スズカのメイクデビュー戦まで一週間。
オグリの中央デビュー初戦となるアーリントンカップまで残り二週間。
オレとルドルフが相談しあった上で決めたトレーニングは絶大な効果を上げていた。
そして、ラップ刻みと振り返りは頭で理解できていないが、身体には刻まれ始めている。
ルドルフとの併走が効いている証だろう。
併走は闘争心を煽るだけでなく、間近で高い次元の走りを見れば自らの走りに反映できる。
スズカは元々優等生、オグリは成績が良いとはお世辞にも言えないが学習能力は高い。
其処に意欲が加われば、どうした所で能力は伸びていく。
どちらの出走面子も発表されており、映像研究を行ったが問題なく勝てると断言できた。
それほどまでに天性の差があるだけでなく、当人達の努力もまた著しい。
もう相手が可哀想になるレベル。心を圧し折られないのを祈るばかりである。
「…………うーん」
そして、その間にルドルフが出走する日経賞が挟まる形。
日経賞は言わば前哨戦。
彼女のレベルを考えれば今更GⅡなど弱い者苛めでしかないのだが、目的は二つあった。
一つは1着に与えられる天皇賞・春の優先出走権。
尤も優先権がなくともこれまでの戦績と獲得賞金から出走は確定しているのでこっちはおまけ。
もう一つの目的であるルドルフと息を合わせることが本命。
レースまでの間に身体と精神を仕上げるのはトレーナーの基本であるが、更に踏み込んで思考まで同期させておきたい。
オレの観察眼と展開予測は他の追随を許さない。
付き合いの長い南坂ちゃんは勿論の事、おハナさんのような一流でさえ認めてくれている以上、揺るぎない事実だろう。
しかし、事実と認識した上で、オレは信用も信頼もしていない。
人とは間違いを犯す生き物で、全能どころか完璧にさえ程遠い。
どのような調和の取れた世界でさえ、例外はどうしようもなく存在する。
想定とは常に超えられるためにあり、想定外の事態はいずれ必ず起こる現実に他ならない。
だからこそ立てた作戦が通用しなかった場合に備え、例外や想定外に対抗するために思考を重ねて人バ一体を目指す。
一人では対応しきれない事態も、二人でなら勝ちの目は残る。
例え共に走れずとも、まるでオレが背中に乗っているかのように。
オレの思考形態を上手く伝えることで、或いは逆に意図的に隠すことで、言葉を介さずに残された勝ち目に気付かせる。
酷く難しい――――と言うよりも殆ど夢物語に近い。
他人の頭の中に、自分と同じ思考回路を搭載するようなものなのだから。
だが、その辺りもまた心配していない。
先にスズカとオグリでやってみてもいいのだが、二人は根本的に一人で戦うつもりしかない。
そんな状態で無理に思考を重ねようとすると、逆に混乱を招きかねない以上、下手な博打に出るよりも可能な限り仕上げて性能差で勝った方がいい。
ノウハウを持っていたオレならそれでも何とか出来たかもしれないが、生憎と今のオレはそれら全てを記憶と共に失っている。
其処でルドルフだ。
記憶はなくとも過去は存在した。
トレーナーとして担当したのならば、オレの思考形態を伝えるまでもなく知っている。
記憶がない故に過程をすっ飛ばして結果のみを得た気味の悪さはあるが、何の問題もなく目指す境地に至れるだろう。
「見つからねぇ……」
目下最大の悩みはレースではなくルドルフの勲章。
寮の部屋を隈なく探したものの、影も形もないどころか手掛かりすらない。
資料の詰まったダンボール箱でいっぱいの倉庫をひっくり返してみても結果は同じ。
そして、今はミーティングルームを探索中。
流石に皆で使う場所なのでメチャクチャにするわけにもいかず、時間がかかった。
しかし、結果は同じ。手当たり次第にあたってみたが、それらしいものは見当たらず完全なお手上げ状態。
「造り直しともう一つ……」
それはそれで構わない。
見つけられなければそのつもりであったし、もう一つ追加で作っておきたい勲章もあった。
学園には靴に蹄鉄を打つ装蹄師もいる。
蹄鉄は鉄幹と呼ばれる鉄の棒を熱して叩きながら形を整えて作る――――のは昔の話。
現在では時間の問題があるので、競技大会やら一品ものの特殊な蹄鉄を依頼された場合にしかそうした作り方はしない。
レースでの公平性を保つため、基本は既製品の形をそれぞれに合わせて調整するのが基本だ。
