に不満はなく、不思議な高揚だけがあった。

 

 

「だってフジさぁ、スタート苦手じゃん」

「に、苦手じゃないさ! 人聞きの悪いことは言わないで欲しいなぁ!」

「ゲート試験五回も落ちてる奴が言っていい科白じゃねーぞ」

「い、いやそれは……と、兎に角、もう苦手は克服しているよ」

「ほんとぉ? ……まあ、冗談は兎も角だ、今までだったら信じてもよかったけど、ブランクがあるからなぁ。勘を取り戻すためにゲートトレーニング繰り返すより、今は体力を取り戻すのが先決だろ?」

「それは、その通りだね」

「一か八かに賭けるくらいなら、いっそスタートも好位につくのも捨てて体力を温存させた方がいい。出走メンバーを見たけど、単純な素質と能力はお前の方が圧倒的に上だし」

 

 

 先行を得意とする私に追込させようとしながらその言い草。

 呆れる以前に感心してしまった。もうこの時点で、私が勝てるだけの要素を見出していたらしい。

 

 

「集団に揉まれると無駄に走らされるってのもある。位置取りに苦労させられたり、マークされればコーナーで外に行く羽目になりかねないだろ?」

「それはそうだ。可能なら最低限の距離で済ませたいのが本音だよね」

「まあ、枠とバ場の状態でまた指示を変えるだろうけど、基本はずっと内埒沿いを走ってな。逃げや先行で集団を引っ張って消耗戦を仕掛けるんじゃなくて、最後方から前の背中を(つつ)いて性能差で押し潰してやれ」

 

 

 レースの走行距離は選択したコースによって当然変わる。

 内に入れば入るほど短く、外に出れば出るほど長く。

 

 理屈としては至極当然で、屈腱炎の再発を危惧している私にしてみれば1mでも距離を短くしたい。

 彼の提示した位置取りにおかしな点はない。

 

 

「もし前を塞がれたら? そのまま道連れにされかねないよ?」

「いや、それはない。この娘達ほぼ全員、コーナリングが巧くない。自然と外に膨らむ。おハナさんが技術を指導したお前なら楽々抜けるさ」

「仕掛け時は?」

「残り100m辺りで十分、かなぁ。それくらいの距離なら瞬間的に増大した負荷にも耐えられるはずだ。その時には、前に居るのは多分4人か5人くらいになってる。お前が追い上げてきて、焦ってへろへろだろうな」

「後は巧くいくかどうか、私がやれるかどうかだね」

「そんな感じ。あとは、そうだな――――」

 

 

 私は彼の協力と共に再起の道を突き進んでいった。

 

 水泳によるトレーニングを重ねたのもその折。

 プールサイドで私の動きを観察する彼の姿は周囲が怯えるほど。

 まるで獲物の喉笛を噛み切ろうとしている狼のようであったけど、それほどの集中力を発揮してまで取り組む姿勢を、私は頼もしいと感じた。

 

 一日を経る毎に少しずつ、本来の実力を取り戻す。

 一日を過ごす毎に少しずつ、本来の自分に返っていく。

 一日を共にする毎に少しずつ――――彼への思いを募らせる。

 

 そうして、『スプラウト記念』はやってきた。

 

 

『期待の優駿達が集うスプラウト記念! 10人のウマ娘の内、次代を担うのは誰になるか!』

 

 

 当日の天気は晴れ、絶好のレース日和。

 連日の晴天により、バ場状態は極めて良好。更にゲート位置は1枠1番。

 

 全ての条件が私の追い風となっていた。

 まるで、勝てと言わんばかりに。

 

 全てが滞りなく、澱みなく。

 私の人生が決まる大一番が始まった。

 

 

『おぉっと! 此処でまたフジキセキが順位を上げる!』

『スタートは出遅れ気味のようでしたが、デビュー前の彼女が此処まで奮戦するとは、期待してしまいますね』

 

 

 彼の想定していた通り、レースは展開していった。

 

 意図して作った出遅れを取り戻そうとはせず、機を待った。

 コーナーに差し掛かる度、遠心力に振られて前を走る者の速度が落ちる。

 抜き去ろうと意識する必要すらなく、私はおハナさんに鍛え上げられた足腰を使って遠心力を殺すだけで、面白いようにライバル達を抜いていけた。

 

 大事を見て模擬レースすらしてこなかったぶっつけ本番。

 けれど、走りに迷いはなく、乱れもない。

 

 

『さあ、最終コーナーを抜けて最初に立ち上がるのは誰だ!』

 

 

 全身に溜まる疲労が、風を切る音も酷く心地良い。

 心臓は今にも爆発してしまいそうだったけど、まだ脚は残っていた。

 

 そして、彼の指示したゴール板手前100m。

 前を走っていたのは、宣言よりも多い6人。

 

 

「道は開く、迷わず飛び込め」

(――――来た!)