そういうわけで、金属を溶かせるだけの設備も加工する設備も学園には整っていて、自作のアクセサリー程度は作れる。
顔を出してみれば装蹄師の中にも知り合いはおり、仕事の邪魔にならない範囲でなら貸してもいいとのこと。
装蹄師の親父っさんの話では、以前に勲章を作った時にも色々と手を借りたようである。
「問題は造るよりもデザインだなぁ」
製造の工程は熟練の職人達に指導を受けながらなら何とかなるだろう。
しかし、デザインとなるとそうはいかない。
全てがオレのセンスに委ねられるからだ。
勝負服のデザイナーに頼る手もあるが、こればかりはどうしてもオレがやらねばなるまい。
取り敢えず考えながら紙に書き出し、徐々に立体化して寸法を取っていくとしよう。
頭に浮かんでくる形と色の中で何がいいのかを徐々に選別していく。
出来るだけ見栄え良く、かつ走りの邪魔にならない形状。
右胸には三つの勲章が取り付けられていて、左胸は飾緒が垂れているので、付けるなら腰当たり。
となると、少し大きめのものでもいいだろう。綬を使わないタイプのものが――――などと考えていると、ドアが控え目にノックされた。
「はいはい、いますよー。どうぞー」
「失礼致しますわ」
ノックへの返答を聞いてから入ってきたはマックイーンだった。
今日はトレーニングのない休養日。
各々がストイックなためルドルフは生徒会の仕事を、他は自主練に勤しんでいるものと思っていた。
特に何か約束をしているわけではなく、ミーティングルームを訪れる理由などオレには思い当たらない。
気になったのは少し悩むような素振りを見せていたことか。
常にすました表情の彼女にしては珍しい。僅かながら心配になる。
「どうした? 何かあった?」
「いえ、折り入ってお願いごとがありまして……」
はて、と思わず首を捻りそうになる。
此処の所――と言うよりも、出会った時からマックイーンは常に柔らかながらも凛として、悩む素振りなど見ておらず心当たりが全くない。
能力面での伸びとて悪い訳ではない。
模擬戦では経験の問題でルドルフにはどうした所で勝てないが、2000m以上の距離ならスズカやオグリにも喰らい付いていく。
マックイーンもライスもステイヤーとして順調に成長しているし、その実感がないわけではないと思う。
思い当たる節がなく何となしに視線を下げると、彼女が手にしていた数学の教科書とノートが目に入った。
オレが気付いたと悟ったマックイーンは、すすすと教科書とノートで赤くなった顔を隠す。
「その……どうしても分からないところがありまして、お忙しいところ申し訳ないのですが、教えて頂ければ、と……」
「………………いいよ!」
「ど、どうしてそんなに顔を輝かせていますの……?」
一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかったが、脳が言葉を理解すると思わず目を見開いて笑ってしまう。
そりゃ嬉しいからだ。
常日頃からマックイーンとの間には壁を感じていた。
避けられていたわけではなく言うべきことはきっちり言うが、必要以上に踏み込んでも来ない。
出会ってから短い期間にしては信頼を得ているのであろうが、ビジネスパートナー以上の関係性を出ていなかった。
元々そのような性格と言うよりも、オレの境遇を慮っての部分が大きいのは分かり切っている。
マックイーンが特別と言うわけではないが、個人的にはもっと仲良くしていきたい。
きっとその方が楽しいし、オレの性格やトレーナー観、方針に噛み合っている。
それにマックイーンもライスも遠慮し過ぎだ。
あれでルドルフやスズカはぐいぐい来るし、オグリもなかなか遠慮をしない。
二人に対して申し訳なさを感じていた程だ。
差し迫った事態であれ、自ら壁を乗り越える、或いは壁を壊そうとしてくれて嬉しくない訳がない。
「はっ、とぅっ! さぁ、何でも聞いてくれたまえ!」
「ず、随分乗り気ですのね……」
「いやぁ、人に頼られるって嬉しくない? それにいつも頼りにしてるマックイーンだから尚更さぁ」
「はぁ、全くこの方は……本当に
仕事用のデスク、次にソファの背を飛び越えてそのまま着地と共に着席する。
誰の目から見てもウッキウキになっているオレにマックイーンは呆れ顔。いや、少し嬉しそうか?
最後の呟きはよく聞き取れなかったが、オレの隣に腰を下ろす。
普段ならば対面に座るだろうが、勉強を教わるのなら同じ方向の方が効率はいい。
「此処なのですが……」
「ちょいタンマ。その前に聞きたいんだけど、これ予習? それとも復習?」
「予習、ですけれど、それが何か……?」
「重要だよ、勉強するタイミングって奴は」
「タイミング……?」
トレーニングにしたところで、勉強にしたところでオレの目指す場所は変わらない。
より短い時間、より少ない負荷で、最大限の効果を。これが基本だ。
この辺りの考えが根付いたのは、やりたいこと、学びたいことが山程あったのに加えて、シンザンの影響もある。
彼女は類稀な天性を持ちながらも、根っからトレーニング嫌いであったのは有名な話。
“金が掛からなければシンザンは走らない”と担当トレーナーに言わしめるほどで、ウマ娘に関わる職についた者ならば誰もが一度は耳にしたエピソード。
ただ、彼女とて生まれ持った天性だけで伝説になったわけではなく、レースの世界はそれほど甘いものではない。
担当トレーナーの涙ぐましい努力があったのだ。
トレーニング嫌いでも集中力を保てる範囲の時間で、可能な限りの最大効率を引き出すトレーニング方法。
調整が間に合わないと判断すれば、レースですらも調整替わりに使う決断。
当時は多くの関係者やファンからは、出走者やレースを馬鹿にしていると批判を浴びたようだが、オレはそう思わなかった。
全てはシンザンの力を最大限発揮するための苦渋の決断。
多くの期待を裏切ると理解していながら、それ以上の結果を生み出すために血反吐を吐きながら導き出された答え。
当時の資料や自伝から推察されうる状況や情報は、全てがそう結論するに足るものだった。
よって、オレはウマ娘のトレーニングを考案する上でシンザンの担当トレーナーの考えを大いに参考にさせて貰っている。
オレも彼と同じ結論だ。
身体を鍛えることと身体を苛めることは別。
酷使などしなくとも十分すぎる伸び代は確保出来るし、苛め抜いた後に要する回復期間を考慮に入れれば結果がトントンになるようにすればいい。
それは勉強方法でも変わらない。
長時間机に向かっているからと言って、何もかもが身に付くわけではない。
勉強というものは各々にあった方法もあるし、万人に共通する効率の良い覚え方、というものもある。
「脳ってさ、忘れ掛けていたものを思い出そうとしてすると刺激されて記憶が定着し易くなんの」
「そうなん、ですの?」
「これは研究結果が出てるからマジ。だから予習にせよ復習にせよ、前日やその日の内にやるのは効率が悪い。特に復習なんて、その日の内にやっただけだとテストの点が悪くなる、なんて研究結果もあったかなぁ?」
「そ、そんな……!」
オレの言葉を聞いてマックイーンはショックを受けたらしく、見る間に耳が垂れていく。
どうやらオレの口にしたダメな方の勉強法を実践してきたらしい。
まあ全くの無駄という訳ではないので、そんなに気落ちしなくても。
本当に記憶の定着や保持は人それぞれで、研究結果と個人の結果が必ずしも一致するとは限らない。
思うに学び舎とは、知識そのものではなく学び方を身に着ける場だと思う。
中学高校の勉強が人生で役に立つ場面など殆どないが、吸収する知識の如何に関わらず学び方自体は身に付けられる。
知識の吸収の仕方、人との付き合い方、社会における身の置き方。
上辺だけの知識ではなく、もっともっと単純かつ根本的なところを学んでいた方が、実社会ではよっぽど役に立つもんである。
「そういうわけで予習も復習も5日くらい前か後がいいと思う。程よく忘れて思い出すのに少し苦労する、くらいの期間を挟むのがオススメ」
「な、成程……!」
「あとは毎日5分くらいさらっと流す程度に復習するとか、25:5の勉強法とか色々あるから試して自分に合っているのを探してみ」
「そうしますわ。でも、どうしましょう。それでは教えて頂きたかったところが……」
「まあいいんじゃない、それは次からで。疑問を解消するっていうのも精神的に大きいからやる気に繋がるしさ」
「そうですか。では、この二次関数のところなのですが……」
「レベルたっか! 最近の中学生ってこんなところやってんの?」
マックイーンの開いた教科書に目を通し、思わず声を上げてしまった。
流石は文武両道を旨とするトレセン学園。