 

 

 しかし、私に動揺は皆無だった。

 

 前を走るライバルの一人が消耗からほんの僅かに外埒へと斜行したその瞬間。

 確かに私は、レースを見守っている彼の声を聴いた気がして、残された最後の脚を解き放ち、内埒に開いた隙間に身体を滑り込ませる。

 

 刹那、私の耳は静寂に包まれた。

 

 正確に言えば、東京レース場から観客達の歓声が消え去り、実況者と解説者すらも絶句した。

 後に、その時の走りは“ラチの上を走ってきたかと思った”と称されるほどで。

 走行妨害の判定を受けない、我ながら、そして誰が見ても神業と呼べるものだった。

 

 

『差し切った! 差し切ったぞ、フジキセキ! 二着とは僅かハナ差! しかし、着差以上の開きが其処にはあったぁー!』

『見事、と言わざるを得ません。僅かな迷いすら見受けられない完璧なレース運びでした。これからのデビューが楽しみでなりません』

 

「――――い……おい、フジ? どうした、大丈夫か?」

 

 

 懐かしくも輝かしい過去の中から、トレーナーさんの声で現在に引き戻される。

 顔を上げれば、リハビリの最中に何度となく目にした、私だけを心配する彼の顔があって、また嬉しくなった。

 

 その後はまあ、会長に彼を盗られてしまったけどね。

 

 でもアレはちょっと会長が可哀想だったな。

 彼と来たら、会長のトレーナーになったのは頼まれただけだから、なんて特別な思いなど微塵もないようだった。

 

 リギルの皆も似たような心持ちだったんじゃないかな。

 私と同じ思いでなかったとしても、誰もが大なり小なり彼を慕っていて、同時にあんまりにもあんまりな物言いに呆れてもいた。

 

 だから、事故に巻き込まれたと聞いた時は、心臓を鷲掴みにされた気がした。

 だから、事故で記憶を失ったと聞いた時は、屈腱炎を発症した時以上に絶望したと思う。

 

 でも、いいさ。

 それで、いいとも。

 

 絶望するのはもう慣れた。

 乗り越えるのが不可能じゃないと知っている。

 忘れられた思い出(もの)への悲しみはあるけれど、なに、だからと言って人生が終わったわけじゃない。

 

 いま彼は諦めずに此処に居て、私も諦めずに前に立てている。

 

 

「大丈夫だよ。それよりも、手を貸して貰ってもいいかな?」

「あ、ああ、そりゃ構わんけど。本当に大丈夫か、脚は?」

「心配性だなぁ。君に嘘なんか吐けないさ」

「そこまで言うかぁ」

 

 

 私の頼みで差し出された手を握る。

 ポニーちゃんのそれとは違う、ゴツゴツと節くれだった手はウマ娘よりも遥かに非力なはずなのに、随分と頼もしい。

 

 そして、僅か一息でプールサイドに引き上げられた。

 続いてスポーツドリンクの入ったボトルを渡される。

 

 

「おーい! 皆ー、休憩するぞー!」

 

 

 “私達(リギル)のサブトレーナー”から彼女達のトレーナーになってしまった彼の横顔を眺める。

 

 かつてとは違う、僅かばかりに影の差した笑み。

 その影も、私が送る感動で晴らして見せるとも。君がかつてそうしてくれたように。

 

 人生は起伏に富んで、儘ならないことは多い。

 その手の話において、私は後塵を拝しているのだろう。

 けれど、スプラウト記念の時のように、焦りは皆無。

 

 だから、あの時と同じだ。

 君のお陰で為した神業のような走りと同じように、最後の勝ちだけは譲らないさ。楽しみにしておいておくれよ?

 

 

 

 

 





別世界線の分岐について、ぶっちゃけ会長次第。

会長が自らトレーナーに声をかける → 現在の分岐に
会長が尻込みする → リギルのサブトレ続けるけど結局似たような事故に巻き込まれて別世界線へ分岐。

なおゲキマブとフジはどっちに分岐してもルートが残る模様。強い(確信
タマちゃんは友人枠で顔を出す。


フジキセキ

相性はマルちゃん、タマちゃんに次ぐレベル。
既に挫折を知っているので、トレーナーの心情を最も理解できる。
互いに弱音も吐くし、支えることにも躊躇はない。
そして始まる無自覚クソボケ発言VS自覚的イケメン発言によるノーガードの殴り合いみたいな展開。

トレ「うわーーーーーーーー、女の子にされちゃう!」
フジ「うわーーーーーーーー、ポニーちゃんにされちゃう!」

と、お互いに顔真っ赤にしながら個性と個性がぶつかり合う。

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