オレはふっつーの公立中学に通っていたので、彼女と同じくらいの年齢では此処まで範囲に入っていなかったと思う。
「まさか、覚えてらっしゃいませんか……?」
「いや普通に覚えてる。勉強好きだったからさぁ」
冷たいと言うか、不安そうな視線を向けてきたが、何の問題もない。
人によっては中学時代の授業なんて全く覚えていない人もいるが、オレは割と好きでやっているところがあったからそうでもなかった。
出来るだけ簡潔に分かり易く。
同時に自ら思考する余地を残し、深く理解させるために全ては語らず説明に穴を用意する。
しかし、用意しておいた穴に引っかかることはなく、落ちる前に気付いて自ら質問してくる。
地頭の良さに加えて、基礎が身に付くまで反復を繰り返してきた証。
分からないことを分からないままにしておかず、そういうものだからで済まさない性分でもあったのだろう。
総じて教える側としても舌を巻き、同時に面白くなってくる優秀な生徒だった。
「ふふ、ありがとうございます。凄く分かり易くて、勉強が楽しいと思ったのは久しぶりです」
「そう言ってくれると甲斐があったってもんだ。オレは学校の勉強とかゲーム感覚で面白がってたからなぁ。その経験が生きたな」
「ゲーム感覚、ですの……?」
「うん。数学のテストとか暗算で全部答え出した後に途中の数式書き込んだり、現国で答えは書くけど隣に問題使って一人大喜利大会やって先生を笑わせて評価貰ったりさ」
「そ、それはまた……よく先生方も許してくれましたわね」
「教育はしっかりするけど、そういう、何て言うんだ? ……個性とか人格とかを否定する人等じゃなかったからな。恵まれてたよ」
一通り即興授業を終えた後、紅茶を入れて休憩に洒落込んだ。
折角、壁が一つ消えた直後。互いを更に知るために、取り留めのない会話を重ねていく。
口を開く度、マックイーンは上品に笑う。
気品や高貴さは確かにあるのに堅苦しさを覚えないのは、彼女の人徳のお陰だろう。
上流階級の気位は身に着けているが、それはそれとしてどんな環境でも生きていけそうな頼もしさもある。
余り良い例えではないが、ある日突然メジロの家がなくなって六畳一間の生活が始まっても、何の問題もなく這い上がっていきそうな適応能力があると言うか。
ともあれ、酷く話し易いのは確かだ。
年下の女の子だから気を遣う部分はあるが、それを差し引いても気安く接していける。
「それにしても……ミーティングルームも、随分と生活感が出て来ましたわね」
「そりゃ殆ど此処で生活してるしなぁ。あと君等も結構持ち込んできてるし」
「そ、それはそうかもしれませんが……それにしたところでベッドまで持ち込むのはやり過ぎではありませんか?」
「いいんじゃない? オレも休むのに使うし、ルドルフとかスズカとかオグリとか偶に寝てるし」
「あ、あの方達は……!」
マックイーンの言うように、ミーティングルームには色々と物が増えた。
以前は本当に仕事をするだけの場所かつオレ自身もあまり物を置きたがらない性分だったのは、作成した全ての資料を倉庫に保管していたことからも分かる。
文字通りに生活感というものは皆無だったが、今は違う。
いま言ったようにトレーナーの寮からベッドを解体して持ち込み、部屋の隅に。
眠らないオレでも身体を横にして休めば体力の回復が早まるので寝具は割と重要だ。
ただ、オレ以上に使っているのは先程挙げた三人の方だが。
ルドルフやスズカはオレがいないと知らずに来た時、待っている間に寝てしまったというパターン。
オレが戻ってきて起こすと顔を真っ赤にするのだが、そんなに恥ずかしいのなら止めればいいのに一向に改善が見られない。
この間なんて、ルドルフは枕に顔を埋めてすーはーすーはーと深呼吸していた。オレの匂いが染みついているので止めて欲しい。
『ト、トレーナー君!? い、いや、これは、ちがっ……!』
『そんなに臭うかぁ? フレーメン反応が出ちゃうくらいに。えぇ、ショックぅ……』
『違う。そうじゃない』
『違うのぉ? そうじゃないのぉ? なら何でぇ……?』
『も、黙秘権を行使する……!』
そんなやりとりがあった。
あのルドルフの落ち着きのなさと赤面振りと言ったらなかった。そんなに恥ずかしがるならやらなきゃいいのに。
まあ羞恥心を残しているらしいからまだいいが、オグリなんて酷いものだ。
『眠い。トレーナー、済まないがベッドを借りるぞ』
『お、おう』
羞恥心も何もあったものではない。これ以上ないほど堂々と真正面から借りていく。
余りにも迷いのない態度に、オレは何も言えなかったほどだ。
保健室のベッドじゃないんだ、男に対する警戒心をもっと持った方がいい。
ウマ娘を組み伏せるなんて真似、人間の男には不可能な上にオレにだってそのつもりは全くない。
だが、それにしたところで年頃の女の子が無防備な姿を晒すのはどうなんだ、という話。
いくら何でも食欲と睡眠欲に対して正直すぎる。
そういう姿を見る度に、コイツ本当に走ってる時以外は食べることと寝ることしか考えてねぇ! となるのである。
「他にも色々ありますわね。花も生けてありますし」
「それはスズカが持ってきてくれた。花瓶はライス」
デスクの上には花瓶が一つ。
生けてあるのは黄色のマリーゴールドだ。
何でも友人のエアグルーヴに渡されたらしく、そのままミーティングルームに持ってきた。
もしかしなくても、エアグルーヴの気遣いだろう。
花が一輪あるだけでも、それこそ部屋の雰囲気が華やぐ。そして、黄色のマリーゴールドの花言葉は「健康」だ。
徐々に、ではあるが、こうした忘却に対して寂寞よりも歓びが勝り始めてきた。
心配をかけているのは申し訳なくあるが、心配してくれる人がいると言うのは自らの存在と歩みを肯定して貰っているようで素直に嬉しい。
近い内に、顔を見せに行こうと思う。遠い場所にいるわけではないんだ、ほんの少しの勇気があれば、それは簡単に叶うものだ。
そして、そんなオレの変化に何も知らないまま気付いたのか。
ライスは自分の持っていた花瓶をわざわざ持ってきてくれて、毎日世話をしてくれている。
名前もあって食べ物の米だけではなく、花も好きらしい。
あと好きな絵本の「青い薔薇」の影響もあるかもしれない。オレも読ませて貰ったが、なかなかに良い話だった。
子供向けと侮るなかれ。アンデルセンの「醜いアヒルの子」や「人魚姫」のように大人が読んでも面白く、同時にタメになる童話もあるものだ。
「それに冷蔵庫と中の食べ物も増えたな」
「…………はぐぅっ」
「それくらい好きに食いなよ。ちゃんと管理できてるからさ。まあ、意外に食い意地張ってるとは思うけど」
「お、お、仰らないで下さい! これはぉ、そのぉ、……そう! トレーナーさんが管理上手過ぎるのがいけないんですわ!」
「そりゃいけないことじゃなくていいことだと思うけどなぁ」
くつくつと意地悪く笑うと、マックイーンは赤面してお茶請けとして用意したクッキーを取りこぼしそうになる。
食堂で用意して貰った夜食を保存しておくつもりで持ち込んだ冷蔵庫であったが、今や中は彼女達のおやつやら飲み物で溢れそうだ。
ルドルフはお気に入りのコーヒー。
スズカは昔から飲んでいるスポーツ飲料水。
マックイーンは甘いものが中心。
ライスはパンやおにぎり。
オグリは何でも。
ミーティングルームに集まると誰かが必ず何かを食べているか飲んでいるか。
それだけリラックスできる空間、言い易い雰囲気を提供できているという証明なので口煩くするつもりはない。
オグリの体重増減も安定してきているので、禁止していた間食をオレが計算して止められる前でなら、と僅かに緩めた。
最近は強迫観念に駆られる姿は殆ど見られず、この分なら近い内に制限を解除してやってもいいかもしれない。
マックイーンは手にしたクッキーを食べるべきなのか悩む素振りを見せていたが、一度素手で触ったものを戻すのも行儀が悪いからと言わんばかりにひょいと口の中に放り込んだ。
「……………………んん~~~♪」
オレの視線を感じて暫くはすまし顔を維持しようとしていたが、咀嚼が進む事に頬が緩んでいく。
何と言うか、緩んだ頬がぷるんとしていて饅頭のようだ。メジロ銘菓のメジロ饅頭である。実に愛らしい。
こういう日常の一コマを切り抜いてメンバー紹介としてウマッターに投稿するとファンを獲得出来たりバズりますよ、と南坂ちゃんに聞いていたが、マックイーンは許可してくれまい。
意外ではあるが、ルドルフやオグリはノリノリで付き合ってくれる。やや恥ずかしながらもライス。
お陰さんで皇帝の意外にお茶目な姿、ハムスターのように頬を膨らませた愛嬌満点のオグリ、自信なさげなピースサインのライスと我がチームデネブの投稿は連日バズりまくりのファン獲得しまくりである。
「しかしまあ、懐かしいと言うか何と言うか」
「どうかなさいましたか?」
「いや、少し昔を思い出してさ。こうやって南坂ちゃんや友達と意味もなく集まって飲み食いしながら駄弁ったなぁ、って」
「今でもなさいますでしょう? ほら、大人ならではの付き合いというものもありますし」
「んー……年喰ってくるとやっぱり違うんだよなぁ」
「はぁ……」
オレの感覚はよく分からないのか、マックイーンは首を傾げながら次のクッキーに手を伸ばしていた。
完全に無意識であったが、お茶請けは安全圏内分しか出していないので何も言わずにおく。
やはり子供の頃の集まりと大人になってからの集まりは微妙に違う。
飲み会だってバカになって愚痴を漏らしたり、情報を交換したりするが、付き合いとしての意味合いが強い。
だが、子供の頃の集まりは付き合いそのものではなく、良好な付き合いがあるからこそ発生する。
ようは前提の違いだ。
大人になれば仕事が前提の集まりも多くなる。
本当に、自分の望むまま赴くままに集まれる相手との機会になど殆ど恵まれない。
そう考えれば、ミーティングルームのノリは学生時代のそれに近い。
初めの内は不安感と直感だけを前提にした使命感であったが、今はそういったものとは無関係で皆と一緒に居るのが楽しい。
大人として、トレーナーとしての責任を投げ出したつもりも忘れたつもりもないが、とにかく居心地が――――
「…………あ゛っ!!!!」
「ひぁっ!? ど、どうしましたの?!」
「あ、や、ごめん、ちょっと……!」
学生時代のフレーズで、唐突に衝撃が訪れた。
そう言えば、実家に居た時は大事なものの隠し場所は決まって一つだった。もしかしたら……!
突如として大声を上げたオレに、マックイーンは耳も尻尾もピーンと立てて目をまん丸に見開いて驚いていた。
驚かせたことは悪いと思ったが、それどころではない。
大慌てでソファを回り込んでデスクへと向かう。
途中で転びそうになって、またしてもマックイーンに悲鳴を上げさせてしまったが今は無視する。
そして、デスクの引き出しを手当たり次第に開けて、裏側から覗き込む。
その内に一つに、底にペンが一本通るくらいの穴が開いているものがあった。
目にした瞬間、単なる閃き、思いつきは確信に変わり、引き抜いた引き出しをデスクの上で引っ繰り返す。
中に入っていた筆記用具やら認印がぶちまけられ、デスクの上から床へと転がっていく。
その中に、見覚えのないケースが。
掌に収まらない程度の大きさで、震える手で閉じていた蓋を開いた。
「あ、あった……!」
「…………それは?」
「大事なものなんだ、今は思い出せないけど…………でも、いくら大事だからって二重底とかやるかぁ、オレェ」
出てきたのは余りにも拙い、素人の手製丸出しの勲章が5つ。
どれもがルドルフの出走する予定だったGⅠレースをモチーフにしたものだ。
見つからなければ造り直せばいいとは考えてはいた。
いたにはいたが、見つかってよかったとも心底から思う。覚えていなくても、大切な思い出だから。
ただ、あんまりにもあんまりな場所から見つかったので、思わず力が抜けてすとんと椅子にへたりこんでしまう。
エロ本の隠し場所じゃねーんだぞ。手作りの勲章なんて、誰も盗んだりしない。手の込んだ隠し方なんかしてんじゃねーよ。
尋常ではなかったオレの様子に、マックイーンは何かを察したのかそれ以上何も言わず、床に散らばった筆記用具を拾い集めてくれていた。
「素敵な勲章ですわ」
「そうかな? 素人の手製だ、大したもんじゃないさ」
「けれど、私はお金に換えられない価値があると思います」
「……そっか。うん、そうだな」
マックイーンはケースの中の勲章を覗き込みながらも、引き摺り出された引き出しへと筆記用具を片付けながらそう言った。
聡明な彼女ならオレの様子と態度に、勲章がどんな思いが込められて、どんな背景があるのかは推察できたのだろう。
だが、その顔は何処か寂しげで、僅かに拗ねているかのようにも見える。
間抜けめ。
愚かなまでの迂闊さに、思わずオレは自分自身を心の中で罵倒していた。
勲章は大事なものではあるが、同時に贔屓の証明でもある。
記憶は失われているが、ルドルフとの付き合いはマックイーン達よりも長い。
個人のトレーナーなれば、それでも良かった。だが、チームのトレーナーであれば話は別。
依怙贔屓などあってはならない、とルドルフに言ったばかりなのにこれ。自分のバカさ加減に嫌気が差しそうだ。
――――…………ん、待てよ?
「……なあ、マックイーン。勝負服欲しくない?」
「え……は? いえ、勝負服は大切なものだとは思いますが……」
「いや、スズカとオグリの分もそろそろ申請を出さなきゃならないしさ。いっそのこと、マックイーンとライスの分も、と思って」
「で、でも、私達のデビューは来年と……」
「少しくらい早くてもいいじゃん。それくらいの融通利かせてくれるでしょ。駄目ならオレが服飾担当を説得する」
「トレーナーさんならそれくらいできそうですけど……どうしたんですの、突然?」
突然も何も勝負服は重要だからだ。
「ほら、どうせ造るなら勝負服にあう感じじゃないと」
「………………」
勲章のデザインを決定する上では特に。
依怙贔屓が駄目なら、いっそのことチーム全体の伝統にしちゃえばいいんだよ。
八大競走に限らず、GⅠレースのタイトルを獲得する度、勝負服に勲章を飾っていく。
そもそもルドルフの勲章だってクラシック路線が中心だったので、ジャパンカップで補填してるわけだし。
それならクラシックに出走できないオグリも問題なく胸に飾っていける。我ながら結構いい考えだと思う。
暫くの間、目を丸くしながら口元を真一文字に引き結んでいたマックイーンであったが、やがて口を開く。
「一応、聞いておきますけど、それはトレーナーさんのお手製ですわよね?」
「そりゃ勝負服のデザイナーが造ったら、もっと立派なもんになるでしょ」
「どうしてそう自分から負担を増やしていくんですの、貴方は……」
「…………オレが、やりたいから?」
片手で顔を覆い、頭痛でも覚えているかのようにマックイーンはそんなことを言ってきた。
答えは言葉にした通り。
やりたいから、好きなようにやるだけだ。それ以上の理由などない。
彼女達がどんな栄光を手にするか、手にできるのかさえ分からない。
そも栄光を形にすると言うのなら、優勝カップやレイがある。マックイーンの目指す春天、秋天ならば皇室から楯が下賜される。
だが、それは多くの人々が彼女達を称えるためのもの。
オレは個人として彼女達が手にした栄光を、そのために流した汗と涙を称えたいだけ。
一人残らずもうオレの愛バなんだから。いの一番に称賛する権利を、誰にも譲りたくなどない。例え相手が日本の象徴のような方であってもだ。
「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~、本っ当にこの方は……」
「えぇ、嫌だった?」
「違いますわ。そうではありません」
「違うのぉ? そうじゃないのぉ?」
「もう、お好きになさって下さいまし…………
最後の呟きは聞こえなかったが、好きにやるとしよう。
呆れ顔は相変わらずだったが、口元が緩んでいるのは見逃さない。
建前はどうあれ、本音としてはルドルフへの羨望があったのかもしれない。
ウマ娘とトレーナーの絆は無二のもので、彼女達は大なり小なり憧れがある。
加えて言えば、自分のためだけの勲章など特別感が凄まじい。
あのマックイーンが喜びを隠し切れないほどなのだから、相当だろう。
なら、やる価値はある。
それこそマックイーンが口にしたように、金銭には換算できないほどの価値が。
さて、ではデザインはどうしよう。
出来れば同じタイトルを獲得したとしても、デザインは変えていきたい。
それぞれの勝負服に合わせたいと言うのもあるが、それぞれが支払った努力は全く異なる。
他人に示すためのものであっても、その価値を真に知るのはオレ達だけ。世界に一つしかない拙い勲章なのだから。
しかし、オレはこの時、後に発生する問題に全く気付いていなかった。
そう、デートに出掛けて頗る機嫌の良かったはずのルドルフが、急転直下で嫉妬リルドルフに変貌を遂げてしまうなどと……!